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今日午後2時から永田町の青陵会館で、恒例の憂国忌が開催され、三島没後55年、生誕100年であり当方も行ってきた。先ず、乃木神社神職による鎮魂祭の後、前鎌倉文学館館長の富岡さんの開会の辞、そして三島由紀夫と交流のあった女優、村松英子さん、そのお嬢さんの村松えりさん等の座談形式で三島の戯曲「鹿鳴館」や「薔薇と海賊」の演出など含めた思い出話があった。【今日の憂国忌パンフレット、そして会場に設置された祭壇】そして異色だったのは、石平参院議員(維新)のスピー
55年前の今日の事は今でも忘れない。会社から帰宅したら家族が何かあったらしいとテレビを見ていた。アナウンサーの実況放送の声は尋常ではなかった。作家の三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地のバルコニーで隊員の前で演説しているとの事だった。その後の放送で、演説後バルコニーから総監室に入りそこで自刃したことが分かった。三島に殉じたのは当時早稲田大学学生だった森田必勝だった。森田は三島から残るように諭されたが自分は吉田松陰先生に殉じた金子重輔の決意であると譲らず三島の後を追い自刃した、見事な最期で
三島由紀夫と森田必勝の死から55年が経過した。まだ18歳であった僕は、古希を過ぎて老いぼれてしまった。あまりにも情けない現実である。日本国憲法は未だに改正されずに、「交戦権」を奪われたままの日本は、未曽有の危機に直面しているのである。三島が市ヶ谷駐屯地の総監室のバルコニーで叫んだ光景は、今も目に焼き付いている。そして、三島が訴えたかったことは、日本人が覚醒することだったと思う。三島は昭和43年8月22日付の毎日新聞に「『わが自主防衛』体験からの出発」を寄稿し、「(日本人)魂を振起するに
たまたま吉田武利先生のご著書『今日が一番好い日』(日本教文社、平成八年)を読んでいました。【著書プロフィール】吉田武利大正12年、新潟県長岡市に生まれる。京都帝国大学卒業。東京、愛知、神奈川、兵庫教化部長を始め、生長の家本部教務局長、本部理事長、社会事業団理事長、本部練成道場総務を歴任。谷口雅春著『詳説神想観』『人間苦の解放宣言』の編纂に当たる。著書に『今ここ道場』『今日がいちばん好い日』がある。平成9年9月18日、74歳にて逝去。吉田武利|日本教文社みんなに幸せをもたらす出
三島由紀夫が愛したお酒コニャックの「ヘネシーV.Sスリースター」割腹自殺を遂げる三島事件のその前夜にも飲んだことで知られるお酒です。Hennessy(ヘネシー)V.S箱入り[ブランデー700ml]AmazonヘネシーVS(ヘネシーVS)40度正規700ml包装不可楽天【SS期間中全品P2倍】【並行品】ヘネシーVS40度700ml化粧箱無し_[リカーズベスト]_[全品ヤマト宅急便配送]楽天「ヘネシーV.Sスリースター」は、作家・三島由紀夫が愛した
2025年1月14日は、三島由紀夫生誕100年の日日本近代文学館に行ってきました剣道着に袴、ビーサンで胸を開け胸毛を見せている「三島由紀夫生誕100年祭」のポスターこの写真を選んだことに、この企画展の狙いが見えます「ミシマニア(三島愛)」「ビブリオマニア(書物愛)」「ヤポノマニア(日本愛)」と三つのコーナーで構成されています(会場は撮影禁止のため、参考写真は関連するネット画像を借用しました会場の展示とは異なります)まずは、曲亭馬琴作・葛飾北斎画の読本「椿説弓張月」を歌舞伎化した三
後ほどきちんと形にしますが、三島由紀夫は森田必勝や、その他2人の楯の会会員を巻き込まずに1人で決起を立案し、1人で切り込み行動を完結させるべきであったと思う。三島文学は「個」が主体となり、『剣』の国分次郎の様に1人で考え、カタストロフまで終結させる潔さがあった。三島由紀夫の年齢を超えて49歳になろうとしているが、45歳になり私が実感したのは、この年齢になると若い、血気盛んな人物の行動を諌める立場になるという社会的立場である。社会的立場という言葉は凡人が使う言葉だが、三島由紀夫個人で死まで完結すれ
昭和45年11月25日。三島由紀夫氏と、楯の會の会員(森田必勝氏・小川正洋氏・小賀正義氏・古賀浩靖氏)が、防衛庁の陸上自衛隊・市ヶ谷駐屯地に設置されている・東部方面隊において、益田兼利陸将を拘束したうえ、その後、同総監室前バルコニーにおいて、森田必勝氏と共に、憲法改正(憲法第9条破棄)のため自衛隊に決起(クーデター)を呼びかけた。三島は、集合した自衛官たちに向かい、白い手袋の拳を振り上げて、絶叫しながら演説を始めた。「日本を守る」ための「建軍の本義」に立ち返れという憲法改正の決起を促す演説
皆様~爽やかなお天気が続いてますね~やっと秋ですねさてさて第三弾といたしましてはもう飽きましたねではドキッとするお話を!三島由紀夫氏ご存知ですよね!あまり大きな声では言えませんが…先生は若い時、もう少しで「楯の会」に入会するかも知れなかった…そうですこの頃のこと…肩で風を切って歩いていたのでしょうか???三島由紀夫氏と一緒に自害した森田必勝さんとは同郷で同じ年…彼に入会を勧められたそうですが有竹母が止めに入って断念した
今回紹介する記事は2024年6月6日付けの「毎日新聞」の記事です。【伊藤さんと鈴木さん】というタイトルで、オピニオン編集部吉井理記氏が、立場を超え、顔を突き合せて議論する場こそ大切にしたいことについて、紹介しています。いつもどおり、「4つ」の視点でこの記事を見ていきます。(4つの視点についてはこちらをご覧ください)☆新聞記事の紹介について(発信者が重視するテーマに関してはこちらをご覧ください)★始めに読んでほしいブログについて(1)内容の要約仕事が
昨年の夏に出会った人物がいる。その方の存在が、令和6年という年に新たな自分の道を開かせてくれたように思えてならない。その人物は、村田春樹氏である。村田氏は、元縦の会期生で早稲田大学卒業である。早稲田と聞いて気が付く方もおられるだろう。それは、楯の会の学生長森田必勝氏の通った大学でもある。村田氏は、森田氏のなんとも言えぬ絆を持った人物であり、森田氏を通じて三島由紀夫という人物に触れたという非常に貴重な体験を得た方である。この村田氏との出会いが、還暦を過ぎ残りの時間を数えた方
国内外共に波乱の令和6年も今日で終わり、そこで今年最後の当ブログでは三島由紀夫最期の年末はどうだったのか。何年か前にも当ブログで触れたことがあるが、三島の言動からは、少なくとも表面的には翌年の自決を感じさせるものは殆ど無い。1969年(昭和44年)12月8日作家野坂昭如(1930-2015)と、雑誌「宝石」の主催で”剣か花か”に就いて対談。野坂が「エロ事師たち」発表後、三島は『プレーボーイと空嘯いている野坂氏がこんなに辛辣な
11月4日に福岡において村田春樹先生をお迎えして講演をいただいた。その公演は、「三島由紀夫と大東亜戦争」というものであった。この度、この講演にもかかわる村田先生の著書が発売になった。この講演と本の内容について個人的な思いを少し書きたいと考える。愚性は、15歳のころ三島由紀夫先生の行動学入門を手にし、幼いころの三島自決という報道を思い出した。何もわからぬ子どもであったが、何か大きなことが起こったような記憶があり、わからぬままに強い衝撃を感じたことを記憶していた。それが
本日12月5日村田春樹先生の新刊が書店にて発売される。この度の新刊は「三島由紀夫は蓮田善明の後を追った―開かれた皇室への危惧」という本である。ご存じである方も多いと思うが、村田春樹先生は、早稲田大学卒業、楯の会5期生である。楯の会会員ということは、この度の本に描かれている三島由紀夫先生と短い間であったとしても濃厚な時間を過ごされたということになる。また、村田先生は、森田必勝学生長とは、早大の先輩後輩ともなり、楯の会の入会のきっかけとなった人
11月25日はの三島由紀夫の命日。長田神社で追悼慰霊祭がおこなわれた。1970年、今から53年前に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(今の防衛省)で憲法改正のため自衛隊に決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件。三島が創った「楯の会」のメンバー4人と共に市ヶ谷駐屯地に入り、益田総監を人質に総監室バルコニーから演説。しかし、自衛隊員からのヤジ、罵声、ヘリの爆音等でほとんど聞き取れず、あきらめた三島は総監室で森田必勝と共に割腹、そして介錯された。それから53年後の現在、憲法改正は進んだだろうか
今日は憂国忌である。三島さんの死から53年目を迎えた。三島由紀夫と森田必勝による義挙に、一緒に立ち上がる自衛隊員も国民もいなかった。その結果が今の日本である。三島さんは昭和45年7月7日、サンケイ新聞の夕刊に「果たし得ていない約束—私の中の25年」というエッセイを書いている。死後に自宅の書斎からその切り抜きが発見された。25年というのは、敗戦の日からそれだけの年月が経過したからであり、それに馴染むことができなかった、作家三島由紀夫の本音が語られていたのだ。そこで三島さんは「25年間
今から53年前の今日(昭和45年11月25日)の三島由紀夫自決当日の事に就いては、当ブログでも何度か書いているが、もう一度改めて振り返ってみたい。【中学生時代の三島由紀夫、そして瑤子夫人】三島由紀夫は自刃前夜、新橋の「末げん」で楯の会の森田、小川、古賀、小賀らと鶏鍋で”最後の晩餐”をした。【三島由紀夫が楯の会の森田必勝らと最後の晩餐をした新橋”末げん”と女将】そして翌25日朝10時過ぎに父の平岡梓は、息子が「楯の会」の制服を着て出掛けて行
この記事の続きだ。『【映画『かぞくのくに』】無駄のない緊迫感北朝鮮を描いた作品としては秀逸前篇』一昨日(1日)、東京・京橋の『国立映画アーカイブ』で2012年の映画『かぞくのくに』を見た。これは、『逝ける映画人を偲んで2021-2022』という特集企…ameblo.jp9月1日に、東京・京橋の『国立映画アーカイブ』で見た映画『かぞくのくに』の感想の続き。この映画、画面全体に漂う緊迫感が何とも言えない。それに北朝鮮を対象とした映画は、それを批判的に描く映画であっても
LGBT法が可決成立したのですが、どうも中身を伴わない空文になってしまったようです。反対派は「自分は女性だ!と性自認する男性(生物学上の)が、女性風呂に入ってきたら公序良俗違反だ。」とか「多様性を認めたら、万世一系・皇統に属する男系男子が皇位を継承する天皇制が崩壊する」という見解を出して抵抗したとのこと。これらは日本の伝統を破壊するものだとの認識の上で発言されているようですが、日本史好きな私からすると違うと思います。幕末から日本に来た多くの欧米人は、日本人が日常的に混浴し、しか
江戸後期に“大塩の乱”を起こした陽明学者、大塩平八郎が(1793-1837)いる。陽明学を実践した実在の人物の一人として知られているが、大塩は1836年の天保の飢饉で奉行所に対して難民救済を直訴したが叶わず同志を募って打毀を行ったが鎮圧され自刃した。【三島が森鷗外著の”大塩平八郎”を読んだのが、陽明学に興味を持った契機となった】大塩平八郎に就いては以前、当ブログでも触れたが彼の根底には陽明学の「知行合一」即ち、知識と行為は一体であるという事,本当の知は実践を伴
”THEDEATHOFAMAN”(男の死)と云う三島由紀夫の写真集が2020年11月に、米RIZZOLIINTERNATIONALPUBLICATIONS,INC.から刊行されたので、米国から取り寄せ、此の写真集に就いて以前書いた。今回更に掘り下げてみる。【米国で発刊された、三島が演じたデスマスクが表紙の"Thedeathofaman"】写真集は三島由紀夫自身がモデルとなり、篠山紀信82歳(写真家)、横尾忠則86歳(三島の共演者及び装
長いからね…何ぶん古い話やし、こうゆう出来事には興味ない!って人達も多いと思うがオヤジはこの事件を起こした張本人や割腹自殺した内容に非常〜に興味がある三島由紀夫って興味ない人でも名前くらいは聞いたことあると思う作家であり激しい政治活動家でもあった三島事件って昭和な人なら覚えてると思うこの事件の詳しい経緯は省くがw要は三島由紀夫氏が創設した楯の会メンバー四人を引き連れて自衛隊市ヶ谷駐屯地にて決起演説したのちに、駐屯地の総監室内で三島自身ともう一人が割腹自殺したよね?自殺っつったって腹
自決前日の昭和45年11月24日(火)、三島由紀夫は楯の会の学生隊長の森田必勝と小賀、小川、古賀の四人と丸の内パレスホテルの部屋(519号室)で前日に引続き再度予行演習をしたが其の際、森田が『もし自分が三島さんの介錯に支障が生じたら代わってくれと』小賀に頼み、小賀は了解。三島はホテルの部屋から電話で、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の益田総監に翌25日の面会の確認をした。【11年間の精進で剣道五段錬士の三島由紀夫】そして三島は辞世の句、「散
今年も後2日で新年を迎える訳だが、そこで三島由紀夫最期の昭和44年末はどうだったか調べてみた。勿論その行動からは、少なくとも表面的には翌年11月の自刃を感じさせるものは殆ど無い。12月8日作家野坂昭如と、雑誌「宝石」の主催で”剣か花か”に就いて対談。野坂が「エロ事師たち」発表後、三島は『プレーボーイと空嘯いている野坂氏がこんなに辛辣な人間だったとは』、と非常な関心を示している。12月8日~11日大日本帝国陸軍師団の一つで、太平洋戦争末期
国軍の栄誉与えよ白い菊今もなお後に続けの憂国忌命捨つる祖国はありとかのときは憂国忌大本なくて国の危機一回目憂国忌は九段にて【LIVE】三島由紀夫氏追悼第52回追悼の集い『憂国忌』[R4/11/25]波乱が続き、未曾有の混乱のなか、日本の政治も経済も錯乱状態です。憂鬱な日々とはいえ、皆様におかれましてはご健勝のことと拝察申し上げます。三島由紀夫氏が最後の檄で訴えた憲法改正は暫く遠のいた観もありますが、元首相の悲劇が却って政治の動きを活発にしている側
今月は、毎週のようにイベントや式典へ出向いた現役時代から大ファンの前田日明さん単独トークショーの🎫手に入れて👍️現役時代の、ちゃんこだったという力道山直伝のカレーが振る舞われた🍛🍹前田日明YouTubeチャンネル聞き手の片田さんとの掛け合いも盛り上がりレアで貴重な話しが聞けました👏ツーショット📸ありがとうございました!連写でたくさん撮ってくれました🌹最近は、お店手伝いの帰りにスタッフと近所の居酒屋なんかに寄り温まながらEnjoyトーク👏お腹も満たされてからの帰宅もス
今から丁度52年前の今日、昭和45年11月25日の三島由紀夫自決前の経過は、次の通り、当日11月25日朝8時起床、10時過ぎに三島が楯の会の制服を着て出掛けて行く後ろ姿を、父の梓が見ていた。妻、瑤子は2人の子供(長男、威一郎と長女の紀子)を学校に送った後、乗馬練習の為に馬事公苑に行った。三島の母、倭文重は家庭裁判所の調停委員の仕事で出掛け既に不在だった。梓の著書「倅・三島由紀夫」にこう書いている、『また訓練をやりにゆくのか、と思っただけで、その儘見送った』と。三島は出掛ける前
こんなになってしまった日本を救う手立てがあるのだろうか。僕に何ができるかを考えるのだが、あまりにも老いてしまった。今になってなおさら、三島由紀夫と森田必勝が自刃した昭和45年11月25日の市ヶ谷義挙が思い出されてならない。僕は18歳であった。大学に入ってからは黒ヘル全共闘の末端に属した。しかし、高校時代は三島の思想に感銘し、日本学生同盟の全国高校生協議会に加わっていた。一地方の高校生がなぜそこまでしたかというと、左右のイデオロギーに関係なく、戦後体制にノンを突き付ける情念に共感を覚えたからであ