ブログ記事24件
【「伊都国」は糸島半島周辺でよいのか】森浩一氏は、「伊都国」を三王墓遺跡(三雲・井原・平原)や志登遺跡群がある糸島半島周辺、「奴国」を須玖岡本遺跡から博多湾岸にかけての地域にすることを既定事実としているようだ。久住猛雄氏も、何の疑いもなく糸島半島周辺の遺跡に対して「伊都国」を使用している。「伊都国」を三王墓がある前原市周辺であると仮定すると、倭人伝の行程と食い違いが生じることになる。倭人伝には、上陸した「末盧国」から「東南陸行五百里」に「伊都国」があると記されている。倭人伝
森浩一著『倭人伝を読みなおす』を多少の感想を交えてまとめてみた。【邪馬台国大和説の否定】●纏向遺跡発掘を「卑弥呼の宮殿発見」と発表したことはまるで大本営発表※森氏によると、考古学では50年の幅の中でしか年代はおさえられない。三世紀後半から四世紀前半の纏向宮殿遺跡を三世紀前半(卑弥呼の時代)に絞って強弁するのは異常。●考古学的に見て三世紀後半から四世紀前半と推定される宮殿跡が纏向で発見されたとなれば、記・紀に記されている崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇との関係を考えるべきだと主張
【敵対する狗奴国】「狗奴国」は魏志倭人伝にだけ登場する国名であろう。倭人伝には女王国の南に接した位置にあって女王国には属さずに敵対していると記されている。正始八年(247)に卑弥呼は魏少帝に遣使して狗奴国との交戦状況を伝えている。何らかの援護を求めたのであろう。【卑弥呼の死】その直後に「卑弥呼以死」と記されているので、狗奴国との戦いで死亡したと考える研究者も多いようだが、倭人伝の記述だけでは確定することはできない。森氏は卑弥呼の死を魏の使者張政が来朝したことに起因する
【「奴国」の工業生産力】森浩一著『倭人伝を読みなおす』の第二一回は「奴国の工業生産力」。須玖遺跡群をはじめとする春日丘陵の遺跡からの発掘物に注目している。「1~3世紀ごろ工業生産の盛んなところで、那珂川右岸にある春日丘陵上には90個所ほどの弥生遺跡が密集し何らかの工業生産にたずさわっていた。」とし、さらに、「ここでの青銅器の製作は弥生中期から後期に盛んで、銅矛、銅戈、銅鏃、銅鏡、銅釧、銅鋤先と多種類に及んでいる。」とこの地域の先進性に注目している。大陸からの影響を受けやすい
【後漢光武帝から賜与された金印】「漢委奴国王」と記された金印は、後漢の建武中元二年(57年)に光武帝から賜与されたものなので、邪馬台国とは時代が200年ほど異なっている。したがって金印をすぐに魏志倭人伝の記述と対照させることは適切ではないかもしれない。しかし金印を賜与された国と邪馬台国がどちらも北部九州に存在したとすれば時を超えて共通点がないとも言えないのではないだろうか。【金印は本物か】天明四年(1784)志賀島で発見された金印、発見の経緯などから偽造されたものではな
【二か所に出てくる「自女王国以北」】魏志倭人伝の中に、「自女王国以北」が二か所に出てくる。ひとつは、自女王国以北其戸数道里可得略載其余旁国遠絶不可得詳もうひとつは、自女王国以北特置一大率検察諸国諸国畏憚之常治伊都国於国中有如刺史【「自女王国以北」その1】「自女王国以北其戸数道里可得略載其余旁国遠絶不可得詳」は、帯方郡からの道程記事の中で、狗邪韓国、対海国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国までの九か国が記された後の文章である
【伊都国に関する倭人伝の文章】魏志倭人伝に登場する女王国内の30国のうち、最も多くの字数(117字あるいは155字)を使って記されているのが伊都国であることに森浩一氏は注目している。邪馬台国の45字よりもはるかに多い。(対馬国64字、壱岐国57字)伊都国に関しては、前文(6~7行目)後文(28~30行目)の2ブロックに分かれて記されている。〈前文〉東南陸行五百里到伊都國官日爾支副日泄謨觚柄渠觚有千餘戸丗有王皆統屬女王國郡使往来常所駐(東南陸行五百里で伊都
【永留久恵著『対馬国志』より】森浩一氏は倭人伝の中で対馬国と一支国の記述の重要性に注目している。どちらにも「南北市糴」と記されている。森氏は永留久恵著『対馬国志』から次の文章を引用している。「対馬の船は北は対岸の狗邪韓国を経由して楽浪まで往来し、南は筑紫(北部九州の伊都国や奴国)を経て、瀬戸内海まで通行したとみられる考古資料(銅鏡、土器、青銅器、鉄器その他)があることから、これは楽浪の漢系文物や狗邪韓国での韓系物産を倭国に運び、倭国の産物を韓土や楽浪(後には帯方)へ運んで、い
【現存の史料では】邪馬台国の卑弥呼が魏に遣使したのはいつか?〈景初二年〉現在読むことができる百衲本の魏志倭人伝では、景初二年(238)六月となっている。〈景初三年〉『日本書紀』は以下のようになっている。神功皇后紀三十九年条の本文は「是年太歳己未」。その直後に分注として魏志が引用されている。「魏志云、明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝献、太守鄧夏遣史将送詣京都也。」とあり、こちらは景初三年(239)となっている。三国志を参考にしてしるされたと思われる
【三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡か】近畿地方を中心に多くのエリアから多数発見される三角縁神獣鏡は、考古遺跡からの発掘物としては、大和説と九州説の主張が分かれる最大の論点の一つとなっている。特に邪馬台国大和説の論者にとっては、卑弥呼が魏の明帝から賜与された鏡であることが数少ない根拠となっている。【論点】三角縁神獣鏡が卑弥呼に授与されたものかどうかについては以下のような議論が行われているので列挙してみる。●三角縁神獣鏡の出土は日本列島内だけで、これまで中国や朝鮮半島内ではほとんど
【倭人伝に使用されている倭国とは?】森浩一『倭人伝を読みなおす』に記された、倭国についての記述には賛同しかねている。森浩一氏は、「陳寿は用心深く、倭、倭地、倭種、倭王、倭錦を適宜使い分けている。」と倭人伝に使われている「倭」に注目している。『三国志』魏書の烏丸鮮卑東夷伝は、烏丸,鮮卑,夫餘,高句麗,東沃沮,挹婁,濊,韓,倭人に関して条を分けて記されている。森氏はここに記された倭人以外は国を表す言葉になっていると指摘し、倭人条だけ国名ではなく倭に住む人となっていることに注目して
【卑弥呼の時代の風景:国邑】第4回の「倭人伝を読む心構え」で森浩一氏は、倭人伝冒頭の「倭人在帯方東南大海之中依山島為国邑」の「国邑」は、国や村と解釈する人がいるが国邑が一つの言葉で小都市を意味している。弥生時代が田や畑ばかりだったとするのは古い考え方で、倭人伝の時代にはいくつかの小都市ができていた。【卑弥呼は漢字を知っていたか】女王国ではすでに漢字を理解していた。その証拠として、倭人伝には魏皇帝から卑弥呼に宛てた長文が記されている、とした上で、「西暦紀元ごろから倭
【纏向遺跡は卑弥呼の宮殿か】森浩一氏は、2009年1月纏向遺跡で発掘された宮殿跡とみられる建物跡を考古学者がマスコミなどを相手にして「女王卑弥呼の宮殿」と強弁したことに対して憤慨している。魏志倭人伝に記された卑弥呼とは年代が不一致で他に一致するものが何もないにもかかわらず、「卑弥呼の宮殿発見」と発表したことについてまるで大本営発表のようだったと感想を述べている。【考古学的に見て】森氏は、考古学的に見て三世紀後半から四世紀前半と推定される宮殿跡が纏向で発見されたとなれば
【卑弥呼の宮城探索は迷宮入りか?】ここのところ魏志倭人伝の記述を多方面から解釈して、卑弥呼の宮殿の場所は現時点では特定できないという結論に達している。現時点ではというのは、卑弥呼が拝受したと記されている「親魏倭王」の金印が発掘されるなどの偶然が今後起こった時にささやかな期待を抱いているからである。考古学の発掘調査報告は古代を解明するときに重要なヒントを与えてくれることは言うまでもない。しかし残念ながら、「卑弥呼の宮殿の場所を知りたい」などというこちら側の勝手なオーダーにすぐ
【榎一雄説と小林行雄説】榎一雄氏は、魏志倭人伝の行程文の書き方の相違に注目し、伊都国から先は放射状コースを示して、邪馬台国は伊都国から南水行ならば十日、陸行ならば一月の場所に位置すると解釈した。小林行雄は、後漢鏡が北九州から出土しているのに対して三国時代以降の鏡が畿内の古墳から出土していることから、九州から近畿への勢力の交替があったことを指摘した。京都椿井大塚山古墳に副葬されている32面を超える三角縁神獣鏡の中に同笵鏡が17種12面あり関東から北九州に及ぶ全国19基の古墳
3月に母と訪れた福岡旅!佐賀県へちょっの足を伸ばして吉野ケ里遺跡へ。『吉野ケ里遺跡へ。今度は晴れました。』3月の母との福岡旅。『筑前国分寺跡で遠い前世を思う。』3月に訪れた梅の花薫る福岡県太宰府。太宰府天満宮や元号令和が生まれた大宰府政庁跡を初春の柔らかな陽射し…ameblo.jp以前書いたブログの続きです。入ってすぐの竪穴住居が広がるゾーンを抜け続いて訪れたのは北内郭。王の宮殿!巨大な高床式の建物。この王の宮殿、入れるんです!!あら?王の手袋?(笑)階段を上がって中に
【三考古学的事実との対応】大和朝廷が成立する前に九州を中心とした倭国があり、7世紀には倭国と後に大和朝廷となる近畿勢力が並立していたとする主張を、古田氏は考古学的に証明しようと試みている。ここでは、「前方後円墳」問題と「装飾古墳」問題を取り上げている。本日はまず「前方後円墳」問題から。【「前方後円墳」問題】「前方後円墳の巨大性と地域的群立性によって、少なくともこの古墳時代(四~六世紀)以降は、この近畿地方こそ日本列島の中枢の地、そのような一種の“信念”を一般はもとよ
2000年に朝日新聞社より刊行された、同書の新書化版です。新たに図表も作りなおしたとあります。以前に『日本神話の考古学』(朝日新聞社)1993年を読んでいますので、その続編ということでしょうか。記紀はまったくの創作で信用できないという歴史学に対する反発として、「歴史の舞台となった土地を実際に踏破し、調査すると「記紀」の日本各地対する記述は驚くほど正確だった」(裏面の帯のコピー)という本になっています。かつての皇国史観からの絶対の真実として教えられてきた歴史が、敗戦によって180度
Rikaさんのブログや故郷で発行されている南九州新聞(現在はWeb)で、大阪に大隅神社があることを知った。そこでRikaさんのブログで紹介されているブログにあった網野善彦・森浩一対談集『馬・船・常民』(講談社文庫)を読み始めた。その中に「隼人と馬」という節があり大隅神社がとりあげられている。森「前略:大隅という地名からも僕はそうだと思っているのですが
新書と文庫の買い物ミステリと考え物2冊と在庫確認を店内機器で済ませて島を探すが見つからず。探してもらって「敗者の〜」購入。待ってる間に放送大学の目録を見つけ気分アゲアゲに!どんな講座があるのだろうたのしみ
まだまだ読了してはいないのだが、本巻に収められた論文、いずも面白い。実は新型コロナウィルス感染禍がなければ行くことが決まっていた対馬を取り上げている森浩一の「海の生活」も興味深く読んだ。そこでは「対馬は遺跡の宝庫」とある。なかでも取り上げられているのが縄文時代の「佐賀貝塚」である。今日は簡潔にまとめる時間がないので、印象に残った部分だけここに紹介しておきたい。長崎県–全国こども考古学教室(kids-kouko.com)「このように佐賀貝塚は、小規模ではある
こんばんは。テツジンです。しらばくいろいろな締め切りに追われて、約1週間休筆しました。本日、「越境する人と文化を通して読み解く東アジア」シリーズの続きで、司馬遼太郎を通して東アジアをいていきたいと思います。司馬遼太郎について、恐らく知らない日本人はいないと思いますが、簡単に紹介したのです。司馬遼太郎は1923(大正12)年、大阪市に生まれ。大阪外国語学校蒙古語部(現大阪大学外国語学部)卒業。1960年に『梟の城』で直木賞、1966年に『竜馬がゆく』で菊池寛賞など多くの賞を受賞。その
司馬遼太郎が考えたこと12を読み終えた。毎晩寝る前にエッセイを2~3ずつ読んでいる。そのあとがきを森浩一さんという方が書かれていた。その人は知らない。その人が司馬さんとの思い出に触れながら、同志社大学で講演された後に、学生のために何か字を書いてくださいと頼まれたらしい。その時に書かれたものが「倜儻不羈」。てきとうふきと読むらしい。倜儻とは、自分の考えたをしっかりもつこと、人がああいうからといってそこへ行かないこと、自分の考えを明晰に持つことという意味。不羈とは、馬の
「境界としての桂川」というテーマで連載してきましたが、そろそろまとめに入りたいと思います。「まとめ」といっても、まだあまりまとまっていないのですが、この間桂川沿いのあちこちを歩くとともにしてきたのは、このあたりを開発したパイオニアである秦氏に関する勉強です。ただし、秦氏にかんする本・論文の類は膨大な量におよぶので、まだその一角を少しかじった程度ですが・・(-_-;)(-_-;)そのなかで、インパクトがあったのは大和(おおわ)岩男氏の研究です。
一書曰、豊御食炊屋比売命曰「朕は蘇何より出でたり」例へば、天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)沼名倉太玉敷命(敏達天皇)橘豊日天皇(用明天皇)長谷部若雀命(崇峻天皇)豊御食炊屋比売命(推古天皇)まう一度注意したい御存知のやうに、是等の名は天皇死後に贈られた名である()内は更に後の淡海三船が選定した記號だといふ「欽明天皇」「敏達天皇」「用明天皇」「崇峻天皇」「推古天皇」なるインデツクスは古事記編纂時には無かつた-問題の古事記用明天皇段に視得る上宮厩戸豊
編著者森浩一、「宿題編」編者深萱真穂『京都学ことはじめ森浩一12のお勉強』編集グループSURE、2004年小泉武夫氏との対談で、森浩一先生が「行きつけの居酒屋は、若狭ガレイを刺身にしたり焼いた後、骨をスープにしてくれる。実に良い味が出ます」。小泉武夫氏が「そうですよね。森先生が本に書いておられる琵琶湖の白モロコも、炭火で焼いて、骨ごと食べたらおいしい」。こんな会話を読むと先斗町の居酒屋を思い出す。森先生がカウンターで日本酒を美味しそうに飲んでいた光景が記憶に残っている。
編著者森浩一、「宿題編」編者深萱真穂『京都学ことはじめ森浩一12のお勉強』編集グループSURE、2004年京都新聞で2000年4月から掲載された森浩一氏の対談集である。その中から12人分の対談を本にした。対談することで京都を学ぶという発想が凄い。対談で生じた疑問は「宿題編」に途中からなったようで、深萱真穂氏が担当している。森浩一氏は関わらなかったと書いている。クレジットもそのようなわけで分かれている。索引がついているのは素晴らしい。「毎日のように「疑問」と「発見」が湧いてくる」(P4)の
森浩一『倭人伝を読みなおす』ちくま新書、2010年『倭人伝を読みなおす』(2010)を読みなおす。付箋を貼る場所は前回と違っていた。前回は著者が主張したいところだろうと思うところに貼っていた。今回は、全体が分かっているので、私が感心したところに貼った。しかし、倭人伝の白文を読むのは前回よりも難しいと感じた。知れば知るほど奥が深いのである。書誌情報西日本新聞に2010年1月5日付から3月12日付で36回連載された「「倭人伝」を読み直す」をもとに、加筆し、38回とし、はじめに、倭人伝原文、あと
御坊市岩内に7世紀中頃に造られた、岩内古墳があります一辺19.3mの優しい形をした方墳です石室内から、漆塗木棺の破片と、銀線蛭巻太刀、鉄製飾金具などの副葬品が見つかり古墳の造営に版築(粘土を突き固める)という技法が使われていることから、大変身分の高い人物だろうと推定されています同志社大学の森浩一名誉教授は副葬品、古墳の造営法などより「被葬者は有間皇子」と結論づけております皇子に最後まで付き従っていた、塩屋連鯯魚が御坊市塩屋を拠点にしていた豪族であると考えられているのも
モイ!(^-^)/みなさんは、令和という元号に慣れてきましたでしょうか?っうことで日本で最初の元号は「大化」ですね。その時代にまつわる場所を訪ねて参りましたよ。たどり着いたのは、仲哀天皇陵古墳と仁賢天皇陵古墳の間にある野中寺(やちゅうじ)であります。このお寺は聖徳太子の命を受けた蘇我馬子が建立したそうですよ。境内には大化6年に建てられた塔の跡が残っております。(レンズが汚れて心霊が写っているように見えます)更に経ますと・・・近所のヒチンジョ池西古墳にあっ