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本年春から夏、甲子園をめざす我が孫の応援に何度か駿河へ。応援の合い間に、駿河のもののふたちの墓所や史跡を訪問。ブロ友・梓慕情さんには、野球応援も史跡情報もすっかりお世話になってしまいました。ほんとうにありがとうございました。●源義朝七男阿野全成、鎌倉二代将軍頼家が子公暁の墓所、大泉寺(沼津市)へ梓慕情さんが地道に墓所建立の支援をしていた頼家の子・公暁の供養塔が、大泉寺に建立されたという。地元とはいえ熱心な梓慕情さんの尽力には、歴史マニアとは違った真剣さを感じ頭が下がる。大泉
先日は神戸で複数の仕事。しかしその間2時間ほど空いたので久しぶりに生田神社を参拝陣内と藤原紀香が結婚式を挙げたり、シンディ・ローパーが豆まきをするなど何かと話題になる、繁華街にある神社です神戸の安産祈願・恋愛成就・ご縁結びは生田神社「ご縁結びのいくたさん」こと、生田神社は、稚日女尊(わかひるめのみこと)をご祭神として奉り、安産祈願・恋愛成就など、ご縁結びのご利益を賜れる神社です。神戸有数のパワースポットとしても人気で、お子様のお宮参りや七五三参りにも全国各地から多数の参拝者
昨日は【チーム南鷹と素敵な仲間たち】だった。南也、南喜が前座も明けて、今年からは他門下の講談師との交流を深めようと思う。その初回は〝南亰〟にお願いした。南喜『山崎合戦』…これまで南喜には、本人の個性を活かせるように〝世話物〟的な良い演目を与えてきたが、ここらへんで基礎体力をもう一段向上させようと長めの軍談を付けた。今後に繋がればいいと思う。南也『左甚五郎の猫餅』…声や口調は安定してきたが、口さばきはまだまだ良くなる余地はある。ま、原因のほとんどは稽古不足かな。内容としては、おばあちゃん
2024年11月29日西村慎太郎です。来月14日の『第11回浪江を語ろう!』では「中近世の小丸村-「最も弄ぶべき絶景なり」-」という報告をする予定です🤩現在、その準備を進めているところですので、ぜひお越し頂くか、当日のYouTubeライブをご覧ください!!さて、その報告について現在準備中ですが、ちょっと先取りして大字小丸について記してみたいと思います。前回は小丸村にやってきた猪股範綱の末裔である能登守について。猪股範綱は源平合戦でも活躍した武将ですが、実は浪江町内に源平合戦にま
「宇治川の先陣」の名馬――磨墨(するすみ)と生唼(いけづき)のふるさとは、長門国豊浦郡の海近くの牧の「岬山」と「蓋井島」といういい伝えがある。佐々木高綱が頼朝からもらった生唼は黒栗毛の、たいへん肉付きのいい馬だったが、気性が激しく、人でも馬でも傍にいるものには見境なく噛みつくので、それで「生唼」と名付けられていた。当時の馬の大きさは体高四尺(121cm)が標準といわれ、それ以上の四尺何寸かの場合は四尺という言葉を省いて、ただ「何寸の馬」と呼んだ。この生唼は八寸の馬だったというから、
浅野屋でモーニングしてクルミッ子の切り落としを買いに湘南深沢店へ行ってきました🚌💨鎌倉駅からは①番乗り場時刻表江ノ電バス「深沢小学校前」下車(約16分)湘南深沢店とラゾーナ川崎店は3袋までLINEで予約できるので直営店で並ばずに購入できますよもう完売してるだろうな〜と思っていた3/15(金)発売の「70周年記念おいしさの詰合せ」も売ってたー4月まで販売するそうです70周年記念おいしさの詰合せ|株式会社鎌倉紅谷beniya-ajisai.co.jpミニチュア缶が可愛
★SS12★右田年英木版画「英雄三十六歌撰梶原景季」浮世絵明治大正期シートのみシートサイズ:36.6×25.4cm作品の状態は経年劣化によるヤケ、穴、少折れ、シワ、少破れ、少汚れありです真作を保証いたしますので、万が一、贋作と鑑定された場合にはご返金いたします。その他の出品はこちらhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/nuchie_jp右田年英(みぎたとしひで、文久3年6月17日〈1863年8月1日〉-大正14年〈1925年〉2月4
…「木曽(源)義仲」の軍と、鎌倉の源頼朝の代官として軍事上洛した源範頼・義経の軍とが、宇治川を挟んで激突した。『平家物語』によればこの時、頼朝の御家人であった佐々木高綱と【83】梶原景季(カゲスエ)が、それぞれ頼朝から賜った名馬に跨り、川に乗り入れて先陣争いをし、高綱が勝つ。
生田神社兵庫県神戸市中央区下山手通1丁目2-1ここは、源平合戦の古戦場だという。梶原源太景季/歌川国芳画その中でもゆかりが深いのが、梶原景季(かじわらかげすえ)。生田神社の境内、駐車場と社務所の間に「箙(えびら)の梅」がある🌸謡曲になり、能の演目にもなっている。血生臭い戦いのさなか、梶原景季は箙(矢入れ)に梅を差していた。それで、景季の周りには梅の香りが漂っていたそうな。それで、殺伐とした中でもなんて風流なんだろう!って☺️景季のエピソードを踏まえた一句神垣や又と折させぬ梅
宇治の散策を続けました。平等院の最後に、観音堂を眺めてから出発しました。観音堂は鎌倉期の建造物だそうです。冷たい雨が降っている日でしたねぇ。宇治川(淀川中流)の河原に出て、中洲の浮島に渡りました。浮島に渡りながら、宇治川(淀川)の下流のほうを眺めると、宇治橋が見えました。源頼政が宇治で戦ったときには、この橋を切り落として防戦したんでした。さて、浮島のうち、下流側が橘島というそうですが、まず「宇治川先陣之碑」が入ってきました。源平合戦の後半というのでしょ
令和5年8月28日15時から16時過ぎまで郡上八幡散策宗祇水別名白雲水室町時代の古今伝授の古事を伝えるえ湧水昭和60年日本名水百選第一号❗もみじ葉の流るる龍田白雲の花のみよしの思い忘るな川が涼しげに隣接する宗祇庵にて夕方3時過ぎに20分程待って頂きました❗抹茶ラテきな粉にむせびました❗今夜の宿は「旅館磨墨」鮎は郡上鮎長良川より板取川よりふっくらし豊潤な香り有りましたとっても美味しく頂きました浴衣も馬柄です1184年木曽義仲との間
日曜日の鎌倉は混んでて凄かった江ノ電は乗れないくらい鎌倉駅のホームに溢れてました😱食事する場所も長蛇の列だし、休憩する所もない状態…鎌倉、やばし…10月9日に鎌倉殿の13人ゆかりの地巡りの続きです佐奈田霊社→曽我五郎七ツ石の次には、足形社曽我五郎の七ツ石から徒歩でどれくらい掛かったかなぁ〜20分くらい?!足形社に着きました足形社源頼朝の名馬するすみの誕生地で、するすみの足形👣がついた大きな石が祀られています足形社がある地区は昔は炭焼所と呼ばれていました周辺には生駒駒
藤沢市大庭から寒川に移動訪れたのは梶原伝七士の墓梶原伝七士の墓の道案内版と梶原景時の幟旗この奥に有るようです箙(えびら)の梅の記念碑2008年建立箙とは矢🏹を入れて背負う道具梶原景時の長男の梶原景季は源平合戦の生田の森合戦で、矢が尽きて箙に梅の枝を挿して戦ったと伝わります伝七士の墓の案内板梶原伝七士の墓言い伝えでは正治2年(1200年)正月、梶原景時は一族郎党を率いて一宮館を出立上洛の途中ねや清見関で討死したので、一宮館の留守居役であった家族や家臣らが祀ったと言う事です他の
(神奈川県横須賀市長沢)台風が来るというのに暑い。海も荒れているが、メッキのようにピカピカと光っている。明日は池袋で句会。台風が心配だが、どうやら朝のうちに関東を抜けるようだ。交通機関に遅れが出ているかもしれないので、念の為、やや早めに起きることとしよう。今日も、注文いただいた『俳句再考』を投函する以外、ずっと家に籠っていた。雨は降らなかったが暑いし、いつ雨が降るかわからない空模様だった。来月、埼玉県春日部市で「女性俳句」について話をするので、その資料を作っていた
鎌倉殿の13人がますます面白くなってきました。凄い権力闘争ですね。今週はいきなり梶原景時一族の首検分から始まりましたが、その梶原景時、景季、景高親子と久住山に縁があるのでご紹介します。平家を倒した後、富士山で巻狩りをします。それに先立ち巻狩りの練習をするという名目で九州平定の為の軍事演習を久住高原一帯で行いたいと梶原景時や畠山重忠を遣わします。この一帯は当時は大和(たいか)山慈尊院というお寺が治めていました。延暦23(804)年に伝教大師最澄が渡唐の前に立ち寄り十一面観音を安置し、霊場を開い
約1ヶ月前に叫んでおりました😅梶原ツアーに行って来ましたーっ🤣🤣🤣大河ドラマが始まりこのツアーもどんどん人気が出て😃倍率が上がり⏫毎月、梶原景時月命日の20日に行われてましたが開催日を増やして下さったのです😂私は5/28に申込みました🙏📮当選ハガキが届いていた時は大人になって久し振りに「やったぁ😂🤣💕」と叫んでしまいましたよ😂当日は、余裕のあるつもりが結局バタバタして💦ガイドさんの説明をメモしよう❗と思っていたのに筆記用具を忘れました…😱私のあてにならない記憶
…の前に「楽田城」趾をリア責めしてみました。この城跡の碑などはここに移築された時の碑です。実は、この案内板の階段にタバコを吸っていらっしゃる方がいて、「写真を撮らせてください」と言って近くまで行ったところ、色々説明してくださり、この近くにあったけれど、「伊勢湾台風」で壊滅状態になってここへ移築してきたと話してくださいました。ここもそうだけれど、実は大河で有名な人の城だったとかで、隣の駅のそっちがたくさん人がきているみたいだよとも教えてくださり、隣の駅に行ってみました
第16話での「鵯越」か「鉢伏山」の、奇襲戦か現代でも色々な説があるけれど、最近では「鵯越」ではなかったという説がかなり浸透してきているので、作戦の一つだったということにして実際は…ということで済ませたところが本当に痒いところの届く脚本というか多いに納得してしまいました。第15話で上総介を梶原景時が誅殺する時に息子の梶原景季が出てきていたので、「宇治川の戦い」で佐々木盛綱と先陣争いをするのかと思っていたけれど、畠山を向こう岸まで行かせるための義経の作戦ということにして終わ
『鎌倉殿の13人』~後追いコラムその72第16回伝説の幕開け今回は、宇治川の戦いについて(宇治川古戦場:京都宇治:宇治橋付近)宇治川を挟んで対峙した義経(菅田将暉)軍と義仲(青木崇高)軍。義経は、合戦を前に軍議を開く。その中で、義経は、畠山重忠(中川大志)に「畠山、先手を率いて川を渡れ」と命じる。重忠は、「敵の矢の格好の的になりますが」と疑問を呈す。それに対して義経は、「案ずるな。敵の目は他に向ける。強者を二人選び、ここで派手な先陣争いをさせよ。敵の目がそちらに注がれている
4月23日(土)岐阜県郡上市に「國田家の芝桜」といわれる奇麗に咲き誇っている芝桜を見に行きました。ところで、私、そんな遠方まで行って、目的のものを見たらあっさり戻ってくるような人じゃあ、ありません。“貧乏性”です。せっかく遠方まで行ったのなら、それなりにいろいろなものを見たり(安いものを)買ったりしたいんです。そういうことで、今回の目的は、①「國田家の芝桜」(ブログにアップ済み)②道の駅で、その土地の食材を買う③「善兵衛桜」の場所を確認する④郡上八幡の街を散策するこん
1184年(寿永2年)1月、源頼朝は、弟の範頼と義経に木曽義仲追討を命じます。1月20日、義経は宇治川から京へと入ります。このとき繰り広げられたのが佐々木高綱と梶原景季の先陣争い。☆☆☆☆☆佐々木高綱は、近江源氏・佐々木秀義の四男で、頼朝の挙兵時に活躍した佐々木四兄弟の一人。梶原景季は、石橋山の戦いで敗れた頼朝を助けたと伝えられている梶原景時の嫡男。2人は、出陣前に頼朝から名馬を与えられていました。高綱が「生食」(いけづき)、景季が「磨墨」(するすみ)。『平家物語』によれ
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第15話「足固めの儀式」2022.4.17.放送NHK総合,BSプレミアムこんばんは~さっそくですが、昨日の続きです。以下ネタバレ史実バレなんだかんだの結果、「頼朝追放計画」という名の謀反は失敗して。内通者の広常は謀反を未然に防いだ功労者として頼朝から労われます。「武衛、おまえに言っておくぜ」広常は上機嫌。「おまえは自分勝手な男だ。だが、それがおまえだ。頭の中じゃ親父のカタキを取ることしかねぇ。違うか?」苦笑する頼朝。「それ
注意●ネタバレあり◎大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第16回『伝説の幕開け』予習寿永3年(1184)1月20日宇治川の戦い源義経軍が勝利します次回のドラマで先陣争いの話は描かれるのでしょうか???宇治川の先陣争い画像はWikipediaより借用ワタクシ5年前の夏宇治観光をしましたもちろん宇治川先陣の碑も見に行ったのですがどっひゃー↓↓↓詳しくはこちらのブログ『宇治公園』◎関西の旅○7月17日橘島から眺めた朝霧橋と宇治川●宇治公園宇治川の中州に浮かぶ橘島(たちばなじ
◎大河ドラマ『鎌倉殿の13人』■散策報告○4月17日(日曜日)■都営地下鉄・西馬込駅下車●萬福寺●磨墨塚行ってまいりました詳細は後日ブログにまとめます
注意●ネタバレあり◎大河ドラマ『鎌倉殿の13人』♣︎登場人物エピソード北条義時クン〈小栗旬〉三谷ワールドでは早い段階から北条義時〈小栗旬〉が源頼朝〈大泉洋〉の側近中の側近に設定されていますが、実際のところはどうだったのでしょう?『吾妻鏡』○治承5年(1181)4月7日御家人たちの中とくに弓の腕前が達者で頼朝に忠実で裏切りのない者を選び毎夜交代で寝所の警備をすることに決めました江間四郎下河辺庄司行平結城七郎朝光和田次郎義茂梶原源太景季宇佐美平次實政榛谷
名古屋のシンゾウです私のタブレットでグーグルニュースを立ち上げると、「漢字」、「犬」、「猫」、「野球」関係の記事が矢鱈と表示されます。私の嗜好に基づいて表示してくれているのでしょうが、大切な記事がタイムリーに見ることが出来ない場合があります。この嗜好情報をクリアする手段はないものでしょうか。ウクライナに関する情報は見たくありません。見ると腹が立ったり、不安になったり....フェイクが飛び交い、心無い中傷が溢れ.....全く見たくありません。見たく無いものは見ない、聞きたくないものは
はいはい、あけあけ5連休3日目、元日の今日は○ー○さんの車でいろいろ巡りからの打ち上げそれは後日書くとして、昨日の大晦日ブラり小田急線を厚木駅でJR相模線に乗り換え寒川駅で下車10分程歩き着いたのは梶原景時館跡所在地:神奈川県高座軍寒川町一之宮源頼朝の御家人・梶原景時がこの寒川エリアに所領を得ていて、この地が屋敷だったとか今は小さな神社になってまふ今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも勿論登場!中村獅童さんが演じるよ立派な説明板もあっ
寒川神社古来唯一、八方除(はっぽうよけ)の相模國一之宮寒川神社(さむかわじんじゃ)公式サイトです。祭典・神事、参拝・御祈祷などをご案内しています。samukawajinjya.jp昨日、『寒川神社』のお正月恒例(来年で22回目)“迎春ねぶた”が御神門に設置され、夕方には点灯式が行われました『年末詣で大祓。今年も一年ありがとうございました(^-^)ノ~~』2020年大晦日。今年もあと僅かとなりました…。今日は朝から
名古屋のシンゾウです今回は、お坊さん(僧侶)の問題を掲載しました。Excelでランダムに問題を抽出しましたので、少し難易度が高い問題から始まってしまいましたが、合格にはこれらもクリアしなければなりません。今回は、正答率80%でOKでしょうか。しかし、私達、凄いことに挑戦していることに改めて驚きました。太平洋は少し大袈裟ですが、「琵琶湖の水面を小舟で行くが如し」という心境です。心細くてたまりません。莫大な量を記憶しようとしている私達、何の役にも立たない資格のために、だから逆に少し誇れる気持
仏行寺の裏山にある源太塚は、1200年(正治2年)正月20日、上洛途上の駿河国清見関で討死した梶原景季の片腕が埋められているという古塚。景季は、梶原景時の嫡男。北条義時らとともに源頼朝の寝所警護を命じられるなど、頼朝に信頼されていた武将です。木曽義仲追討の宇治川の戦いでは佐々木高綱と先陣争いを演じて武名を上げ、一ノ谷の戦いでは平重衡を捕えました。謀反の疑いのある源義経の監視役も命じられました。頼朝亡き後の1199年(建久10年)、父景時が鎌倉を追放されると、ともに相模国の一の宮に退き、