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【第二十二話長槍】桶狭間へのカウントダウン残り14年〔ドラフト版〕庄内川の治水工事を得て、河原で八郎らとやりあいながら、吉法師は元服を迎える13歳に達した。相変わらず沢彦の指導で戦ごっこに明け暮れる毎日であった。吉法師は成長するにつれて激しい気性の持ち主に成っていった。癇癪持ちともいえばいいだろうか…突然切れだすのだ。普段はそういう事はないが、いざ戦の事で思うように事が進まないと切れ始める。それは劣勢に立たされる状態で切れるのではなく、むしろ味方が勝手な動きをすると切れだ
【第二十一話方程式崩壊】桶狭間へのカウントダウン残り15年〔ドラフト版〕この物語では山本勘助が愛用したとされる「兵は詭道なり」という孫子の兵法の一句を用いる。一般的な解釈では、「戦は騙しあいであり常に臨機応変に対応するべし」というのが定着しているが、もっとこの言葉を深く読み解くと、戦では常に予期せぬ想定外の出来事が生じるものと捉えて、現代のビジネスにおいても応用できる言葉とする方が良い。再び庄内川の河原で清州の八郎ら率いる集団に挑むこととなった吉法師らは、川に面して一列に隊列
【第二十話勝利の方程式】桶狭間へのカウントダウン残り14年〔ドラフト版〕庄内川の河原で悔しい負け方を経験した吉法師は、翌日の剣術稽古で師範の佐久間盛重にその胸中を語った。吉法師は沢彦の言葉を多少理解はしたものの、負けて逃げるということに納得していなかった。「決してみなければ勝負の行方は分からんのじゃないのか?」吉法師はそう盛重に投げかけた。盛重は黙ったまま吉法師の主張と沢彦が伝えたかった意味を考えていた。吉法師の言葉は続く…「勝てたかもしれない勝負に何故逃げる
【第十九話負け戦】桶狭間へのカウントダウン残り14年〔ドラフト版〕勝利に方程式は無い。方程式で勝利できるのは相手も方程式に頼っているから。いわばこの戦いを生兵法の戦いと言っておこう。科学の世界で様々な難題を解き明かすのに、様々な方程式が用いられるが、最終的にその難題を解き明かすのは答えの有る方程式では無く、人間の研究努力と難題を解読していく頭脳でしか無いのだ。これを「英知」と呼ぶ。ここでも既に取り上げた孫子の兵法にある「兵は詭道なり」。常時変化を齎す戦局に方程式
【第十八話神童】桶狭間へのカウントダウン残り14年〔ドラフト版〕科学的に様々なものが立証されようとも、例え宇宙の始まりを知れたとしても科学者たちが必ず行きつく疑問があるという。誰がこの仕組みを生み出しているのか?いわば神という存在でも認めない限り、自然のメカニズムは正に合理的すぎるからだ。そういう意味で見えざる大きな力を肯定して考えてみると、諸葛孔明と織田信長が同一の魂であるという事を伝えておこう。無論、この話はこの小説でもしている事だが、殆どの人が信じていないだろうとも言
【第十七話己】桶狭間へのカウントダウン残り14年〔ドラフト版〕吉法師は父・信秀の助けも有ってようやく治水工事を着手することが叶った。それでも那古野村の子供たちと約束をして、ひと月あまりで実現した。吉法師は沢彦と悪童ら、そして政秀を伴い領主として正装で那古野村に向かった。この2年前に初めて城下を訪れた時とほぼ同じ行壮だ。先方の河尻秀隆が先ず村を訪れた。そして大きな声で、「これより那古野城主吉法師様が御触れを出しに来られる!!村民は全員表に出て触れに従う様に!!」と
【第十六話兵は詭道なり】桶狭間へのカウントダウン残り14年〔ドラフト版〕戦の世では所詮は騙し合い、故に兵は常に臨機応変に事を構えよ。かの武田信玄の家臣山本勘助が愛用したという孫子の名言である。「兵は詭道なり」という言葉は、騙し合いという意味で理解されがちだが実際は計画性に捉われず、常に臨機応変で柔軟に状況を見極めねばならないという意味。Covid19のコロナ対策で迷走する国々は、いわばこれが欠けていると言える。古渡に赴いて信秀に謁見した政秀は、早速那古野の治水工事の話を伝
【第十五話誤算】桶狭間へのカウントダウン残り14年〔ドラフト版〕吉法師は熱田の加藤家から出資を受けて治水工事の費用は捻出できることに成ったが、まだまだ問題はあった。前述の通り、清州との境界に流れる庄内川を利用するなら、清州の承諾も得ねばならなかった。とりあえず熱田を後にした吉法師らは再び那古野の政秀の下に帰った。そして資金捻出の報告をすると、政秀は、「若、今回は勉学という名目で致し方ありませんが…」と、前置きして、「治水で今回は600石増えるとして税はその7
【第十四話紙一重】桶狭間へのカウントダウン残り14年〔ドラフト版〕馬鹿と天才は紙一重と言われるが、一般的には馬鹿に成るか天才に成るかは紙一重で解らないという意味で理解されているだろう。しかしそれは大きな間違いであると言える。簡単な話、現代風に言えば理系と文系ではものの見方が根本的に違う点である。1万円札の福沢諭吉の名言「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。」これを文系の人は、先ず人類皆平等という意味で理解し感動する。皮肉屋の意見だと、この言葉が「学問のすす
【第十三話真実なる嘘】桶狭間へのカウントダウン残り14年〔ドラフト版〕人は騙されまいと構えると、人を疑って見るものだ。また信じがたい話を聞いた時、嘘だと思ってしまう。農民の悪ガキ達と吉法師らは秀隆の用意した餅を囲んで集まった。餅と言っても水っぽい米を叩いて潰したようなもので、ある意味質素なモノだったが、農民の子らにとっては嬉しいおやつの様なものだ。見ず知らずのもの同士が打ち解けるには良い切っ掛けと成った。そうした中で沢彦は農民の子らに、「どうじゃ…今回の勝負で
【第十二話人】桶狭間へのカウントダウン残り14年〔ドラフト版〕人は上から下を見ても、決してその苦境を理解できない。一般人が政治家や金持ちに対して感じる様に、普通に暮らす人が更なる貧乏人の苦境を理解できないのも当然である。何故なら人は自己が基準で、最後は自分で克服するしかないに行きつくからだ。政治家にいくら格差是正の話を持ち掛けたところで、最終的には勉学に励んで優良企業に就職して安定した生活を目指せば良いだけの話と、結局は匙を投げるしかないのも事実だ。いわば頑張った
【第十一話沢彦坊主】桶狭間へのカウントダウン残り14年〔ドラフト版〕信長の奇行で有名なのはその服装で有った。当時の農民が主に着ていた浴衣の様な服装を好んだことでうつけ扱いされていたと言われる。現代風に言えばスーツ姿が当たり前の会社の中で、ジャージ姿で働いている感じなのかもしれない。武家の服装が、いわばブランド物のファッションなのに対して、ただ服を着ているだけの姿ゆえにそう見られたのだろう。那古野城の城主であり、そうした贅沢も出来る身分で、何故あえて貧乏くさい恰好をする
【第十話花倉の乱】桶狭間へのカウントダウン残り15+9年〔ドラフト版〕桶狭間に於いて今川義元は首を取られた大名として有名で、大軍を以て信長に敗れた敗将のイメージが強い。桶狭間には様々な候補地がある訳だが、その中で現在の中京競馬場寄りの北側ルート、いわば鎌倉街道を通ってそこから鳴海を囲むように行軍していたのなら、筆者は今川義元を愚将と評価したであろう。そしてそういう行軍であった事を寧ろ望んでいた。その方がこの桶狭間を解析するのに簡単だったからだ。しかし、調査していくう
【第九話森山崩れ】桶狭間へのカウントダウン残り15+10年〔ドラフト版〕清康の孫、家康と信長、そして明智光秀の間で生じた奇妙なエピソード先に話しておこう。多くの人にも聞き覚えのある話で、明智光秀が信長に足蹴にされて、それが本能寺に繋がったと言われるエピソードだ。現代でも良くある出来事なので知っておくといい。信長が腹を立てたのは光秀が出した料理ではない。いわば明智光秀ほどの人物がそんな粗相な料理を出すとは思えないのである。寧ろ、料理自体は完ぺきなものであった。ところ
【第八話戦世】桶狭間へのカウントダウン残り15年〔ドラフト版〕吉法師が元服を迎える前に、この当時の情勢を一度整理しよう。1532年に信秀は那古野城を手中に治めた。当時21歳であった信秀は清州の織田大和守達勝の怒りを買ったのである。記録上では信秀がある種独立した存在で記されている様に見えるが、実際はまだ斯波家を主家とした形式上の体制が維持されていた時代である。そうした中で織田大和守達勝が実権を握っており、今川との関係を維持したまま、三河で勢力を強める松平清康に対抗しよ
【第七話修練】桶狭間へのカウントダウン残り15年〔ドラフト版〕熱田の遊郭を訪れた吉法師は、芸子さんたちにのせられるがまま楽しい時を過ごした。芸子遊びを楽しんだり、さらには信秀らを前に、養徳院仕込みの舞踊を披露した。この時に吉法師は敦盛も舞っていた。芸子さんたちが小鼓を打ち、歌を奏でる中で、吉法師は舞(能)を踊って見せたのである。子供ながらも美しい線を描くその舞は見事なもので芸子さん達もその愛らしさと能美に賞賛を与え、吉法師はノリノリで楽しんだ。信秀自身も時折
【第六話熱田】桶狭間へのカウントダウン残り16年〔改訂版〕信秀は吉法師を抱えて熱田へ到着した。一行は先ず熱田神宮を訪れて、そこに馬を置き神宮を参拝した。江戸時代の宮宿の図を参考にすると、現在の熱田神宮の西側から南に掛けて熱田(宮宿)の街は広がっており、現在の地図で堀川から先の南側は、海が広がっていた状態である。※ブログ版なのでネット引用の地図を載せます。神宮の西側の通りは既に街を形成していたため、信秀ら一行は神宮東側より入って、東門に馬を置いた。そして
【第五話無情】桶狭間へのカウントダウン残り16年〔ドラフト版〕那古野城下の視察を途中で切り上げてた吉法師の一行は、その足を古渡へと向けた。那古野から南へ約3キロの行程である。那古野城下の視察時とは異なり、古渡までの道のりは、道中の人払いはするものの、平伏させることはしなかった。寧ろ政秀は先遣隊に命じて、道中の人に吉法師様を拝むように命じて、起立した状態で道を開けさせた。この吉法師の一団を那古野から少し下った道中で目撃した一人の少年が居た。少年の名は、日吉丸、
【第四話絵巻】桶狭間へのカウントダウン残り16年〔ドラフト版〕吉法師が城下へ行くにあたって、那古野城内は慌ただしい状態であった。吉法師の警備には200名近い人数が動員され、その内150名は周囲に配置される斥候、いわば物見である。実は那古野城に常駐している兵士数は300人程度で、ほぼ、半数以上が吉法師の警備に当たる。常駐兵が300人とは少なく感じるかもしれないが、実際にこの時代はまだ徴兵制で、武家と呼ばれる人間の数は意外と少ない。現代風に武家を説明するなら、市役
珍解答で、安土桃山時代の戦国武将の1人、織田信長は長篠の戦いで大量の鉄砲を用意した理由とはそれは、鉄砲を撃ちたかったからだそうですこの時代には、信長を始め、他の戦国武将たちが鉄砲を買うための十分なお金があったこと、もう1つは、信長は尾張(今の名古屋市付近)の領主として領地と財産が沢山持っていたからこそ、長篠の戦いや桶狭間の戦いでそれを使ったのではないかなと思います
素晴らしい動画を紹介します心震える・・・「敦盛〜平家物語より〜」信長の辞世の句として有名な敦盛の幸若舞人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり一度生を享け、滅せぬもののあるべきか太田牛一の残した『信長公記』によれば、桶狭間の戦いの前に信長が舞ったという紹介していただいたこの動画和楽器ひとつひとつの効果の高さを細胞レベルで実感する素晴らしい和楽
お正月は読書三昧でした。そんな中で鈴木英治著【義元遼たり】を読んでみました。今川義元が京で僧として修業していたとこから始まり桶狭間の戦いで終わるという展開。前半は今川義元が僧として京で修業していたとこから始まるのですが、このシーンが450ページの内120ページほど割かれている上に今川兄弟、全て仲良しで書かれているので花倉の乱でみられるようなお家騒動が淡泊な感じ。お家騒動特有のドロドロ感みたいなのがあまり伝わらない感じでした。家督を継いだ後の河東一乱、武田信虎追放や三国同盟なんかはオミ
桶狭間古戦場を訪れた。古戦場付近を歩いた、小さい起伏がある。YouTubeを観て下さい。https://youtu.be/o_lM2O7Qwto桶狭間の戦いでの勝利戦国時代の奇跡、桶狭間の勝利だ。現地で想ったのは、天が信長を選んだ。と、思った。この時代の勢力図だ。織田家が如何に弱小かが解る。信長は、城を出て戦うとも、籠城とも言わない。家臣は、籠城派が多かった。家康は、大高城に兵糧を入れる。今川義元は、圧勝に満足していた。信長は、桶狭間で休んでいる。との情報を得
※訂正追記しました泊まりがけできたのは2018年以来『子連れ名古屋①なんてことない旅の始まり』何日か前から、名古屋いくーとそれがどこかわかってるのかわかってないのか、とにかく電車にたくさん乗れるということからなのか、とても張り切っていたくるたろ保育園の…ameblo.jpこのときから電車大好きで今もまた大好きそして新たに増えたこの子も電車好き。今回は、名古屋にきた理由は、安い!といって手配した石垣島便がセントレア発だから『働いてないけど年末年始に思いを馳せる』夏旅が終わって間もない
名古屋市、南区大高城に向かい合わせるようにその東側にある小山。今は小山全体が住宅街になっています。この写真の左側中腹くらいに丸根砦があります。さらにそこから向こう(北)へ400mくらい行ったところに鷲津砦があります。この小山に対峙するように、写真の左方向(西)へいくと大高城跡がある小山があります。まず、丸根砦、細い小道を登っていくと丸根砦跡の説明書きがありました。丸根砦は永禄二年(1559)織田信長が今川義元の上洛に備え、鷲津砦などと共に築い
駿河の戦国大名、今川氏真は暗愚な武将と動かれることが多いです。氏真は武田信玄の甥に当たります。桶狭間の戦いで今川義元が討たれると今川氏は衰退の一途を辿ります。三河を領する属将、徳川家康が離れていきます💠武田と徳川から攻められた今川氏真は駿河から落ちのび、妻の実家小田原北条を頼ります。後に北条、武田同盟が締結した際に今川氏真追放が条項に入っていました。氏真は京都に行き、出家して公家と交流を持ちました。仇敵織田信長の前で蹴鞠をしたという話も、氏真よ暗愚を物語るエピソードと言われます。
名古屋市、緑区大高にある大高城跡。(右の石碑に書いてあります。)永禄3年(1560)の桶狭間の戦いのときに、松平元康(徳川家康)が織田方の包囲の中を兵糧の運び入れに成功し、そのまま城を守った。元康は義元が討たれ、今川方が敗走するまでいて、今川方撤退後に父祖の城である岡崎城に入った。と書かれています。大河ドラマ「どうする家康」第一回のストーリーですね。まさにここから始まったんですね。頂上へ行き、石段を上がり、鳥居をくぐると奥に城山八幡社があり
戦国時代に武田信玄や豊臣秀吉、石田三成などの武将と戦って天下統一を果たした徳川家康。戦では当然ながら城を拠点にしてその防衛力を活かしました。ここでは徳川家康とのエピソードや興味深い歴史を持つ①岡崎城、②小牧山城、③浜松城、④駿府城、⑤伏見城⑥名古屋城、⑦元離宮二条城、⑧江戸城を紹介します。これらの城が持つ徳川家康とのエピソードや歴史を知ればきっと訪れてみたくなることでしょう。なお、8つの城は徳川家康とかかわった年代が古い順に並べました。①岡崎城:愛知県岡崎市
スタッフのSORAです今回は歴史上の人物を例に、ソーシャルサポートの大切さを紹介させていただきます今川義元(1519-1560)(画像引用元:今川義元桶狭間大合戰之圖)今川義元といえば、『大軍に胡坐をかいた結果、少数の織田信長軍に討たれた』、無能な印象を抱いている方もいらっしゃるのではないでしょうか?しかし、実像は異なっており、今川家の繁栄を築いた優れた戦国大名であり、そんな義元には二人の強力なソーシャルサポーターがついていましたソーシャルサ
1542年(天文11年)徳川家康は三河国領主「松平広忠」の嫡男として生まれました幼名は「竹千代」です。当時、弱小大名家だった松平家は隣国である遠江国の領主・今川家に庇護してもらうため幼い竹千代を人質として差し出します。(駿府城)今川家の人質から三河国の主へ竹千代が送られた今川家の当主「今川義元」は「海道一の弓取り」と呼ばれた有力大名で領地を拡大しすぐれた経済政策で国元を発展させていました。この今川家で、14歳となり元服した竹千代は今川義元の名から1字を与えら