ブログ記事1,598件
この男は、時折妙に人懐っこい顔をする。秀吉もまた、人の懐へ入り込むことに長けた男であったが、家康のそれは秀吉とは少し違う。秀吉が己から相手の懐へ飛び込んでいく男ならば、家康は相手に「この男ならば信用してもよい」と思わせ、気づかぬうちに己の側へ引き寄せる。どちらも、人の心を掴む才には違いない。「御台様におかれましては、私目を良く思うておられぬのではないかと思うておりました。だからこそ、私のもとへはお越しにならぬのかと。なれば、自ら御台様のもとへ参ろうと思いまして」「はて、何故そのように思うた
真珠湾の攻撃が「奇襲」で卑怯だという評価がある。米国の人は「リメンバー・パールハーパー」と、いまだに恨みを持っている人がいるらしい。気持ちは分かるが、実は日本軍が暗号解約に手間取り、宣戦布告が遅れ、結果的に「奇襲」となってしまった側面もあるらしい。逆に、戦闘要員ではない一般の国民、子供や女性、老人を根こそぎ一瞬にして焼き殺した原爆を「奇襲」と言わずに何と言うのかという気にもなる。しかも、かろうじて生き残った人達もその後何十年にわたり、生涯、白血病など後遺症に苦しんでいる。「罪を憎んで人
第四章旅の終わり十八.うつろう時の流れその十二.徳川家康年が明け、正月も過ぎた頃、私は過ぎゆく日々の中に身を委ねていた。旅の目的は、おおむね果たした。本能寺の変がどのような経緯で起きたのか、その筋書きも、私なりに大方は読み解いたつもりである。もう、これ以上あちこちを訪ね歩く必要はない。(さて、どうしたものか……)政に手を出す気は、もはやない。世は少しずつ織田から離れつつある。誰か一人に肩入れするつもりもない。私が動けば、それだけで情勢が変わることもあるやもしれぬ
その一言だけで十分であった。光秀ほどの男が兵を挙げるには、自らの胸中だけでは足りぬ。背後に、必ず支える者がおると思えたからこそ動いた。その「二本の柱」が誰であったのか。私は静かに口を開く。「秀長」秀長が足を止める。「そちは、せいぜい長生きせねばならぬ。道を切り開く者がおらねば、その道を歩く者はいずれ迷う」秀長はゆっくり振り返り、穏やかに笑った。「肝に銘じまする。御台様も、この先はどうか穏やかにお過ごしくださいますよう」その言葉に、私は思わず苦笑した。(動くな――そう申しておるのじゃ
パロマ瑞穂スタジアム周辺は来月始まるアジア大会(とテレビで言ってるが、アジア陸上競技大会、競技大会とか陸上競技、スポーツ大会なのを伝えてほしいよね。何の大会かわからないもん)への追い込み工事中。帰りもスタジアム周辺を通ったら公園内に通行止めがあって遠回りさせられた。護岸改修が終わって下流側もきれいになった。新瑞橋から坂を上がって環状線を南下。春頃にスイミングスクールの送迎バスが男女の歩行者をはねて死傷させた交差点を越える。消防署の斜向かいに王将が出来てる!ここ10年くらい
くノ一その一今のうち閑話休題編129『桶狭間・1』そのいち岡崎八幡宮を西北に進んで、そろそろ晩ご飯かというころに豊明市に至った。豊明市は名古屋市と豊田市の間、刈谷市と並んだ小さな市。刈谷は徳川の重臣水野氏発祥の地で(わたしが在籍してる)徳川物産とも縁があるので知っていた、けど豊明市という街は知らなかった。「ねえ、だいじょうぶ?」お昼ご飯を食べた後も元気に歩く義経くんに声をかける。義経くんは勾玉の稲杵姫(いなきひめ)ほどひどくないけど、力が弱って、長時間は姿をさらせないんだ。「う
「……のう、秀長」「はい」「そちは秀吉が好きか」秀長は迷いなく答えた。「我が唯一の兄にござります」その返答には一片の迷いもなかった。「天下を取ると思うか」「たかが足軽のせがれ。されど今や、その名は天下に轟いておりまする。その者が天下をも手中に収めるとなれば――それは、それで面白き世ではございませぬか」「その面白き世を、そなたは見たいと思うたか」その問いにだけ、秀長はすぐには答えなかった。否。答えなかったのではない。答える必要がない、とでも言うように静かに微笑んでいるだけであった
徳川家康(3)朝露の巻(山岡荘八歴史文庫)Amazon(アマゾン)山岡荘八著「徳川家康〔3〕朝露の巻」を読みました。織田信長が父・信秀の葬儀で手一杯に握り込んだ香を位牌に投げつけたシーンで終了となりましたが、この行為で信長が唯一信頼している平手政秀が、諫状を残して自害してしまいます。流石の信長も堪えたようですが、駄々っ子のように泣き叫びました。ここから信長がどう立て直していくのかが、注目されるところですが、流石に主人公は徳川家康なので、一旦竹千代の話に戻ります。
【桶狭間の戦い】すべて正しかった男の最期…今川義元はなぜ敗れたのか-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。youtu.be2026/06/12どっこい日本史を再生しよう!桶狭間の戦いを「敗者・今川義元」の視点から描く歴史解説ドラマです。織田信長の奇襲として知られる戦国時代最大の番狂わせは、なぜ起きたのでしょうか。今川義元は、本当に油断して敗れた愚将だったのでしょうか。近
休みの多かった今週しかし疲労度はマックス心身ともにってやつだな夜9時には寝て朝8時過ぎまで寝てた疲れも取れずヘトヘト😓今朝の適当サンドイッチ🥪撮り溜めたドラマを観てお昼食べこのままでは一日終わってしまう久しぶりに資料館探しメンテもしていないハイエースクーラーも点検出さないとダメかな?冷えますがキンキンに冷えることはない本日は豊明市小学校跡かな?ピアノ🎹ご自由にって書いてあるも猫ふんじゃったくらいしか弾けないしね小学校感が残ります歴史民俗
今朝は水曜日なので張り替えてません💦さて、昨日のお昼過ぎに暑い夏空を見てたら北の空に立派な入道雲が2つ、しかもその入道雲の上の部分は風に流されてカナトコ雲となってます、と言う事は北の地ではと思い気象レーダーを見てみると案の定、栃木方面と茨城方面に強い雨雲がありました。かなり離れた印西から見えた遠くの気象状況、近くでこんな雲があったらまずは身の安全を守りましょう。そう言えば、織田信長が今川義元を討ち取ったとされる桶狭間の合戦は、この天気の急変をきっかけとして
ついに昨日、新パックのカードリストが閲覧できるようになりました!やっと、やっとですね。早速、カードを見てはデッキを考える毎日。来週の日曜についに発売ですね。今週の間に出来るだけデッキレシピを考案しなくてはいけない。これまで武田軍デッキが強いとずっと書いてきました。毎ターン、除去されるのが辛かった・・・まさかの今回のパックは相手の効果で場から離れずが大量に収録されました。安易に除去効果を使うとカウンターされることが多くなりそうです。結果的には嬉しい!あと女性カードもかな
桶狭間の戦い5月19日本能寺の変6月21日時計盤をみましょう。桶狭間の戦いから、皆15度(時なら1時刻、分でいうと5分)進んだところに、本能寺の変の日付になりますね。5→61→29→10→1つまり、3つの×15(度)=最後315×は計算だけでなく、絶対運命数の時に使われる記号でもあります。このように、時空の計算式で信長の最後の時は決まってました。この世界は必ず因果応報になります。
1日目⑦です。みよし市までは『愛知県旅行1日目⑥(みよし市)』1日目⑥です。岡崎市までは『愛知県旅行1日目⑤(岡崎市①)』1日目⑤です。豊橋市内の役所巡りまでは『愛知県旅行1日目④(豊橋市③)』1日目④です。豊橋市地下資…ameblo.jp豊明市へ豊明市は2005年頃に大阪から出張(多分豊川市だった)ついでにコナミ豊明に行ったことはありますが(かすかな記憶ではスタジオに行くのに一回外に出たような…)市役所は初めて豊明市役所へ真ん中にエスカレーターがある下水道課Aカードもらいまし
いつもお付き合いくださり、ありがとうございます。大河ドラマは本能寺の変直前。だから、というか、信長様の足跡をたどってみたくなりました。ここ名古屋には、信長さん関連のお城、戦場、たくさんございますので、、。またふらふら歩きそうです。笑でも、その前に、前回少し書きました有松の古い町並みの続きです。日本遺産有松から、メインの小旅行がありました。それが、ここ、桶狭間です。桶狭間と言えば、信長が世の中を驚かせた奇跡の勝利。絶対に勝つはずがなかった相手、今川義元を討った
本日は旧暦の五月十九日ですが、永禄三年五月十九日(1560年6月12日)といえば、桶狭間の戦いのあった日です。この時、勢力を拡大していた今川氏に真っ向から挑んだのが織田信長であり、勝ち目のない戦と思われていた劣勢での尾張侵攻に対して勝利したことで、戦国時代の勢力図が大きく変わった戦いです。この日は正午過ぎに視界を遮るほどの豪雨があったことが知られていますが、確かに今ぐらいの時期には突然の豪雨が起きてもおかしくない時期です。新暦の時期と比較してみても、やはり明治以前の旧暦の時期に起きた
桶狭間の古戦場跡に来て散歩したよ。現在、古戦場公園は名古屋緑区と豊明市の2カ所に存在している。市の境目の近接地に有る2つの古戦場公園が義元最後の地だと、互いに主張しているよ。この周囲の地は起伏が多い丘や窪地が多数有り、狭い迷路の様な道路と建て込んだ住宅地となっていて道を1本外れると迷う場所だよ。●名古屋緑区の桶狭間古戦場公園。周囲は昭和初期迄は田畑だったが、今は区間整理された住宅地に周囲を包囲されている。近年義元と信長の銅像も設置されて、歴史を学べる場所にな
今日の一言「古戦場カメラマン」高徳院から桶狭間古戦場伝説地へ桶狭間の戦いがあった古戦場ですが豊明市の桶狭間古戦場伝説地と名古屋市緑区の桶狭間古戦場公園のニヶ所あるんですよねまずは、高徳院の向かい側にある桶狭間古戦場伝説地です案内板古戦場址の碑今川義元の墓今川軍7人の戦死場所を示すといわれる七石表(一号碑)一号碑は、義元の戦死場所を示す近くでみつけたマンホールから桶狭間古戦場をイメージもう一ヶ所の桶狭間古戦場へ豊明市の桶狭間古戦場伝説地から
令和8年4月4日参拝東海道新幹線豊橋駅で飯田線に乗り換えて豊川市の牛久保駅に到着しました。品川から2時間ちょっとだから思ったより近い。別件の祭が目的で来ましたが、時間はたっぷりあるのでとりあえず観光します。まず、この牛久保駅のあたりは元禄13年(1700)に三河牧野氏の国替えで廃城となった牛久保城の本丸があった場所なのです。今は当時の面影はありませんが、「城跡」「大手」「城下」といった地名が大切に残されています。上下ホームの行き来で使う歩道橋に立つと、かつて城郭から見渡したであろう景色が
こんにちは。伊藤です。史実においては多くの転換点があったと、聞いたことはないでしょうか?欧米文化が入ってきたこと、鎖国から開国へ舵を切ったことなどなど、大きな出来事は数え切れませんね。今日は、1560年6月12日、尾張国(現:愛知県の西部)の桶狭間で、織田信長vs今川義元による合戦桶狭間の戦いが起こりました。約2万5千とも言われる大軍を率いていた駿河(現:静岡県の中部あたり)の戦国大名・今川義元が、織田家領だった尾張国を侵攻していた際の出来事で、織田信長が約2千の
こんにちは2026年6月11日付けで「とよあけ広報大使」に委嘱いただきました。豊明市は両家の祖父母が住んでいて、幼少期から多くの時間を過ごしてきました。七五三、毎年の夏祭り、秋祭り、桜祭り、お気に入りの公園、高校時代勉強に通ってた豊明図書館学生時代3年間勤めた居酒屋のアルバイト先たくさんの思い出の詰まったこの町、そして、町の人たちが私を成長させてくれました。恩返しができるという想いで本当に光栄で嬉しい気持ちです3年前から豊明市に住み、まちの消防団に入団しました。今、班長
6月12日の出来事1560年(永禄3年5月19日)桶狭間の戦い。織田信長が桶狭間山附近で今川義元を討ち取る。1583年(天正11年4月22日)賤ヶ岳の戦い:柴田勝家側についていた前田利家が羽柴秀吉に降伏。1592年(文禄元年5月3日)文禄の役:朝鮮の首都・漢城(現在のソウル)が陥落し、小西行長・加藤清正が入城。1776年バージニア権利章典が採択。1864年南北戦争:コールドハーバーの戦いが終結。1872年(明治5年5月7日)品川駅
昨「6月11日」は⋯1年で1番早い日の出🌅/4時44分(大阪)そして⋯😓3日連続の早朝ゴミ出し/(5時)🚯・不燃ゴミ(3日前)・大型可燃ゴミ(2日前)・普通ゴミ(昨日)✻もうすっかり日は昇ってた🌅✻今日(12日)は“リサイクル・ゴミ”出さんとな🙄⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯「6月12日:日本時間」からいよいよ【FIFAワールド⚽️カップ2026】が始まる😁〈開幕戦
こんちゃ(´▽`)ノ仕事中に更新って思たけど今日は忙しかったーそしてしごおわはじんたんのお世話ジムパチ屋へと昨日のパチ書く前に今日のパチなってまうーのでちゃちゃっと写真貼ってくー昨日の休み4円のおっぱい一騎当千先バレからレバーで赤ボタンは当確当たってティン(߹ㅁ߹)ᒡᑉᒡᑉᐧᐧᐧマクロス99当たってティン(߹ㅁ߹)ᒡᑉᒡᑉᐧᐧᐧえとたまが1円にしかないので1円に移動当たってハーデスパクリのお父さんラッシュ行くがLTは取れずいくさの子
織田信長が、今川義元を破った桶狭間の戦い桶狭間の戦いにちなんだ「桶狭間古戦場まつり」が6月6日、7日の両日に、愛知県豊明市内で開催されました6月7日には、合戦再現劇がありました。戦国時代の転機となった一戦、桶狭間の戦い恒例の武者行列は、雨の為に中止となってしまいました豊明市内の高徳院のホールで、合戦再現劇が披露されました2万5000の大軍で押し寄せた今川義元軍「勝ったも同然」と油断していて、桶狭間で酒宴を開始しました。織田信長軍がこの隙を突いて、雨の中で急襲す
裏車掌です。週に1、2度、朝7時に記事を更新する予定です。note↓https://note.com/lucid_egret8805よろしくお願いします。織田信長という日本史上最も有名な武将の真実の姿を知る上で、欠かすことのできない第一級史料が『信長公記』です。後世の脚色が多く混ざる軍記物とは異なり、実際に信長の旧臣である太田牛一によって書かれたこの書物には、生々しい戦いの記録から個人的な趣味まで、ありのままの姿が描かれています。今回は
愛知県の城址や戦国時代の史蹟を巡る愛知ウォーキング城巡りクラブで豊川市の史蹟巡りに行ってきました。今回は桶狭間合戦ゆかりの史蹟を歩くシリーズということで、今川氏から独立した松平元康の足跡をたどります。桶狭間の合戦後、岡崎城で今川家から独立した松平元康(徳川家康)は、三河統一を進めます。今川領だった東三河を攻めるために築いたのが糟塚砦。ここを拠点に吉田城、田原城を攻め、三河統一を果たしたのでした。糟塚砦址は現在、寺院になっていますが、許可をいただき境内地の奥へと進みます。する
今日はもうあまり時間がないけどこのお城巡りの旅で絶対に行くのを決めていた場所…信長の人生を変えた桶狭間駿河の大大名今川義元が25,000の兵を率いて目の前にある尾張を踏み潰すように怒涛の如く突如上洛を始めた踏みつぶされる側の信長にとってはたまんないから死ぬ気で考えぬいた次々と織田方の城や砦を落とし続けて桶狭間でしばしの休息をとった時激しい夕立が降り始めあたり一帯の視界が霞んだ一瞬の隙を突いてたった4,000ほどの織田勢が一気に駆け抜け奇襲をかけた世にも有名な
高徳院・桶狭間古戦場伝説の地から国道1号を名古屋市方面へここで曲がれば良かったのですがひとつ曲がり角、ひとつ間違えて迷い道くねくね真夏日の中愛知用水付近の住宅街を小1時間ほど迷子となる羽目にそして、ようやくたどり着いた(下調べ不足を反省)桶狭間古戦場公園(田楽坪・名古屋市)こちらも永禄3年(1560年)におきた桶狭間の戦いの中心地おけはざま山に陣を構えていた今川義元が服部小平太と毛利新介に首を討ちとられた最期の地とされており地元では田楽坪と呼ばれています
道路を挟んだ竹藪の中に桶狭間の戦いの戦死者を敵味方関係無く弔う為の石碑南無阿弥陀佛の名号と刻まれた、徳本の名号そして、今川義元仏式の墓万延元年(1860年)に建てられた300回忌の方形の石柱に笠と蓮花弁を模した台座がつく墓塔型式そのため「仏式の墓」と呼ばれているこれらは・・・桶狭間本山香華山高徳院の敷地にあたるそうです山門をくぐり境内へ高徳院は明治27年(1894年)に高野山から桶狭間古戦場隣地へ移転敷地内には、今川義元の仏式墓所や本陣跡の石碑今川家臣・松井