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【織田信長の合戦】桶狭間の戦いの実態【道と地形図で合戦解説】織田信長と今川義元が1560年に戦った「桶狭間の戦い」についてその実態を解明するため道と地形図を使って分かりやすく解説した動画ですこの動画を見て動画の舞台となった地に旅行に行ってみたいと思ってくれたら幸いです。そうだ名古屋へ行こう!【おすすめの参考文献】かぎや散人、太田牛一「現代語訳信長公記天理本首巻」(デイ...www.youtube.com
おはようございます。雨の日の熱田さんです。楠が古い葉を落としています。祈祷殿前の桜信長塀永禄三年(1560年)桶狭間の戦いの前に熱田神宮に戦勝祈願をした織田信長が戦に勝ったお礼として奉納した築地塀(ついじべい)です。※築地塀とは…場所を区画するための土塀で塀の上には瓦がついているもの。三十三間堂の太閤塀、西宮神社の大練塀と合わせて日本三大土塀の一つとして名高いとか。今度西宮神社に伺ったら拝見しなくては。西宮神社もしかして背景に写っているこれかな?
桜🌸のアップは終了にて鎌倉街道の続きです新海池公園に着きました池の色は余り良くありません今日頃は、どこも満開ですが訪問時の池の辺の桜は咲き始めでしたここからは住宅街を抜けていきます見えてきたのは、次の目的地の豊藤稲荷神社名古屋市では、1.2の規模のお稲荷さんここは、朝日山の頂上ここは、桶狭間の戦いの折、織田信長が三千の兵を率いて集結した所として知られていますただ、桶狭間の戦いは1560年、豊藤稲荷神社の創建は1848年であるのでその当時は、今の神社はありませんね神社のホームペ
3/23。三河武士のやかた家康館がリニューアルオープンした日。午前9時。冷たい雨が降る朝だったことはすでに書きました。寒さに震え、ブルブルでした。このころはまだ寒かったです。ブルブル震えながらオープンの行列に並びました。リニューアルオープンした家康館内部を見たあと、スガキヤさんの肉入りラーメンを食って温まりました。もうニックニク!あったまる~!うまっ!この日の行列、先着523名にオリジナルトートバッグがもらえるということでした。
2024年3月16日芥川山城を見てから高槻→大阪→新今宮→岸和田と移動。南海岸和田駅から徒歩で岸和田城を目指す。15分ぐらい歩き岸和田城の南東の角に到着。綺麗なんだけどもろ逆光です。入口は北とのことで回る。城門を入り階段を登り、旧本丸と思われる所に出る。なんか石庭がある。八陣の庭とのこと。今回下調べをあまりしていなかったのでかなり入ってくる情報が新鮮。八陣の庭は「三国志」諸葛孔明の“八陣”から着想を得たのであろうことはわかったが、国の名勝にも指定されている庭とのことで、さぞかし由
ドラゴンボールの鳥山明さん2024年3月12日シン>ドラゴンボールの作者、鳥山明さんは暗殺ですか?巫女>寿命って言ってますねシン>この方、結構いろんな世界観を持ってますけど何者ですか?異星人ですか?巫女>異星人の魂ではあると思います。シン>どこの異星人ですか?巫女>シリウスって言ってますね。シン>ドラゴンボールって言うそのボールと言うのはインドネシアの昔話で本当にあった物なんですか?巫女>昔の神話
こんばんは⭐職場の異動があさってに迫ってきました。何度も言っていますが、不安で不安で仕方がありません。今日、明日とお休みで、あさっての日曜日(17日)から異動先での勤務になります。お休みのため、今日も出かけてきました。こういう時だからこそ、出かけるべきかなと思いましてね。出かけたからといって、不安がなくなるわけではないし、出かけている間だけでも不安がマイナス10からマイナス9になればと思います。帰ってきたらまた、マイナス10になるんですけどね。まあ、家でじっとしているよりは、少
山中八幡宮・・愛知県岡崎市舞木町宮下8朱鳥14年(699)9月9日、当地に住む山中光重という人物が、宇佐八幡大神の夢のお告げで神霊を迎え、当地に社を建てたのがはじめといわれる。後に松平広忠(家康の父)が再興したといわれ、家康(当時は松平元康)が19歳の時、「桶狭間の戦い」前の「大高城兵糧入れ」の時に必勝祈願に立ち寄った所。また三河一向一揆の際、一向衆に追われた家康が境内の洞窟(鳩ヶ窟)に身を隠して難を逃れられた話が伝わる神社。パワースポットといわれている、樹齢800年のクスノキ。
[岡崎市の東隣豊川市]豊川市牛久保町。大聖寺。今川義元公墓所となっています。(一色刑部公については別の機会に書くかもしれません)奥へ入っていくと墓所が見えます。1560年、桶狭間の戦い。大河ドラマ「どうする家康」第一回で描かれましたね。今川義元は信長の奇襲を受け、戦死しました。その後、首をとられた義元の胴体を家臣が背負ってここまで逃れ、この寺に葬って、とりあえず石の手水鉢をのせ、墓石の代わりにしました。ということなんですね!それが
メタナイト「隙間風の噂で聞いたんだが」ちゃんとした風じゃないのかメタナイト「隙間風もちゃんとした風だろ!!」どこにキレてるんだよメタナイト「話を戻して」メタナイト「なんか誰もが羨む強さを持つ銀河最強の騎士」メタナイト「を超えるほどの強大な強さを秘めている庭師が現れたんだってさ」ややこしいし騎士じゃないんかい!妖夢「断じて否!!!!!!!」昨日のブログで初登場を果たした妖夢が現れたメタナイト「お前が銀河最強の騎士をも超えるほどの強さを秘めていると
🍀2月14日🍀家康関連史跡を巡るスタンプラリーに参加中この日は、頑張って、たくさん周りました🚙💜鹿ケ松💜岡崎市北野町桶狭間の戦いで織田に敗れた徳川家康は、大樹寺に向かった。しかし、前日の雨で矢作川が増水して渡ることができずにいた時、鹿が現れて川の浅瀬を渡っていった。後に徳川幕府により、この地に松が植えられた。
家康公が再起を誓ったお寺大樹寺愛知県岡崎市鴨田町広元5-1室町時代の文明7(1475)年に、松平家4代松平親忠が戦死者供養のため創建。松平家・徳川将軍家の菩提寺かつて桶狭間の戦いで敗れた家康公が岡崎へ逃げ帰った際、大樹寺の周りを敵に取り囲まれこれまれ自害を試みた時、住職登誉上人は問答の末、厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)汚れた世を正し太平の世を目指すの教えを説いて元康を諭し、切腹を思いとどまらせたと言われている■三門(県指定文化財)寛永18年(1641
【第三十七話吉乃と帰蝶後編②】桶狭間へのカウントダウン残り12年〔ドラフト版〕信長の女性関係は謎に満ちていると言われる。一つには織田家公式の書物の殆どが、本能寺の変で消失した為、様々な詳細は謎と成っている点にある。これは実は断定してそう言っても良い話で、信長が公文書をどこに保管したかを推測し逆算して考えれば明確にできるところに成る。信長が文官として信頼を置いていたのは村井貞勝である事は、歴史家の方がたも承知の話で、主だった公文書はその村井貞勝に管理させていたと考える方が
【問題】服部友貞は、桶狭間の戦いに際して次のうちどちらに属したか?【選択肢】織田方今川方【正解】今川方【解説】服部友貞は尾張国の国衆で、織田信長に属さず河内(海西郡)に服部党と呼ばれる独立した勢力を持っていた。桶狭間の戦いに際しては今川方に与している。
どうもブルポンです。昨日は新小5初めての公開模試。その前にG講座親子ガイダンスがあり、半期ごとに2科目60偏差値以上のハードルにどんがびびっていたようですその後に公開模試。午後からテストも初めてなのでリズム的にも慣れていく必要がありそうです。自己採点は愛する嫁がやってくれました。国語115くらい算数115くらい理科75くらい社会85位くらいでした。まずまずのスタートですかね。帰ったら夕方でしたが、見直しその日のうちにやれたのはよかったです。本日は大高緑地と桶狭間の戦いの
時々、熱田神宮に自転車でお参りに行く。有り難いことに行き帰りで40分、境内で20分、計1時間でお参りできる。近くに住んでいて良かったと心から思う。晴れた日は、木漏れ日が目を洗ってくれる。桶狭間の戦いに勝利した織田信長が寄進した「信長塀」が勇気をくれる。そして、手を合せると感謝の念が湧いてくる
【第三十六話吉乃と帰蝶後編】桶狭間へのカウントダウン残り12年〔ドラフト版〕恋は盲目。吉乃との恋は信長にとって初恋である。特に思春期真っただ中の時期は病にでも侵されたかのように、危い行動にも走りがちなのだ。いい意味で恋に純粋であればあるほど、その恋路の邪魔だては許せなくなる。時にこうした病は傾城ともいうべき出来事にも発展する。ここでは先ず吉乃こと九庵桂昌の夫だったとされる土田弥平次に関する話をしておこう。生駒家古文書に記された系譜上では、「何某弥平次
【第三十五話吉乃と帰蝶中編】桶狭間へのカウントダウン残り12年〔ドラフト版〕ここまでの信長の成長を眺める上で、多くの読者は些か疑問に感じる点が生じてくるだろう。果たして…この信長は家中が分裂するほどの「うつけ」なのか?ある意味、勇猛果敢で戦国時代の将としては申し分ないように見えるだろう。先に記した様に教育問題で林秀貞との確執は理解できる内容と成ったが、信秀の死後、家中が二分するほど信長のうつけっぷりは酷いものかといえば、そうでもない。古今の歴史家たちが推測するよ
【第三十四話吉乃と帰蝶前編】桶狭間へのカウントダウン残り12年〔ドラフト版〕信長の正妻という立ち位置を巡っては、2人の女性の名前がよく挙がる。一人は道三の娘で知られている濃姫こと帰蝶である。帰蝶に関しては少ない情報であれ、信長公記という史書にも記されているため、ほぼ存在として間違いは無いだろう。しかし、映画やドラマ、またはゲームなどで信長の妻として活躍する姿は実はどこにも記されてはいない。むしろ斎藤道三の娘としてのイメージから創作されたものが多いと言える。ただし帰蝶
【第三十三話干し柿の美味】桶狭間へのカウントダウン残り13年〔ドラフト版〕1547年9月、信秀は岡崎城を陥落させた。史書には様々な説が存在し、三河物語などでは竹千代こと後の徳川家康は今川へ人質に出される際に、田原城で戸田康光の裏切りによって尾張の信秀に送られたともされている。近年ではこの時期に信秀が岡崎城を陥落させたという資料も見つかり、その際に松平広忠が信秀に人質として差し出したという見解が些か有力視されているようだ。しかし、疑問に感じるのは何故、三河物語(1626
【第三十二話初陣】桶狭間へのカウントダウン残り13年〔ドラフト版〕信長の初陣は1547年の吉良大浜の戦いとされている。信秀は1544年に越前朝倉と連携して道三の美濃へ侵攻したが、双方が痛み分けという形で和睦した。一方の今川は北条と和睦を計り東からの脅威を収めようと試みるも、既に北条氏綱から三代目の氏康に代替わりした北条がその和睦に難色を示したため不調に終わった。今川からすれば尾張が美濃と停戦した事で、寧ろ尾張の矛先が三河に向くことを警戒して考えたのだ。一方で甲
【第三十一話織田三郎信長】桶狭間へのカウントダウン残り13年〔ドラフト版〕吉法師の元服は1546年だったとされている。信長公記には13歳で元服したと記されており、現代風に生まれ年を0歳とした場合、1534年6月23日生まれから逆算すると、1547年6月23日に成る。しかし、当時は数え年である為、生まれた年は1歳で、その次の年の元旦を迎えると2歳に成るという仕組みらしい。※筆者もこの事を忘れていた為、ここより年数を若干修正する。1544年加納口の戦いを得て、
【第三十話マムシ戦法】桶狭間へのカウントダウン残り13年+3年〔ドラフト版〕毒蛇は草むらに潜み相手の隙をついてその毒を以て捕食する。道三の頭は今、まさにその毒をどこに潜ませるかを考えていた。(敵は既にこちらの窮地を悟っている…)一般的多くの人は相手に自分の弱みを見せたくないと考える。いわばその後の交渉で少しでも優位性を保とうとするためにそう考えるのである。その為、情報漏洩を防ぐため四苦八苦するのだ。そうして四苦八苦すると、指揮を執る本人は状況を理解し
【第二十九話尾張と越前】桶狭間へのカウントダウン残り13年+3年〔ドラフト版〕修正版道三が籠る稲葉山城から長良川を挟んで対陣する尾張越後の連合軍。この場所はその長良川を挟んで稲葉山城下がある道三側の場所を井ノ口と言うらしい。加納口はどうやら現在の岐阜駅南東の名鉄名古屋線加納駅辺りをいうらしい。その井ノ口の対岸に布陣した尾張の信秀、そして越前の朝倉孝景は火矢での攻撃や夜襲を駆使して、稲葉山城下の井ノ口を破壊した。いわば道三方への経済制裁の意味があったのだが、最終的な補給路は
【第二十八話親父(おやじ)と義父(おやじ)】後編桶狭間へのカウントダウン残り13年+3年〔ドラフト版〕信秀の大垣攻略の出来事は、吉法師元服の3年前出来こどで、1544年の事であった。大垣を攻略した信秀軍は、そのまま主力を北上させて越前の朝倉と揖斐城で合流してこれを攻めた。既にもぬけの殻状態だったが、信秀も朝倉孝景も敵が素早く引いたものと判断した。一方の道三は稲葉一鉄に授けた計を悟られぬように、別動隊を用いて大垣へ進軍させた。その大垣から信秀の元に敵が現れたという
【第二十七話親父(おやじ)と義父(おやじ)】中編桶狭間へのカウントダウン残り13年+5〔ドラフト版〕信秀が道三の稲葉山城を包囲した加納口の戦いは、歴史の資料上では1544年と1547年の説に分かれている。この2説の存在を考慮して、この尾張・越前連合と美濃の戦いは1542年から1547年まで続いた戦として取り扱うものとする。5年の歳月とは長い様な話だが、停戦や膠着状態が発生する状態と成れば当然の年月と言える。1543年、信秀は坂井大膳の本隊とは別に、勝幡城に自らの軍
【第二十六話親父(おやじ)と義父(おやじ)】桶狭間へのカウントダウン残り13年+5〔ドラフト版〕吉法師の元服前の信秀の動向は、北は美濃、西は今川を相手に立ち回った記録となる。1542年には「信長公記」の記載では第一次小豆坂の戦いで信秀が勝利したとあるが、実はその「信長公記」以外の資料ではその実態が記されていない。いわば全話の通り松平信定の後継者、松平清定を支援しての戦いで安祥城を支配した訳ではない。ただし斯波義統の名を大義とした戦いであったことを全話に伝えたように、後
【第二十五話大は小を飲み込む後編】桶狭間へのカウントダウン残り13年〔ドラフト版〕松平広忠の三河復権に関しては、前述にも記した様に諸説さまざまである。1537年説と1540年説だ。問題は何れの資料も江戸時代に伝聞により記述されたものが多く、ハッキリと決定づけるものが無い点だ。ただし、松平広忠の元服が1539年、その後、岡崎ではなく牟呂城に入城したとされるのが1540年という記録がある為、1537年から1540年に掛けては松平信定派と松平義春派で争った時期と見なしてもいいと考え
【第二十四話大は小を飲み込む中編】桶狭間へのカウントダウン残り13年〔ドラフト版〕前話の清康家督相続を経て、若年時の清康の動きには酒井将監や清康の叔父にあたる松平信定らの進言が反映されていたと考える。逆にこのころ清康の祖父である松平道閲(長親)はほぼ政治の世界から離れて完全に隠居したのだろう。道閲という人物が英明ならば、信忠が廃された動きは自分の存在が家中の分断を招いたと感じても可笑しくない話で、それを避けるべくして隠棲を決断したと思える。以後、しばらくは道閲の存在は史書から
【第二十三話大は小を飲み込む前編】桶狭間へのカウントダウン残り13年〔ドラフト版〕戦国時代の下剋上を現代社会で考えた場合、自動車産業の変革に照らし合わせると面白いかもしれない。ガソリン車の時代から、EV(電気自動車)へと変革していく中で、車作りの技術で圧倒していた大手が、新興産業に押し込まれつつある状態がそれを物語っている。足利幕府という大きな力の下で、各地の守護はその力を堅持していた。いわばその家臣団がその守護に逆らう事は、幕府全体を敵に回す行為と成るなからだ。所が、応仁の乱を