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赤坂天王山古墳群には15基もの古墳が存在しています。■5号墳墳丘北側。赤坂天王山古墳群内では、1号墳の次に大きな古墳ですが、かなり墳丘の形状が乱れています・・・■6号墳南側開口部。羨道部天井石が露出。その右上の穴。墳丘南側を西より。墳丘東側。7号墳付近。8号墳付近。9号墳付近。10号墳付近。10、11、12号墳と、北西側の尾根に並んでいます。11号墳付近。
赤坂天王山古墳群。3号墳は1号墳の北西側、6世紀末~7世紀初頭築造の円墳です。石室まで見学できるのが特徴です。墳丘南側の開口部。羨道部。羨道長6m、幅1.7m。両袖式横穴式石室。全長10.3m、玄室長4.3m、幅2.5m、現状高2.6m。玄室天井部。玄室床石が良好に残存。これほど大きな玄室ですが、石棺の痕跡は見当たりません。羨道部を戻ります・・・石室開口部の閉塞石が一部残存しています。径11.2
赤坂天王山古墳群。1号墳西隣の1辺25mの方墳。墳丘南側の開口部!羨道天井石が見える程度ですが、十分嬉しい(^^♪目一杯、土砂流入しています。墳丘南辺を東より。墳丘東側。墳丘北東側。墳丘東辺を北より。墳丘北側。墳丘南西側。東より。南西より。赤坂天王山古墳群全景。
1889年(明治22年)頃までは暗殺された崇峻天皇の墓、倉梯岡上陵と考えられていました。測量調査、石室三次元調査は実施されましたが、発掘調査はされていません。桜井市倉橋字赤坂にある赤坂天王山古墳群の一画。1954年(昭和29年)国の史跡。お馴染みの害獣除け柵よりスタート。クヌギのカサ、ドングリの散乱する小道。すぐに開口部が!いい感じですね~まだまだ未熟ですが、古墳ソムリエになりたい気分(-_-)吸い込まれたく
1935-57年(昭和10-32年)干ばつ対策として粟原川支流をせき止め、奈良県下最大の灌漑面積を誇る農業用溜池を作りました。1987-2000年(昭和62-平成12年)規模を拡大して、洪水調整機能を併せた防災ダムを整備。2005年(平成17年)溜池南部に倉橋ふれあい公園を整備。43基あった梶原古墳群のほとんどは水没、あるいは破壊されました。■取水塔■ダム管理事務所■倉橋防災ダム溜池北東畔のアースダム。天端。ダム右岸の竣工記念碑。
かつて崇峻天皇倉梯岡陵と比定されていた雀塚。現在もその崇峻天皇倉梯岡陵附属地として宮内庁管理地です。多武峰街道(県道37号桜井吉野線)を北へと入ります。目印はこれ!雑草に埋もれていたら残念ですが。■道標楠目清馬墓在上此三丁・・・何やら左手に、樹木のトンネルの小道が見えます。磐座でしょうか・・・・・脇には墓地。元に戻り、道は緩やかに登りながらぐるっと東方向へと向きを変えます。栗の青い実がどっさり。■展望台
多武峰街道の倉橋にある倉橋神社。多武峰街道(県道37号桜井吉野線)より東へ入ります。■談山大明神石燈籠倉橋、針道、細川、高家は多武峰四郷。高家春日神社鳥居前の石燈籠によく似ています。こんもりした社叢が見えてきます。参道は九十九折のようです。■奉納石碑石鳥居寄付者名簿。■鳥居■狛犬■手水鉢■拝殿■本殿板塀・門■本殿
九頭龍神社は男神。■石鳥居近隣の九頭神社を女神とする対の神社。2社合わせて「おしほみの夫婦神」。■磐座■石燈籠
崇峻天皇の宮は天皇家舗との小字が伝わる、金福寺あたりと考えられています。■桜井市立総合福祉センター■金福寺崇峻天皇陵の北に隣接する建物。倉橋区集会所としても使用。懐かしい男性用WC。外にあるところが凄い。
臣下に暗殺された唯一の天皇です。即日陵が設けられ、即日埋葬されるという特異な状況でした。その後、所在が全く分からなくなってしまった事はどうにもできません。県道37号桜井吉野線より参道が南へと伸びます。■石標崇峻天皇陵。正面は天照皇大神社の鎮座する山。崇峻[すしゅん]天皇は553年?(欽明天皇14年)誕生-592年(崇峻天皇5年)崩御。蘇我稲目の血を引くものの、蘇我馬子により暗殺されます。和風諡号:長谷部若雀天皇[は
桜井市倉橋に鎮座する天照皇大神社[てんしょうこうたいじんじゃ]。■手水鉢■祓戸社身滌大祓[みそぎのおおはらい]。■鳥居■狛犬■拝殿■顕彰碑■本殿
3月25日吉野、宇陀からの帰りにようやく、九頭神社と九頭龍神社へ。夫婦神で九頭神社が女神、九頭龍神社が男神だそうです。本殿は無く、橿の木が御神体。こちらも本殿が無く楠が御神体。左下の朱の鳥居が九頭神社です。