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桓武平氏の物語は単なる血統の継承を超え霊性と権力の激しいせめぎ合いの中で静かに燃え続ける炎のようなものです。高望王の生涯を振り返るとき私たちはその炎の源流に触れ歴史の裏側で守られ、育まれた一族の不屈の魂を感じずにはいられません。📜✨誕生と血脈の背景「千葉大系図」によりますと高望王は、天長6年(839年)に生まれたとされています。同じく「千葉大系図」の高見王の生没年(824~848年8月19日)を重ねますと父である高見王がわずか15歳の若さで子をもう
これまでの考察を振り返りますと桓武平氏の血脈封印や蝦夷の逆取り込みというテーマが実に一本の線でつながっていることがよくわかります。そこで、今回は「承和の変」の発覚から高見王の子・興我王の直叙に至るまでの時期の壮絶な暗闘の歴史を考察風にまとめてみます。なお、葛原親王の6歳下の異母弟・仲野親王の娘が高見王の妻であったとする系譜記述(『系図纂要』)も適切な箇所に織り交ぜて考察します。📜✨🗺️842年・承和の変の発端:物語の始まりは承和9年(842年)に起こった
葛原親王は、桓武天皇の皇子として生まれ母が非藤原系の多治比真宗であったため皇位継承争いから疎外される運命を背負っていました。平安初期(794年の平安京遷都~)の時代背景として桓武天皇は蝦夷征討を国家事業とし坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して東北地方の制圧を目指しました。この政策は、軍事的な征服だけでなく俘囚の移配や同化を伴うもので朝廷の支配を強化するものでした。🏯1.葛原親王の東征と小出神社の伝承葛原親王の東征参加は一次史料である六国史(『続日本紀』や
↑コストプッシュインフレをインフレのまま解釈してるけど、原因は消費税で実際はデフレ‼️輸出還付金と株で国外の対外資産が増えて海外でインフレが起きてる‼️法人税+消費税(第二法人税)+インボイスをやめて法人税一つにまとめれば法人税増税に見えても企業全体の負担は明らかに減るし、低コストで作れて粗利益も取れる‼️給料から引かれる税金も減る‼️これから国民減ってくのに消費税続けたら移民と国民の紛争が増加する‼️消費税廃止は大企業にとってもメリットはあるし、多少増税されたって超富裕層がビビるほど
相模国(現在の神奈川県藤沢市公田町)にひっそりと佇む「上臈塚」は古代の蝦夷系ネットワークの中心地として歴史のロマンを今に伝えています。この塚にまつわる「葛原親王と照玉姫の逃避行」の伝承は8世紀末から9世紀にかけての激動の時代を背景に蝦夷の誇り(日高見国のアイデンティティ)と非藤原系血統の抵抗を象徴する物語です。この伝承は、単なるロマンスではなく朝廷と蝦夷の対立、桓武天皇の蝦夷征討そして在地豪族のネットワークが織りなす歴史の一幕として、深い意味を持っています。
なかなか有名な絵ですよね。“がしゃどくろ”ってどのような敵よ?と思いまして検索🔍しましたら喜多川歌麿の絵が..☆↓おやすみなさいませ😴野垂れ死に..w怨霊になるほどこの世に執着もないんよね〜アメリカの中では”地味なMLBの話”に引き続き付き合わせようという地味男子がよほど私には怨霊感あるかな。源氏の血に賭けて斬らざるを得ないかあー?キエエ大谷さんと言う苗字は桓武平氏に多いらしいよね。勿論藤原氏も、でありただの地形姓なら岩手県にも多いそうな。夜に乗っけたら
最近、はまって観ているこちらのシリーズ。前の加来耕三先生のシリーズの方が楽しかったし、「敗北」というタイトルに無理矢理合わせていて違和感を感じる回もありますが、前シリーズで扱わなった歴史上の人物もあり、楽しいです。今回は、承平天慶の乱の一方の主人公、平将門(もう一人は藤原純友)です。平将門、平忠常、平清盛で知られる桓武平氏。※小学舘漫画日本の歴史より桓武平氏は、その名の通り、桓武天皇の血を引く家系で、平氏には他に仁明天皇系の仁明平氏、文徳天皇系の
📍「目黒姓」のルーツと由来いいね👍ありがとうございますSnowManのめめさんこと目黒蓮さんが私の夢に出て下さりましたという訳で目黒さんのご先祖様を考えたいと思います何それ〜どんな夢やねんファンの皆様本日も温かく見て下されば幸いですではいってみます地名由来「目黒」は元々、現在の東京都目黒区がある武蔵国荏原郡目黒村に由来する名字です。この地で暮らしていた武士団・児玉党(こだまとう)の一部が「目黒」を名字として名乗り始めたのが起源とされています。漢字と音の意味「めぐろ」の
そもそも源氏と平氏って何?8世紀後半に桓武天皇が、天皇家の子孫が増えたので少し減らして貴族に格下げをしました。それは天皇家の家督争いや、天皇家にかかる経費を減らすという効果があります。これは臣籍降下(しんせきこうか)と言って、家臣として位を一段階下げるということです。その際に天皇家には姓が無いので、源や平という姓を与えました。歴代天皇の皇子に与えたのが源で、その二世皇子以下には平を与えました。そのため源氏の方が天皇家に近く、平氏より位が上になります。その後、平清盛が平氏の格を上げて
日本に存在する名字の種類は29万種、そのうち斎藤と斉藤、齋藤などのように類似名字で一字の漢字種類が微妙に異なる場合を除くと10万種類。名字と苗字は文部省によれば正式には名字、法務省は氏としており法律上は氏、氏名である。一方姓は一族や血族を表し、天皇の支配を受けるすべてのものが名乗る呼称であり、氏は古代の支配層であった藤原氏、大伴氏などで地方の中流豪族や庶民は氏としての組織はなかった。蘇我氏、葛城氏などは本拠地の地名、物部氏、鏡作氏などは大王から与えられた職名を世襲するものがあった。平安時代
桓武平氏の系譜を遡ると、その祖とされる「高見王」という人物にたどり着きます。しかし、この高見王については歴史の表舞台にほとんど姿を現さず『尊卑分脈』に「無位無官」と記されるのみで具体的な事績や生没年も記述によってバラバラです。桓武天皇の皇子・葛原親王の三男であり「平高望」の父とされる高見王はなぜこれほど記録が乏しくどのような運命をたどったのでしょうか。葛原親王は「一品式部卿」という異例の高位に昇った親王で桓武天皇の血統を継ぐ有力な皇族でした。長子の高棟は
「千葉大王」という存在は千葉県や関東地方の歴史と文化に深く根ざした謎めいた人物でありその名は古代から中世にかけての地域豪族や伝説に結びついています。千葉大王の正体や歴史的役割は明確な史料に乏しく伝承や地名、地方史の断片から推測するしかない部分が多いですがその存在は千葉氏や桓武平氏の起源、関東の独立性そしてヤマト政権(大和朝廷)との複雑な関係を考える上で重要な鍵を握っています。千葉大王の起源と伝承千葉大王の名は千葉県の歴史や千葉氏の系譜に頻繁に登場し
本年も宜しくお願いいたします。年末商戦も、あっという間に終わりまして、同僚と共にツラい時期を乗り越えられました。各家庭に、船出した冷凍本マグロ君達現在は、サクの状態で来るので、作業効率も、アップ🆙脂のノリも当たりでした。♥本日の忙しさは、今までの年末商戦でダントツに凄かったですね。歳のせいかも知れませぬ。↑コレほんとの話し昨年(ほんの数時間前ですが)に突き当たったコトこの事を、頭に置いて本年の課題としたく、思います。長谷寺の沙羅双樹の木夏ツバキとも呼ばれます。春開花しま
今年のNHKの大河ドラマ『光る君へ』は一大ブームを巻き起こした。中でも藤原氏の勢力の強さに改めて驚いた人も多かったであろう。今回は、藤原氏の権勢の後を含め、覇者の氏(うじ)について書いてみようと思う。天皇家が遠く神代の天照大神(あまてらすおおみかみ)を祖とするのに対し、藤原氏は神代の天照大神直系以外の神々の子孫と考えて良い。勢力を広げる中で皇室と繋がってゆくが、天皇家を祖とはしない。では平氏と源氏はどうだろう。両氏ともに天皇家の血筋でありながら、皇室の籍から離れて家臣となる『臣籍降
大河ドラマ『光る君へ』は、次回「刀伊の入寇」が描かれる予定です。この事件が起きたのは、寛仁3年(1019年)のこと。3月27日に対馬と壱岐が大打撃を蒙り、本土では4月7日~13日に来襲を受けた、半月に及ぶ戦いでした。「刀伊(とい)」というのは、朝鮮半島で猛威を振るっていた、刀を持って強弓を引く、戦闘力の高い海賊です。これより100年後に中華で「金」を建国する「女真族」と呼ばれる異民族が、その正体だったと言われています。「入寇(にゅうこう)」は見慣れない字ですが、「外敵(寇
2024年11月19日~20日の一泊二日で訪れました群馬、栃木、茨城3県の紅葉の様子を“北関東紅葉めぐり”と題してお届けしています前回はこちら👇『「2024紅葉北関東紅葉めぐり(^^)/栃木県内を梯子訪問の巻』2024年11月19日~20日の一泊二日で訪れました群馬、栃木、茨城3県の紅葉の様子を“北関東紅葉めぐり”と題してお届けしています第二弾は栃木県内の複数個所の…ameblo.jpさて、今回は旅の初日の最終版宿泊場所は日光市の湯西川温泉で、chuは今までは真冬に開催されている「湯西川
すっかりサボってますViewthispostonInstagramApostsharedby律(@ritu_simo)風は強いけれど、雨も止んでいるし時折日が差してる千葉市。今日は妙見大祭のお神輿渡しがある。中止!?とドキドキしちゃったけど、時間短縮、経路短縮で決行されるそう。見に行こうと思っていたけど、中止じゃなくても見物はしない方がいいかな😅千葉氏が信仰した妙見様を、千葉氏のお屋敷があった猪鼻山の麓にお招きして一週間止まっていただき、また千葉神社へお戻りいただく
この研究者の本は足利義満のことを知りたくて最近読んだばかりである。ガイド稼業を営む者として、武士の起源というテーマにはかねてより興味があったので、読むことにした。冒頭は武士研究の現状に対する愚痴が書き連ねられているが、第2章からは引き込まれた。武士の起源は弓馬術に長けた有閑者であり、その弓馬術は朝鮮半島からの移民が持ち込んだ技芸だったのだ。それにしても平安時代の社会が、税制も地方統治も治安もこんなにもしっちゃかめっちゃかだったとは!!小学生の頃、「安寿と厨子王」という映画を見て人買いなんて
皆さんお疲れ様です花子です。母方の祖父は日本人離れした体躯で超色白で納豆大嫌い💔😆「北見」と言う名字桓武平氏の中の名字だそうです確かに祖父の郷里は千葉のおそろしく山の中😆そこは平氏の落人伝説がありました。平氏って海の戦いに優れていて…尚且つ平時よりも戦時になるとめっちゃ人が湧いて出たとか?しかもペルシャ風の刀⚔️を使っていたとか…そしてわたくしの中のDNA祖父の郷里はそれでも隠れ里としては恵まれていたのだと思いますこの動画を最近見つけて平氏の落人の村
鎌倉歴史文化交流館の特別展「異国襲来文永の役750年東アジアと鎌倉の中世」を見に行く前の散策。巽神社の少し先には、八坂神社。源頼朝の挙兵に加わり、鎌倉幕府初期の御家人となった千葉常胤の“次男・相馬師常”が、邸内に守護神として勧進したのが始まりだとか。御祭神は、スサノヲノミコト桓武天皇葛原親王(かずらはらしんのう※桓武天皇の皇子の1人)高望王(葛原親王の子で、臣籍降下し、桓武平氏初代・平高望となる。)※千葉氏は坂東平氏(桓武平氏良文流の子孫)。社殿の裏手の石碑。神輿庫の
「清和源氏」「桓武平氏」の嘘源氏は騎馬民族・平氏は海洋渡来民族明治史学者は江戸時代の系図屋が、地口しやれに「姓わ源氏(ワがはになったのは戦後の事)」と片っ端から作ってあったのを取り違えて、「清和源氏」と誤り、また「佐野系図本」の、「平家勘文録」に「高見王の太子高望王のとき、寛平元年十二月十三日に、民部卿宗章が時の帝王を傾むけんと廃立を企てた際、宣旨をうけ討伐した。よって帝王は同二年五月十三日に、朝敵を平げたる故に平の姓を賜り従二位上総介に任じたまう」とあるのから、「恒武平氏」なるの
鎌倉殿の13人ゆかりの地巡り…二俣川の畠山重忠終焉の地を幾つか巡り相鉄線で海老名まで移動し、バス🚌で浜田歴史公園に…浜田歴史公園には、上浜田中世建築遺構群が有ります案内板上浜田中世建築遺構群は、13世紀〜15世紀鎌倉時代から室町時代にかけて、丘陵東側斜面に営まれていた武士階級の建造物跡で、堀立柱建物跡8棟・竪穴状遺構1基が確認されてます誰が住んでいたのかは不明ですけど、渋谷一族大谷氏の居館と想定されています現在は、浜田歴史公園として整備されています城郭もそうですが、遺構とか遺跡の
桓武平氏ゆかりの宿揚羽は居心地⁽⁽٩(๑˃ᗨ˂)۶⁾⁾最ᵃⁿᵈ高お肌ツルツルのお湯で貸し切り風呂も内湯も(*^ー゚)bクッ゙次はいつ来れるかな⁉️
私の先祖は桓武天皇を祖とする桓武平氏。いわゆる四大武家の源平藤橘のひとつ。桓武天皇から4世代下った平良文(たいらのよしふみ)が祖先。なので平良文流とも称します。さてこの良文の息子の平忠頼(ただより)は良文の盟友で親戚でもある平将門(まさかど)の娘の春姫を正室に迎えた。平将門はじめ息子や娘は「平将門の乱」に連座して処刑されたが、春姫だけは後に鎮守府将軍に任ぜられた良文の嫁ということで生き延びて子孫を残せた。なので私はあの平将門の直系の生き残りとも言えるが危うく族滅を免れた。忠頼と春姫の息子のうち
2022年12月3日に、知多四国八十八ヶ所、野間大坊を参拝しましたこの納経帳は、知多四国八十八ヶ所専用のものです。参拝するたびに、同じページにスタンプを押していただきます。真っ赤になるまで押してもらうこともできます。他のご朱印帳にも押してもらっています。野間大坊源義朝の墓と首洗い池愛知県知多郡美浜町野間東畑50以前、毎週のように南知多三十三観音霊場に通っていた頃、こちらへもよく伺っていました。初めて行ったのは20年ほど前のことでした。以後、何度も行きました。こ
今回の旅行でお世話になったのは、平家落人が発見したと言う、湯西川温泉郷のホテル湯西川さん!私お気に入りの伊藤園ホテルグループの一館。到着し、まずは激戦区と噂の貸切露天風呂とカラオケを何とか押さえましたそして入浴タイム内風呂で身体道を洗った後移動!広いです!もっとこぢんまりしたのを想像してました二人で30分、贅沢に浸かりましたよ〜泉質アルカリ性単純温泉効能健康増進・病後回復期・美肌・腰痛・肩凝り・五十肩・冷え性(冷え症)・関節のこわばり・関節痛・神経痛・筋肉痛・切り傷・打
所在地〒970-1151福島県いわき市好間町下好間特徴城主は桓武平氏の一流である岩城氏で、関ヶ原の後は鳥居氏が入るが、平城が築かれて廃城となった。主郭は広い平場で腰郭に神社が建つが、遺構はほとんど残っていない。感想切岸は深い藪で、城内も不気味な雰囲気が漂う。
このブログは「平安時代ブログ」を標榜して始めたブログ。なので、外しては語れない人のひとりが「桓武天皇」。「鳴くよウグイス平安京」794年「平安京遷都」から、平安時代が始まるわけですからねー。桓武天皇が即位するに至るまでの長く険しい道について話は、別の日に譲るとして。今日は桓武天皇の後裔について、語ってみたいと思います。桓武天皇の後裔と言えば、なんといっても「桓武平氏」。高棟王(たかむねおう)と高望王(たかみおう。高見王と同一?)の兄弟が、天長2年
岩城氏は桓武平氏の国香を祖とし、平安時代末に陸奥国岩城郡で起こった氏族で、豊臣政権下では岩城12万石の大名となった。墓所はいわき市平下荒川諏訪下の龍門寺にあり11基の宝篋印塔が残るが、一列に並べられて窮屈そうだった。その後の岩城氏は、関ヶ原の戦いに参陣せず改易となるが、大阪の陣の後に出羽亀田2万石の藩主となって明治まで続き、出羽亀田の龍門寺には立派な墓所が残る。