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前回の記事にも書きましたが書こう書こうとずっと思ってて、延び延びになっていたことがあります。それが慶応2年の、近藤らが再西下した時の近藤の帰京日です。(慶応元年11月に長州尋問使に随行して、近藤勇らが西下。翌年1月に再び長州処分通達使に随行する形で、広島へ。その時の帰京した日、ということになります)一般には近藤の帰京日は、3月12日と認識されています。が、実は4月14日だったらしい。(個人的には4月12日~14日の間と思っていますが、これは追々)「ちょうど150年前の本
慶応三年(一八六七)十月十四日将軍徳川慶喜は土佐藩の勧めにより大政奉還を朝廷に申し出て翌日勅許された。大政奉還に反対の立場の会津藩・桑名藩の中にその決定に反発する勢力がいた。そこで大政奉還の関係者である坂本龍馬がターゲットになったと考えられる。
東海道、旧・縄生村(現・朝日町)の一里塚跡を過ぎ、暫く歩く。↓↓↓やがて、右手に『浄泉坊』という寺院が。↓↓↓浄土真宗本願寺派。門の奥には背の高い鐘楼が見える。↓↓↓桑名藩主松平家の奥方の菩提寺だった事も有り、山門や屋根瓦には三ツ葉葵の紋が入っているので、参勤交代でここを通る大名は、門前で籠から降りて一礼していたとか。↓↓↓先を急ぐ我々は、ここから遥拝!↓↓↓新版ちゃんと歩ける東海道五十三次東+姫街道楽天市場1,760円${EVENT_LABEL_01_
桑名市博物館へ企画展「松平定信と江戸文化」展を観に行く。開館時刻を30分早く間違えていて、博物館の東に「内堀公園」があるため、⛲公園のベンチで少し休憩してから博物館開館時刻に入館した。松平定信は放送中のNHK大河ドラマ『べらぼう』でも寺田心さんの配役で子供時代から登場しているが、御三卿田安宗武の子で、陸奥白河藩主の久松松平家に養嗣子に入った。定信が継いだ久松松平家は、徳川家康の母親の於大の方が再嫁して産んだ久松家の男児から始まる大名家で、於大の方の末子の定勝が大大名に
第二次東海道から東山道と北陸道の旅路、再開。2024年内に終わらせる予定が1回分ずれてしもうたわ。こちらがリアルタイム記。『実刻旅記・伊勢国~尾張国』一日遅くなってしまったがリアルタイム?旅行記六日目。本日は三重県。桑名城聞いた通り石垣はほぼ取り壊されていた…時間が余ったので急遽予定変更名古屋市へ戻り熱…ameblo.jp遂に最終日、本日は愛知県から三重県まで。名古屋市中心部から小一時間で着いてしまうんですね。一路、桑名城址まで。三之丸御殿跡ですが、生垣が看板すらも隠す
「伊勢参宮道(旧東海道)」は、先に進みます。伊勢街道(旧東海道)は、安永立場に突き当たります。写真は振り返って見たところです。「すし清」や料理旅館「玉喜」は当時の立場の面影を残すものでしょうか。街道は、「町屋川」に突き当たります。そこに「安永立場」がありました。町屋川の船運や街道を旅する人々を相手とする茶屋などで賑わったところです。「安永」という地名は、天武天皇の御言葉に由来するとか。伊勢神宮常夜灯が建てられています。文政元年(1818)東海道の道しるべとして、
伊勢参宮道(旧東海道)を進みます。浄土宗のお寺「十念寺」を訪ねます。このお寺は天平宝字元年(757)行基によって創建されたと伝えます。当初は三重郡菰野町にあったようですが、その後各地を点々とし、現在地に移ったのは慶長年間(1596~1615)のことでした。「森陳明(もりつらあき)の墓があります。幕末の桑名藩士・森常吉のことです。戊辰戦争時の桑名藩の騒動については、先に桑名城の記事の中で書きました。江戸上野戦争に参戦後、徹底抗戦派の藩主松平定敬を護
2024年10月18日に奥山景布子「流転の中将」を読了しましたフォローしているブロガーさんが紹介されていて、読んでみたいと買っていた本です。幕末だからと手に取ったところ、冒頭から北海道で見た開陽丸が出てくるし、北陸方面の旅行で行った地域もたくさん出てくるし、このタイミングにご縁を感じる。この本より前に刊行された「葵の残葉」も読んでみたい幕末の幕府側と言えば、グループなら新撰組、白虎隊、彰義隊、個人なら徳川慶喜、松平容保、土方歳三。桑名藩のことは知っているし、藩主が容保の弟とも知っていた
人間が生々流転するように,骨董品もその持ち主を変えながら,時の流れの中を生き抜いている。しかし,運不運は人ばかりでなく骨董品にもある。中には,戦火や災害で消えしまったのも多い。また持ち主の管理が悪くて毀損してしまったものもあった。現在,『金山城伊達・相馬鉄砲館』で所蔵・展示している桑名藩の弾薬箱も,多くの人の手を経て,今は宮城県丸森町の金山城下で息づいている。桑名藩の弾薬箱(金山城伊達・相馬鉄砲館所蔵)この弾薬箱を製作させたのは,幕末の桑名藩主の松平定敬である。松平定敬は,闘志にあ
ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。歴史ランキングにほんブログ村いつも応援ありがとうございます。母成峠が突破されたことで、会津盆地に新政府軍が雪崩れ込みました。1868年8月22日、会津藩の前哨基地猪苗代城が落城します。同じころ北越戦争でも長岡藩敗北、援軍の会津軍と共に会津領に退くも、敵弾を受け負傷していた長岡藩執政河井継之助は会津領塩沢村(福島県只見町)で8月16日亡くなりました。実は北越戦線
昨夜は、柏崎駅前のホテルに宿泊しました。コンビニ弁当を食べた後駅周辺を徘徊しましたが、特段のものはなく、早々にホテルに戻りました。さて「柿崎」に戻りスタートです。歩いていると「旅館・扇谷(跡)」がありました。ここは「旅館・扇谷」に一夜の宿泊を断られた「親鸞」が、扇谷の軒下で風雪に耐えて「熱心に念仏を唱える」姿を見て、断った「扇谷の夫婦」が心打たれ、その後「熱心な信者」になったとする「渋々宿」の逸話を、残している所です。立ち寄りましたが、綺麗に清掃された気持ちの良い所でした。「旅
近鉄名古屋線益生(ますお)駅東側の住宅地にかかる小さな石橋、新福橋です。詳しい地図で見る路地にある上に小さい橋なので、初めからこの場所を目指してこないと見つけづらいと思う。小学校の一本東の通りというのが目印として分かりやすい。あと車をとめるのも難しい。ということでいきなり新福橋全景。この見た目だがちゃんと桑名市に管理されているらしく、Q地図様に載っている(というか私はそれで知った)。それによると延長2.7m、幅員1.8m、完成年はなんと明治26年と130年以上前!
桑名城(ネットから)今日は立見尚文(1845-1907)の命日。出生時の姓は町田、通称鑑三郎。ずっと前、小生が働いていた場所に、三重の桑名出身の子が、短期間、出入りしていた。立見尚文の桑名藩だね、と言ったら、キョトンとしていた。それ以後、もう、こういう話はしないことにした。さびしいですナァ
葵のしずく[奥山景布子]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}前作「葵の残葉」に登場する高須藩四兄弟の妻たちの物語です。冒頭に「尾張名古屋は城で持つ」の象徴、鯱鉾の物語があります。黄金の鯱鉾は、尾張藩の財政危機に際してはその身を削って助けていたとか…。そんな鯱鉾ですら懐かしむ最後の藩主(実際は二代前ですが)慶勝の正室と、弟茂栄の正室は姉妹。また、子福者と羨ましがられた四兄弟の父義建の側室たち。幕末に朝敵とされた会津藩桑名藩。明治の世になっても
葵の残葉[奥山景布子]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}栄華を誇ると、後継が絶えやすくなる気がします。子だくさんだった徳川家康、中興の祖吉宗。ですが幕末において徳川家の跡取り問題は複雑です。諸藩においても後継が絶えれば御家断絶。そんな中、男子が四人も育った枝葉の美濃高須藩。三万石の小藩ながら、その息子たちは御三家の後継になり、御三卿の後継になり、京都所司代、京都守護職を務め、激動の幕末に翻弄されていきます。水戸徳川家の七男慶喜に翻弄された
山上大神宮幸坂の上の神社です創立は古く天和二年(一六八二年)で鍛冶町に奉還神明社と呼ばれたこの神明社はかつて京都所司代を務めながら明治維新の激動の波に押し流されて箱館戦争に参加した桑名藩主松平定敬の御座所として使用されたところである十一万石藩主のプライドが榎本の指揮下に入ることを許さずわずかの家臣にかしずかれ明治二年(一八六九年)二十三歳の正月をここで迎えた桑名藩はいちはやく官軍に恭順したため家臣酒井孫八郎が箱館まで来て市中取締役の土方歳三の許可を得て定
みなさんは、自分の過去生について知りたいと思うことがありますか。しかし、「輪廻転生」があると言うのが大前提となります。ちょっと前にこんな話ををしたら、頭がおかしいか、どこかの宗教に傾倒しているのか?と言われたかもしれません。感染症の蔓延で、社会構造だけでなく、人の思想までもが変わってきました。人は簡単に死んでしまいますが、そう簡単には死なせてもらえません。でも、繰り返し様々な人生を生きているとなれば、ちょっと自分の人生の考え方も変わります。その始まりは
(写真:フォトAC)今日も38℃予報の上越です!猛暑祭りじゃ!!(もう半分開き直ってる)最近また時代小説ブームで毎晩読んでます。時代小説といえば舞台の半分は江戸。江戸の地名や名所を知っていると一層面白いですよね。私の場合は、「江戸切絵図」の専門書を買ってあるのでこちらで地名をチェック。さらに、「江戸名所図会」で名所をチェックします。ご自宅にない方も、国会図書館のホームページ「江戸切絵図」で検索可能です。江戸切絵図から探す:江戸切絵図一覧|錦絵でたのしむ江戸の名
流転の中将[奥山景布子]楽天市場1,980円幕末において徳川幕府と大名家の関係は微妙なものがありました。徳川幕府の15代の将軍が、途中から御三家御三卿からのものになっているのと同様に、各大名家においても養子が入り乱れている。世継ぎに恵まれない大名家もあっただろうが、養子によって兄弟それぞれが大名となっているところもある。本作の主人公は、松平容保の弟。容保だけでも複雑なドラマがあるのにその兄弟までも、それぞれの家名を背負ったドラマがあるのに驚きです。将軍家と血縁
LeKyōtoGyoen,ilestleparcdupalaisimpérialdeKyoto.----------2022年11月11日撮影。蛤御門より二つ南に位置する「下立売御門」(しもだちうりごもん)。蛤御門の北に位置するのが中立売御門ですが、上立売御門という門はないです。昔はあったのかな?ないのが不思議。中立売御門から京都東西の通り「中立売通」という通りが伸びておりまして、昔はこの通りで店舗のない立ち売りが多かったことからその名前がついているそうです。
芭蕉の門弟・服部土芳を供養菩提寺の伊賀・西蓮寺で法要-中日新聞Web中日新聞Web亡くなる四年前に自ら墓を建てたとされ、一九六〇年に土に埋もれた墓碑が寺の墓地で発見された。法要は芭蕉翁顕彰会が主催する。この日は西蓮寺の山本純裕住職...吉岡秀隆が再び金田一耕助演じる「犬神家の一族」今春放送松子役は大竹しのぶ-シネマカフェシネマカフェ...まで幾度となく映像化されてきた「犬神家の一族」が、「獄門島」、「悪魔が来りて笛を吹く」、「八つ墓村」に続くNHK版金田一シリーズ
桑名市の古刹東海山照源寺は桑名藩松平家の菩提寺である。この時期、この寺の境内の楓の紅葉は素晴らしい。この寺には桜の木もあって、この葉の紅葉も捨てがたい。
旗持城、聖ヶ鼻砦に行った後、帰りに寄ったのがこの2つの違和感ある削平された所。ここは桑名藩が飛地領として柏崎を治めていた時に起こった戊辰戦争(鯨波戦争)の頃に作られた砲台跡です。下の写真は撮り鉄ポイントから撮影。写真左に見えている歩道橋から行くことが出来ます。歩道橋から見るとこんな感じです。ここはシーズン時には海水浴場にもなっている場所で、砂浜から向かいます。流石にまだ寒いのでビーチサンダルでは行けません(笑)2つの砲台跡の間です。登ってみようと思ったのですが、流石に
浅草橋駅近く、とある住宅の前に立つ神社扇稲荷神社扇稲荷神社は、江戸時代桑名松平家の藩邸内(八丁堀の上屋敷、築地の下屋敷、どちらの屋敷神かは不明)に屋敷神として祀られていたそうです明治4年(1871年)廃藩置県の際に藩邸用地を政府に返還し、新たに与えられた邸宅地がかつて肥前平戸藩松浦家の上屋敷の一角であったこの周辺だったそうですそこに屋敷神もここへ遷して祀ったそうですしかし、大正12年(1923年)の関東大震災で付近一帯は壊滅的被害を受け扇稲荷神社もご神体が焼失してしまいま
元治元年卯月二十京都の町を散策していたところ、伊勢屋町付近でだんだら羽織を着た新選組に誰何され、父上が叔父上と桑名藩士である旨を告げると、丁寧に頭を下げて、詫びを言い去って行った。新選組と聞くと、乱暴者の感じがしていたが、教養のある者もいるのだなぁと父が言うと、叔父が、新選組の総長と名乗っていたので、かなり上の立場の者じゃないかなと言い、桑名藩は親藩なので、丁寧な対応をしたのかもしれないと、自分は思った。京都の治安は彼らのような者たちが守っているのは、歯が
マズいぞ・・・久々に推しのことが好きすぎて、恋わずらいみたいになっちゃったぞ・・・昔の年末時代劇の「白虎隊」を見たら、とある登場人物にハートを奪われてしまった。毎日その人のことばかり考えています。誰のことかは内緒。さて。これも幕末の小説。作者の奥山景布子さんて記憶にあるなぁと思ったら、『時平の桜、菅公の梅』で読んでいました。これは大変面白かった!!平安ものなんだけど、藤原時平と菅原道真という、宮中のライバルを描いた作品でした。奥山景布子さんの小説
「箱館新選組和歌集」、もう少しお付き合い下さいませ私的にはけっこう興味深いのですが、飽きた方はスルーして下さいね二十首目石井貞行詠むれば月はさやけく澄しかと我身のうきはいつ晴ぬらむ名前解説には「桑名藩士指図役・石井勇次郎箱館新選組二十九石弁天台場で降伏」とあります。「箱館新選組」と書かれている人といない人の線引きは、なんなんだろう…(独り言です)「二十九石」というのは、安政元年に家督を継いで、御馬廻役(二十九石三人扶持)のことですね。それ
「箱館新選組和歌集」の続きです(長くなってすみません。記録用も兼ねているので、飽きた方はパスしてね)十五首目はこちら。木村重栄谷川の岸にもみつる蔦かづらそこにも秋の色は見へけり名前の下に()書きで書かれる解説には「桑名藩士・木村忠次郎二百石弁天台場で降伏」とあります。実は木村さん、藩主であった松平定敬さんと共に北越を転戦するのですが、途中で長瀬清蔵さんと共に使者に出て帰路を新政府軍に遮られてしまいます。旧幕府軍が仙台から蝦夷地に渡航したのち、仙
本日はよみうりカルチャー横浜の講座です。先日行ってきた、顕彰碑除幕式の時のことも少しお話できたらと思います。さて、日にちが空いてしまいましたが、島田魁が所持していた「箱館新選組和歌集」の続き七首目はこちら。佐久間政範山里は淋しきものをけさの秋このはの末の風のさわだつこの方にも解説は書かれていないのですが、弁天台場で降伏した新選組隊士で「佐久間」姓はふたり。佐久間顕助さんと佐久間銀次郎(銀太郎とも)さん。ただ十九首目に、「佐久間知成」の和歌