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昨夜は、柏崎駅前のホテルに宿泊しました。コンビニ弁当を食べた後駅周辺を徘徊しましたが、特段のものはなく、早々にホテルに戻りました。さて「柿崎」に戻りスタートです。歩いていると「旅館・扇谷(跡)」がありました。ここは「旅館・扇谷」に一夜の宿泊を断られた「親鸞」が、扇谷の軒下で風雪に耐えて「熱心に念仏を唱える」姿を見て、断った「扇谷の夫婦」が心打たれ、その後「熱心な信者」になったとする「渋々宿」の逸話を、残している所です。立ち寄りましたが、綺麗に清掃された気持ちの良い所でした。「旅
近鉄名古屋線益生(ますお)駅東側の住宅地にかかる小さな石橋、新福橋です。詳しい地図で見る路地にある上に小さい橋なので、初めからこの場所を目指してこないと見つけづらいと思う。小学校の一本東の通りというのが目印として分かりやすい。あと車をとめるのも難しい。ということでいきなり新福橋全景。この見た目だがちゃんと桑名市に管理されているらしく、Q地図様に載っている(というか私はそれで知った)。それによると延長2.7m、幅員1.8m、完成年はなんと明治26年と130年以上前!
桑名城(ネットから)今日は立見尚文(1845-1907)の命日。出生時の姓は町田、通称鑑三郎。ずっと前、小生が働いていた場所に、三重の桑名出身の子が、短期間、出入りしていた。立見尚文の桑名藩だね、と言ったら、キョトンとしていた。それ以後、もう、こういう話はしないことにした。さびしいですナァ
葵のしずく[奥山景布子]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}前作「葵の残葉」に登場する高須藩四兄弟の妻たちの物語です。冒頭に「尾張名古屋は城で持つ」の象徴、鯱鉾の物語があります。黄金の鯱鉾は、尾張藩の財政危機に際してはその身を削って助けていたとか…。そんな鯱鉾ですら懐かしむ最後の藩主(実際は二代前ですが)慶勝の正室と、弟茂栄の正室は姉妹。また、子福者と羨ましがられた四兄弟の父義建の側室たち。幕末に朝敵とされた会津藩桑名藩。明治の世になっても
葵の残葉[奥山景布子]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}栄華を誇ると、後継が絶えやすくなる気がします。子だくさんだった徳川家康、中興の祖吉宗。ですが幕末において徳川家の跡取り問題は複雑です。諸藩においても後継が絶えれば御家断絶。そんな中、男子が四人も育った枝葉の美濃高須藩。三万石の小藩ながら、その息子たちは御三家の後継になり、御三卿の後継になり、京都所司代、京都守護職を務め、激動の幕末に翻弄されていきます。水戸徳川家の七男慶喜に翻弄された
山上大神宮幸坂の上の神社です創立は古く天和二年(一六八二年)で鍛冶町に奉還神明社と呼ばれたこの神明社はかつて京都所司代を務めながら明治維新の激動の波に押し流されて箱館戦争に参加した桑名藩主松平定敬の御座所として使用されたところである十一万石藩主のプライドが榎本の指揮下に入ることを許さずわずかの家臣にかしずかれ明治二年(一八六九年)二十三歳の正月をここで迎えた桑名藩はいちはやく官軍に恭順したため家臣酒井孫八郎が箱館まで来て市中取締役の土方歳三の許可を得て定
みなさんは、自分の過去生について知りたいと思うことがありますか。しかし、「輪廻転生」があると言うのが大前提となります。ちょっと前にこんな話ををしたら、頭がおかしいか、どこかの宗教に傾倒しているのか?と言われたかもしれません。感染症の蔓延で、社会構造だけでなく、人の思想までもが変わってきました。人は簡単に死んでしまいますが、そう簡単には死なせてもらえません。でも、繰り返し様々な人生を生きているとなれば、ちょっと自分の人生の考え方も変わります。その始まりは
(写真:フォトAC)今日も38℃予報の上越です!猛暑祭りじゃ!!(もう半分開き直ってる)最近また時代小説ブームで毎晩読んでます。時代小説といえば舞台の半分は江戸。江戸の地名や名所を知っていると一層面白いですよね。私の場合は、「江戸切絵図」の専門書を買ってあるのでこちらで地名をチェック。さらに、「江戸名所図会」で名所をチェックします。ご自宅にない方も、国会図書館のホームページ「江戸切絵図」で検索可能です。江戸切絵図から探す:江戸切絵図一覧|錦絵でたのしむ江戸の名
流転の中将[奥山景布子]楽天市場1,980円幕末において徳川幕府と大名家の関係は微妙なものがありました。徳川幕府の15代の将軍が、途中から御三家御三卿からのものになっているのと同様に、各大名家においても養子が入り乱れている。世継ぎに恵まれない大名家もあっただろうが、養子によって兄弟それぞれが大名となっているところもある。本作の主人公は、松平容保の弟。容保だけでも複雑なドラマがあるのにその兄弟までも、それぞれの家名を背負ったドラマがあるのに驚きです。将軍家と血縁
LeKyōtoGyoen,ilestleparcdupalaisimpérialdeKyoto.----------2022年11月11日撮影。蛤御門より二つ南に位置する「下立売御門」(しもだちうりごもん)。蛤御門の北に位置するのが中立売御門ですが、上立売御門という門はないです。昔はあったのかな?ないのが不思議。中立売御門から京都東西の通り「中立売通」という通りが伸びておりまして、昔はこの通りで店舗のない立ち売りが多かったことからその名前がついているそうです。
芭蕉の門弟・服部土芳を供養菩提寺の伊賀・西蓮寺で法要-中日新聞Web中日新聞Web亡くなる四年前に自ら墓を建てたとされ、一九六〇年に土に埋もれた墓碑が寺の墓地で発見された。法要は芭蕉翁顕彰会が主催する。この日は西蓮寺の山本純裕住職...吉岡秀隆が再び金田一耕助演じる「犬神家の一族」今春放送松子役は大竹しのぶ-シネマカフェシネマカフェ...まで幾度となく映像化されてきた「犬神家の一族」が、「獄門島」、「悪魔が来りて笛を吹く」、「八つ墓村」に続くNHK版金田一シリーズ
桑名市の古刹東海山照源寺は桑名藩松平家の菩提寺である。この時期、この寺の境内の楓の紅葉は素晴らしい。この寺には桜の木もあって、この葉の紅葉も捨てがたい。
旗持城、聖ヶ鼻砦に行った後、帰りに寄ったのがこの2つの違和感ある削平された所。ここは桑名藩が飛地領として柏崎を治めていた時に起こった戊辰戦争(鯨波戦争)の頃に作られた砲台跡です。下の写真は撮り鉄ポイントから撮影。写真左に見えている歩道橋から行くことが出来ます。歩道橋から見るとこんな感じです。ここはシーズン時には海水浴場にもなっている場所で、砂浜から向かいます。流石にまだ寒いのでビーチサンダルでは行けません(笑)2つの砲台跡の間です。登ってみようと思ったのですが、流石に
浅草橋駅近く、とある住宅の前に立つ神社扇稲荷神社扇稲荷神社は、江戸時代桑名松平家の藩邸内(八丁堀の上屋敷、築地の下屋敷、どちらの屋敷神かは不明)に屋敷神として祀られていたそうです明治4年(1871年)廃藩置県の際に藩邸用地を政府に返還し、新たに与えられた邸宅地がかつて肥前平戸藩松浦家の上屋敷の一角であったこの周辺だったそうですそこに屋敷神もここへ遷して祀ったそうですしかし、大正12年(1923年)の関東大震災で付近一帯は壊滅的被害を受け扇稲荷神社もご神体が焼失してしまいま
元治元年卯月二十京都の町を散策していたところ、伊勢屋町付近でだんだら羽織を着た新選組に誰何され、父上が叔父上と桑名藩士である旨を告げると、丁寧に頭を下げて、詫びを言い去って行った。新選組と聞くと、乱暴者の感じがしていたが、教養のある者もいるのだなぁと父が言うと、叔父が、新選組の総長と名乗っていたので、かなり上の立場の者じゃないかなと言い、桑名藩は親藩なので、丁寧な対応をしたのかもしれないと、自分は思った。京都の治安は彼らのような者たちが守っているのは、歯が
マズいぞ・・・久々に推しのことが好きすぎて、恋わずらいみたいになっちゃったぞ・・・昔の年末時代劇の「白虎隊」を見たら、とある登場人物にハートを奪われてしまった。毎日その人のことばかり考えています。誰のことかは内緒。さて。これも幕末の小説。作者の奥山景布子さんて記憶にあるなぁと思ったら、『時平の桜、菅公の梅』で読んでいました。これは大変面白かった!!平安ものなんだけど、藤原時平と菅原道真という、宮中のライバルを描いた作品でした。奥山景布子さんの小説
「箱館新選組和歌集」、もう少しお付き合い下さいませ私的にはけっこう興味深いのですが、飽きた方はスルーして下さいね二十首目石井貞行詠むれば月はさやけく澄しかと我身のうきはいつ晴ぬらむ名前解説には「桑名藩士指図役・石井勇次郎箱館新選組二十九石弁天台場で降伏」とあります。「箱館新選組」と書かれている人といない人の線引きは、なんなんだろう…(独り言です)「二十九石」というのは、安政元年に家督を継いで、御馬廻役(二十九石三人扶持)のことですね。それ
「箱館新選組和歌集」の続きです(長くなってすみません。記録用も兼ねているので、飽きた方はパスしてね)十五首目はこちら。木村重栄谷川の岸にもみつる蔦かづらそこにも秋の色は見へけり名前の下に()書きで書かれる解説には「桑名藩士・木村忠次郎二百石弁天台場で降伏」とあります。実は木村さん、藩主であった松平定敬さんと共に北越を転戦するのですが、途中で長瀬清蔵さんと共に使者に出て帰路を新政府軍に遮られてしまいます。旧幕府軍が仙台から蝦夷地に渡航したのち、仙
本日はよみうりカルチャー横浜の講座です。先日行ってきた、顕彰碑除幕式の時のことも少しお話できたらと思います。さて、日にちが空いてしまいましたが、島田魁が所持していた「箱館新選組和歌集」の続き七首目はこちら。佐久間政範山里は淋しきものをけさの秋このはの末の風のさわだつこの方にも解説は書かれていないのですが、弁天台場で降伏した新選組隊士で「佐久間」姓はふたり。佐久間顕助さんと佐久間銀次郎(銀太郎とも)さん。ただ十九首目に、「佐久間知成」の和歌
昨日の土曜日。久しぶりに半日の都内史跡巡りと、少人数オフ会を楽しみました。(コロナ対策を厳重にしながらね!)お会いいたしました皆さま、ありがとうございましたさて本題。「箱館新選組和歌集」の続き先日の「藤武興」に、コメントを頂きましたそのことについては後日、他の句の時にまたご紹介しますね。五首目に書かれているのが、森さん。森陳明仰見む常盤の山の松ひと木はなや紅葉にあらそわぬいろ言うまでもありませんが、「陳明」は諱。通称は森弥一左
「箱館新選組和歌集」ってご存知でしょうか島田魁の所持品のひとつで、弁天台場で降伏した人たちが詠んだと思われる和歌三十二首が収められています。一番有名なのは、巻頭の土方歳三の名とともに書かれる和歌でしょう。これはとある講座で使用したパワーポイント画像の1枚。この他にも土方の辞世と言われているものはいくつかありますが霊山歴史館では、これが辞世(絶句)との見解を示しています。でも、私はこれが辞世とは思えない。もちろんはっきりと断言はできないものではありますけれど特に「亡くなる前
『鳥羽伏見の戦い―幕府の命運を決した四日間』野口武彦中公新書[内容](「BOOK」データベースから引用)「歴史にイフはない」なんて誰が言ったのか―幕府の命運を決した慶応四年(一八六八)一月三日から六日にかけての四日間の戦いは、さまざまな偶然に満ちている。なぜ幕府歩兵隊の銃は装弾していなかったか、吹きつける北風は幕府軍にどう影響したのか、そして慶喜の判断はなぜ揺れ動いたのか―。誰もがその名を知っているけれど、詳しくは知らないこの戦いをドキュメンタリータッチでたどる。
九華公園となって居ます。
とてもエリートな一族なのですね。その時代、時代に貢献した方々。鶴田さんの五代前のご先祖さま、桑名藩士で箱館新選組、森弥一左衛門陳明(もりやいちざえもんつらあき)新選組大人名事典・下巻(新人物往来社・2001年)に一番詳しいです。県立図書館、国会図書館を利用しましょう。写真が初公開というのは私の勘違いですでに各新選組本に掲載されています。失礼しました。ガラス版は初公開と思われます。よくぞ保存していただきました。あと、桑名の十念寺の墓所や弥一左衛門を描いた絵はあまり
昨日(6月29日)放送された「ファミリーヒストリー鶴田真由」を見ました。先祖が新選組ということで非常に楽しみにしていました。・・・が、鶴田さんの第一声がこれ(笑)で、まずは父方鶴田家のルーツから始まりましたが、明治3年に豊後佐伯藩士だったご先祖(※)が「何か見てはいけないものを見つけてしまったために毒殺される」という、いきなり衝撃的な話。※.厳密に言うとご先祖の兄と目される人物。その後、ご先祖は同じ大分県の別府市に移り住んで網元となりますが、雇っていた網子の中に元西鉄ライオンズの鉄腕稲
昨夜は好きな番組「ファミリーヒストリー」でした。登場したのは鶴田真由さん。若い印象だったけど、もう50歳なんですねぇ。鶴田真由さんのご両親のヒストリーは、あまりに次々とドラマがあって。何がどうだったか覚えてられないくらい。とにかくすごい歴史があったんやなぁ。父方の鶴田という苗字は、元は違う苗字だったりするし。母方の森という苗字は、新選組の一員として切腹したご先祖がいて、名乗れなくなって、違う苗字になったりするし。どっちも幕末~明治の内戦のせいで
NHK「ファミリーヒストリー」見ました。予告編で鶴田真由さんのご先祖さまが桑名藩士で新選組に加入したというのであの人だ!とすでに判明していますが放送までネタバレはいたしません私は久々に「桑名藩戊辰戦記/郡義武」をめくります。いやぁ、楽しみです(*^^*)
人間が生々流転するように,骨董品もその持ち主を変えながら,時の流れの中を生き抜いている。しかし,運不運は人ばかりでなく骨董品にもある。中には,戦火や災害で消えしまったのも多い。また持ち主の管理が悪くて毀損してしまったものもあっただろう。昨日お話しした桑名藩の弾薬箱も,多くの人の手を経て,今は私の手元で息づいている。この弾薬箱を製作させたのは,幕末の桑名藩主の松平定敬であった。松平定敬は,大名としては少し変わった男で,元治元年(1864年)に京都所司代に任命された頃,髪を総髪にし、洋装で
「伊達道具」という言葉をご存じたろうか。伊達道具とは,華美をつくした立派な道具とか、見栄や外見を飾るために身につけた学問や技芸などを言う。例えば伊達メガネなどは,一番わかりやすい例だ。バカ娘が,何を間違えたか学習院や聖心のようなお嬢様学校に合格したりすると,親戚連中が「いい花嫁道具ですね。」などと心にもないことを口にする。これも伊達道具と言って良いだろう。江戸時代には,大名や上級武士が,御行列の時に持ち歩いた華美な道具や武具を伊達道具と呼んでいた。天明8年に書かれた『東遊雑記』には,