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2023年7月7日から『北から南へ「天守」シリーズ』をスタートさせ、初回の「プロローグ」では「天守」についてのエピソード等をお話をしました。『<北から南へ「天守」シリーズ>プロローグ』本日から、『北から南へ「天守」シリーズ』をお届けしようと思います。まずは「プロローグ」から。「天守」については、3年ほど前に、現存、復元、復興、模擬をグルー…ameblo.jpそして2回目以降は、具体的に「天守(御三階櫓含む)」があるお城を、北から順次、現存・復元・復興・模擬の「天守(御三階櫓含む)
福井県坂井市丸岡町にそびえる丸岡城今回初めての訪問です。1575年織田信長が越前の一向一揆を平定するため大軍を派遣。この勝利の恩賞として柴田勝家に越前の国を与え、北ノ庄(今の福井市)に築城を命じます。勝家の甥、勝豊により丸岡に移り築城。これが現在の丸岡城です。その後、安井、青山、今村、本多、有馬家の居城を経て明治維新に。現在は本丸と天守と僅かに石垣を残し公園となっています。昔の城郭は五角形の広い濠を有し外郭に侍屋敷を配置し、さらに河川を利用した外堀を設け城下町を形成してい
丸岡城は🏯約400本のソメイヨシノが咲き誇る桜の名所🌸日本のさくら名所100選に認定されています戦国時代の天正4年(1576)に柴田勝家の甥勝豊によって築かれました丸岡城を支える石垣は野づら積みという古い方式ですき間が多く粗雑な印象ながら排水がよく大雨に崩れる心配がないといわれています瓦は笏谷石という地元の石を使った石瓦です今年は長期間桜を楽しめましたね桜吹雪の中全国の桜さんに心から感謝です
快晴の福井。福井駅前から京福バスに乗ってGo!福井の近くの山にもそんなに積雪はなかった。福井の大河、九頭竜川。福井駅から50分。やって来たのは丸岡城。現存天守十二城の一つ。北陸では唯一の現存天守。明治の廃藩置県で藩が消滅したら取り壊された天守閣。維持するにも金がかかるからね。だから保存されてるのは奇跡。最初の城主は柴田勝家の甥の柴田勝豊。その後は城主は度々替わって、本多氏が4代、有馬氏が7代治めた。日本海も見える眺め。高いビルとかないからねー。海の向こうの山々は東尋
全国に12ある現存天守。そのうちいままで訪れた城を数えてみると、、彦根城、犬山城、姫路城、備中松山城・・・ぬぁにぃたったの4つぅ城好きを公言していながら、少なすぎ&寂しすぎるこのペースでは生きてるうちに12城全制覇など夢のまた夢。ゆーわけで、企てた。福井日帰り旅を。↓九頭竜川サンダーバード車内でも、気を抜かない。有名な九頭竜川(くずりゅうがわ)を車窓から。降りてからこの川を見る予定は、ないので。川フェチ、出たなちなみに、「へずまりゅう氏」とは関係無い。↓恐竜博士バスの時間に
《丸岡城》[読み方]まるおかじょう[別名称]霞ヶ城[所在地]福井県[城分類]平山城[築城主]柴田勝豊[築城年]天正4年(1576年)[城を観る](お静慰霊碑)(御城印一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ秋限定版(令和二年十一月))(御城印国重要文化財丸岡城秋限定(令和二年十一月))(天守)(天守(2020年))(天守からの景色)(天守の階段)(天守の階段を観る)[YouTube](【城を観る+】《丸岡城》2020〜日本100名城!丸岡城を観る〜)
【問題】柴田勝豊の家臣・山路正国の通称として知られるものは、次のうちどれか?【選択肢】将監団蔵与三陳内【正解】将監【解説】山路正国は、伊勢神戸氏の家臣の子として生まれ、同氏が織田信長に降伏した際にはそれに従い、柴田勝家、ついで勝豊に仕えた。将監(しょうげん)の通称で知られる。
本日は北陸城巡りのラスト。丸岡城⇒福井城⇒北ノ庄城⇒越前大野城⇒一乗谷城の順に5城巡る予定です。朝一からトラブル発生です小松駅から特急サンダーバード4号に乗車し芦原温泉駅に出て、そこから京福バスで丸岡城を目指す予定でした。しかし特急サンダーバード4号が大雨の影響で運休いろいろ悩んで、次のサンダーバードに乗車し福井駅まで出て、そこから京福バスで丸岡城に向かう経路に変更しました。バス内で京福バスの休日フリーきっぷを購入。普段も1,000円とお得なのですが
丸岡城別名霞ヶ城築城:天正四年(1576年)築城者:柴田勝豊柴田勝家の甥勝豊が築いたとされ、天守は現存する最古のものと言われる。30分間無料の駐車場に停めて、速攻のお城巡りお城の入口脇に霞城八幡神社丸岡城天守入口で御城印だけ頂きました。
丸岡城重要文化財です現存天守閣では最古の建築様式を持つ平山城です戦国時代の天正4年(1576)一向一揆の備えとして織田信長の命により柴田勝家が甥の勝豊に築かせました丸岡城を支える石垣は”野づら積み”という古い方式ですき間が多く粗雑な印象ながら排水がよく大雨に崩れる心配がないといわれています春満開の桜の中に浮かぶ姿は幻想的でひときわ美しいお城なので丸岡城は別名「霞ヶ城」と呼ばれています福
北陸、福井県にある現存12天守のひとつ「丸岡城」に行ってきました。6城目の現存12天守です。丸岡城は、柴田勝家の甥:柴田勝豊によって築城されました。現在の姿は、本多成重が城主の時代に作られたと考えられているそうです。『柴田勝家(しばたかついえ)』柴田勝家生没年(1522?~1583)享年61歳?「鬼柴田」と呼ばれた織田信長家臣団の中で最も勇猛な武将。織田信長の父、信秀に仕え、信長と信勝の家督争いで…ameblo.jp真夏の暑い時期、晴れ渡る青空が丸岡城を引き立てていま
「お城」の「天守台シリーズ」第39弾は、「長浜城」です。現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いて
「お城」の「天守台シリーズ」第27弾は、「丸岡城」です。重文「丸岡城天守と天守台」現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の
しだれ桜を見た後は、丸岡城へ。竹田から丸岡城までの距離も遠くないです。30分も走ったか、走っていないかくらい。丸岡城は、初めて。行く前は小さいお城の印象でしたが、遠くからも見えました。そばで見ると、大きくはないけど風格があります。急な階段をロープにつかまって上り、天守へ。見晴らしは、最高です。丸岡城は、最古のお城と言われていましたが、2019年の調査でくつがえり、1620年、江戸時代前期の建築と言われています。でも石垣は、信長に仕えた柴田勝家(しばたかつい
こんばんはー♪♪v(⌒o⌒)v♪♪めっちゃ寒いね。1年前に札幌に行ったけど、体感的には今の関西の方が寒いんとちゃうやろか?今日が仕事始めでした。ほんまやったら5日やったんやけど、あれの影響で変更されました。取引先はすでに始まってるし、おかげで緊急の仕事がいっぱい飛び込んできたのでバタバタでした。明日もバタバタになるやろね。正月休みが長くなったので、ヤフオクで青春18きっぷを落札しました。ということで、昨日はJRを乗り継いで北陸へ。自宅の最寄駅から、途
現存12天守を巡る旅も、先月の『自転車遍路🚴』中に讃岐『丸亀城』を攻略し、残るは『丸岡城』(福井県坂井市)と『備中松山城』(岡山県高梁市)の2城に。今回の富山~能登行きの帰路にて丸岡城の攻略が必定😅です。ということで越前『丸岡城』へ1576年、柴田勝家の甥『柴田勝豊』の築城。2層3階建ての『望楼型天守🏯』『板張り』の建物が質実剛健。さらに『野面積み』の石垣が武骨で格好いいじゃないですか❗なんか柴田勝家を連想する😅よね。柱や梁には『手斧(ちょうな)』の跡が随所に・・・急角度⤴️の階
丸岡城は福井県坂井市にある小高い丘陵に築かれた平山城で、一向宗の残党が城を襲った際に、天守閣の横にある井戸から大蛇が現れて城に霞をかけて城を救ったという伝説によって霞ヶ城とも呼ばれています。この丸岡城は、1576年織田信長の筆頭家老で越前一帯を領していた柴田勝家の甥である勝豊により築城されました。天守は二層三階構造の現存12天守の一つで、最近、寛永年間(1624~44)に建造されたことが判明しました。1948年の福井大震災により天守閣が倒壊し、現在の丸岡城は
【北海道】北海道三十三観音霊場巡拝スタート北海道新聞(ブログ)巡拝のスタートは、隣町深川市にある第13番札所高野山真言寺。...三十三観音は、高野山(石狩山)真言寺・名誉住職・資延憲英僧正より再興し蘇りました。優雅に和歌詠み平安の世を再現富山・各願寺「ふちゅう曲水の宴」中日新聞水辺で和歌を詠む平安時代の遊びを再現する「ふちゅう曲水の宴(えん)」が十四日、富山市婦中町長沢の各願寺であった。桜が舞い散る中、来場者は平安に...金閣寺住職、ノートルダム寺院復興願う「
1576年に築城された現存最古の天守閣と宣伝されてきた丸岡城が、江戸時代前期の1620年代に建てられたことが、福井県坂井市の学術調査で3月までに判明した。年輪調査や放射性炭素や酸素同位体の測定で、天守閣に使われている木材の大半が寛永期の1620年代に伐採されたと鑑定された。国宝認定のための学術調査で2015年度に設けられた調査研究委員会(委員長・福井工大の吉田純一名誉教授)が3月26日に報告書を纏めた。朝倉氏や一向宗を滅ぼして越前入りした柴田勝家の甥に当たる柴田勝豊が築いた霞ヶ城が丸岡城と
丸岡城:出典:坂井市経緯:福井県坂井市は、丸岡城天守の創建が寛永年間・1624年以降と推定されることを明らかにした。国宝指定に向け、建築時期を特定する必要性から調査を行い、天守の多くの木材や構造上で重要な通し柱も天正期築城からの増改築ではなく、寛永年間新築の可能性が高いとした。寛永元年丸岡藩誕生時に天守造営が計画され、寛永年間に整備されたとする。ただ天守台が野面積みの石垣で、木材の一部伐採から慶長以前にも天守があった可能性もある。市は「当時の文献がほとんどないだけに、科学的
最近の調査で、福井県にある丸岡城が日本最古では?と噂されていましたが、違っていたとの報道がなされました。https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20190328/KT190327FTI090013000.phpもともと柴田勝家の甥、勝豊が1574年に築城し、紆余曲折を経て幕末まで残りましたが、廃藩置県の折に解体されたり、その後再建され国宝になったと思いきや福井地震で完全に倒壊する等、激しい運命を歩んできたお城です。今回の調査で日本最古
「有馬家」といえば、キリシタン大名とのイメージが沸く方は多いと思います。古くから島原半島で勢力を拡大していて、「有馬晴信」は貿易で富を築き、「大龍寺家」から独立して「豊臣秀吉」からは所領を安堵されました。関ケ原の戦いでは、中立を保ったことから本領を安堵されましたが、その後の幕府のキリシタンに対する圧政の中で、長崎奉行の暗殺計画を企てたとの罪で、「有馬晴信」は切腹を命じられ「有馬家」はお家断絶となりました。しかし、「有馬晴信」の嫡子「直純」の妻は、「徳川家康」の養女ということからお家再
福井県坂井市の越前丸岡城、その天守閣は現存最古らしく、その情報を知って見学を決めました。福井駅からはバスで約1時間くらいだったでしょうか。1日乗り放題のチケットはお得だと思います。電車で訪ねるとしても最寄駅からは結構離れてましたし。福田の歴史探訪は節約を第一にしていますから(笑)。丸岡バスターミナルからは徒歩で約15分くらいだったでしょうか。住宅街が建ち並び、ちょっと遠くに行くと一面に水を張った田園が広がります。天守閣をこの目で見る瞬間って本当にロマンチックなんで