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新月会90周年演奏会で演奏された多田武彦作曲の男声合唱組曲「富士山」について,指揮された広瀬先生はこう書かれた。「演奏にあたっては当然ながら楽譜に忠実に,を毎回心掛けますが,唯一の例外として4曲目『作品第拾捌』の冒頭だけは『福永陽一郎解釈』に依ることをご了承いただかなければなりません。初めてこの組曲がレコードに刻まれたとき,福永先生はなんとこの部分で楽譜のテンポ指定とかけ離れた演奏をし,それが非常に説得力のある解釈だったので,それ以降の指揮者に多大な影響を与えることになったのです。我が師
柳川の旅その2-交聲曲「海道東征」と男声合唱組曲「柳河風俗詩」のために-このブログは「柳川の旅-男声合唱組曲「柳河風俗詩」のために-」*の続きです。こちらを先にお読みください。*https://ameblo.jp/tonotono-57-oboegaki/entry-12771508710.html10月中旬に柳川を訪問した際,12月4日に柳川で交聲曲「海道東征」の演奏があることを知り,再訪し聴いてきた。この機会に前回より少し詳しく「柳河風俗詩」で描かれた場所を回っ
「恐ろしく音が取れない」。地元の男声合唱団で多田武彦の柳河風俗詩から「かきつばた」を練習した時の感想だ。多田武彦の作品は誤解を恐れずに言うと作曲者と学生が育て上げた。書いたのは多田さん本人だが曲にしていったのは学生合唱団だと言えるのではないか。ある意味で学生は作曲者よりも曲をよく知っているのだ。だから「多田節」と言われる節回しもほとんど初見で
柳川の旅-男声合唱組曲「柳河風俗詩」のために-白秋生家・記念館の自動販売機北原白秋のふるさと「柳河」は,昔から訪れてみたかった(現在は「柳川」だけど,「柳河」と書かないとしっくりこない)。白秋は昭和17年(1942年)11月2日に亡くなっているので,2022年は没後80周年。訪れる機会としてちょうどよい。コロナの第六波,第七波がほぼ連続してあり,なかなか機会がなかったけど10月中旬に行ってきた。季節も良いし,ちょうど全国旅行支援も始まり,ベストタイミング。明治18年(1885
多田武彦の「ミスマッチ」についてブログ「第70回東西四大学合唱演奏会の中止と男声合唱曲『雨』について」で,第1曲「雨の来る前」の歌詩「人は重い頭をして室にいる」の「室」を多田武彦は「しつ」と読ませていたが誰かが「へや」に変更し,それが後に楽譜にも反映された。変更した人は畑中良輔ではないかと推測した*。*https://ameblo.jp/tonotono-57-oboegaki/entry-12683902768.htmlこの件,慶應ワグネルOBの藤森数彦氏にご教示頂き,推
最高気温:33℃太陽ギラギラお布団を干しカーテンを洗い家事に勤しみました一息ついたとき北原白秋の詩に多田武彦が曲をつけた組曲『柳河風俗詩』のなかの『梅雨の晴れ間』を思い出しました鮮明に覚えているのは3番の歌詞だけ↓廻せ廻せ水ぐるま梅雨の晴れ間の一日をせめて楽しく浮かれよと廻り舞台も滑べるなり水を汲み出せ平土間の田舎芝居の菲畑こんな日にはせめて楽しく浮かれよですねolive
夜は熊谷ベーレンタール男声合唱団の指導。いよいよ年末の演奏会に向けて、新曲に取り掛かります。来週からは本練習の30分前から団員たちによる自主練で音取りの確認などを行うことになりました。ヤル気充分です。今日は新曲のほかに、これまで練習してきた組曲「柳河風俗詩」を全曲通しました。これから毎週一回は通すようにして、音を身体に染み込ませていきます。ところで、先週のリサイタルに来てくれた団員さんが、りひとバッグを購入して、早速活用してくれていました。「たくさん入るから便利ですよ」と、嬉しい感想も
熊谷ベーレンタール男声合唱団は、多田武彦の名作「柳河風俗詩」に取り組んでいます。来週末の熊谷ミュージックフェスティバルでは、その中から「かきつばた」と「梅雨の晴れ間」を歌います。「かきつばた」は楽譜の曲想標語に「さびしく」と書いてあります。良家のお嬢さん(Ongo)の手の香りに、男心に火を灯すも、すぐ消えて、かきつばたのように夜は萎れてしまう。萎れてしまうのは心なのか、それとも…そのまま三味線の音を聞きながら一晩泣き明かす。何とも「男」としての哀しみやら情けなさやら、本当にさびしい想いにな
夜は熊谷。ベーレンタール男声合唱団の指導。今日もみっちり練習しました。北原白秋はどんな想いで「柳河風俗詩」を書いたのか。柳河という川にどのような想いを馳せたのか…そんなことをみんなで考え、体感しながら歌っていきました。「かきつばた」は叙情的な曲ではありますが、そこで語られている言葉は、何ともまぁ下ネタ…。でもその侘しさがたまらなく男の哀愁を漂わせている作品でもあると思うのです。ーーーーーーーーーー実家に立ち寄りました。行きにも寄って夕食を母、妹、甥っ子と食べましたが、帰りにも寄っ
グリークラブアルバムの研究各曲編25.柳河作詩北原白秋作曲多田武彦多田武彦初期年譜関連部分のみ抜粋③組曲「柳河風俗詩」の出版ここから「柳河風俗詩」が出版された経緯を調べる。ビッグネームである多田も,昭和30年頃には一介のアマチュア作曲家であり,作品を演奏した団体も限られていた。知名度は全国的には皆無と言って良い。にもかかわらず,組曲「柳河風俗詩」の最初の出版は,昭和32年の「合唱文庫5」(全音楽譜出版社)と早い。清水脩の縁も考えられるけど,私は福永陽
グリークラブアルバムの研究各曲編25.柳河作詩北原白秋作曲多田武彦年譜の関連部分のみ再掲②「柳河」と組曲「柳河風俗詩」そしてついに「柳河」が作曲されるわけだが,中原中也の詩のいくつかに独唱曲をつけていた多田が,中原中也ではなく北原白秋の詩を選んだ理由は何だろうか?これについては,音楽之友社から楽譜「中原中也の詩から」(合唱名曲コレクションB16TTBB昭和43年8月30日初版)を出した際,多田はあとがきに「先輩の諸先生方と同じように,私も中也の詩に
グリークラブアルバムの研究各曲編25.柳河作詩北原白秋作曲多田武彦グリークラブアルバム日本語編のラストは,やはりこの曲。組曲「柳河風俗詩」の第一曲であり,多田武彦データベース*によれば「87年のご生涯で113作の組曲(うち95作が男声合唱組曲),単曲ベースのカウントで719曲の合唱曲を作曲」の第一曲でもある。個人的にも初めて聴いた多田武彦の曲だった。ビクターのLP**に吹き込まれた北村協一指揮の関西学院グリークラブの演奏は,合唱初心者の魂を引っこ抜いた。それ以来男
「柳河風俗詩」梅雨の晴れ間廻せ、廻せ、水ぐるま、けふの午から忠信が隈どり紅いしやつ面に足どりかろく、手もかろく狐六法踏みゆかむ花道の下、水ぐるま……廻せ、廻せ、水ぐるま、雨に濡れたる古むしろ、円天井のその屋根に、青い空透き、日の光七宝のごときらきらと、化粧部屋にも笑ふなり。廻せ、廻せ、水ぐるま、梅雨の晴れ間の一日を、せめて楽しく浮かれよと廻り舞台も滑るなり、水を汲み出せ、そのしたの葱の畑のたまり水。昼過ぎに、仕事に出かけようとしました
Ⅲ初期の合唱組曲①「月光とピエロ」に付けられた名称戦争中や戦後すぐの合唱活動の状況は,この項目のスコープから外れるので省略する。戦中のドキュメンタリーで,空襲やその後の瓦礫上の街や食糧難の話を見ると合唱どころではなかったように思うが,昭和19年頃まで演奏会も開催され,音楽教育が軍事活用できるという思いもあり案外盛んだったことと,戦後の回復も思ったより早いことを述べるに留める。昭和23年(1948年)に始まった全日本合唱コンクールで,「秋のピエロ」が課題曲に選ばれ,それを契
43年も前から歌っていて、今初めて「ノースカイヤ」を調べた。いや、調べたがみつけられなかったのかも。BANKOはみつけられたと思う。狐忠信は、今ならわかるが、当時は隈取するのだから歌舞伎と関係があるのか?としか想像しなかった。義経千本桜が観たくなった。中村座で亡き勘三郎で観たいのは、十五年以上前。http://www.tanosimu-dg.org/program/tanosimu009.pdf「男声合唱組曲「柳河風俗詩」作曲者多田武彦は、1930年(昭和5年)に大阪で生まれ、