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クラウンを路上駐車しました!何か見えます!石がいっぱいです!石です!石です!石です!石です!石です!石です!石です!遠山の庚申塔・板石塔婆·〒355-0226埼玉県比企郡嵐山町遠山石彫www.google.com遠山の庚申塔板石塔婆の地図です!遠山の庚申塔板石塔婆良い思い出になりました!!!!!
ちわーっす!スナメリー☆ジョーでーす(^^♪週末は台風襲来!のはずでしたが勢力弱まり低気圧に雨はまばらに降るものの外出できそうですとはいうものの天候不順なので渋谷界隈へ少し早い昼食は韓国料理でした街の喧騒から少し離れて國學院大學博物館へ博物館のYouTubeはたまに見てますが来館するのは初めて(写真可のところを撮らせてもらいました)國學院は神職の資格が取得できます考古学も有名です著名な先生方を多く輩出してますコレクションも半端ないで
創建時期は不明ですが境内に久喜市最古の建長板石塔婆(建長7年6月の銘)があり鎌倉時代にはすでに建立されていたと思われる古刹。真言宗智山派開光山遍照院山門本堂御本尊:不動明王新四国弘法大師埼東八十八箇所霊場第三十七番札所忍領三十三観音霊場第三十一番札所地蔵堂建長板石塔婆(建長七年)胎蔵界大日種子板碑宝篋印塔六地蔵尊境内の石佛弘法大師像(修行大師)興教大師像(覚鑁像)
平清盛の異母弟で一ノ谷の戦い(元暦元年[1184年])で岡部忠澄によって討取られた平忠度の供養塔がある浄土宗石流山八幡院清心寺は天文18年(1549年)に深谷上杉氏の宿老で皿沼城主の岡谷清英が萬誉玄仙和尚を招いて創建したお寺。山門境内鐘楼堂本堂御本尊:阿弥陀如来境内の石佛平忠度の供養塔(五輪塔)源平合戦の一ノ谷の闘いで平忠度を討取った源氏方の岡谷忠澄が平忠度の遺髪を貰い受けて自領に持帰り平忠度の菩提を弔う為、一番景色の良いこの地に供養塔を建てた。
全久院(ぜんきゅういん)曹洞宗・東方山全久院。本尊は、釈迦如来駐車場があります山門東方山江戸時代に松平丹後守康長によって創建された寺院とあります深谷市文化財に指定されている「善光寺式阿弥陀三尊像」を刻んだ板石塔婆南北朝時代の貴重な考古資料だそうです堂内に全久院は、深谷七福神・寿老人の寺でありますが、なんと境内に全七福神の石像が祀られていました寿老人像が一番大きかった御朱印は直書きで
真言宗豊山派の東光山大王寺別院は西寳珠花の寳蔵寺と合併した旧観音寺にあたります。境内本堂水盤不動堂不動堂のご本尊は大日如来と倶利伽羅竜王が描かれた板石塔婆年一回(3月28日)ご開帳されます。普段はこの様に見ることはできません。(南北朝時代の板碑)境内の石仏六地蔵尊大師堂大王寺(旧寳蔵寺)『東光山大王寺[春日部市]』真言宗豊山派の東光山大王寺は明治42年に塚崎の永福寺と宮前の地蔵院の併合によって誕生した西宝珠花の宝蔵寺に昭和17年に西親野井の観音寺に深輪の地福院を併合し
今朝、Eテレで朝5時から放送があったこころの時代歎異抄にであう無宗教からの扉「念仏とはなにか」小生には浄土真宗の「本願念仏」を理解するうえでとても心に響く放送でした。その中で、ここ関東地方で親鸞が布教し多くの信者を輩出したのですがその遺跡(痕跡)が関東に多く残っている事が放映。蓮田市にもその石碑があるとの事で、今日は女房殿と行ってきました。田んぼのど真ん中に小さな墓地群がありその中に南無阿弥陀仏と書かれた板石塔婆がそびえ立っていました。今から7
2019年12月23日の福島県郡山市歴史散策レポの続き。「西の内せせらぎこみち」から「郡山城跡」「郡山館跡土塁跡」を見学して、「郡山市役所旧庁舎」の前を通った後は、「如宝寺」に向かいました。西の内せせらぎこみち・郡山館跡土塁跡・郡山市役所旧庁舎のレポhttps://ameblo.jp/indyaki12/entry-12591844178.html「郡山市役所旧庁舎」の福島県郡山合同庁舎の前を通り過ぎ、一つ目の信号を左折すると、左手に「如宝寺」が見えて来ます。
竹橋から少し歩いて、将門塚におまいりしました。カステラくんたち以外にも訪れている人がたくさんおられました。立派な石碑は、板碑のようなデザインですが、戦後に改修されたもの。右のガラス張りのケースに入っているのが、元からあった石灯籠で、平将門の墓といわれています。いわゆる承平・天慶の乱の後半、天慶3年(940)に平将門は討たれてしまいます。その首級は京都に運ばれた後に飛び去って、この付近に至り、塚を築くことになった、というのが、将門の伝承です。鎌倉時代後半、徳治2年(130
12/21は埼玉県深谷市に1泊する用事があったので出掛け、午後から深谷市で七福神巡りをしました。最初に向かったのは深谷市にある東方山全久院。山門。六地蔵さま、子守地蔵さまなど。英霊供養塔。板石塔婆。聖観世音菩薩さま。御本堂。境内に七福神の石像がありました。1番大きな寿老人さま。他の七福神は寿老人さまより少し小さめです深谷七福神の御朱印を頂きました。
高坂駅からこども動物自然公園へ向かう道から足利基氏の館跡の看板に従い細い田舎道に入る。しかし、足利基氏の館跡は完全に見落とし弁天沼に着く。弁天沼と言うのだから弁天が祀られているのだろう。東屋の裏には庚申塔が立っていた。その先の墓地の中に大きな板石塔婆が立っている。エノキの大木。東松山市の名木になっている。ススキと祠真っすぐに山に向かう参道。両側には屋号を掲げた家が続く。橋の近くは仕事にかからるようなものが多く、突き当りは宿屋のようなものがあった。
一向寺(浄土宗)栃木県佐野市ここに板石塔婆が保管されています。板石搭婆文部省重要美術品指定昭和16年(1941年)4月9日昭和8年法律第43号重要美術品保管に関する件第2条の規定依り重要美術品に指定される。紫雲に乗った三尊の来迎図明治時代に当山の西方300メートル城北小学校近くの畑地より出土といわれ、秩父産の緑泥片岩で作られ、その絵柄が浄土の阿弥陀三尊来迎図であったことから当山に保管されてきたである。表面上部には阿弥陀如来を中心に観音、勢至両菩薩を配し
野原八幡神社横の庚申塔群右から3番目猿が烏帽子をかぶり、「青面金剛」という巻物を見せています。寛政12年(1800)造立。右から4番目天和2年(1682)造立330年も前のものですね。頭の上には、ヘビがとぐろをまいてた形跡があります。右から6番目、邪鬼の上に乗ってます。享保14年(1730)11月造立。庚申塔の歴史(wikiより)庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期頃からであ