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寺社No.御朱印No.6880八重籬神社(やえがき神社)岡山県高梁市備中高梁社寺めぐり1番2024年4月28日備中松山藩主板倉氏を祀る2024年4月28日大祭。社務所に人がいます。高梁市指定有形文化財高梁市指定重要文化財臥牛亭通常は、人気はありません。幕末の老中、板倉勝静。「青天を衝け」にも出ていました。永井秀樹熊田神社、家老の熊田恰(あたか)を祀る。
2022.12.26.備中松山城の城主で、備中松山藩最後に藩主となったのが板倉家でした。安正寺は、延享元(1744)年3月、7代勝澄公が藩主となった時、現在地に御霊堂を建立し、板倉家歴代の御位牌を祀り御仏殿としました。京都所司代に任じられた初代勝重、二代重宗を始め、最期の老中板倉勝静までの霊を祀っています。戊辰戦争の際には朝敵の立場をとなった備中松山藩と、朝廷側についた岡山藩との交渉が安正寺にて行われました。戊辰戦争の時、備中松山藩は1869年に降伏、藩主の板倉勝静は禁固刑
こんにちは、皆さん。勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。【出陣中止表明の余波】前回の続きです。慶応二年8月に入り、小倉城陥落の報せが届くと一橋慶喜は前日まで「長州大討込」と自ら称していた出陣を突然中止しました。幕府側の重要拠点が失われたことで勝算の見込みが立たなくなったからです。突然の中止命令に周囲で大混乱が生じました。幕府内は無論のこと、とりわけ会津藩では慶
こんにちは、皆さん。勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。【将軍家茂の死と継統問題】徳川幕府、最後の将軍が徳川慶喜であることは広く知られており、皆さんもよくご承知のことでしょう。ですが慶喜が将軍に就任するに際し何の支障もなく事が運んだのかというと全くそうではありませんでした。関与する人たちの思惑がそれぞれ違っていたこともありますが、すんなりと決まらなかった最大の理由
江戸川区「一色」の地名の由来-金井たかし(カナイタカシ)-選挙ドットコム選挙ドットコムもともと一色とは荘園制度からきたもので全国的にこの地名も多く又その地名を負うた一色氏が多いわけである。近くに武蔵一色氏があり、葛飾郡幸手宿に一色城...ヨーロッパの歴史ある宿泊先を19日間かけて探検する「Airbnb歴史文化ツアー」開催!時事ドットコム・壮大な列車の旅に出発する鉄道ファンの6名1組は、19日間にわたり、イギリスの邸宅、フランスの城、スペインの荘園、イタリアのヴィラ、ドイツ
こんにちは、皆さん。勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。【果たせなかった任務】前回の続きです。勝は当初、老中板倉勝静(かつきよ)から命じられた会津と薩摩との仲裁役の任務を果たしたものと考えていました。ですが双方とも自分の説得に応じるだろうという勝の目論見は見事に外れました。後になって勝は自身の失敗を認めざるを得なくなったことについては前回お伝えしました。軍
こんにちは、皆さん。勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。【勝、薩摩と会津の調停を命じられる】前回の続きです。軍艦奉行再任により大坂出張を命じられた勝が、大坂城で老中板倉勝静(かつきよ)と対面した日(慶応二年6月22日)よりも前に幕長戦争は始まっていました(6月7日開戦)。この頃には幕府方敗報の知らせが板倉の許にしきりに届いていました。同月14日、先鋒軍の彦根
こんにちは、皆さん。勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。【新たな章の始まり】さて今回から章が改まります。前章では主に薩長盟約が成立するまでの経緯を取り上げたため勝の弟子である坂本龍馬の行動を中心に話を進めました。師の勝がほとんど登場していませんでした。弟子の活躍で盟約が成立したので、長い休暇中(?)の勝にここからは登場してもらうことにしましょう。新たな章にお
新たな年を迎えました。皆様、あけましておめでとうございます。昨年も当ブログをお読みいただき、真にありがとうございました。この2年間、コロナ禍の毎日が続き憂鬱な気分で過ごすことが多かった多かったことと思います。ですが、そろそろ終焉が見えてきても良さそうな頃です。感染力の強い新たなウィルスを抑え込むには今少し時間がかかるのかもしれませんが、どんなことにも必ず終わりがあると信じて今日という一日に注力してまいりましょう。マスクやアルコール消毒は今後も欠かせないでしょうが、今では日常の生活に定着
こんにちは、皆さん。勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。【勝・一翁の登用を画策する松平春嶽】まず登場する主要人物が、この時期(慶応元年12月から翌二年1月にかけて)、どこにいたのかを整理しておきましょう。勝は江戸の自邸で閑職の身にあり、隠居中であった大久保一翁は急な召出しにより大坂に。二人の同志松平春嶽は国許の越前福井に。長州再征のため江戸を発した将軍家茂と幕
こんにちは、皆さん。勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。【長州問題に苦慮する幕府】前回の続きです。大久保一翁の許に三度目の出仕命令が届いたのは、12月1日(慶応元年-1865年)でした。最初の呼び出しから三か月も経った同月12日、一翁は江戸を発ちました。大坂到着は22日。呼び出しと見合わせを二度も食らった一翁が大坂から呼ばれたのは、この時期の政局と大いに
草彅剛大河「青天を衝け」で見せる「能面の慶喜」語る朝日新聞デジタル渋沢栄一の生涯を描く、NHKの大河ドラマ「青天を衝(つ)け」。その渋沢に多大な影響を与えた一人が、江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜だ。表情が...米教科書「高句麗は中国の一部」、韓国団体が抗議も出版社は「無反応」―中国メディアRecordChina記事は、韓国・聯合ニュースの31日付報道を引用。米国の出版社マックグロー・ヒルが出版した高校生向け大学教育先修プログラム(AP)の世界史...4月6日は「しろの日
1889年4月6日に幕末の備中松山藩主や江戸幕府の老中を務め、山田方谷を抜擢した板倉勝静(いたくらかつきよ)が亡くなりました。板倉勝静は1823年に陸奥国白河藩主の松平定永の八男として生まれました。備中松山藩の第6代藩主の板倉勝職の婿養子となり、1849年に養父の隠居にともない家督を継いぎます。農民出身の陽明学者山田方谷を抜擢し、藩校の有終館の学頭としました。山田方谷の助言のもと藩政改革を行って財政を改善し、殖産興業で藩の負債をなくしただけでなく余財をなし、軍政改革にも着手することがで
こんにちは、皆さん。勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。コロナウィルス感染拡大防止のための外出自粛により世の中の風景は一変しました。こんな時には人の様々な姿が見えてきます。目の前の命を救うために身の危険を顧みず懸命に見えない菌と戦っている方々や社会を支えるための仕事を人知れず黙々と行う人たちがいます。その一方で、外出自粛を求められていることを知りながらも自分の持て余した時間を
文久3年3月、清河八郎の暗殺未遂があったとか…この時の記事は「追記」にもありますように、「新選組顛末記」をベースにして書いたものです。再三再四書いていることですが、「顛末記」の元々は新八っちゃんの晩年に小樽新聞に連載された、記者の聞き書きですね。「物語的要素」が強く、読む分には楽しいのですが…「史料」として使用する(すべて史実というのではない)のであれば、やはり「浪士文久報国記事」です。御老中板倉伊賀守殿、清川八郎暗殺いたせとの内意、取調役幷に芹沢鴨組一統え御達し有之程に
意表が意表だけに主戦派が圧倒的な中、計らずも岩倉卿の策略?で、朝敵の汚名を着せられたままでの戦を良しとされなかったか「あの時、肥後守と越中守・・・・・・、すなわち会桑の首脳を、そっと何も言わずにお連れ出しになりましたのは誠に・・・・・・」と問われた慶喜公は、「あれは残しておけば始まる」昔夢会筆記(編者は渋沢栄一)にある容保公と定敬(さだあき)公を同行させた理由について問われた時の、それが慶喜公の答えだという確かにその後の展開は予見の通り意表とするなら、四番打者がスクイズ
こんにちは、皆さん。勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。9月に入っても厳しい残暑が続いています。夏バテが出てくる時期ですね。皆様、体調にお氣をつけください。【対立する慶喜と春嶽】さて前回ご紹介したように、大久保忠寛の「大開国論」は松平春嶽、山内容堂らの一部の開明的な考えの持ち主からは高く支持されました。ですが老中らは全くの空論としか見ておらず、幕府内には忠寛の「
こんにちは、皆さん。歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。【江戸に入った勅使一行と久光】京を発った島津久光と勅使大原重徳ら一行の行列は文久二年(1862年)6月7日、江戸に到着しました。日ならずして大原は江戸城に上がり、将軍家茂に勅書を渡しました。それに示されていたのは三ヵ条の要求でした。すなわち、1.朝廷と攘夷問題について協議するため将軍を上洛させること2.五大老(薩摩、長州、土佐、仙台、加賀)の設置3.一橋慶喜を将軍後見職に、松平
【日曜に書く】経営の神様が認めた渋沢栄一論説委員・井伊重之産経ニュース藩主の板倉勝静は最後の老中として最後の将軍となった徳川慶喜に仕えたが、板倉を家老格として支えたのが山田方谷だった。渋沢も若いころ、慶喜に仕えて...南北朝期の経典、井原市重文に47NEWS井原市教委は、千手院(野上町)所有の経典「大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみったきょう)」を市重要文化財に指定した。経典は縦25センチ、横9センチの証書交付式400周年の節目、重文指定/福岡毎日新聞国の
幕末の老中板倉勝静が治めてた藩が備中松山です。山田方谷はそんな藩の家老で、わずかな期間で借金経営から黒字化した人でありその思想はあの安岡正篤先生も崇拝していたようです。
明治元年から150年国立公文書館でも特別展が年間を通しておこなわれるそうで、まずは第一弾!はい、どーーん!平成30年春の特別展『江戸幕府、最後の闘いー幕末の「文武」改革ー』にいってきました。幕末期の江戸幕府に焦点を当て、江戸幕府公文書を中心に、幕末期の江戸幕府の「文武」改革について取り上げてた特別展。『大阪表陸軍所内へ開成所設置』備中松山藩藩主で江戸幕府老中だった板倉勝静さまからの書状。宛先が小笠原長行さまだったり、知った名前が出てくると萌えるわぁ。あの頃、殿と一緒に戦った方々
本日、夕刻、一般のお客様が帰られた後、二条城に入城させていただく。大政奉還150周年記念スタンプラリー、全制覇のご褒美で、二の丸御殿で写真撮影をしていただくためです。本日が最終日。撮影参加者は50人くらい。スタンプの設置場所を決められた運営の方は、あまりにも過酷なスタンプラリーなので、全制覇者は10人くらいかな〜と思っておられたそうです。。ってか、ワタクシも、まさか全制覇できるとは思いませんでした。認知症の母を亡くし、傷心のワタクシへの家族からの贈り物ですね。励まし、経路を調べ
平成29年(2017年)11月18日(土)、備中松山城の見学を終えた私たちは、最上稲荷(さいじょういなり)として知られる妙教寺に向かったのですが、そのお話の前に、もう少し備中松山城のお話をしたいと思います。◇板倉勝静・山田方谷前回、備中松山藩藩主の水谷家(みずのやけ)が末期養子の禁に触れ、改易されて旗本3000石になり、赤穂藩家老であった大石良雄(大石内蔵助)が約1年半に亘って城番を務めた後、安藤重博が入城し、備中松山城藩主となったところまでお話ししましたが、安藤家も、備中松山藩
◇序章平成29年(2017年)11月17日(金)に、私が所属する第一東京弁護士会刑事法制委員会の委員で、尾道刑務支所に視察に行きました。(尾道刑務支所)視察後、尾道の居酒屋「和房万作」で、懇親会を兼ねて、参加した委員で視察内容の検討会を開きました。委員会の視察はここで終了で、その後、私は、委員会の有志で二次会に行きました。検討会終了後は自由行動なので、尾道で一泊し、翌朝は、そのまま東京に帰る人もいれば、尾道や近くの街を観光して帰る人もいました。私は、せっかく尾道
そうあの大石内蔵助。幕末維新スタンプラリー完全制覇への道。7月、雨。備中松山城へ行ってきた。この頃になると「今度はどこへ?」と質問を受けることもあったが「備中松山」というと「?」が帰って来る。そんな備中松山だ。最後の老中板倉勝静にちなんでスタンプがある。?である。スタンプの中では難所とみなされていた。下馬評通り、現地に着くと前日からの大雨でもはやよくわからない。川が増水していて電車もこの先とまっていると言う。着けるのか。一体なんのために旅を続けるのかと自問自答してし
スタンプラリースポットとして行きたいところ、今回は備中松山城。岡山県高梁市にあります。まず、幕末の関連人物として「板倉勝静」が紹介されており、備中松山城は板倉勝静の居城でした。○スタンプラリー公式サイト:http://www.taiseihokan150.jp/city/takahashi/<備中松山城>スタンプ設置場所は備中松山城。山城とのことでして、思ったよりけっこう山中にあるようです。お城自体は鎌倉時代に築城され、その後は山陰・山陽の交通の要衝としてこの城を巡る戦いが数多く繰
讃岐うどんを2軒はしごして、一路高梁市へ。うどん馬鹿一代さんで、ぶっかけうどん。父ちゃんは名物釜玉バター。うまし。2軒目は長田in香の香さん。もちろん釜揚げ。超うまし。出汁をお土産に。で備中松山城。八合目までシャトルバス。そのあと歩き。山城やから、思てたよりもハード。人工関節の身にはなかなか大変でした。で、6個目のスタンプ、いただきました。板倉勝静公のことはにわかに一夜漬けで勉強しましたよ。このスタンプ、もしかして一番大変かも。
以前から、ちょびっとだけ「刀」には興味(といえる程のものではありませんが)を持ち実際、真剣が欲しくて小さいものを購入。3年前の歳様の命日に、高幡不動の大日堂へ持ち込みまして、歳様の位牌にお見せしたーという事は、その頃からのアメンバーさまはご存知だと思いますただ最近、というかここ半年くらい、刀とのご縁があり、調べもののお手伝い等していく中で、一般に「定説」とされている事柄が、いったいどこから言われているものなのか疑問に思ったり、その出所がはっきりしない事が多々あります
先日、14日のあさくらゆう先生の講演会、レポです午後からという事で、お友達とランチ久しぶりにガッツリとお肉を頂いて、スタミナ確保最寄り駅沿線の駅まで送って頂きました流石に、もう何度も行った道なので迷子にならず、到着その日は余裕のお時間ですそれでも熱心な方々が、すでに結構いらっしゃっていました。私も前から2番目の真ん中の席確保今回も有難い充実のレジュメ、9枚ですつい前日に発表された、龍馬さんの書簡。暗殺5日
天皇誕生日ですね本日から3連休ということで、皆さまいかがお過ごしでしょうか。さて、講演会のお知らせです講演会「大政奉還150周年佐幕派にとっての大政奉還」慶応3年に徳川慶喜が大政奉還し、来年平成29年は大政奉還150周年となります。土佐藩から出された大政奉還案を決断できたのはなぜか、主に老中板倉勝静をキー・パーソンとして追っていきます。日程・内容平成29年1月14日(土曜日)時間午後2時から3時30分会場東部公民館学習室講師