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先週末、今年2回目の修学旅行へ同行です。今回初めて下関みもすそ川公園に立ち寄りました。関門海峡の流れの速さに子供達はびっくり。ここで源義経が「八艘飛び」を甲冑を身につけてやるなんてぶち体幹が強くて脚力があったのだろうかと思っていたら、物語の中で義経の俊敏さを強調するために誇張された表現とされています、とのこと。((+_+))関門人道トンネルでは、山口県と福岡県を跨がせてもらいました(^^)/今回は下関市内には寄らずに一気に北九州へ。いのちのたび博物館では、タイミングよ
スクーリングの課題である事前レポートを作成&完了。面倒くさすぎて2日にかけて1000字ずつ入力。はぁ、もうとにかく全部を早く終わらせたい。スクーリングまでにテキストとか、参考資料読んで少し予習しておこう。グループワークとかあったら、間違いなく足引っ張る人になるしね。予習してもなる可能性大だけど。やや努力した痕跡は残したい。痕跡といえば、、、↑↑弥生人の足跡👣足指の踏ん張りがすごい。なんか尊敬…レポートや日々の生活にやる気低下してる自分のなんという不甲斐なさ。こんなんじゃ弥
«板付遺跡»福岡市博多区⏫️リニューアル工事中でした。⏫️高校の日本史では必ず暗記のヤツですよね!!⏫️33年前、私が使ってた日本史の教科書!!⏫️車中泊などで必ず使ってる私のお気に入りのバッグ!!⏫️もう10年くらいは使ってます!!そこに縫い付けられてるワッペンは「ITAZUKEJAPAN」⏫️現在の福岡空港は米軍が占領使用してる時は板付空港と呼ばれていたんですよ!!旧米軍のワッペンがなぜ私
【環濠集落】板付遺跡は縄文時代から弥生時代の二重の環濠に囲まれた集落です。掘ったあとの土を盛り上げて土手としています。写真中央の掘り残してある道は集落への出入り口となっています。V字型部分は当時は幅6m程度深さ3.5〜4m程度ありました。残念ながら竪穴式住居は住居跡が発掘されたのではなく模擬の『松菊里型住居(しょうぎくりがたじゅうきょ)』が復元されています。【竪穴式住居】板付遺跡は1950年に発見されました。発掘調査が行われ、日本最初の米作りがここで始まった事、深い溝(環濠)に囲ま
昨日の吉野ケ里遺跡は吹雪でした。翌日も空の便の一部が欠航するなど、帰りの飛行機が心配になりました今日は博多市内から車で一時間桂川町(けいせんちょう)にある王塚古墳にやってきました王塚古墳は日本を代表する超一級の装飾古墳です1500年前に作られました王塚古墳は6世紀中頃のものです593年に聖徳太子が摂政になり、663年に白村江の戦いがあり、694年に持統天皇が藤原京に遷都しました高松塚古墳、キトラ古墳はその時代、7世紀末~8世紀初め頃のものなので、王塚古墳
板付遺跡!教科書に出てきた弥生時代の遺跡集落。福岡の少し南。今や住宅街に。博多近辺は昔から人が住んでいるので掘ったら、遺跡が現れる〜😱😱九州の古墳は九州のコンビニの数より多いらしい😱😱😱
今週の修学旅行も九州に。久しぶりに北九州市立いのちのたび博物館へ行きました。数年ぶりなので館内の展示が少し変わっていました。やはり見どころ満載で落ち着いて見たい気持ちいっぱいです。リアルに恐竜が動くエンバイラマ館では、女子達の悲鳴に(そんなに驚くほどでもないけど怖かったらしい)他校の児童も一緒にびびるという可愛い瞬間が見れました(子供たちが怖いから抱き着いてくるし)先週よりも見学時間が多かった福岡市博物館では、私も普段行くことが無かった展示室にも行ってみましたところ、こちらの『しら
コロナで修学旅行先がここ数年県内になっておりましたが、今年は久しぶりに関門海峡を渡り九州へ上陸!まずはじめに福岡市博物館に。今回、通常では入れない特別展にクラスまとまって先生と一緒に、という条件で『大灯籠絵』展を見せてもらいました。なかなかの迫力です。絵の内容を知りたい、ちゃんと説明が読みたい!!でも、時間が足りない!!こちらの博物館には、志賀島で発見された『金印』(今回は本物)が展示されてるので、そちらを見せたくて羊を追い立てる犬の様に、子供たちを後ろから金印が展示されて
週末板付遺跡だいぶ涼しくなったとはいえ、昼間はまだ30°越えているので、早朝から運動する。自宅側の御笠川を川下に歩く。前回折り返した付近まで、ハンターで行って歩く。朝焼けが都市高速は映る。朝6:30位。大野城市金の隈付近から30分ほど御笠川沿いを歩く基本、堤防が東側にあるので、早朝なら日差しを避けれるが、時々長い影が出来るようなポイントもあり、やっぱり暑い(汗)折り返しで、川沿を行くと暑そうなので内側に入って何気に板付方面を行くと「板付遺跡」の看板が目の入ったので行ってみる。
前回記事で;『平地の水田』山間部の湧き水と傾斜地を利用した水田(=谷戸水田;やとすいでん)は,コメ作りに適している,という前回記事の続きです.(C)高橋邦明さん大阪府豊能町の水…ameblo.jp平地の水田は川から水を引き込めるので一般に水源は確保しやすいと書きました.ただし目の前を大河が滔々と流れていても,田んぼと同じ高さでは,揚水ポンプでも使わない限りその水を田んぼに引き込むことはできません.それだけの豊かな水量を水田に引き込むには,その水田よりもはるか
唐津の菜畑遺跡に次ぐ水稲耕作遺跡で縄文晩期から弥生時代後期の複合遺跡、又国内初期の環濠集落でもある板付遺跡を訪れました。(7年ぶり2回目の訪問です)最初の写真は板付遺跡公園内にある板付遺跡弥生館です。次図は、板付遺跡周辺付近図で、JR博多駅の南約4kmB地点で奴国跡と云われる春日市の須玖岡本遺跡とは約3kmの距離になる、福岡国際空港(旧板付飛行場)は東側直近にある。御笠川と諸岡川に挟まれた、標高約12mの低い台地上にある。次の写真2葉は、南北110m東西80
先日(3/29)、福岡市博多区にある弥生時代の集落遺跡である板付遺跡に行きました。静岡県の登呂遺跡より古く、日本で最初に稲作が行われた場所だそうです。環濠集落板付遺跡弥生館(=^x^=)
昨日、ハイジャン男は板付八幡宮の初詣を終えて、どのようにして帰るが良いか?思案していた。とにかく、バス停を見つけて、博多駅に帰るのが良いだろうと、バスの通る県道112号線に出て、新屋というバス停に来た。博多駅行きパスの待ち時間30分以上だった。これは、筑紫通りに出て帰るが良いと歩き出した。すると、、。板付遺跡と書かれた広い公園があることに気付いた。通りかかった時が、ちょうど16時半過ぎで、職員の方が施錠に来られた所だった。板付遺跡なるものの存在は知っていたが、初めて現場に立った。
1800年前(邪馬台国時代)の貴重な歴史を語る城野遺跡は、長年にわたる専門家や市民の願いは叶わず、ほぼ全域が破壊され、かろうじて現地が保存された九州最大規模の方形周溝墓も真っ平らで無機質で、弥生人が眺めていた足立山もほとんど見えない「城野遺跡公園」として整備されました。その後、私たちは、「城野遺跡の会」に名称を変え、「城野遺跡の現地保存をすすめる会」「城野遺跡公園を実現する会」での活動や経験をふまえ、地域の歴史や文化を大切にするまちづくりに寄与しようと引き続き活動を続けています。現在
田舎館村博物館。埋蔵文化財センター。垂柳遺跡の水田跡。それまで稲作の北限は群馬日高遺跡だと考えられていたため、常識を覆す大発見だった。水田跡が見れるのは全国で3つ、福岡板付とあとどこだっけ。遺跡層を直接踏める(歩ける)、貴重な体験。区画が小さいのは、冷たい水を効率よく温めるためと、全て手作業の畦作りやその後の手入れを、なるべく畦上から行うため、らしい。水路跡に湧き上がる水。例年、雪解けの季節や台風級の大雨の時にしかこうならないが、今年は普通の雨で毎回こうなってしまうとのこと。近隣の農
【縄文時代】驚愕の先進文明!日本人は1万年前からSDGsを掲げていた!あなたの常識を覆すかもしれない最新の縄文話をお送りします【土偶】(Jomonperiod/civilization)【弥生時代】日本人は3000年前に一度滅ぼされたのか?水田稲作はどこから来たのか?あなたの常識を覆すかもしれない最新の弥生話をお送りします【高床倉庫】(Yayoiperiod)【弥生時代】人はなぜ戦争をするようになったのか?身分の差、貧富の差はなぜ発生したのか?中国の歴史書『漢
今日は、エピックレイドに参加したんですが今回は、博多の板付遺跡で参加してきました人が集まるか心配でしたが親子で参加されてる方などもいて、よかった板付遺跡は、縄文時代から弥生時代にかけて営まれた集落で、日本最古の稲作集落だったそうです竪穴式住居があって、雰囲気最高でした。特に天気が良かったので暖かいし気持ちのいい陽気でしたという間に、レジエレキが登場!僕は、ゲンシグラードンで攻撃だぜ無事ゲットも出来ました
『弥生時代』第6回「早期」時代区分早期・前期・中期・後期の4期区分今や「弥生時代は稲作が始まった時代」というのは死語になっています。稲作は、弥生時代の前に既に始まっていました。だから、水稲農耕技術を安定的に受容し、水稲農耕を主とした生活によって社会的・政治的変化が起きた文化・時代を「弥生時代」とする認識が生まれてきました。水稲農耕が始まった縄文時代晩期末には、すでに弥生時代に繋がる文化が見られることから、これらを縄文時代とは区分して、弥生時代早期という時代に位置付けるようにな
おはようございます(*--)(*__)ペコリ日吉神社を参拝した時の事を書いていきますね~.+:。ヾ(◎´∀`◎)ノ。:+.まずは手水舎からε=ε=(ノ≧∇≦)ノε=ε=(ノ≧∇≦)ノ舟形手水鉢ですね~(///∇///)奉納時期はわかりませんでした(´Д`)ハァ…このコロナの時期ですが、龍の口から水が竹を通って水が流れていましたよ~(((o(*゚∀゚*)o)))おっと!参拝ですよ!参拝(*゚∀゚)=3立派な拝殿ですね~(人´∀`).☆.。.:*・゚中では朝のお勤めの最中
高良山麓の祇園山古墳。高速道横の宅地の細道を登る。住民の怪訝の目にはもう慣れた。そしてこここそ、卑弥呼の墓と推測する研究者(かの宝賀先生も)もいるから見に来たが、大きさも全然違うし、まあ間違っているだろう。でも、磐井の乱後に子(息子?)の葛子が、博多湾岸の糟屋屯倉を献上して死罪を免れてる事から、その勢力圏は九州北岸まで及んでいた事が分かる。そして、この地域関係と同じ事が数百年前の邪馬台国と奴国など九州北岸の国々との関係にも言えるかもしれない。少なくとも今回、北部九州に止まらず、久留米・
10.以来尺遺跡の装飾玉類[以来尺Ⅰ(中),p342]玉類の珍しい勾玉が1点出土しています。図の右下の方に、条線が刻まれた勾玉222が確認できます。同じように条線が刻まれた勾玉が、南の熊本県の下山西遺跡でも発掘しています。時代は、同じ弥生後期です。次図の左上の勾玉です。[下山西(しもやまにし,乙姫),p60]“ほぼ弥生時代後期終末時期に属するものと考えられる。”[下山西(乙姫),p201]“本住居址より1点の石製勾玉が出土する。…855は硬玉製の勾玉である。全長3.3c
3.博多区の弥生中期後半の御笠川河畔地図は福岡市博多区です。福岡空港の西側を御笠川が北へ流れています。福岡空港南端の東側の山裾に下月隈天神森遺跡が見えます。前に見た遠賀川式土器だけが多量に出土した遺跡です。図には無いですが、御笠川の東岸の大野城市には遠賀川式土器だけが出土する遺跡として、御陵前ノ椽遺跡や中寺尾遺跡など、多数の遺跡があります。福岡空港の西区域に雀居遺跡が見えます。雀居遺跡は遠賀川式土器が数点出土しますが、大多数は朝鮮半島の無文土器です。高杯の割合が多いのも特徴です。更に遠くウ
図上部中央に福岡空港が確認できます。御笠川は空港の西側を北へ流れています。那珂君休遺跡、板付遺跡(市営住宅)、井相田D遺跡は、福岡市博多区です。仲島遺跡、石勺遺跡、森園遺跡、中・寺尾遺跡、松葉園遺跡は、大野城市です。これらの遺跡が御笠川沿いの遺跡です。今回見ていきます。全ての遺跡で、弥生中期中頃まで、遺跡・遺物が確認できます。しかし次の倭国大乱期つまり弥生中期後葉は、遺跡が忽然と消えます。個々の遺跡を発掘調査報告書で、より詳細に見ていきます。一方、西側に今回は見ませんが、福岡市南区の井尻遺跡
はい!奈央です。今、私が居る所は、菜畑遺跡の復元水田の前です。ちょっと、水田の所に行ってみましょう。ほらね!小さな水田でしょ。でもね。畦の仕切りは木の杭を用いてしっかり作られていました。縄文から弥生に移行する紀元前10世紀にこんな水田技術が既にあったなんて、凄いですよね。それでは、この水田が発見された時のことを、ノンフィクションでご紹介します。*********************最終日、執念が掘り当てた最古の水田旭学園理事長高島忠平氏198
はい!奈央です。いよいよ、環濠集落跡にやってきました。(やっと走り回れるわ!)下の図の左側の弥生館を出た後、復元水田と水路の脇を通りすぎた私は、右の環濠集落跡エリアの左下にある入口に向かいました。はい、ここが入口です。ノギ付きの米粒が入口でお出迎えです。前のブログで既に説明しましたよね。入口のすぐ横に、説明板がありました。V字型に切った環濠が集落を取り巻いています。一部、二重になっている部分もあるようですね。さあ、参りましょう。ここから、環濠を横断して、集落
はい!奈央です。板付遺跡にきています。ここって広ーい!例によって、走り回る私です。もう一回、板付遺跡の場所をおさらいしておきましょうか。博多駅の南で、福岡空港に隣接した場所です。さて、今回は、板付遺跡弥生館からスタートです。板付遺跡弥生館です。竪穴式住居をモチーフにしたのでしょうね。はい!中に入りました。遺跡のジオラマや、当時の道具類が展示されています。これが環濠集落のジオラマですね。そして、ありました!ここで発掘された夜臼式土器です。これらの土器
はい!奈央です。弥生時代は、イネと鉄の時代です。そして、北部九州は最初に大陸からの文物が入ってくる地域なので、イネにしろ鉄にしろ、早期に入ってきています。そのため、北部九州には、多くの弥生時代の遺跡があります。北部九州の弥生時代の主要遺跡*右中央下に板付国土交通省九州地方整備局HPよりお借りしました。そんな多くの弥生時代の遺跡の中でも、板付遺跡は、特に有名な遺跡なんです。どうしてかって?それまで縄文晩期と位置付けられていた時代を、弥生早期という時代に
はい!奈央です。縄文時代とか弥生時代とかよく耳にしますよね。その区別って何なのでしょうね。縄文時代土器と弓矢の使用磨製石器の発達定住化と竪穴住居の普及環状集落等の定住集落や貝塚の形成弥生時代イネと鉄の時代弥生土器水稲農耕による食料生産道具工具や耕起具石器から鉄器へ武器青銅器から鉄器へ祭祀具青銅器弥生っていう名前は、1884年(明治17年)3月2日、東京府
ほんとうの・このくにのかたち上巻日本の起源その7ひじかたすいげつつづき20,000年ほど前にアムール川上流に土器を作った人たちがいた。16,500年前にはその人たちは日本にその文化を伝えていた。そして、土器と細石刃を用いた生活をしていた。関東にもその遺跡があった。ところが、11,500年前温暖化により、日本は日本列島になった。その時日本列島を出て行った人たちは世界に分散していった。ある者は東に。ある者は西に。しかし日本列島に残っ
11/4(水)の福岡ウォーキング協会楽しいウォークは、「遺跡を訪ねて」でした。集合は、JR南福岡駅近くの寿町公園。9:30スタート。雑餉隈(ざっしょのくま)の銀天町商店街を通ります。商店街の突き当りが「西鉄雑餉隈駅」。福岡の難解地名で有名な「雑餉隈(ざっしょのくま)」ですが、江戸時代博多から大宰府を結ぶ「大宰府往還路」の間(あい)の宿であったことから大宰府詣でをする人々の為の休憩の場所として酒食を商う店で古くから栄えました。雑餉隈の「餉(しょく)」の意味は、めし、食料、旅人や田野に働