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水難事故、山岳事故、交通事故に熊被害・・せっかくの夏休み、楽しみにしていた旅先での事故。不慮の事故もありゃ、自業自得なのもありますが・・😅なんだか可哀想になってしまいますね。行ってきまーす!つって出て行く時はウキウキで、まさかまさか・・よね。汗何処で何をしていてもリスクは当然付きまとうのではありますが。テレビつけると連日、死亡事故のニュースが絶えませんな📺皆さん気をつけて・・。さ、DVD📀ディアゴスティーニ山田洋次コレクションからもう1発!1986年の作品、『キネマの天地』
貴一ちゃん主演、小津安二郎監督のオマージュ的作品、舞台、先生の背中、観て来ました。貴一ちゃんのご両親の事も出て来るから、貴一ちゃんが良く、この作品にお出になったなあー。と。照れくさいし、役名、役柄は、ちょっと変えてあったにしても気恥しいに違いないし。でも、63歳になった貴一ちゃんじゃないと伝えられない小津安二郎監督のあれやこれやは、今、貴一ちゃんが伝えなければ、誰が伝えるの?ってお考えになったんみたいで。中井家に伝わる、中井家しか知らない小津安二郎監督のお話しがたくさんおありのようだし。
ダンナは定期的に「肉が食べたい」モードになります。二、三日前から「肉モード」だったので、日曜日に食べに行こうとなりました。でも、昨日ご紹介した焼肉「ふくちゃん」は来週友達夫婦と一緒に行く約束をしてるんです。予約も取れたし(^-^)vなので、今日は牛肉の焼肉は避けたいところ。で、羊肉にしました。大船にあるジンギスカン専門店「ラムバレー」。ジンギスカンと言っても、北海道ではなく岩手県遠野のジンギスカンです。今回2回目の訪店です。店内は木をメインとする明るく落ち着いた雰囲気。黒板に
この本は64年に渡って映画製作を続けて来た松竹大船撮影所が2000年(平成12)、遂に売却された時それまでここで映画製作に携わった監督、俳優、スタッフたちの生の思い出を記録しようと原稿を募り当初は神奈川新聞に連載された記事を一冊にまとめた本です。とても興味深く面白いエピソードがたくさんあったのですが長文を短くしてひとつご紹介しますね。【大船の伝統的な助監督試験】西河克己(演出)1938年(昭和13)から大船撮影所は新聞広告によって
先日(26日、日曜日)、住んでいる団地の管理組合役員対象の研修セミナーがあるというので、会場に向かった。これが、研修会の式次第。たまプラーザ団地(管理組合の名称としては、『たまプラーザ住宅管理組合』)は、全部で約1500戸が住んでいて、50幾つかの棟にわかれている。いちおう、(住民の)『自主管理方式』での運営ということになっているが、日常業務は、日本総合住生活株式会社(JS)が採用して派遣してくれている管理事務所スタッフが担っている。また、清掃とか設備の保全などの運用面は、J
ひとつ前の当ブログで、『ハチ公物語』(1987神山征二郎監督)について書きました。フリーの神山征二郎監督は「犬が苦手」でしたが、オファーを引き受けます。オファーを出したのは松竹の奥山和由さん。当時、気鋭のプロデューサーです。神山さんは松竹大船撮影所の第一ステージに上野教授(仲代達矢さん)の家のセットを作っての撮影に感激したそうです。そこは小津安二郎監督や木下惠介監督といった巨匠が使っていたステージだからです。奥山プロデューサーが『ハチ公物語』を作ろうと考えたのは、『南極物語』(1983蔵
このところの当ブログで、2019年10月5日にお亡くなりになったキャメラマン・川又昂さんについて書いています。2つ前の当ブログに書いたように、川又昂さんは写真少年から映画の名カメラマンになったわけですが、1945年(昭和20年)4月に松竹大船撮影所に入った川又昂さん、元々その作品に感動していた小津安二郎監督の撮影助手となったばかりでなく、小津監督に『晩春』(1949小津安二郎監督)の全カットを写真に起こすという大事なミッションを命じられました。大変な作業でしたが、キャメラマンとして大きな財産
ひとつ前の当ブログの続きです。子どもの頃からカメラが好きで、お小遣いはほとんどフィルム代に使っていた川又昂さんですが、進路を考える時期、日本は「戦争」の真っ只中です。戦局も悪化、川又さんも「どうせ死ぬんなら好きなことやりたい」と周囲の反対を押し切って「日本映画学校」に入って撮影技術を学びます。当時のことですから、この学校は国策による人材養成機関でした。(そのため、1945年8月15日敗戦とともに廃校となります)戦場を撮影する報道班員を養成するのが目的の学校だったのです。その「日本映画学校」
ひとつ前の当ブログで、のちの名キャメラマン・川又昂さんがまだ撮影助手の頃、小津安二郎監督の組につき、『麦秋』(1951小津安二郎監督)にしごかれ、その2年後には『東京物語』(1953小津安二郎監督)で褒められたというエピソードを書きました。「徒弟制度」のように撮影所の技術が厳しくも、後輩に受け継がれていた時代の話です。その川又昂さんは2019年10月5日に93歳でお亡くなりになりました。昭和20年の4月に松竹大船撮影所に入社、撮影助手としてギリギリ「戦前」の映画現場を知っている方です。そし
キネマの神様ディレクターズ・カット原田マハ内容紹介「キネマの神様」映画化に際し、監督・山田洋次は自身の若き日を重ねて脚色。そのシナリオから原作者・原田マハが自らノベライズした、もうひとつの奇跡の物語。まだまだ映画を観に行くには不安だった頃、この映画が公開された。予告はいっぱい見たような気がするけど、行く!という私の中での選択肢はなくて、いつの間にか忘れました。ある時📚図書館本の新刊を見ていて、そうだ!予約を入れておこう~とぽちっとした
近くの中華料理店「でぶそば」さんが10月末で閉店すると聞き、出かけてきました。近くに松竹大船撮影所があった関係で、寅さん(渥美清さん)たちもよく利用したお店だそうで、これまでに何度もマスコミで紹介されています。一度入ってみたいと思いながらこれまで利用する機会がないままでしたが、いよいよ閉店と聞き初めて足を運びました。11時半の開店直後でしたが、もうお客さんが並んでいました。初代店主の愛称から「でぶそば」の名がついたそうです。30分ほど並んで店内へ案内されました。店内は「昭和」
松竹映画100周年記念『キネマの神様』いよいよ明日一般公開〜🎉🎉。松竹大船撮影所の近くにある鎌倉芸術館でジュリー💞のコンサート🎶があったのは、いつだったのかな〜。何のツアーだったかな。今、とても気になってきた…。大船撮影所が閉鎖されたのは2000年6月とのこと(1995年から3年ほどは「鎌倉シネマワールド」というテーマパークが敷地内にあったらしい〜)。『花も嵐も寅次郎』は1982年公開。当然、ジュリーも大船撮影所で寅さん撮影を経験している。今からだ
今から約25年前…松竹大船撮影所と併設していた「鎌倉シネマワールド」という映画のテーマパークでMCの仕事をさせて頂いてた頃…シネマワールドのバックヤード、撮影所内のほったて小屋の様な喫煙所で一服(当時は喫煙者でした)していた時、遠くにコートを肩に羽織り、こちらに向かってくる人影が見えた…「あ‼️渥美さんだ❗」あわててタバコを消し、喫煙所の外に飛び出した。「おはようございます❗」とにかく元気に挨拶をした。「君は誰?」と渥美さん。「シネマワールドでMCやらせて頂いてます、○○(本名)と申
小学生のときの一番の思い出は?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう小学校と言えばもう遠い昔の話です昭和も少しだけ遠くなりました今年になって、五、六年生の担任だった先生の訃報を新聞のお悔やみ欄で目にしましたもう40年以上も会ったことが無かったですが、あぁ~今までご健在だったんだと懐かしく思い出しました最後に会ったのは中学一年生の時ですが、小学生当時にはこの先生はとても怖かった平手で殴られなかった男子はいなかったかと、女子でもかなり殴られた
大船を街散歩していると気になるのがこの松竹第五号橋です。ちょうど境目で住所では栄区笠間の表記になっています。(テーマ分類はa5風景鎌倉にしました。)松竹大船撮影所から命名されているのかなー、五号だから他にもあるのかなー、などと思いつつ帰宅後調べてみました。すると松竹大船撮影所の創立時期付近に作られ、松竹○○○橋は他にもあるようでした。いつかこれらの橋探しの街散歩も面白そうでしてみたいです。