ブログ記事27件
師匠、松本恵二さんの特集記事です。赤井邦彦さんに取材をして頂きました。レーシングドライバー脇阪寿一をつくった人カーグラフィック2月号60周年おめでとうございます🙇良かったら読んで下さい😊これからも恵二さんに喜んで頂けるような生き方を貫きたい。
日本人離れした風貌、クルクルパーマ、飄々とした態度。レーシングドライバーとしては非凡な才能を持っていた方でしたよね。京都出身、後から出てくる関西出身のドライバーの面倒見がよく、世代を問わず絶大な信頼を得ていました。モータースポーツファンも世代によっては「キャビンの広告」で覚えてる方も少なくないでしょうね。もともと松本恵二選手といえば、ツーリングカーレースでのクワハラスターレット(画像のマシンとは別物)やパブリカなど、トヨタ系のイメージでした。クワハラ自動車は京都ですから、同郷の松本恵
僕の青春は奈良と大阪に在りますがレーシングドライバー脇阪寿一の青春は京都に在るそれを再確認できた京都。師匠、松本恵二さんの大親友銀水のパパに会いに行ってきた。あの頃も、この時期からはいつも、鴨川の川床でした。恵二さんが好きだったシーバス飲んで、今日は特別なやつやけど、川床から鴨川のカップルかまってはも食べて、、、パパとの時間は恵二さんが居ないだけであの頃と変わらない空気が流れてた。パパ、ありがとう🙇パパ、↑このヘルメット、無くしたみたい😭😅それからは、京都、祇園に
師匠無償の愛をくれた人。レースの全てと、、、お酒の飲み方、遊び方を教えて貰いました。🤣そうだ!久々京都へパパに会いに行こう✌️
見て〜松本恵二さんとのプリクラ🤣懐かしい当時、恵二さんご愛用娘さんから貰ったアニエスベーのキャップ🤣🤣右から童夢のメカニックしてた米ちゃんやろ、山本勝巳選手にロン毛の僕の後ろは誰や⁉️薫一?中野信治さん?誰や⁉️
差し入れ🤣押し入れを掃除したら出てきたらしい😅嬉しい🤣🤣🤣北村さん、ありがとうございます🙇
僕の師匠、松本恵二さんにインタビューしてるのは、高橋二朗さん😊インナースーツを着てレーシングドライバーのギアを説明されているのは、😅高橋二朗さん🤣🤣🤣1987年富士スピードウェイで開催されたFUJIGCRaceRd.4🤣ルマン24h俳優、佐藤健君が使ったヘッドセットを嬉しそうに使うのは高橋二朗さん長い間、モータースポーツを明るく、楽しく、そしてコ
前回のブログが2020-06-0716:57:13の当時,フュージョンといえば,CASIOPEAとTHESQUAREが私の中の二大グループだった!だったので,約1年と2か月ぶりです(^^♪最後のトップリーグが終了してから,見にいくことができるラグビーの試合がほとんどなくなり,月に一回程度ですが昔を思い出しつつ?6月にはスポーツランド菅生,7月にはツインリンクもてぎへ行ってきました.8月の最終日曜日には,再びもてぎへ行く予定です(^^♪これらについてはまたいずれ♪
今日は恵二さんの命日だ!毎年忘れてさしまってるけど😅誰かが必ず教えてくれる😊今日はシーバスでも飲みますかね✋️寝たら負けゲームでもしますかね✋️😊
1998年5月に行われたフォーミュラニッポンもてぎテストに行った。愛車ホンダS-MXで前日の晩から静岡を出発。東名高速、首都高、常磐自動車道を走って到着。サーキット内の駐車場に入って車中泊しようと思っていたら南ゲート(CARTの時にここから入場)は閉まっていて入場できなかった。真っ暗な中、ゲート前に車を停めて車中泊したのだった。5月とはいっても夜は寒くなるので寝袋や車内で使うランタンも用意していた。❝泊まり❞でレース観戦できるようにとS-MXを選んだので、フルフラットになるシートはとて
今日のイラストは「マーチ832BMW」です。1983年チームル・マンから参戦した、松本恵二選手です。松本選手は、この年からタイヤをダンロップからブリヂストンに変更。BMWエンジンながら、第4戦の「鈴鹿JPSトロフィーレース」では優勝しました。(このレースは私が初めて現地観戦した記念すべきレースでした)優勝した時はマシンのロゴがミケロッティからLMスポーツに変更。さらに終盤戦ではフットワークにスポンサーが変わりましたが、白/オレンジのカラーは1年間、変わりませんでした。
松本恵二さんのヘルメット。バリヤスコートでピッカピカ👍困った時の松本恵二さん頼り今日から2日間、我々TGRTEAMSARD仲間を信じて、仲間の為に、今年一年、仲間たちと共に、激しい戦いの中で身につけ尽きた技術を、最大限に発揮できるように頑張ってきます。見守って下さい🙇
さて、これから鈴鹿に向かいます。前戦は何とか優勝して、今回、そこそこのウエイトハンデが搭載される中、どう戦えるかがチームの真価が問われます。しっかり、落ち着き、周りをよく観察し、ポジティブに向かう可能性を引き上げる準備をしっかりして、ネガティブに向かう原因を徹底的に潰して、レースに挑みます。それにプラスして、松本恵二さんのヘルメットを綺麗にしたから、後は恵二さんに見守って貰いましょう💪ついでに僕のヘルメットめバリアスコートでピッカピカ👍
ジョニー・ハーバート選手/伊太利屋REYNARD90D/無限1990年全日本F3000シリーズ開幕戦・鈴鹿2&4レース。2輪と4輪が観られるとあって、この数年は毎年観戦に行っていた。当時の愛車、トヨタ・スターレット・ターボ・スーパリミテッドで大阪を出発した。’90年のレースは誰と行ったのかハッキリ覚えていない。鈴鹿8耐に向けてポジフィルムを試してみようと初めて使ってみた。ポジの方が発色が良いように思っていたからだ。特に使用上の知識がある訳でもなく❝良いタイヤを履けば良いタイ
’70年代から人気が上昇し、モーター誌でも特集が組まれていたほどの国内一大カテゴリーだった富士グラチャンシリーズ。雑誌を読んでいてずっと観戦に行きたかった。ようやく’83年から毎年第2戦を観戦するようになった。第2戦が観戦に行きやすい気候だったのかもしれない。1986年富士グラチャン第2戦。地元の友人と観戦に出かけた。全日本F2同様、富士GCにもヤマハエンジンが使用されるようになった。F2同様、BMWエンジンが主流だったが、マツダ・ロータリーも強さを見せていた時期もあった。
1986年の全日本F2は欧州がF3000規定に移行したため、独自路線で全日本F2と鈴鹿F2のタイトルをかけていた。マシンもマーチ社に依頼して日本用「マーチ86J」を使用していた。日本独自マシンを使用するところは後のスーパーフォーミュラにも通じるが、この頃は新シーズンとともに新たなマシンを発注していた。型落ちになったマシンはGC用シャシーに転用されていた。数年使用できる剛性が無かったのかもしれないが、好景気が後押ししもあったのかもしれない。贅沢なことだ。前年にヤマハがOX66
今日はAPGCHALLENGECUPRd3ジュニアMAXクラス#87乾弥真人タイトラ1位予選1位決勝2位The完敗でした5/17松本恵二さん命日どうしても勝ちたかったなー…鈴鹿winnerキツネ現る…ココは日本なのにメキシコシティーって…笑LUCEとして予選、決勝とワンツー勝ったのはチームメイトの涼ちゃん金曜日のドライから抜けて速かった涼ちゃんいつもの弱い涼ちゃんではなく、すぐにウジウジしちゃう涼ちゃんでもなく、今日は強い、速い涼でした後輩に負け
昨夜は、5月17日って何だっけなぁ~と思いながら寝たんだけど。今朝起きて思い出しました、「男なら振ってみな!CABINSPIRIT」の松本恵二さんの命日でした。星野一義さんや中嶋悟さんの様な派手さは無かったが、気が付けば着実に上位に食い込むドライバーでしたね。高校生の時に長巻フィルムを持って、鈴鹿BIG2&4で撮った松本恵二さんを探したがありませんでした。星野一義さん、鈴木亜久里さんの写真はありましたが・・・。写真は2017年、富士スピードウェイワンダーフェスのキャビンブースに
FOREVERKEIJIMATSUMOTO
薫一のInstagramを見て、あ〜そうか、今日は5月17日かぁって気づいた。薫一はああ見えて、そう言うとこ律儀です。日付が変わる前の投稿、誰よりも先に、恵二さん僕覚えてますよ!って言いたかったのか⁈笑松本恵二さん言わずと知れた、日本のビック3僕らの師匠です。無償の愛で僕らを育ててくれた人。レーシングドライバー脇阪寿一を創った人。色々思い出したら久々涙が出てきました。今もなお、恵二さんの考えや意志はレース界のドライバーやメカニック達に受け継がれています。ずっと怖か
スーパーフォーミュラ開幕戦・鈴鹿2&4レースが延期になってしまったので、「2&4レース」を観に行った時の写真を掲載。鈴鹿へはF2やF3000レースを観戦に行っていたが「この時付き合い始めた彼女と一緒に行ったなぁ」などと思い出に浸る。鈴鹿で仲良くなった友人も彼女を連れて来ていたので、レース後に合流して遊園地入り口近くにあったレストランでおしゃべりしたな。全日本F3000この当時のF3000は特異的な進化を遂げていて—シャシーはローラ、レイナード、ローラ、ラルト、童夢、レイト
1996年、日本のトップフォーミュラはヨーロッパとは異なる独自路線を打ち出してF3000から「フォーミュラ・ニッポン」を発足させた。公式テストに先立ち、東京の新高輪プリンスホテルで「オープニングレセプション」を開催。申し込めば一般ファンも参加できた。雑誌の告知や招待ハガキの内容からドライバーを交えたパーティーのようなものと察せられた。招待ハガキのコピーこのイベントに東京の友人2名、ドルフィンは静岡から、そして大阪の友人も加わり4名で参加した。ホテルでの催しとあって、カ
高橋徹選手/NOVA-SPL/BMW富士グランチャンピオン・レースは'70~’80年代に大人気だったレースカテゴリーだ。特に’70年代は国内トップフォーミュラ(F2000→F2)よりも集客力があった。現在のスーパーGTのようなものだが、それを富士スピードウェイ(FISCO)だけでシリーズ戦が組まれていたのだ。ドルフィンがレースに興味を持った頃も、雑誌ではフォーミュラよりも富士GCが占める割合が多かった。創成期から幾度か大きなレギュレーション変更があったが、ドルフィンがレース誌を見
1977年のF1日本GPが終わってから日本で世界選手権が開催されない年が続いた。日本GPでの事故や暴走族問題等によってモータースポーツ逆風に晒されていた。日本で観られる唯一無二の最高峰レースはF2だった。1979年に長谷見昌弘選手が四冠を獲得したように、F2レースは「全日本F2」と「鈴鹿F2」の2つタイトルがかけられていた。鈴鹿では開幕戦「2&4」「JPSトロフィー」「ゴールデントロフィー」「グレート20」「JAFGP」と、年5戦も開催されていたので、独自タイトルもできたのだろう
1986年、民営化されたばかりの日本たばこ産業はモータースポーツへの参入を開始。当時海外のたばこメーカーはモータースポーツへ積極的に参入していた。マルボロ、ロスマンズ、JPS、ラッキーストライクetc.日本たばこ産業はキャビンブランドで日本国内のF2、GCに参戦。松本恵二をサポート。サーキットだけでなくCM展開も積極的に行う。日本中のたばこ屋に松本と赤いCABINのマシンのポスターが。CM曲はサックス奏者のマルタが担当。1988年には星野一義をサポート。1990年にはチャンピオン獲得。199
もう25年くらい前、京都から鈴鹿サーキットに向かう車中、追い越し車線を走る僕に助手席から松本恵二さんが、「お前、反対車線からクルマが飛んできたらどうすんねん?!」の一言。僕は「そんな事ありませんよ!大丈夫です。」って答えたら「バカ者」って怒られました。「絶対大丈夫なんて事はない。一流のレーシングドライバーは何があっても、そのアクシデントを交わせる準備をしておけ!」
8月に投稿したブログの続きです。レーシングコースの外周路(散策路)から【見晴台】に向かってみます。見晴台東屋の覆いはしっかりしてるようですがベンチは、傷んでから年数も経ってるようです。下草は定期的に刈ってるのでしょう。景観先を示す方位盤ですが・・・実際、雑木林が生い茂って、遠望は望めない?外周路の下方には、旧コース時代から【ホテルくぬぎ山荘】(閉鎖)が営業。散策施設として当時から在ったと思われる。一昔前まで、レーシングコース+
FOREVERKEIJIMATSUMOTO今日であれから4年です
今日であれから3年ですFOREVERKEIJIMATSUMOTO
今日で2年ですFOREVERKEIJIMATSUMOTO