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こんにちはソラです8月の半ばごろに買ってみた「備蓄米」も残りわずか…新米でも食べようかと…地元の直売所へところが…精米した5キロの新米のお値段5200円でした!!一年少し前まで2400円が2倍以上でただただびっくり!!もう一人の方もお米買おうとみて止めてしまいました…高くなった分、農家の方へどれだけマージンがいっているのか…そもそも2倍以上の高値って、これって何?で、スーパーでは新米を売りたいのでもう庶民の味方「備蓄米」
昨日も散歩がてら、電車に乗って寺社巡り👏👏☺️今月は、朱友さんとの都合がつかなかったこともあり、岡崎の一部を中心に回ってきました。「プチ三河詣で」です東岡崎駅駅地下では、Jazzの街をPRしてました🎷🎵龍城神社さん行事があって、いつもより早くから賑わってましたグレート家康公が持ってる特別御朱印をいただいてきました😊(龍城神社さんのインスタから拝借)家康公例祭徳王神社さんツツジがきれいに咲いてました。藤の花もね💕恐竜の日の書置きがありました。毎年出るそうです。知らなか
今回の記事では、跡取りや子どもの言い方を説明している部分がある自分は女性だから子どもの話についてはちょっと敏感になっちゃうけど跡取りっていうのはつくづく大変だなって思う商業高校を出ているのでいろんな自営業の跡取りさんたちと出会ったいやいや家業を継ぐ子もいれば望んで家業を継ぐ子もいた家業があるから本当は、勉強なんてどうでもいいんだっていう自由人もいっぱい(笑)自分は現在、
松平八代墓の四代松平親忠の墓参りです。親忠の肖像画も発見出来ないです。松平親忠とは松平信光の子。三河安城松平氏の初代。幡豆郡の安城城主。文明7年菩提寺の大樹寺を額田郡鴨田に建立。のち出家して西忠と号した。子の乗元・乗清はそれぞれ大給松平家・滝脇松平家の祖。文亀元年8月10日死去。厭離穢土欣求浄土
ビスタラインの「ビスタ」とは「眺望、展望」を意味し大樹寺と岡崎城を結ぶ、標高差を利用した約3kmの直線を「眺望ライン」「ビスタライン」と呼んでいます。山門から前の小学校の校庭の奥に見えるのですが自分で写真を撮ってもよく見えないんですよね。切り絵の御朱印があったので、今回はこれをいただきました。徳川三代家光が、家康十七回忌を機に、「祖父生誕の地を望めるように」との想いを守るため、徳川家の祖先、松平家の菩提寺である大樹寺の本堂から山門、総門(現在は大樹寺南門)を通じて、その真ん
松平家・徳川将軍家菩提寺成道山松安院「大樹寺」松平家・徳川将軍家の菩提寺で成道山松安院と号し、文明7年(1475年)松平4代親忠公)が創建したものである。大樹寺山門寛永8年(1641年)3代将軍徳川家光建立楼上に後奈良天皇御宸筆「大樹寺」の勅願が掲げられていて釈迦三尊十六羅漢を安置している。大樹寺は家康の人生において重要な役割を果たした寺院です。家康が19歳の時、「桶狭間合戦」により今川義元が討ち取られたので、身の危険を感じて、大高城から大樹寺に逃れて来た場
2023年大河『どうする家康』を楽しむために、小手伸也さんの演じる大久保忠世の弟の彦左衛門忠教が書いた『三河物語』を読んでいこうと思います。第5回は「四代目松平親忠」松平家四代目、松平親忠勢力を整える松平親忠墓(大樹寺)松平次郎三郎親忠(三代目松平和泉守信光の三男)、のちの右京亮親忠安城にうつる。先祖代々のお慈悲とご武芸によってしだいに勢いも盛んになり、親忠自身もご家来衆、民百姓、乞食、非人にいたるまでお情けをおかけになるので、一大事となれば民百姓どもまで竹やりをもって一命を捨てて
松平親忠(まつだいらちかただ)は室町時代中期から戦国時代にかけての武将で、松平信光の三男です。初め額田郡鴨田郷(現岡崎市鴨田町)を根拠地としていましたが、長享2年(1488年)か長享3年(1489年)頃に、父が死去したために家督を継いだとされます。しかし、間もなく出家して西忠と号した等、親忠自身の治績はあまり知られておらず、三男なのに本当に家督を継いだのかどうか、一部で疑問視されています。出典:松平親忠、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』松平家の関連人物「松平親忠の
2021年5月下旬、仕事で、愛知県安城市に出かける用事があったので、仕事の合間に、いつもの歴史散策をして来ました。JR東海道本線三河安城駅に到着。東海道新幹線の停車駅でもありますよね。プラットホームから線路をパチリ。改札口を出ると、デッキになっていて…新幹線の駅は、写真奥に見える所にあって、在来線とは結構離れているのか…新幹線の乗り換えは、かなり歩かんとダメなんですね…知らんかった…汗在来線の三河安城駅から新幹線側ではない北側に出て
「安養山弘誓院(ぐぜいいん)」は、豊田市加納町の浄土宗寺院延徳二年(1490年)松平親忠公(徳川家康公の五代前の松平家当主)により建立松平親忠公の墓もあり、三河松平氏・徳川家と深い関係寺紋には橘紋のほか、三つ葉葵の紋も使われている本堂鐘楼観音像納骨堂自由に遊ぶメイかわいい
早く行かないとね~と思い伊賀八幡宮へ蓮の花を見に行って来ましたよとっても綺麗に咲いていました天気も良くてさ良い感じの空でさ良い写真撮れましたよ~松平親忠の創建↓詳しくはこちらをねこの空のお蔭でええ感じに撮れるんだよお天道様ありがとさ~んホント良い天気で良い空で綺麗でしたおすすめ~まだ続きますがね
徳川家康の祖父である清康は安城松平家の4代であって、松平の宗家として三河を統一させていったある意味カリスマ性のある人だった。その領地を拡大させようとして信長の父にあたる織田信秀の尾張へと侵攻しようといた矢先に、尾張国春日井森山の陣中において家臣の阿部正豊に暗殺されてしまったんです。(森山崩れとも守山崩れとも云われています)余談ですが、その謀反者を成敗したのが植村氏ですがその娘と結婚して産まれたのが徳川四天王の1人本多忠勝なんですね。また、三河がバラバラになって松平をまとめることが
岡崎市伊賀八幡宮の蓮伊賀八幡宮は、徳川家康が東照大権現として祀られているところ。(伊賀八幡宮は、ご祭神を合祀していないところが素晴らしい)創建は松平親忠(ちかただ)。蓮池は三代将軍家光。家光はおじいちゃん大好きっ子だったので、さぞかし張り切って造った事でしょうねぇ#伊賀八幡宮#岡崎市#蓮の花#徳川家康#徳川家光#松平親忠
松平親忠、広忠、徳川家康と縁がある長瀬八幡宮矢作のピアゴの北側に、長瀬八幡宮(岡崎市森越町)があります北野町には、家康を助けた三頭の鹿の話が残されていますが、その三頭の鹿は、ここのお宮さんの森から出てきたそうです他にも、大樹寺、伊賀八幡宮を建立した松平親忠や、家康の父、広忠も、こちらの神社には何かと寄進しています境内には摂社がいくつか見られますがその中のひとつに、広忠が父、清康を祀ったとされる摂社も
矢作のピアゴの北側に、長瀬八幡宮(岡崎市森越町)があります北野町には、家康を助けた三頭の鹿の話が残されていますが、その三頭の鹿は、ここのお宮さんの森から出てきたそうです他にも、大樹寺、伊賀八幡宮を建立した松平親忠や、家康の父、広忠も、こちらの神社には何かと寄進しています境内には摂社がいくつか見られますがその中のひとつに、広忠が父、清康を祀ったとされる摂社も見ることができますまた、矢作神
【歴史・戦国時代】戦いで散った人々を葬った千人塚歴史探偵®︎さかもとさん井田野の戦いで散った数多くの無名の人々。松平四代目親忠公はその慰霊のための塚を作った。岡崎歴史探求班ぶろぐhttps://ameblo.jp/roze31800歴史探偵®︎さかもとさん動画https://www.youtube.com/channel/UC30JLEevGfe_V6riM4vVc5w?view_as=subscriber
【歴史・戦国時代】親忠公・苦悩の4代目。歴史探偵さかもとさん親忠(ちかただ)と読みます。ここでいう親忠とは「松平親忠」のこと。松平家1代目親氏(ちかうじ)松平家2代目泰親(やすちか)松平家3代目信光(のぶみつ)松平家4代目親忠(ちかただ)・・・・・・・・・・・・徳川家康は松平家9代目であり、徳川家1代目となります。岡崎歴史探求班ぶろぐhttps://ameblo.jp/roze31800歴史探偵さかもとさん動画https://www.youtube.com/chan
松平忠親荼毘所松平忠親は松平家4代目信光の息子です。兄弟は多いです。信光が西光寺の千人塚と、大樹寺を造りました。なみなみならぬ思いを抱いています。いつきても、草が綺麗に刈り取られています。
松平家4代目松平親忠が関わる西光寺ここ井田野の合戦場では、たびたび激しい戦いがありました。その場所で、敵味方の区別なく、死者を弔ったのは親忠です。あまりにも亡霊騒ぎが酷かったため、その亡霊たちを慰めるために、七日に渡りご祈祷を続けやっと騒ぎが収まったそうです。その時にご祈祷した上人を大樹寺初代住職に迎え、大樹寺が創建されました。ここ、井田野の地は岡崎にとって、大変重要な場所のうちの、ひとつであると言えるでしょう。その後、家康の時代になり、家康をかくまって亡
お盆休みにはいりましたね。私は昨日の金曜日にお休みを頂き、1日早くお盆休みに入って、実家のある愛知県豊田市に帰省しました。到着した後、母親が連れて行ってくれたのが、割と歴史的背景のある「奥殿陣屋」という場所です。これは、豊田市に隣接する岡崎市奥殿にあった陣屋で徳川家の縁戚である松平家が陣屋を建てた場所。元はと言えば、徳川秀忠に仕え、大坂の陣で戦功のあった松平真次が三千石を与えられ、大給(豊田市)に陣屋を構えたのが発端で、その後場所を移し、ここに陣屋が構えられたものでした。松
本能寺の変とはなんだったのか78/95本能寺の変の全体像24/412024/12/04ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~23」を読んでいる前提で、その話を進めていく。織田信長の人事。前回の続き。-仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠-水野信元みずののぶもと※本能寺の変の全体像07で先述荒木村重あらきむらしげ※本能寺の変の全体像07で先述松永久秀まつながひさひで※本能寺の変の全体
本能寺の変とはなんだったのか80/95本能寺の変の全体像26/412024/12/22ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~25」を読んでいる前提で、その話を進めていく。織田信長の人事。前回の続き。-仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠-水野信元みずののぶもと※本能寺の変の全体像07で先述荒木村重あらきむらしげ※本能寺の変の全体像07で先述松永久秀まつながひさひで※本能寺の変の全体
午前中、伊賀八幡宮までポタリング晴れていたが、、、寒い!!風強し!!!よって早々と引き上げる<<<暖かな時期になったら再び訪れようぉ~そのときは腰を据えてじっくりと~1470年(文明2年)頃、徳川家の祖である松平四代忠親が、松平家の子孫繁栄の守護神『氏の神』として三重県伊賀から社を移したのが始まりと伝えられています。1611年(慶長10年)徳川家康が造営し、1636年(寛永13年)三代将軍家光の造営で現在の社殿が整ったそうです。