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名称:館林城別名:尾曳城城郭:梯郭連郭複合式平城築城年:15世紀築城主:赤井照光か改修者:榊原康政主要城主:赤井氏、長尾景長(上杉氏)、榊原氏、松平氏、徳川氏ほか所在地:館林市城町3-1指定文化財:市指定史跡土橋門井戸土塁城沼
名称:高崎城別名:和田城城郭:輪郭梯郭複合式平城遺構:乾櫓・東門(移築)築城年:1597年築城主:井伊直政改修者:安藤重信主要城主:井伊氏、諏訪氏、松平氏、安藤氏所在地:高崎市高松町指定文化財:県指定重要文化財水堀乾櫓東門
名称:布川城別名:府川城城郭:平山城築城年:1519年頃築城主:豊島頼継主要城主:豊島氏、松平氏所在地:北相馬郡利根町布川指定文化財:町指定史跡主郭跡(徳満寺)縄張図
※こちらの記事は、令和2年1月29日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は山岡荘八氏の大作『徳川家康』(全26巻)の黎明である第1巻「出生乱離の巻」のご紹介です。個人的にはこの『徳川家康』は祖母が愛読していたということで、いつか読もうと思っていた作品でした。読み始めたのは先の平成24年。今から8年前です。他の本に浮気しつつも全26巻を最初に読み終えたのが、2年後の平成26年ごろだったと思います。直後に2回目を読み始め、それが終わったのがまた2年後の平成28年ごろ。またすぐに3
日本の城⑨岡崎城三河国岡崎藩(愛知県岡崎市康生町)にあった日本の城徳川家康の生地である。別名龍城城郭構造梯郭式平山城天守構造複合連結式望楼型3重3階(1617年築•非現存)復興1959年・昭和34年築城主西郷稠頼・頼嗣(三河国守護仁木氏の守護代)築上年享徳元年(1452年)主な改修者松平清康、田中吉政、本多忠利主な城主西郷氏、松平氏、田中氏、本多氏、水野氏廃城年明治6年(1873年)遺構石垣、堀指定文化財岡崎
江戸幕府を開いた天下人『徳川家康』の銅像です静岡県浜松市の浜松城跡に銅像が建てられていました✨銅像の台座裏手に碑文が有りましたので、こちらを確認して行きます▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼徳川家康公は天文11年(1542年)三河国岡崎城内に誕生した。父は松平広忠、母に生別、駿府に少年時代を過ごしたが、岡崎に戻り独立の一歩を踏み出した。元亀元年(1570年)遠江国へ進出、浜松に築城し、ここを根拠として着々と地歩を固めた。その間17年、武田信玄のために大敗を喫した三方原合戦
松平家墓参りの最後は、家康の父松平広忠の墓参りです。どうする家康では、飯田基祐さんが演じていました。松平広忠とは戦国時代の武将。三河松平家8代目。岡崎城主。清康の子。徳川家康の父。10歳のときに父清康が織田信秀と戦うため、尾張守山へ出陣中に家臣の阿部弥七郎に刺殺されたため、大叔父信定に岡崎城を追われ、伊勢、遠江、三河を流浪。のち今川義元の後援を受け、1537年(天文6)ようやく岡崎に帰ったが、以後も松平家では今川・織田勢力を背景に内紛が続いた。そうしたなかで41年、三河刈谷城主水
松平八代墓の四代松平親忠の墓参りです。親忠の肖像画も発見出来ないです。松平親忠とは松平信光の子。三河安城松平氏の初代。幡豆郡の安城城主。文明7年菩提寺の大樹寺を額田郡鴨田に建立。のち出家して西忠と号した。子の乗元・乗清はそれぞれ大給松平家・滝脇松平家の祖。文亀元年8月10日死去。厭離穢土欣求浄土
今回は、松平八代墓の三代松平信光の墓参りです。元々は松平郷の高月院にあった墓から分骨され、松平親氏、松平泰親、松平信光の墓をそれぞれ大樹寺に移設したそうです。松平信光とは松平泰親の子。応永28年三河岩津の中根大膳を討ち、本城と周囲に七つの砦をきずく。室町幕府政所執事伊勢貞親の家臣となり、のち安城城・岡崎城も攻略。庶子7人を各地に配置し、松平氏発展の基盤をつくる。長享2年7月22日死去。享年は76歳・86歳ほか諸説がある。厭離穢土欣求浄土
今回は、岡崎遠征寺に墓参りをした模様をお伝えします。お墓が何箇所もある場合がありますので、その都度Upします。松平親氏とは世良田有親の子。永享の乱で室町幕府の追及をうけ、父とともに上野新田荘得川村を出、遊行僧となる。のち三河にすみ、はじめ坂井氏、ついで松平信重の娘婿となり、徳川家康につらなる松平氏の祖とされる。没年は応仁元年(1467)ほか多数の説がある。
※2023年5月21日訪問※川越城散策のメインとも言える【本丸御殿】を観て行きましょう✨玄関部分正面から建物を見てみると、まさに『威風堂々』という言葉がぴったり長い長い歴史の中で、日本国内には数多くの城郭が建てられましたが、その多くは明治の廃城令やその後の戦災などで失われてしまい、建物が残されているのは一握り御殿建築に至っては、日本国内で4城のみ(川越城・掛川城・二条城・高知城)が現存しており、その中で《本丸御殿》に限っては川越城と高知城のわずか2城のみと言うことで、この川越城本丸御殿が
松平清康は、宇利城攻め以降、桜井松平家の当主で、叔父の松平信定と不仲になったと言われている。その理由は、宇利城攻略戦において、大手門を攻める、福釜松平家の叔父の松平親盛を失った際、松平信定の支援が遅れたことが、原因であるとして、松平清康が、信定を罵倒したためであると言われている。松平清康が、前述の東三河の国人衆を服属させたのは、十九歳の年である。間違いなく、清康は、軍事的天才であった。松平清康は、1530年(享禄三年)、尾張国へと再出兵すると、岩崎城と品野城を陥落させ、岩崎郷
※2023年5月21日訪問※整備された【中ノ門堀跡】を見て行きましょう冠木門が設置されており【川越城中ノ門堀跡】と書かれた標柱が建てられていますね✨冠木門を潜ると【中ノ門堀のしくみ】という解説板が有りますこちらの堀が【中ノ門堀跡】です本丸側の切岸の方が傾斜が有り、まさに城壁のような印象ですね反対側の切岸は、本丸側に比べると比較的緩やかに感じますが、それでもかなりの傾斜が有り、堀底に落ちてしまうと、這い上がるのはかなり大変でしょうね◆武蔵国・川越城(初雁城)中曲輪太鼓櫓跡/埼玉県指
※2023年5月21日訪問※外曲輪(追手曲輪)跡から、かつての城内を東に進んで行くと、道路沿いに、何やら城壁のような物が見えて来ました【川越城中ノ門堀跡】という案内板です冠木門が建てられており、【川越城と中ノ門堀】という案内板が設置されていました✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼川越城と中ノ門堀川越城は長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の家臣である太田道真・道灌父子によって築城されました。当時、持朝は古河公方足利成氏と北武蔵の覇権を握る攻防の渦中にあり、川越城の築城はこれに備え
松平清康は、十四歳~十六歳の間に、足助城の鈴木重政及び、岡崎松平家の西郷信貞に勝利した、軍事的天才であった。その年齢での軍事的才能の発揮ぶりは、類例を見ない。松平清康は、西三河の実質的な支配権を得る中で、従来の支配層である、三河吉良氏に対抗するための権威性の確立が求められていた。三河吉良氏は、清和源氏の名門、足利氏の分家で、今川氏は、吉良氏の分家に当たる。吉良氏は、守護大名になれず、実力的には、三河国の国人衆に過ぎなかったが、家格は、足利将軍家に連なる、当時の最高位であった。
※2023年5月21日訪問※西大手門跡から東側へ進んで行きますかつての【外曲輪(追手曲輪)】の中を東に向かって歩いていますが、すっかり市街地に変貌しており、城跡の遺構は確認出来ず◆武蔵国・川越城(初雁城)中ノ門堀跡/埼玉県指定史跡◆①に続く
前述の通り、松平長親は、1508年(永正五年)に隠居し、長男の信忠に家督を譲った。信忠は、永正三河の乱に参戦しているが、確実な戦功及び、軍事的采配の記録は見えずに、大久保忠教の『三河物語』では、信忠を不器用者、即ち、統率者としての器量の無い者と呼んでいる。『三河物語』の著者、大久保忠教は、徳川家康の旗本である。『三河物語』は、松平信忠が、松平氏宗家の「家憲」として、当主の具備すべきである、「武勇・情愛・慈悲」の何れも備えていなかったと指摘し、暗愚、強情な人物とされた。そのため、
※2023年5月21日訪問※では早速川越城散策に出発ですJR川越駅で下車し、徒歩25分程の場所に有る【時の鐘】を見学そこから5分程歩くと、川越市役所の有る交差点へが見えて来ますこの交差点の角地にひっそりと建てられているのが【川越城大手門跡】の石碑ですこの大手門は城の西側に位置していることから【西大手門】とも称され、絵図によると馬出が設けられていたようです西大手門跡には、川越城を築いたとされる太田道灌の銅像も建てられていました✨また、市役所の玄関へ向かう途中には縄張りが彫られた【川越
松平信光の死後、1508年(永正五年)、今川氏親の名代、伊勢宗瑞の率いる、今川軍が、大樹寺を本陣とし、岩津城を攻めた。永正三河の乱である。伊勢宗瑞は、今川氏親の母方の叔父であり、後世、北条早雲と呼ばれる。当時、松平氏は、西三河に一族を分派して、伊勢宗瑞の本家である、京都伊勢氏に出仕していた。岩津松平氏の一族が、吉良氏及び、今川氏の麾下の国人層を圧迫していた。東三河では、今橋城主の牧野古白が、宝飯郡から、渥美郡に新たな勢力を築こうとし、渥美郡の支配力を高めようとしていた、田原
※2023年5月21日訪問※▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、河越城を守っていた後北条氏の宿老大道寺政繁が、上野国まで出陣して迎え撃つが降伏。前田利家の軍勢が河越城に入城した。徳川家康が関東に封ぜられたのに伴い、徳川氏譜代筆頭の酒井重忠が1万石をもって川越に封ぜられ、川越藩が立藩した。川越藩で最大の石高を領したのは越前松平家の17万石である。江戸時代には川越城を中心に城下町が形成され、小江戸と称された。城下は武蔵国の商工農の
※2023年5月21日訪問※埼玉県川越市の【川越城(初雁城)】を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼川越城は、埼玉県川越市にある日本の城。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれた。別名、初雁城、霧隠城。関東七名城・日本100名城。通常、川越城の名称を表記する場合、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多い。武蔵野台地の北東端に位置する平山城。1848年(嘉永元年)に建られた本丸御殿の一部が現存する(埼玉県有形文化財)。かつての城は、現在の初雁公園から川越市役
松平信光の死後、家督を継いだのは、三男の親忠であった。松平親忠は、松平氏の宗家を継いだとされるが、実際には、信光の嫡子は、長男の守家と考えられる。松平親忠は、後に松平宗家を簒奪する、松平清康の曽祖父であり、その孫の徳川家康の先祖であるため、後世になって、三男に過ぎない、親忠を嫡流としたと思われる。しかし、松平信光が、岩津城を継承させたのは、親忠の長男、松平親長とされている。そのため、松平親忠は、本来、分家扱いと考えられる。近年の研究において、松平信光の長男は、松平親長とされ
後世の徳川氏の主張では、松平郷の領主となった、松平親氏は、郷敷城を築き、嫡子の泰親と協力して、「中山七名」と呼ばれる、近隣の領主たちを滅ぼすと、勢力を拡大して、戦国大名の松平氏の基礎を築いたとされる。しかし、実際は、武力ではなく、買得により、土地を獲得したとの説が、有力視されている。松平親氏には、広親、泰親、信広、信光の四人の息子がいたとされる。しかし、泰親は、世代的に、親氏の嫡子ではなく、親氏の弟、即ち、得川有親の息子との説が、有力である。親氏及び、泰氏は、共に、生没年不詳の
丸岡城から再び京福バスで福井市内へ。丸岡城があるのは坂井市。東尋坊も坂井市にある。東尋坊にはまだ行ってないなあ。福井駅の手前の城町バス停で降りてやって来たのは養浩館庭園。北陸地方の冬の風物詩、雪吊りですね。湿った重い雪だから積雪での枝折れ防止。回遊式の日本庭園。福井藩の藩主の松平氏の別邸だったそうです。基礎のようなものが残っていて、茶屋が建っていたようです。手水鉢のようなものの中にここは湧水?書院造りの屋敷。書院の中は見学できますが、一部の部屋は修復中でした。新しい感
松平郷・・豊田市松平町赤原※徳川氏のルーツである松平家の屋敷があった所。徳阿弥と名乗っていた親氏(ちかうじ)は文武に秀で、慈悲深い人柄だった為、当時の松平家当主に見込まれ婿養子に入る。徐々に近隣の7ケ村を手中にし、松平家の勢力拡大のきっかけを作った。※親氏から七代目の清康が1534年に岡崎城を手に入れ、以後は岡崎城を本城とした。家康は九代目で徳川初代となる。松平東照宮(国指定文化財)※元和5年(1619)家康を合祀し、昭和40年に親氏を合祀。上から、鳥居と拝殿、本殿、松平郷館(
ハタハタお鍋にカモネギ入れて。構ってちゃんぶりそっくりミテコ。絶対にやってはいけない大河ドラマ。いらぬお世話だが皇室ウォッチャー・皇室ブロガー・皇室チャンネルYouTuberにお伝えしよう。皇室ウォッチャーに告ぐ〜おサラの魔女と妖魔の糾弾だけでは根本は解決しない〜徳川・松平の、徳川・松平による、徳川・松平のための歴史改竄とNHK大河ドラマ。その大河ドラマは廃止を迎えた。徳川家康を崇め、その一族子孫で再び日本を支配しようと暗躍するカルトの終焉。その勢力は政治や芸能界そして皇
6月4日(土)に知立市、岡崎市方面に電車乗車の外出をしました。目的は、次のようなものです。①知立神社の花菖蒲を見に行く。(花菖蒲神社)②岡崎市西域の古墳を見学する。(前半後半)メインは①です。でも、行ってみますと、こんなものも、にわかに目的に加わってきました。③知立市散策。(懐古東海道)④岡崎市散策。(岡崎城八丁味噌)打ち消し線のものはブログにアップ済み私、この日1日で、約19㎞歩いてしまいました。全部終わったようなんですが、「④岡崎市散策。
矢崎川沿いの集落、吉良町酒井の稲荷神社です。詳しい地図で見る稲荷神社全景。境内向かって右手は公民館で、神社としての敷地はそれほど広くない。鳥居は昭和三十一年十月建立、「岡﨑市門前町刻清水組石材会社」の銘があった。入口左手の高い台座に載った灯篭は文化八年(1811)、鳥居の前の一対の灯篭は文政十二年(1829)のもの。玉垣は吉良町宮迫の神明社で見たのと同じ、夫婦連名で奉納する「おしどり玉垣」スタイル。境内南東から、といっても1枚目とあまり変わらないが。本殿
鴛鴨城は応仁2年(1468年)松平親光によって築城十八松平家の一つ鴛鴨松平家の祖親光の後、親康、親久の三代の居城永禄4年(1561年)に四代忠久が西尾城に移り廃城豊田市には徳川家の祖松平家の城が多い城の近くに墓所豊田市は、遺跡・歴史遺産・古墳等を丁寧に保存説明板等設置しており結構分かりやすいメイはボーン投げかわいい
●德川家康の家系図(将軍家)(完)◎江戸城(江こう城・千代田城。皇居)(武蔵国豊嶋軍江戸。東京都千代田区千代田)松平広忠(次郎三郎)(1526年6月9日~1549年4月3日)妻・於大の方(父・水野忠政)①徳川家康(1543年2月10日~1616年6月1日又大坂夏の陣にて死亡?)②徳川秀忠③德川家光德川義直(尾張家)徳川光義徳川綱誠(つなのぶ)徳川頼宣(よりのぶ)(紀州家)徳川