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浄土寺にあります、松平忠直の墓参りです。松平忠直は、徳川家康の孫になります。松平忠直江戸幕府2代将軍秀忠の兄である結城秀康の長男として文禄4年(1595)に大坂で誕生しました。母は中河一茂の娘です。慶長12年(1607)、忠直が13歳の時に父の秀康が病没したため、領地67万石を相続しました。しかし、幼年の忠直の相続には反対するものもあり、就任当初から重臣の間ではいろいろと対立があったようです。慶長19年から翌元和元年(1615)の大坂冬の陣・夏の陣では、総数1万5000余りの兵を率い
今回も、白山を散策します。参拝したのは、浄土寺です。永第供養塔本堂浄土寺1628年(寛永5年)、信蓮社単誉了宅によって開山された。当初は伝通院の裏に位置していた。1651年(慶安4年)、北ノ荘藩元藩主松平忠直が前年に死去し、単誉了宅が忠直の遺骨を携えて江戸に入府、子の松平光長が檀家となり、寺院として整備されることになった。その後1653年(承応2年)に現在地に移転した。よって開基を松平忠直としている。御朱印は、行っていませんとの事です。
大僧正天海(247)天草の一揆は、静かに進められていた。26日には、すでに大矢野の浄土寺が焼討されていたのである。27日には、渡辺小左衛門(伝兵衛の子息)が40~50人の農民を連れて、「宗門への立ち帰り」と「転び証文の返還」を求め、栖本郡代・石原太郎左衛門の役宅に押しかけた。28日に、三宅藤兵衛は、本渡、志柿、島子方面へ斥候を出している。藤兵衛の家人・山本五郎兵衛、亀井六郎右衛門が大矢野の異変を聞き付け、小島子まで行くと、庄屋善左衛門が農民を引き
大僧正天海(76)「(七月)十六日伏見城へ三條大納言實條卿、勅使して参向あり。岩倉木工具堯は、女御の御使に参る。」(「台徳院殿御實紀」)16日、伏見城に三條大納言實條卿以下、多数の公家・門跡・諸大名が訪れた。さらに、18日には公卿殿上人が伏見城に入ったのである。家光は、参内のため伏見城を出ると、施薬院で御衣冠に着替えた。国持大名・四位五位の大名は皆、参内の御供をした。「廿七日今度御上洛は京都にして、征夷大将軍の重職を大納言殿へ御與奪あるべきとの御
大僧正天海(73)さて、こうして忠直の人生を振り返ると、私には、どうにも腑に落ちぬことがある。それは、忠直が大坂夏の陣であれだけの大功を挙げたのに、幕府から何の加増もなかったことである。「一将功なりて万骨枯る」(「己亥歳」曹松)武士の世界では、武功を挙げたなら、加増されるべきものなのである。武将が一つの武功を上げるためには、多くの配下の家士が命を落す。そのように命をかけて武功を挙げた家士に、恩賞で応えなければ、何のために武将は存在しているのか、という
大僧正天海(72)「(元和九年二月)十日、越前国北庄城主宰相忠直卿致仕して、豊後国萩原に蟄居せしめられ、厨料として千石宛行はる。」(「台徳院殿御實紀」)さすがの幕府も、このまま放置はできなかった。「江戸に出向けと申しても、出てはこないであろう。」「無理強いすれば、合戦となりましょう。」「合戦になれば、有能な譜代家臣は皆死ぬであろうな。」「そもそも大権現様の御孫様で、上様の御婿様であるぞ。その方と合戦となれば、天下の笑いものでございます。」幕閣
大僧正天海(71)「十月八日、是ヨリ先、越前北庄城主松平忠直、狂疾ニ罹リ、屢(シバシバ)、無辜(ムコ)ノ家臣ヲ、手刄シ、又、恣(ホシイママ)ニ東覲(トウキン=参勤交代の事)ノ途ヨリ引返シ、狂暴彌(イヨイヨ)甚シ、是日、老臣本多成重、江戸ニ至リテ、之ヲ訴フ。」(「史料綜覧」)本多成重とは、本多重次の長男である。重次は「鬼作左」と呼ばれた剛直の武士で、気性が荒く、家康にも遠慮なく諫言した。片目、片足で、手指も欠けていたという。重次が出した有名な手紙として「一
大僧正天海(59)【宇都宮釣天井事件】「是日頃(元和七年三月)越前宰相忠直卿は強暴のふるまひ超過し、酒と色とにふけり、あけてもくれても近習小姓等を手討にし、また打擲し、参観の時至りても参らんともせられず。氷見右衛門といへるもの勘気かうぶり、家にこもりていたるに、討手をさしむけて焼討す。岡田源左衛門といへる者も、氷見と同じく籠居して一所に討死す。天下今は弓を袋にし、剣を箱に納め、世は泰平なれど、越前国はややもすれば、兵革おこるべきかと人皆安き心もなし。」(「台徳院殿御實
私:米国の現保健福祉長官、RobertFrancisKennedyJunior氏(→Wikipedia)の名前の日本語表記の揺らぎを観察すると、面白い。まず、オールドメディアは、「ロバート・ケネディ・ジュニア」が基本形だが、これが長すぎる、と思われる場合「ケネディ」が多い。但し、文脈次第では、JohnFitzgeraldKennedyの方と勘違いされる可能性を気にする必要があると判断した時は、「ケネディ長官」とする。(JohnFitzg
大僧正天海(56)そもそも、忠直の正室は、勝姫といい、秀忠の娘である。大変に勝ち気で、嫉妬心も強かったという。このため、忠直の不行跡は、将軍に筒抜けであったのだ。元和7年(1621年)5月、忠直は、参勤交代で江戸に向かうつもりで、北ノ庄を発った。ところが、今庄まで来ると急な病で半年ほど留まり、その後北ノ庄に戻った。これを不審に感じた幕府は、上使として近藤縫殿助用可を忠直の見舞いとして越前に派遣した。この用可は、元々結城家の家臣であったのである。ところが、翌年
大僧正天海(55)大坂城から越前に戻ると、胸に渦巻く怒りと空疎感に忠直は、日々悶々とするばかりであった。いつしか忠直は酒と女に溺れるようになる。「元和元年七月十七日大坂御帰陣、忠直卿今年より不行跡。」(「越藩貴耳録」)元和2年(1616年)4月、家康は75年の生涯を閉じた。忠直には形見として「國次の刀一振」と「銀50枚」を与えられた。秀忠の時代に入ると、義直・頼宣・頼房の三人(御三家)が重んじられるようになる。忠直は、常にこの三人より下位に置かれ、明
大僧正天海(54)家親は、山形で鷹狩りに出かけていて、その帰り道に楯岡邸に寄り、饗応を受けていた。その後体調を崩し、亡くなっていることから、楯岡甲斐に疑惑が向けられたのである。家親が亡くなると13歳の義俊が跡を継いだ。しかし、若年を理由に「義俊は、藩主に相応しくない、義光の四男である山野辺義忠を藩主にすべきだ。」と反対運動が起きてしまう。義俊派はこれに反発し、松根備前守は「義忠が家親を毒殺した。」と幕府に訴え出たのである。幕府は調査に入ったが、「義忠擁立は、
南光坊天海(208)大坂の役では戦死する者も多く、子や弟がそれぞれ家を継いだ。その外、土井利勝は岡山の陣で首級98を上げる武勲をあげ、2万石加増を受け、6万5千石となった。また、阿部正次は7千石を加増され、2万2千石となった。佐久間安政は3万石となり、佐久間勝之は1万石を給わり、1万8千石となった。木下利房には2万5千石、三枝昌吉は3700石加増となり、6千石になった。市橋長政に千石、久世山広当に500石、青木義精に300石、永井白元に200石加増となっている。
南光坊天海(205)【最期の放鷹】「廿六日、江戸より御使として土井大炊頭利勝駿府に参り、御密談数刻に及ぶ。」(「台徳院殿御實紀」)江戸から土井利勝が遣わされた。人払いをして、密談に及んだのであるが、何の話かは明らかである。「大御所様のこの度のご決断、誠に御尤もと存じます。ただ御所様は、越後高田は、越前と並び加賀候に備える要衝でありませば、このまま越後を忠輝公に任せしてよろしいのか、御懸念しております。やはり、いずれ改易か減封は避けられぬのであるまいか、
西尾宗次(にしおむねつぐ)概要?年ー1635年別名仁左衛門主君横田尹松→結城秀康→松平忠直→忠昌→光通氏族西尾氏父母西尾久右衛門(久作)兄妹不明妻不明子不明生涯いつごろかは不明だが、西尾宗次の父久右衛門は遠江の浪人西尾是尊の養子となり西尾氏を継いだとされている。1581年の高天神城の戦いでは、武田軍に属しており、落城時に横田尹松に従って落ち延びている。1593年に結城秀康の家臣となり、1601年に700石と鳥銃頭の役職を与えられた。1615年の大坂夏の陣
南光坊天海(180)「十日、家康、諸大名ヲ二条城ニ引見シ、紀伊和歌山城主・越前北庄城主松平忠直等ノ戦功ヲ賞ス。」(「史料綜覧」)5月10日、諸大名が二条城に集まり、戦勝を祝した。家康と秀忠は諸大名の勲功を褒賞したのであった。家康は、松平忠直・忠昌・直昌の功を激賞し、副刀「高木貞宗」と畫幅「牧渓ノ筆」、「初花の茶壺」を与えた。また家老の本多富正・成重、萩田主馬助にも茶器や刀を与えた。さらに主馬には、与力分として一万石加増した。また、浅野長晟の樫井の戦功
南光坊天海(175)【大坂夏の陣⑤】「天王寺岡山両口ノ戦西軍大ニ敗レ、将士大半戦没シ残兵城中ニ退却ス東軍ハ勝ニ乗シテ三之丸ニ逼ル」(「日本戦史大坂役」旧参謀本部)秀頼が桜門で待機していると、家康から和議の使者が来たという。秀頼はこれを拒んだが、城内には和議に応じるべきだという者もいた。和議を望む者の中には徳川の内応者もいたのである。内応者には、火を放つものが現れ、城内は混乱していた。さらに治長が茶臼山から帰還したが、大量に出血していて気を失った
南光坊天海(174)死んだはずの武将が生きていること自体は、不思議ではない。当時は写真もなく、指紋もDNA鑑定もないのである。しかし後藤基次は当時の有名人で、大名クラスとも交流があった。自身も巨漢で目立つ存在であったため、首実検で見誤ることは、まずないであろう。家康も大名衆のみならず、帝・上皇、公家衆とも交流があり、この後の政局を考えると、影武者で乗り切れるとは思えない。よって、この伝承は成立しないであろう。大坂城を目指して北上していた忠直と勝成は、
南光坊天海(173)「眞田左衛門ハ茶臼山より寄手の備を見渡し、合戦時分よし、大御所様の不着内にと、急き其段子息大助を以言上する。秀頼公ハ梨地緋威之御物具召、天王寺表御出張可有に而、桜門江御出、太閤より御相伝の金の切割廿本、茜の吹貫十本、玳琄の千本鎗押立、太平楽と云七寸の黒の御馬に梨地の鞍置引立、玄関より桜門幷御門外之堀はた迄、甲冑の武者とも次第を守て竝居侍懸たる其有様、太閤御在世の昔を存出し、御譜代の面々は落涙仕り候。」(「大坂御陣覚書」)信繫の使者・真田大助は
南光坊天海(171)家康の本陣に怖い顔をした高虎がやって来た。この男は元々顔が怖いので、怒った顔はなお怖い。「おお、与右衛門。昨日は大変苦労を掛けたな。」と家康が言っても、聞く耳を持たない。「大御所様、どうぞ具足をお付けください。」というと、片膝をついて頭を下げた。家康は、秀頼を「小倅、小童」と呼び、具足も着けなかったのである。「いらん。」と家康が言うと、「侮ってはなりません。」と厳しい目を向けた。その目は、泣き腫らした如く、赤く充血していた。昨夜は、
南光坊天海(170)信繁の家臣に三井景国というものがいた。戦闘中に負傷し、決戦を目前に大坂城を離脱し、知己であった本願寺の下間氏を頼り、療養のため京都の西本願寺に潜伏した。景国の傍には、家臣の我妻佐渡と西村孫之助が付き添っていた。景国を京都まで送り届けると、二人は大坂に戻ったのである。その際、伊達家の者に渡りをつけ、信繁からの書状を密かに手渡した。その宛名は片倉重長であった。書状を受け取った重長は大層驚き、主君である伊達政宗に相談した。政宗は、天を仰ぎ、涙を堪え
南光坊天海(169)忠直は、冬の陣において前田利常、井伊直孝らとともに、軍令に反し真田丸に突撃して、大きな被害を出した。竹束等の十分な装備も持たず、徒に敵の銃撃を受けたため、「迂闊である。」として家康から叱責を受けたのである。これに懲りた忠直は、八尾若江の戦いで軍令を墨守して、無闇に戦わなかった。すると今度は家康から「昼寝でもしていたか。」と罵倒されたのである。汚名返上のため、軍令違反の抜け駆けを決意した越前衆は、暗闇のなか貞重の先導で茶臼山の南を目指し
南光坊天海(168)【大坂夏の陣④】「六日、家康・秀忠、進ミテ河内平岡ニ陣シ、明日、進軍ノ部署ヲ定ム。」(「史料綜覧」)5月6日小雨が降りしきる中、家康・秀忠は、本陣を星田から2・3里前進させた。やがて使番が到着して、道明寺・八尾・若江で激しい戦闘が行われたことを報告した。その後、「先手、藤堂・井伊隊が合戦に及び、木村長門守を討ち取った。」との一報が家康に届いた。これを聞いて家康は、「敵を討ち取ったとは幸いである。機に乗じ、ただちに追討せよ。」と命
南光坊天海(151)「十六日、家康、伊勢亀山ニ至ル、所司代板倉勝重、書ヲ家康ニ呈シ、大坂方ノ金銀ヲ浪士ニ分配シ、武備ヲ整フルノ状ヲ報ズ。」(「史料綜覧」)16日、家康が伊勢亀山に入ると、勝重から書状が届き、大坂方が金銀をばら撒き、牢人を集めているとの報告があった。さらに尾張候・義直が名古屋城を出立し、桑名に到着している。17日、家康が、近江国水口に到着すると、秀忠からの使者・成瀬正武がやって来た。「御所様は23~24日頃までには入京いたしますので、それま
南光坊天海(127)これに激高した前田軍本多隊の奥村栄頼の部隊は空堀を下り、柵をなぎ倒し、城壁に迫ったが、真田隊から猛烈な射撃を受けた。栄頼は重傷を負い、多くの兵が倒されたのである。これを契機に前田軍先鋒と真田隊は激しい銃撃戦となった。この状況を見て、前田軍三番備えの富田重政隊も真田丸に向かったのであった。前田軍にとって、想定外の交戦であったため、竹束などの防弾装備も持っていなかった。このため、前線で死傷者が続出したのである。前田利常は、「壁際に近づ
xAI"Grok"と私とのやりとりです。私:UnitedStatesSecretaryofHealthandHumanServices(米国保健福祉長官)のRobertFrancisKennedyJr.の奇行について、考えてみる。米国というのは、歴史の無い国だから、Kennedy家が「看做し貴族」になっていて、CarolineKennedyの様に、それをいい形で利用できる例もあれば、当然その逆もある。「この国ではKennedy家の者は優
これまでの話(58)側室は子供を産み、一族を増やす手段である、と家康は考えていた。そのため当初は出産経験がある女性を好んで側室にしていた。しかし、後年になると若い側室を好むようになる。これは、自身の生殖能力の衰えを、自覚したためだと思われる。とくに聡明な女性を好み、女性官僚としても重用したという。於梶の方は太田康資と氏康養女(遠山綱景の娘)の娘で、兄・太田重正とともに遠山家で育てられた。武蔵遠山一族として知られ、遠山利景・天海の推挙により、側室になったという。
【問題】元和9年、松平忠直は豊後国へ配流されたが、最終的な居所は次のうちどこか?【選択肢】津守高島国分上畑【正解】津守【解説】元和9年(1623)、松平忠直は幕府から隠居を命じられ、豊後府内藩へ配流された。当初萩原に館を構えたが、3年後に津守に移された。同地には忠直館跡の碑が建てられている。
南光坊天海(72)「今村、清水、林の三家司は、ひたすら自休に荷担し、中川出雲とて今の少将忠直朝臣戚族たりしをたぶらかし、但馬を罪せんとす。但馬の訴を非據なりとて、しばしば忠直朝臣に讒せしむ。本多竹島幷に牧野主馬の三家司は但馬に荷担し、一藩双方にわかれたり。(中略)よて本多以下の宿老ども、こたび免され其罪を糺されしが、本多罪なきにさだまり、其申所明白なりとて再び国勢をあづけられ、また富正が一族本多丹下成重を新に朝臣に附られ、今村掃部が領せし丸岡の城をたまひ、二万石領せしめらる
南光坊天海(71)「慶長十七年閏十月十八日、この日越前少将忠直朝臣の家司等争論の事聞召、本多伊豆守富正、竹島周防、今村掃部、清水丹後、林伊賀等を江戸に召寄らる。」(「台徳院殿御實紀」)久世邸には152人の家臣が立てこもり、容易に落ちなかった。戦闘は翌日も続き、ついに久世但馬は屋敷に火を放ち切腹、家臣らも全員討死にしたという。富正勢も多大な被害を出した。今村盛次は、この様子を城の天守閣から眺めていたという。10月21日には、久世を支持していた由木景盛、上田隼人にも