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大僧正天海(77)秀忠という人物を一言で表せば、「忠孝」である。これはただの親孝行という意味ではない。家康に尽くすことは、彼の「生存」のすべてである。家康に認められ、後継者となることが彼の宿命なのだ。これは大変に辛いことで、生涯、家康の言動に一喜一憂する人生であった。だから、極めて真面目で、自分を助けてくれる家臣には丁寧に接していたのである。秀忠には致命的な欠点があった。それは武将としての才能がない事である。例えば、長兄の信康は勇猛で知られた。あの家
富部神社(名古屋市南区呼続)(とべじんじゃ)尾張国愛智郡愛知県名古屋市南区呼続4-13-38(P有)■旧社格郷社■祭神素盞嗚尊[相殿]田心姫命湍津姫命市杵島姫命菊理媛神「天白川」と「山崎川」に挟まれた笠寺台地にある、名古屋市南区「呼続(よびつぎ)」に鎮座する社。「東海道」「塩付街道」が近くの交通の要衝、古来より開けた地であったようです。◎中世までは一面が海であった尾張国。当地は湾に突き出した岬であったとされます。「呼続」の地名は、波が高くて危険であるので、渡し船の
南光坊天海(204)「どう思う。」と家康は唐突に尋ねた。「まず改易は免れぬものと思っておりましたので、正直驚きました。ただよく考えてみれば、勘当とは、大御所様と少将様の間のこと、幕府とはまた異なるのでしょう。」と天海は言う。「うむ、このままでは幕府から厳しい沙汰が出るであろう。先んじて、勘当すれば、オレが健在なうちは、処分保留となる。この間に名誉挽回ができればよいのであるが…。」と家康は暗い顔をした。「どうにも彼奴のやることは覚束ない。父親であるオレが見
どうも、ブネです。今回は関ヶ原の戦いについて島津義弘隊の目線で散文詩を書きたく存じます。「赤備えへの抵抗」慶長5年(1600年)5月15日巳の初刻(午前9:00)、霧がかかっている中で、関ヶ原にて戦いを始めるよう、徳川家康の四男ーー松平忠吉は井伊直政の陣を訪れ、彼に声を掛けた。井伊直政は赤備えの鎧に金色の平たい角が生えた赤い兜を身に着けていた。「舅殿、我が初陣を関ヶ原で派手に飾りたく存じます。大坂方の大大名ーー宇喜多秀家へ攻撃を仕掛けましょう」井伊直政は徳川家の家来であると同時
かんしゃり感謝離***こんばんはl'EtoileBleueです日本は、ゴールデンウィークですね皆さま、いかがお過ごしでしょうか?新緑が眩しい大好きなこの季節お陰さまで、われらも日々健やかに暮らしております^^前回のブログ投稿からあっという間の2週間いやぁ、時の経つのは本
彦根城天守、最上階にて…彦根城の天守は、3層3階地下1階の複合式望楼型で、最上階には実用的な窓はありませんが、花頭窓が取り付けられています。急な階段を登った先には、最上階から目の前に琵琶湖を一望できる絶景が現れます‼️とのことですが…琵琶湖の方向がどちらか分かりませんが、何れにしても、この天気では(笑)彦根城の天守から、再び、桜が咲き誇る城中へ🌸こちらの時報鐘は、1844(弘化元)年に彦根12代藩主・井伊直亮のに鋳造したもので、当初鐘の丸にあった鐘の音が城下の北の隅にどどかなかったの
これまでの話(57)「お住まいはどのようにされますか。」と聞かれたので、広大な寺院を見て回った。すると、東塔の南光坊という地は荒れ果てていて、人が住んでいる気配がない。柴垣が崩れ、門は朽ち果て、境内には雑草が生い茂っている。「ほう、さてはここを我が住居としよう。」と天海は言った。「いやいや、お待ちくださいませ。ここはかつて関白秀次さまが、悪行の限りを尽くし、その不浄を嫌い、誰も住み着かなくなった土地でございます。」というのである。天海が境内を進み、本堂に入る
徳川家康の四男、松平忠吉の墓があるらしい性高院。マンションの中に入ってまして、写真を取り忘れたのでネットからお借りします。僕が見たかったのは、マンションの駐車場の一角にある、双体地蔵石碑。なかなか来る事が出来ず、やっと見る事が出来ました。名古屋、歴史探検のスタンプ
ふゆうらら冬麗***こんにちはl'EtoileBleueです昨晩は冬至でしたね(毎年12月22日頃、今年は21日でした)***今年もいただきましたもぎたてのはな柚子たち昨晩(冬至の夜)早速柚子風呂で陽のエナジーを存分に享受しての・・・ふゆうららな
南光坊天海㊱「七之助(親吉)、古来より尾張美濃は天下の趨勢を決める要地だ。オレは丹波篠山に城を築いた。これは、大坂城の搦め手であり、喉元の匕首である。また西の正面には、娘婿の三左衛門(池田輝政)を姫路に入れて、三面小天守の堅城を築かせた。東正面は、京に伏見城があり、近江に彦根城がある。駿河に駿府城があり、武蔵に江戸城があるのだ。だが、よいか。ここ、彦根と駿府の間には清洲城しかない。清洲は五条川がしばしば氾濫し、土地は湿地帯で、籠城の際、水攻めされる恐れがあるのだ。
南光坊天海㊱「慶長十四年十一月十二日、常陸介頼宣朝臣を遠江駿河両国五十万石に封ぜらる。」(「台徳院殿御實紀」)徳川頼宣は慶長7年(1602年)、家康の十男として伏見城で生まれた。母は於万の方(養珠院)である。(秀康の母・小督局とは別人)幼名を長福丸といい、家康の元で育てられた。武田家を継いだ武田信吉が死去すると、僅か2歳で遺領を相続し、水戸20万石の藩主となったが、実際には水戸に入ることはなかった。慶長11年(1606年)、5歳で元服し、従四位下侍従に任じら
南光坊天海⑰「慶長十四年正月、幕府歳首ノ儀アリ、秀忠、豊臣秀頼、竝ニ使ヲ駿府ニ遣シ、家康ニ歳首ヲ賀ス。尋デ、諸大名モ亦、駿府ニ参賀ス。」(「史料綜覧」)慶長14年(1609年)正月、江戸城と駿府城には諸大名が挙って拝賀に訪れ、大坂からも使者が訪れた。正月7日に家康は、徳川義直を連れて尾張清洲に向かって出立した。道すがら鷹狩などをして、10日から13日には中泉旅館に泊まり、また鷹狩をしながら吉田まで着いた。15日、吉良まで来ると、太刀を帯びた10人ばかりの人々が訴
岐阜県を後にし、滋賀県を走行中。賤ケ岳の名を発見。ここが賤ケ岳の戦いの舞台かとSAへ立ち寄ったが何もありませんでしたw福井県へ着。そして、こちらが福井城跡。現在に残る遺構は内堀と本丸のみですが、石垣はしっかりと現存しています。結城秀康像こちら地元人には大変評だそうですが、実物見て確かにこれは…w頭身がおかしなことになってるでござる。徳川家康の次男であり越前松平家藩祖。武勇・知略に優れた武将だが跡継ぎには選ばれなかった…二代将軍・秀忠も兄・秀康にはもの凄い気を
南光坊天海③さて、家康には多くの妻妾がいた。「正室」「側室」という区分は、江戸時代からともいわれるが、通説では最初の正室は「築山殿」である。築山殿は長男・信康と長女・亀姫を産んでいる。築山殿と信康は天正7年(1579年)に謀反の疑いで自害(殺害)している。なお亀姫は奥平家に嫁いだ。二番目の正室は「朝日姫」で、秀吉の異父妹である。天正14年(1586年)二人の結婚は盛大に執り行われたようであるが、実質的な夫婦関係ではなかった。子をなすこともなく天正18年(1590年)
南光坊天海②「慶長十一年六月朔日、江戸にて、御所の二郎君生れ給ふ。御台所の御腹なり。のちに国松君と称せらるるはこれなり。」(「台徳院殿御實紀」)慶長11年(1606年)6月1日、江戸では大きな地震があったという。この日、秀忠の三男・国松(国千代)が江戸城西の丸で誕生した。ついに、お江は待望の男子を産んだのである。これが後の駿河大納言・徳川忠長である。お江は乳母がいたにも拘らず、自ら国千代を育てたというから、お江の喜びのほどが分かる。「慶長十二年二月廿
天海(265)結構な歴史好きでも二代将軍秀忠を「凡庸」と評すものは多い。特にテレビドラマでは「優秀」な家康と「愚息」である秀忠を対比させて、面白おかしく描くのが定石である。視聴者も、その方が見ていて愉快なのであろう。ただ、現実の秀忠は「愚息」等ではない。確かに、戦働きでは結城秀康や松平忠吉の方が、適性があったかもしれない。だが、それはこれからも戦乱が続くという前提の話である。二代目の秀忠に求められたのは「治世」であり、「軍事」ではなかった。その意味で、秀忠は優秀
天海(253)「慶長九年十二月廿七日、是ヨリ先、朝鮮国王李昭、重ネテ、孫文彧及ビ僧惟政ヲ対馬ニ遣シテ、去歳ノ諭旨ニ答ヘ、又我国情ヲ探ラシム、是日対馬府中城主宗義智、幕府ノ命ニ依リ、二使ヲ率イテ京都ニ入ル。」(「史料綜覧))「又朝鮮の僧松雲、孫文彧、金孝舜対馬に来る。これは宗対馬守義智江戸に参覲せし時、さきに豊臣太閤朝鮮を伐しより、両国の通信永く断えたり。しかりといへども当家に於てはかの国に於て更に恨とする事なし、彼隣好を結ばんとならば、其請所をゆるすべし。我よりあな
天海(234)「慶長五年の冬、権現(家康)様大坂於西丸、忠隣を被爲召、台徳院(秀忠)様、三河守秀康様、下野守忠吉様此三人之内、いつれを御家督と可被成候と御尋ねの時忠隣御請には、台徳院様総領にて、特に只今迄、少しの御越度も無御座候由御請、」(「大久保家留書」)大久保家の文書によると、慶長5年(1600年)冬に、大久保忠隣は家康に呼び出され、秀忠、秀康、忠吉の三人のうち、徳川家の家督を譲るとしたら、誰が良いかと尋ねられた。忠隣は、「秀忠様はこれまで何の落ち度もないの
名古屋市中区大須にある大光院です。昭和初期の区画整理によって境内地に道路が作られることになり、明王殿などは従来より北に移され昭和9年に開通したこの通りは大光院の朱塗りの山門から「赤門通り」と命名されたそうです。大光院の山門です。名古屋市教育委員会の看板によるともともと清州にあったお寺で、徳川家康の四男で尾張清洲藩主の松平忠吉が清州に創建しました。松平忠吉の死後忠吉の法名をとり大光院と称し清州越しで大須に移されました。
天海(213)さて、徳川家の論功行賞は時間をかけて実施されたようである。まず太閤蔵入地は全国に200万石ほどあったとされる。これらは豊臣政権の直轄領で大名や吏僚・豪商などに管理を任せ、税収は政権の運営費などに使われた。この蔵入地の大半が没収され、さらに京都・大坂・堺・長崎の都市管理と金山・銀山などの鉱山も接収されたので、豊臣家は単に摂津・河内・和泉を領する65万石の大名になったのである。つぎに関ケ原の戦いで大きな功績のあった大名は揃って西国に配置されたのであった
しおりひも栞紐***おはようございますl'EtoileBleueです1年前の一昨日のブログ記事がコチラ↓一足お先に夏祓いしています^m^*よろしければご覧ください***昨日は今季初の猛暑日で☀わが家の辺りの気温は、33.3℃だったそう^^;そして今日は、朝
天海(203)「それで、オレは天国銘の小脇差を出羽守に渡して、後から半蔵に命じて、備前大兼光一振りと馬一疋、黄金100両を届けたのだ。それから何年かたって、オレが駿府にいた時に、一人の少年が出羽守の書状をもって訪れた。出羽守の息子で名前は喜多村弥兵衛という。こいつがおれの家臣になりたいという。眉目秀麗で日頃の鍛錬も怠らず、読み書きはもちろん、算術もできるというのだ。それで試しに使ってみたのだが、大変よろしいという事で福松丸(忠吉)の小姓にした。同世代だし、気もあった
かくしゃく矍鑠***こんにちはl'EtoileBleueです前回のブログ↓にも記した第一歩『せきをきる』せきをきる堰を切る***おはようございますl'EtoileBleueです1年前の昨日のブログ記事がコチラ↓…ameblo.jp自ら踏み出した一昨日の6月4日はわたしにとって枢要な日となりました・
ふうがわり風変わり***こんばんはl'EtoileBleueです1年前の昨日のブログ記事がコチラ↓今年も、萬葉植物園でお頒かち戴いた『竹柏~なぎ~』の苗と一緒にやって来た『萬葉植物候補生の草2024』↓一人でクスクス笑いながら、育てています
つちのとみ己巳***こんにちはl'EtoileBleueです一年前の今日のブログ記事がコチラ↓鳳来山東照宮でお頒かちいただいた『寅童子』の起き上がりこぼしを昨年の大河ドラマ『どうする家康』の三河家臣団に見立てて遊んでいます^m^*よろしければご覧ください^^
徳川家康には、十一人の男子がいました。長男信康1559/4/12〜1579/10/8享年21才織田信長の娘と結婚するも、信長の命令で切腹。1560年5月19日桶狭間の戦い今川義元敗死。人質から解放され、岡崎城に帰還。1572年12月22日三方ヶ原の戦い武田信玄に徳川方(織田の援軍を含む)は大敗。次男秀康1574/3/1〜1607/6/2享年34才豊臣秀吉の人質、養子となる。関ケ原の戦いでは、会津の上杉景勝、水戸の佐竹義宣の南下を防いだ。初代福井藩67万
てんがせん点が線***こんにちはl'EtoileBleueです1年前の今日のブログ記事がコチラ↓よろしければご覧ください^^***今日からのゴールデンウィークを前に一昨日の4月25日ひとり出かけた清洲城↓と清洲城|清須市観光協会|英気充実きよスポット歴史・人・食が織
ちゃくもく着目***こんばんはl’EtoileBleueです1年前の今日のブログ記事がコチラ↓かわいいヒヨドリのお尻に癒されます^^よろしければ、ご覧ください***先週木曜日、4月11日の午後名古屋駅のオフィスに行く夫を送り帰りの待ち合わせ時間まで過ごしたのは・・・
ふきぬける吹き抜ける***こんにちはl'EtoileBleueです一年前の今日のブログ記事がコチラ↓コチラ↓のブログ記事も今日のブログに関連しています『そばだてる』そばだてる欹てる***こんにちはl'EtoileBleueです先日、友人のCOCONちゃんからいただいたバ…ameblo.jp
そびえたつ聳え立つ***こんばんはl'EtoileBleueです一年前の昨日のブログ記事がコチラ↓20代からの友と美味しいお蕎麦食べてます^m^*よろしければご覧ください^^***今日3月5日は、二十四節気の『啓蟄』虫たちが、そろそろ動き始める頃ながら今年の