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車窓から見える富士山は、冬が近いというのにほとんど雪がなかった。京都での行き先は、新幹線の中で決めた。気の向くままに、秋の京都。くろ谷金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)法然上人が比叡山の修業を終え、浄土宗最初の念仏道場を開いた場所だそう。秋の特別公開で、頭上の山門にも昇ることが出来た。
12月5日は松平容保公のご命日です明治26年(1893年)12月5日没する!!会津藩の第9代藩主で江戸幕府京都守護職幕末の動乱大政奉還で京都守護職は廃止会津へ帰りその後会津戦争!!若松城で籠城戦をするが新政府軍に降伏吉岡淳も会津戦争に参戦??晩年容保公は鳥取藩に預けられ東京に移されたその後明治13年(1880年)容保公は日光東照宮の宮司になる明治26年(1893年)12月5日に東京小石川の自邸にて肺炎のため死去享年59歳義
2025-11-16商店街の中を歩きます天井からの垂れ幕が興味をそそります会津藩駐屯地門だけあります松平容保クンも来たことあるかも?トコトコ〜はぃ到着ぅ〜鳥せい本店ここはおひとりさまでも入れるのん無料チケットで、垂れ口とかす汁をいただきました尿管結石から、久しぶりの本格的なお酒ですかす汁めっちゃ美味しいてか、ここのお店は、なにを食べても美味しいのん垂れ口うまっ♪後は、鳥三昧ですまろんは、鳥せいの『皮』が大好きですこの日は3本いただきましたつくねねぎま追
義に死すとも不義に生きず(松平容保)
私の恩師「新井信介」先生の動画です特別な内容です-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。youtu.be伝統回帰、後醍醐天皇の南朝が本来の天皇家であるとか、藤原不比等が藤原家に都合の良いように「古事記」「日本書紀」を編纂したとか、まぁ色々と議論されてきましたが、その一方で昭和天皇がアジアでかき集めた金塊を管理していわゆる「M資金」として思うように采配していた、と
2025-11-15枝葉に隠れて分かりにくいけど会津藩殉難者墓地入りまーす容保クーン来たよ〜なんかね〜容保クンの行きていた時代のことを今すこーしずつお勉強しているのだけどねなかなか容保クンの所まで辿りつかないよだけど、容保クンが若くして立派な藩主だったことはなんとなく分かってきたよ色んな決断をしなきゃいけなくて大変だったね〜グスンなんだか、涙腺がゆるくなっちゃうよそろそろ龍馬クンや中岡慎太郎クンのところへ行こうっとトコトコ〜中を通りますご挨拶して〜出てお辞儀しよ
武田惣角の遺品に、旧会津藩主松平容保より拝領した「羽織紐」と云うものが有ったのだそう。惣角は、生涯これを大切にしていた。この「羽織紐」について、松平容保から、直接、惣角に下賜されたものとする説があるようだ。明治になって「四民平等」のタテマエが実現していたとしても、旧会津藩主が一農民と会わなければならない合理的な理由を捜すのは難しい。当時、旧藩主と一農民との直接面会は「ほぼ有り得ない」と思う。それでは、旧藩主の羽織紐はニセモノだったのか?いや、それは間違いなく「ホンモノ」だったと思う
11月後半になってから、高市総理の答弁の影響で、中国からの観光客がごっそり減ったらしい。そんな連休中の11月23日、京都東山と一乗寺方面へ紅葉を見に行った。混雑を心配しながら蹴上を抜けて、朝8時40分頃タイムズ真如堂に到着。ガラ空きで拍子抜け・・・まずは法然院へ向かう。法然院・・・アタシにとっては54年振りの訪問らしいが・・・覚えてないw2歳当時の写真が残っているから、昔から思い入れがある場所なのに行ったことすら覚えていない不思議な場所となって今に至り、ようやく今回の再訪となった。
建礼門その右手に蛤御門の変の際に松平容保が陣をしいたところがあってその大銀杏が見事なんです仙洞御所西園寺家跡地松平容保本陣跡地の大銀杏まだ下の方は緑色仙洞御所鷹司家跡地紅葉て太陽光がないとなかなか上手く撮れないですね朝日のガンガン照る中で撮りました
京都守護職屋敷跡―幕末の京都を見守った権威の地京都市中心部に佇む一つの石標――それは「京都守護職屋敷跡」を示すものです。今では静かな街並みに溶け込むその場所も、幕末の動乱期には日本の命運を左右するほどの緊張と責務が渦巻いていました。京都守護職は、文久2年(1862年)、混乱の続く京都の治安維持を目的に幕府が新たに設けた重要な役職です。都は尊王攘夷運動の中心地として、志士たちや浪士の活動が活発化しており、治安は深刻な状況にありました。その重責を担ったのが、会津藩主・松平容保でした。彼の誠実
福島県会津若松市のシンボルである「会津鶴ヶ城」は室町時代の初め、今から約630年前の至徳元年(1384)に葦名直盛が東黒川館として造営したのが始まりとされています。江戸時代に入り、現在と同じ五層の天守となります。この鶴ヶ城は幕末の戊辰戦争で新政府軍の猛攻に耐え難攻不落の名城と称えられましたが、明治7年、明治政府の命令により取り壊され、現在の天守は昭和40年に再建されたものです。△明治5年撮影取壊し前の鶴ヶ城(新政府軍の攻撃の苛烈さが分かる)△再建された鶴ヶ城(今朝は朝霧に包まれる)△幻
https://x.com/_9105294027642/status/1761497726880289143?s=461872.11.21睦仁天皇暗殺テロ・クーデター後の伊藤博文と西郷隆盛。幕府代表松平容保は萎縮。最後の福井藩主松平の写真発見。松平は横井小楠の米民主主義実現を支持。今日、リンカーン独立宣言が憲法前文に含まれ一部実現。pic.twitter.com/KytAI3IkxN—片山徹(@_9105294027642)2024年2月24日
前回までの記事はこちら👇『2509猪苗代湖サイクリングEX会津観光①』前回までの記事はこちら👇『2509猪苗代湖サイクリング③』前回までの記事はこちら👇『2509猪苗代湖サイクリング②』前回までの記事はこちら👇『2509猪苗代湖…ameblo.jp御薬園は、会津藩の薬草園だそうです。手前に見えるのが楽寿亭、奥が御茶屋御殿です。楽寿亭は納涼・茶席・密議等に用いられたそうです。戊辰戦争の刀傷が残っています。くねった小道の両脇の苔がきれいです。日本の回遊式庭園は少し歩く毎に
戊辰戦争の時、江戸が焼けなかったのは、徳川慶喜が恭順の意を示し、また、パークスが西郷隆盛に攻撃を中止させた。ヨーロッパでは降伏した相手を叩き潰すのは「野蛮」とされている。だから日本を「野蛮国」と見なされないよう攻撃を中止し、江戸をそのまま残し、東京として統治した。江戸庶民からの反発も無く統治できた。しかし矛先は会津藩・庄内藩に向かった。会津藩主・松平容保が謹慎しても新政府軍は会津征討を実行した。会津藩主・松平容保や家老が罪の裁きを受けることを新政府軍は要求した。会津は戦うしかな
京都旅’25/8月その⑧です。旧京都府庁の話の最終章、今度はお庭です。作庭を手掛けたのは、誉れ高い七代目小川治兵衛。都内で治兵衛の庭の痕跡が見られる場所といえば、旧古河庭園とか国際文化会館とか。京都南禅寺界隈で以前夕食をとった際、店の庭も七代目小川治兵衛によって手がけられていて、小川の京都での活躍ぶりが、こんなところにまで及んでいるのかと思ったものです。庭園を見る前に、まずは入口付近に京都守護職屋敷跡の石碑がありました。京都守護職についたのは、会津藩主松平容保。とい
旅は最後の1日(9月30日)この日はホテルから近い五色沼の中の毘沙門沼から民謡で有名な会津磐梯山は、明治中期にガス爆発のような大きな噴火があり、その噴火によって川を堰き止めてできた湖沼群は200以上あるということです。その中で水の色が流入する火山成分によって様々な色になる沼があるようです。それらの沼を称して五色沼というようで、一つの沼の名前ではないらしい。その五色沼の中で一番面積が広いのが毘沙門沼で水の色は青みがかったエメラルド色…のはずてした。が、近年
今日も全力で「まいにち綾野剛っ!」「綾野剛の病」をたのしむやちゅはぴです今日も遊びに来てくださってありがとうございます昨日は会津若松の旅の1日目を読んでいただきましたが『会津若松の旅【1】~大内宿→塔のへつり~』今日も全力で「まいにち綾野剛っ!」「綾野剛の病」をたのしむやちゅはぴです今日も遊びに来てくださってありがとうございます2025年9月上旬。去る6/8に【♯国…ameblo.jp会津若松の旅2日目も、驚くほどの弾丸日程でした2日目の行程松平
時間が無いけど「幕末維新史への招待全国諸藩編」「会津藩」だけ読んだ。朝廷と幕府の取次を会津藩がやってたってことで良いのかな?薩摩藩は言うても幕藩体制の一員にすぎないから、薩摩藩の意見は幕府側の小さな意見として、朝廷に伝える前に会津藩が却下してたわけか・・・それで薩摩藩は激しく会津藩を憎むのか。ついでに調べたけど、白河藩主時代の松平定信は天明の飢饉のとき、会津から食糧を融通してもらったという記憶があったけど、会津も同じ東北で余裕があったのかなあとwikiで・・・どうやら会津藩家
雨予報であったが御神事が始まったら光が令和7年9月20日会津まつり2025令和7年9月20日2025会津まつり先人感謝祭り天気予報は雨だった雲が多いがなんとかもってほしい今にも雨が降りそうな空に会津藩縁の旗があがる松平家保科家蒲生家上杉家加藤家伊達家ワタシは先人感謝祭事に参加するのは初めて神職の方々の笛の音が響き鶴ヶ城の場のお清めがはじまった会津藩は神道ご奉仕される宮司さま諏訪神社愛宕神社田中稲荷神社神明神社厳島神
2024年9月16日から21日までの5泊6日の日程で京都、大阪、神戸を訪れた際の様子をお届けしています。旅も5日目に入り、chuの大好きな京都の個別スポットを巡る旅へと入りました前回はこちら👇(てか、まもなく実際の旅から一年が経過してしまいますので、急げ急げてか)『「三都物語」京都/大阪/神戸の旅その20(^^)v~曼殊院門跡にて一日を終える~』2024年9月16日から21日までの5泊6日の日程で京都、大阪、神戸を訪れた際の様子をお届けしています。旅も4日目に入り、chuの大好きな京都の個
✨️憧れの地へ✨️今日も全力で「まいにち綾野剛っ!」「綾野剛の病」をたのしむやちゅはぴです今日も遊びに来てくださってありがとうございます少し前に書いた『#国内の観光したい場所✨殿に会いに行く!』今日も全力で「まいにち綾野剛っ!」「綾野剛の病」をたのしむやちゅはぴです今日も遊びに来てくださってありがとうございます先日、『歴女になりたい?!』【綾野…ameblo.jpの記事の通り旅に来ています国内にもまだまだ行ったことのないところがたくさんあることと、今
切り紙『【星の民】世界遺産縄文@東北スパイダーマンを遮光器土偶がみていた世界』令和7年縄文展国宝土偶がやってきた『遮光器土偶のみていた世界』東北開催東北歴史博物館つづき『”北鑑【蝦夷文書を紐解く】その1”イシカホノリ縄…ameblo.jp今は遮光器土偶と呼ばれています今後はなんと呼ばれるでしょーか🤣縄文研究は進化中新たな視点でその世界観を感じるたくさんの遮光器土偶をみた後はいつも必ず見届ける常設展東北の歴史古代から近世までテーマの中に切り紙。。会津の
『DNAで分かるまで。』まだ妄想かもしれません。でもここに戻ってから20年が経ちました。残っていたのは母の伝承のみ。それだけを頼りにここまで歩いて来たので、その足跡を残して(…ameblo.jp『DNAで分かるまで。<11>』まだ柿本人麻呂が分かりません。妄想も限界に近づいてきたのでしょうか。ただ、この西福寺であり柿本稲荷神社である所には、芭蕉の句碑が建てられています。「しばら…ameblo.jp発端は、松本日世先生のブログだった。※松本先生は『デルタ・ス
平成16年刊行から20数年、今回の号で完結だそうです。私は「維新後の会津松平家」を執筆しました。内容は下記のとおりです。季刊2025no.50完結記念村上泰賢、冨田國衛、大場美弥子、河野十四生、飯沼一元、町田久次、三角美冬、池月映、中原正男、浦出卓郎、伊藤哲也ISBN978-4-86762-062-5B5版・並製・186頁歴史を学ぶ学士たち〜50号へ寄せて.・・・・・・4安藤智重、大石邦子、鶴賀イチ、長谷川城太郎著『会津人群像』休刊に寄せて大河ドラマの次の目標・
新政府軍と会津藩の戦い(戊辰戦争)で亡くなったのは白虎隊だけではなかった。女性たち230名(会津藩士の妻子)も戦死や自刃で命を散らした。その霊を弔う「会津藩殉難烈婦の碑」が下山路のそばにあった。1928年、白虎隊生存者ら篤志家によって建てられたものだ。さらに下山路を進むと、個性的な建物があった。「会津さざえ堂」だ。1796年建造、六角形・三層構造のお堂で、国の重要文化財だ。外観がさざえに似ていることから、その名前が付いたとか。拝観料は400円。なんとなくスルーしたが
保科正之を藩祖とする会津松平家は実質的には戊辰戦争時の9代容保(かたもり)まで続きました。保科正之の墓(土津神社):福島県猪苗代町概要2代将軍徳川秀忠の四男として生まれ、兄・甥にあたる3代家光・4代家綱を補佐した、会津藩祖保科正之の墓は土津(はにつ)神社にあります。正しくは保科正之の死後、祭神として土津神社が創建されました。葬儀に際し死穢を嫌う神道で、神社全域が墓...nomeshikoki17.fc2.page保科正之は猪苗代町の土津(はにつ)神社に墓所があります。2~9代の墓
七月二十一日です。月曜日。七月が終わりを迎えつつあることに対するのは恐怖心では無く、静観ですね。もう無感情が一番なのかも知れぬ。今日も二つのお題を。・島津義弘。・松平定敬。【島津義弘。】元和五年(一六二一)の今日、島津義弘が死去しました。薩摩出身の猛将として著名ですね。天文四年(一五三五)七月二十三日、島津貴久の第二子として生誕。織田信長の誕生の次の年なんですね。最初は、忠平と称し、義珍を経て天正十五年(一五八七)に島津義弘と名乗りました。翌年には、羽柴姓を授かりました。元
令和7年7月18日(金)追記。―――――追記開始映画『侍タイムスリッパ―』が令和7年7月18日(金)に地上波で放送されました。安田淳一監督が一部を編集し直した特別版とのことでしたが、「会津観光史学」的ウソ話の代表選手とも言える「埋葬禁止令」の件がすっぱりカットされていました。当然でしょうね。多分、会津若松関係者からも指摘や批判を受けて、修正せざるを得なくなったのでしょう。問題なのは「埋葬禁止令」だけではありません。長州・薩摩が勢いづいた挙げ句に会津に戦争を仕掛けたわけでは
今まで、会津でも知られていなかった松平容保親子の新たな写真が見つかりました。福島民報掲載です。自宅で原稿書いていたところ、知り合いの権東品さんから、電話が入りXにて流れていると教えていただき掲載された旨を把握しました。
まず第11回から。池田屋事件から禁門の変(蛤御門の変)へのつなぎとなる回。3週前からずっとフラグが立っていた佐久間象山の暗殺事件が序盤で。奥田瑛二さんが本人そっくりの風貌で名演でした紀行はもちろん佐久間象山遭難之碑。隣に大村益次郎遭難之碑があることには触れられずでした。池田屋から遭難の地、去年2月に私が巡ったのと同じ巡りでした。その時は全然意識してなかったのですが、蛤御門まで歴史と同じ巡りでしたその後、蛤御門の変~第一次長州征伐を経ての第14回。八重さんがいよいよ結婚す