ブログ記事481件
日付が変わりまして昨夜のNHKファミリーヒストリー高嶋政宏さんお母さんの寿美花代さん松平家の血筋ということは家康公とも血のつながりがある。。。うわ〜びっくりです戦国期三河松平氏の研究(戦国史研究叢書)[村岡幹生]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}
厭離穢土欣求浄土行ってみたかった岡崎の大樹寺に遂に行けた桶狭間の戦いで今川義元さんが亡くなり岡崎城まで戻る途中で、家康さんはこのお寺で織田勢に包囲されました。逃げ込んだ松平家のお墓の前で家康さんは何を考えたのだろうか。和尚さんから厭離穢土欣求浄土を説かれ・・・生き残ることを選んだというお話が残っています
はじめに20日〜21日は、どんな日でしたか私は...今日の出来事【2024年04月20日】今日の改善エアコン掃除が出来なかったので改善今日の成功愛犬のカット&シャンプーに成功明日の目標火災報知器の電池について電気屋さんで聞く【2024年04月21日】今日の改善Wワークでの運転で、焦った時に危険な状況になる傾向なため、焦っても落ち着いて運転するように改善今日の成功父方のルーツの謎1つ解くことに成功火災報知器の電池、電気屋さんに
榊原康政は徳川四天王のひとりてす。同じ年の本多忠勝や井伊直政に比べて、地味な存在です。康政は軍事と文才、政治的なことにも関与した武将でした。まさに、何でも出来て家康の信頼も厚く、2代将軍秀忠にも、『戦のことは康政に聞け。』と言った程厚く信頼されていました。榊原氏の祖先をたどると足利の庶流で仁木氏となり、三河に来て、榊原氏となります。康政の父親は酒井忠尚(四天王の一人忠次の叔父)の家臣でした。家康から見ると、榊原康政は、『家臣の家臣』でした。陪臣と言います。
松平信光隊大久保忠世隊2024岡崎市の家康行列になんと、なんと!!松平信光隊大久保忠世隊登場信光のことは記事に書いたので非常に思い入れがあるなんとしても、岩津隊と信光は見たかった間に合ってよかった松平信光殿登場白馬とグリーンのイメージカラーも岩津と信光にあっています!会えて、感動です✨岩津あっての松平岩津あっての家康公だからねぇぜひ、毎年見たい岩津の竹を使って作ら
3月上旬、愛知県安城市にある安祥城址公園に行ってきた。安祥城は松平宗家3代目の松平信光が入城し、以後、安祥松平家4代の居城となった。その後、色々な攻防があって桶狭間の戦い後、廃城となった。大乗寺が安祥城のあった現在の場所に建てられたのは、江戸時代の寛政4年(1792年)以降のこととのこと。クレスター水彩紙210g/㎡F6
今日は、我が愛読誌・月刊『致知』3月号に掲載された、水戸徳川家の流れを汲む讃岐国高松藩松平家の末裔で、同家に代々伝わる生き方教本”松平法式”を受け継いでおられる松平洋史子さんの特集記事から、その一部を抜粋・編集にてご紹介致します。◆◆◆◆松平家では、伝統的に〝つ〟がつく年齢(~9つ)までは、子供の教育・躾は家庭の中で責任を持って行うものだとされています。しかしこれは松平家が特別なのではなく、ひと昔前の日本では、子供の教育・躾は各家庭で行うのが当たり前
松平勝政は安土桃山時代の武将で、水野家の生まれだが久松松平家を相続し、徳川忠長の去った駿府城の城代となった。墓は駿府城の北西にある増善寺で、2基の宝篋印塔が並んでいる。
🍀2月14日🍀スタンプラリー参加中💜大樹寺山門💜💜大樹寺💜松平家4代親忠が文明7年に創建した浄土宗の寺院。桶狭間の戦いで敗れた家康公が逃げ帰り先祖の墓前で自害しようとした際に住職から「太平の世を目指す」教えを受け自害を踏みとどまったと伝えられる。大樹寺には、もう何度もお参りしています。松潤も訪れた特別な場所でもあります💜
2024.仲冬松平家、徳川家の菩提寺となる大樹寺を訪れて来たョ遠くから来てくれた友人を引き連れて、友人には初めてとなる岡崎市内を観光案内…伊賀八幡宮から次に案内してあげたのは、大樹寺でした…大樹寺もかなり久しぶりの訪問となりました…去年の大河ドラマの影響からか、駐車場は有料(500円/日)となり、本堂拝観も以前は案内人が各展示品などの前で説明してくれていたのが、自動音声へと変わっていました…ちなみに、敷地内にあるものどれも市、県、国の文化財に指定されています…山門(次の門の先に岡崎城が
2024.仲冬岡崎城から寺社好きな友人を連れて伊賀八幡宮を訪れたョこの日は何故か狭い駐車場が満車になるほど混雑していました…😱このお宮さんは、ハスの花が開花してる頃だったら最高なんですけどね…残念ながらその分殺風景ではありましたが…。松平家4代親忠により創建…9代家康までの氏神として、その後3代家光により、家康を祀り、日光、久能山と並んで、その後の将軍たちにより厚く保護されて来た東照宮になります…。枯れたハス池と随神門…神橋とハス池と随神門案内看板…随神門をくぐり、拝殿に向かいま
過去の系図を辿っていくと兄弟とはいえ、どちらが兄で、どちらが弟なのかわからなくなることが多いそれは、その時代に嫡男であるか、庶子であるか、母親の出身はどこか、さては私生児なのかと現代よりも、いろいろな事情が含まれるからである家系図にしても自分達一族に対して残す資料であるためできるだけ、自分達の威光を残したいという考えも含まれるだろう二代、三代と違えばいくら身内でも知らない人なのである
松平東照宮に行きました。良い天気で暖かく景色も素晴らしかった。松平家、徳川家の原点に触れた楽しい時間でした。
このシリーズ『長澤松平風聞記』は副題に『仏像記語り』とあるように岩津の地にて、400年の間人々の心の拠り所として信仰を集めていた妙心寺のご本尊阿弥陀如来立像の中に収められた「仏像記」と現在は円福寺となった妙心寺境内に残された長澤松平霊廟と、その墓から導き出される歴史を述べたものであるその墓が、本当にその人のものなのかその伝承は、本当に正しかったのか寺号替えされた理由は、本当にそうだったのか
1/5。午前中。伊賀八幡宮に初詣に行きました。門の前にキッチンカーも出てますね。徳川家康が常に戦勝祈願をしていた神社です。最強パワースポットですねぇ!文明二年(1470年)、松平四代親忠が松平家(徳川将軍家の祖)の氏神として武運長久・子孫繁栄を祈願するため、三重県の伊賀国から三州額田郡井田村へ社を移したのが始まりといわれています。神社内の建造物のほとんどが国の重要文化財です。随神門という門ですね。立派な門。門の裏(境内側)には、東照大権現・家
クラフトリース作家のyurimamaですいつもブログに来てくださり嬉しいですランキングに参加していますよかったらクリックお願い致します↓にほんブログ昨日は、義父の一周忌と永代供養の納骨でした。自宅で一周忌を済ませた後法然寺で永代供養の納骨に行きました。高松藩主の松平家の菩提寺である法然寺は今年で開宗850年になるお寺で、徳川家の帰依により発展した浄土宗のお寺です。ここは、永代供養のお骨が何十年かに1回骨仏になる永代供養の方式が取られています。ここならお寺がなくなる
龍城神社はあきらめほどなく近くにあります六所神社へむかいます🚙やはりこちらも参拝者が多いです🥲六所神社「六所神社」の情報は「岡崎おでかけナビ」で。松平家の産土神として松平家・徳川家の崇敬が篤く、現在も「安産の神様」として信仰されている神社です。徳川家康公誕生の際には、松平氏の産土神としての拝礼があったと言われています。5万石以上の大名だけが上ることを許されたという石段をあがると、極彩色の楼門、その奥に社殿が現れます。華麗な彫刻や彩色はいずれも…okazaki-kanko.jp
天気が良かったので今年のクーペ走り納め。せっかく注連飾りをつけたので、近所の神社で新年用の写真を撮ってから、鴛鴨松平氏墓所へ。鴛鴨松平家は松平氏の庶流の一つ。ここには松平氏の他、徳川四天王の一人、榊原康政の父と祖父である清長・長政の墓所も隣接している。また、松平忠吉の養母となった於美津の墓所も隣接している。まだまだ知らない史跡がいっぱいありそう。
続いての返却分はこちら👇以前、郵送でいただきましたが、まだ載せてなかったものから👇専用の御朱印帳にすると、裏表紙に素敵な言葉を添えてサプライズしていただけました福井といえば海の幸越前がに🦀そして若狭ふぐ🐡恐竜も全国区だぎゃん🔥🦖福井神社さんようやく、念願叶っての初参拝👏👏👏以前、福井に住んでて、生活範囲内の立地にありながら、全く御朱印に興味なく、スルーしてました。実にもったいない💦今更知るとは…もっと早く知ってれば…って、後悔してます😔前の会社から徒歩5分圏内なんだも
会津松平家の御廟散策に参加本気の山だから、熊🐻さん注意⚠️団体行動が安心😮💨しかもガイドさんの説明付き会津藩は神道なので、奥津城も独特イの国探検隊我が隊長の探検記録から『白飯は久しい米、飯盛山探検⑪法然らはパンクだ!』イの国探検隊ファンの皆様、鰐積の皆様、アマでありカミでもある皆様、こんにちは。先の探検では、陸奥、福島県のクニを探検しました。奥の細道の冒頭に三里うんぬんは…ameblo.jp四国、イの国と会津のつながりを改めて感じた隊長の探検記録高松松平家と会津松平家
松平三代目松平信光は取材を進めていくと非常に魅力的な人物だったのだろうなということが浮かび上がってきて非常に楽しいそして、信光は生涯に三つのお寺を建立しているのだが武士として、お寺を建てる、しかも、三つも建立するというのは異例中の異例なのだそうであるなにしろ、お寺ひとつを建てるしても莫大な資金が必要であるその、資金はどこから来ているのかそして、そもそもそこまでして、お寺を三つも立てた理由とはなんだったのだ
岡崎市岩津町にある円福寺もともとは「妙心寺」と言って松平三代目信光が創建したお寺である信光と正室との間に生まれたと伝わる嫡男の親則(ちかのり・長澤松平の祖)が早世したため、その菩提を弔うために建てたものそして、妙心寺の「妙心」という寺号も亡くなった嫡男の、戒名から付けられた寺号であったそして、妙心寺はその後地元である岩津の民の、精神的な拠り所となり、信仰の場、つまり、生活の中心となったのであるそ
松平三代目である松平信光は子女(子ども)が48人いたと伝わる人物だ男性であれば、羨ましいような信じられないような子宝の数である史実として残されている女性としては正室一名、側室が二名であるためその三名で48人もの子を産んだ、と言うのは、いささか現実的ではないと言えるだろう信光を取材していて感じることはなかなか魅力的な人物だったのだろうな、と言うことである原稿で取り上げている、長澤松平の祖となった
徳川家の菩提寺、大樹寺徳川家・松平家の菩提寺、大樹寺にやってきました。この山門は、1641年に徳川家光が建立したものです。中に入ると、すぐ右に鐘楼が見えます。正面の本堂に向かいます。1475年に松平親忠が創建しました。その後、火災で焼失したため、1857年に徳川家定が再建したものです。多宝塔は1535年、松平清康が建立しました。本堂の中を拝観しました。徳川家康の座右の銘とされる「厭離穢土、欣求浄土」の8文字がいろいろなところで見られました。その後、大樹寺をあとにし
六観音さまが見たいんです!岡山のゴッドシスターからのたっての希望で安養院御住職にお願いして伺いしました。先ずは大好きな松の庭!寺院内の庭園を拝見して院内をご案内頂きました。お忙しい御住職に沢山お時間を取って頂きありがたく松平家から昭和の初めに移築した書院と書院2階まで見せて頂きました。三時に伺い、帰りにはこんなに美しいお月様✨御住職、ありがとうございました😊
今回の話の内容は、岡崎市岩津町にあった妙心寺と京都府深草にあった円福寺が明治16年に寺号交換(じごうこうかん)をしたという話である寺号交換とは、お寺の名前を交換するだけでなくお寺そのものを入れ替えることを指すそのため、建物、土地はそこに残したまま交換するので、見た目は今まで通り、なんら変わりはないのだが、お寺の寺号から過去帳、ご本尊、持ち運べるもの全てが取り替えられてしまうのであるなぜ、そのようなことが行われるのかというと、
取材に出かけると、さまざまな素晴らしい出会いがある去年は、欄間や仏像などを造っていた方と出会ったそれがご縁で、彫刻の面白さや凄さにのめり込むこととなる掛け軸や絵はよく目にしていたものの今までは、仏像以外の彫刻には、さほど関心がなかったしかし、彫刻は、昔の仏教において写経や読経と同じく修行の一つとされたもの円空仏で有名な円空さんは、彫刻を己の荒業と定め生涯に12万体という仏を彫ったそうであるそんな中でも、僧侶の彫刻は
このシリーズ【長澤松平風聞記】は一枚の「仏像記」を知ったことがきっかけで描き始めたシリーズである現代においても、それなりに格式のある家には、家系図というものが残されているその家系図は、だいたいが「門外不出」として一族のもの以外には見せてはならない、という但し書きがついているがそれは対外的に書かれたものではなく、身内のために書かれたものつまり自分達一族にとって、都合がいいように、編纂されている場合もあるし余計に盛り込まれていることも
東海愛知新聞の連載100話目が掲載されたタイミングで、新しく、別のシリーズを書いてみたそれが今回のシリーズである『長澤松平風聞記(ながさわまつだいらふうぶんき)』徳川家康公を輩出した松平一族には、十八松平とも、十四松平とも言われる松平家がある松平3代目である信光(のぶみつ)の時代に一説には、信光が48人という子宝に恵まれたため、その子どもたちや孫を使い、松平という勢力を広げようとしてそれぞれに土地を与えたそして、それぞれ
大宮幼稚園切画教室の後に、安養院さんへ!「屏風を真っ直ぐに立てたから」と御住職に連絡を頂き見に行ってきました。明日から2日間、松平家から移築した書院を含め文化財公開。お近くの方ぜひいらしてください。#安養院#板橋区#武王山最明寺安養院#文化財#風祭竜二#六観音#切画#切り絵#屏風#真言宗豊山派