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曳馬城跡には徳川家康と豊臣秀吉の像が建立されたことを書きました。家康が浜松城の改築を行い城主になっていたことから家康との所縁はわかりますが、秀吉は?と言いますと…『太閤記』などに描かれた話として、秀吉が織田信長に仕える前に一度遠江で仕官をしたことがあるとされています。仕官先は頭陀寺城主松下嘉兵衛という人物で、秀吉は嘉兵衛に大切にされたのですが松下家家臣にいじめられて松下家を飛び出しましたが、天下統一を果たしたあとで嘉兵衛を召し上げて俸禄を加増し恩を返したとされています。その松下嘉兵衛の妻(
武家松下氏の家系で謎なのは、(1)松下高長が本当に始祖であれば「松下を名乗って松下村に住んだ」と書けば住む話を、なぜ「西條氏から出家した僧だったが城東郡平川で還俗した」ことがわざわざ家系図に書いてあるのか。(2)松下高長は清景・之綱に至るまで明らかに遠州在住だが、之綱の家系は三河国碧海郡松下郷と関係がある旨をきっぱり断言できたのか。(3)松下高長は、清景・之綱の世代から5代前とされているにもかかわらず、松下をなのる家が多すぎるのではないか。(1)の記述をみるに、おそらく平川の松下氏
今年は何といっても大河ドラマ「おんな城主直虎」の年でした。新野左馬介はナレ死でしたが、松下清景、常慶の兄弟は活躍し、高天神城を包囲する砦が築かれました。歴史のポイントを押さえながら見事なストーリーを創作した脚本家、脚本をさらに越える名演技の俳優さんたちを楽しませてもらえました。個人的には、東京大学史料編纂所に行ったり、常慶の(元)墓所の観音様を見たり、松下与右衛門貞綱を之綱の家系図に発見したり、朝比奈八郎二郎が松下為雲の親族であることに気づいたり知的に楽しい一年であったとともに、blogを通
10/7~9静岡城巡り&浜名湖自転車1周(ハマイチ)続き車中泊2日目寝苦しい夜だったが「道の駅潮見坂」の駐車場は静かで助かった。本来1泊3日で回るはずが自転車浜名湖1周(ハマイチ)と井伊谷周辺の城巡りのダブルメインの行程が井伊谷を回る時間が無く3日目にスライドとなった最終日。午前中で回って家路に着くつもりでしたが山城が多いと中々そう計算通りにはいきませんでした・・💦前日の気賀での大河ドラマ館で小耳に挟んだ龍潭寺が人が多くて車が止めれなかったという事を踏まえ龍潭寺には開園前に
大三川志から掛川城の攻防を紹介するシリーズ4回目です。久能一族の内紛に引き続き、今川方の夜襲22日夜(21日、22日の説もあるとの注記あり)今川軍は天王山の家康本陣を夜襲したが、久能宗能がこの夜襲の計画を注進していたので、徳川方は十分に準備をしていた。また、徳川方は、地元の郷士から人質をとって掛川城に潜入もさせていた。そこからも密使があり夜襲の情報が入っていた。家康は、大須賀康高、大久保忠世、形原の松平家忠、水野忠重、本多康重に命じて伏兵をおかせた。1の伏兵は大久保忠世、2の伏
今週の大河ドラマの感想に入る前に。このテーマでの前々回のブログで述べていた、明智光秀の書状のことですが…『ザ・プロファイラー』でこの書状が紹介されたのは冒頭だけで、「この発見により光秀が何故信長を討ったのか改めて注目が集まっている」という、本能寺の変の動機に対しての導入に使われただけでしたね。結果、番組内でこの書状の内容に関しては一切触れられていなかったので、宜しければこちらをご覧ください。で、その件に続けて、大河ドラマ内での書状に関して指摘させていただいていた、虎松の家康への嘆願書
今週は遅くなりました、大河ドラマ感想に入る前に、タイムリーな記事なのでご紹介。9月26日(火曜日)中日新聞岐阜県版18面より。ちょうど明日、一日だけみのかも文化の森で公開されるという光秀の書状。このちょっと前にニュースでも本能寺の真相はここだ!みたいにやってたけど、土橋重治という雑賀衆に宛てた手紙なら室町幕府の再興を謳うのは当然だから本心かどうかは分からないだろう、というのがうちの兄の意見です。天正十年六月十二日…本能寺の変の十日後に書かれた手紙です。※追記:実際見てきました
スポーツカテゴリでブログ更新しなきゃいけないネタてんこもりのところ、こっちもなんか凄いネタてんこもりになってきてんですけど…。近藤さんとこの家臣「立った!殿が立った〜!!」大河ドラマでクララが立つとは思わなんだ。てか、狙いすぎでしょこれ…。ちなみに今回この感想ブログのために調べたところ、元ネタの方のサブタイを初めて認識しました。「立った」じゃなくて「歩いた」であったということに驚愕。幼い頃に見たこのシーンはかなり笑ったんですよ、クララ「私の車椅子〜!!」ガシャーン!からのハイジ「クラ
大河ドラマでは徳川への人質として「常慶の実家に」嫁に行くことになりましたが、三河に連れて行くならともかく、まだ裏切る前の今川家臣に嫁入りして人質とは、意外でした。ドラマはさておき、なぜ直政の母が清景の後妻になったのかは、良くわかりません。清景の家の家伝や今村家伝記では直親の家臣であったので、その縁とのことになりますが、これには連昌の子、常慶の兄弟との家系図からは、清景の出身は鴨江寺等浜松南区近辺以外あり得ないように思います。一方で徳川侵攻後に召し抱えられていること、家の跡取りを心配していた(
ドラマではすっかり徳川方の常慶の実家ですが、清景・常慶の兄弟である清綱は、永禄11年の11月の「岡崎の戦い」で、今川氏真から感状をもらった旨家系図にあります。-----2017/9/16読み違えていました・・・・・・・あとで訂正します・・・この時期氏真は掛川城にいて徳川と交戦中なので、清綱はこの時点で今川方だったようです。之綱は徳川方で、清景も之綱と同じ時期に徳川についたとされていますが。
以前遠州の資料の写しが内閣文庫に入っていたことから、今はどこだろうと探してみました。結論は国立公文書館で、公開されている資料も結構ありました。特に徳川幕府の旗本をまとめた「干城録」です。基本的には寛政譜以後にまとめ直されたものですが、大名の与力に入っている人(たとえば都筑秀綱)や紀州に行った人たちもカバーしているのが嬉しいところです。まだ全部ではないようですが、早速「干城録」の「松下蔵人連昌」の資料をチェック。https://www.digital.archives.go.jp/das/m
常慶には、家系図上松下清景・松下清綱・松下元綱の兄弟と、義兄弟(姉妹の嫁ぎ先)の松下之綱、松下助左衛門範久がいます。(まとめ参照)http://ameblo.jp/captain-kato/entry-12236163808.html(さらに松下貞綱がいるのではないか、というのが私の推測。さらに義兄弟として七郎兵衛直綱と景綱がいる。)この清景・清綱・元綱・常慶については、元綱の家伝によれば、浜松での菩提寺は真言宗高野山の末寺であった「妙香城寺」とのことです。寺自体は消滅してしまったた
与板の井伊神社に所蔵されていた「兼光」(おそらく以前に書いた「野呂兼光」)が長岡市与板歴史民俗資料館http://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/yoita-iike.htmlで展示されているようです。松下元綱家家伝とほぼ一致しているので井伊直政が松下三十郎元綱(松下清景、松下常慶の末弟)から譲り受けた井伊直盛のものでしょう。直盛は桶狭間で討ち死に(切腹?)しており、その後どういうルートで加藤嘉明/松下元綱の手に入ったのかは謎です。この展
武将ジャパンの戦国未来さんの松下常慶の記事によると、引馬城と家康の間の繋ぎは、松下常慶とされているものの、別の人の業績ではないか、とのことです。確かに没年が正しければ、この当時10歳。戦国未来さんはさらに、「松下與右衛門」の業績が常慶と混同されている旨を示唆しています。しかし、松下保綱作の家系図には該当する人は見当たりません。そこで、静岡県中央図書館諸家系譜を、あまりに多い枚数にめげそうになりながらあたったところ、実に12494枚目に発見!!これによると、松下清景・清綱・元綱・常慶兄
武家の松下一族は、江戸時代に入ってからもー族の交流があったようで、各家の作った資料の写しが他家にも伝わっています。与板藩の松下家(松下清景と清綱の子孫)には、本多家に仕えた松下三十郎元綱の家伝書や下記の保綱の家系図の写しが伝わっていました。現在は東京大学史料編纂所にあるとのことで、申請が必要ですがマイクロフィルムで閲覧できます。武家の松下家の家系図は、江戸時代中期に常慶の子孫の松下家に婿入りした松下保綱が作成したものが有名で、これが寛政重修諸家譜の松下家部分の基本資料になっているそうです。保
「マンガで読む徳川武将列伝」が家族に好評だったので、井伊直政のものも買いました。マンガだとやはりわかりやすくて、迫力がありますね。・・・・松下家はモブあつかい(悲報)松下清景:一応文章での説明コーナーには生年不詳ででています。絵はなし。(家系図によると天文14年生まれ慶長2年没です。私も書いてなかった?)筆頭家老との記述はありますが、マンガの方に他の筆頭家老が二人も・・松下一定:旧姓中村さんになっています。もちろん絵がないどころか家老職の記述なし。
ここまで半年書いてきたものについて、まとめてリンクを貼ってみました。(追記:その後の分についても追記しました)これで松下清景が大河ドラマにいつ出てきても大丈夫(?)。遠州の松下氏全般について:・遠州の松下氏の分布・系図について・三河の松下氏とおそらく関係ないことについて・本多忠勝の家臣団について井伊直政を養子にした松下源太郎清景について・その1概説・頭陀寺松下氏の家来ではないことについて・その2西ヶ崎について・その3上野・箕輪のお墓に
松下右衛門清綱は、松下清景の弟です。残念ながら、寛政重修家譜の家系図以外では冨永公文氏の「松下加兵衛と豊臣秀吉」には記載があり、清景とともに家康に出仕した後の井伊万千代/井伊直政に仕え、「与板藩で代々藩の用人をつとめた」との記載があるだけです。おそらく清景とともに掛川城攻めや高天神城攻めにも参加しているはずですが、他の文献で名前をみつけることはできませんでした。(小田原城攻めは「松下一党」になっているのでここにも参加はしていると思いますが)ところが、井伊美術館公表の新資料で、井伊直
すでに本多忠勝の家臣団の浜松の松下ー族として紹介済みですが、松下三十郎元綱は、松下連昌の子供である松下清景・清綱・安綱(常慶)兄弟の末弟です。本多忠勝の下で与力として働いていましたが、残念ながら、軍功については本多忠勝の部隊の一部としてしか各種軍記物で表現されておらず詳細はわかりません。例えば、岡崎市史の小田原城攻めに関する部分では本多忠勝の指揮下「松下一党」としか記載されていません。それでも、初陣で敵の首を二つ取って徳川家康に誉められたこと(本人の家伝による)や最終的に本多忠勝の家臣とし
遠州忩劇に関する小和田先生の論文中で、岡崎市史に本多忠勝関係文書、確認したら古いものはgooglebooksにもあることに気付きました。岡崎市史第2巻この中で本多忠勝家臣団の一覧石高付きがのっていたので、えいっと編集して1枚にしてみました。筆頭の都築秀綱は、松下清景・之綱の一族である為雲の子孫で、都築家に養子に入った人です。また、松下景綱や清景の兄弟である三十郎元綱の名前も見えます。清景・清綱(井伊家家臣)・安綱・元綱の家系図関係部分もつけておきます。・・・・・・・
その3で豊前守?との話を書きましたが、確かに豊前守を名乗っていたそうです。証拠として、戒名が「本光院心月不染居士」が「ぶぜん」で入っているとのことです。一方で、浜松近辺の豊前守といったら、飯尾豊前守連竜が同時代に引馬城の城主だったはずです。この当時の「なんとかの守」は先祖がなのっていたものか或いは上司の許可を得て自称したものが多いはずですが、飯尾連竜と同時に名乗ったのはさすがにないと思いますので、飯尾連竜がなくなった後にその領地等を引きついだ一環で豊前をなのった、というところでしょ
私の出身の河東近辺は松下姓の多いところです。また、現在の名字の分布でも、牧之原を越えた相良の波津、新野、高橋、下平川、中と松下姓が密度・数ともに多いところが続きます。このBlogでは浜松近辺の頭陀寺の松下氏の同族、特に松下連昌、松下清景の親子とその兄弟の安綱(松下常慶)をよく取り上げていますが、その理由はこの一族の祖が平川(菊川市上平川or下平川)にいたとされていることです。寛政重修諸家譜や尊卑分脈によると、頭陀寺の松下長則・之綱や松下連昌・清景の祖について、(1)六角氏の一族である西條高
現在の静岡県浜松市南区頭陀寺(ずだじ)町にある高野山真言宗の古刹だよ本堂だよ・・・「資料館や秀吉・家康・直政・・・三公の銅像ができる予定」だって・・・御朱印を頂いた時に副住職さんが言ってたよ資料館は・・・そろそろ・・・開館詳しくは・・・頭陀寺のHP★頭陀寺また・・・この辺り一帯は・・・別名・・・頭陀寺城って呼ばれていたんだよ国人領主、松下氏の居を構えた場所であったんだ1551年(天文20年)頃から約3年間、まだ無名の豊臣秀吉が松下加兵衛(之綱)に仕えた
徳川家康の伊賀越えのメンバーに、井伊直政が入っていて、褒美に孔雀の陣羽織をもらったエピソードは有名ですが、他のメンバーに松下光綱の名前があがっています。ここが安綱や元綱だったら面白いのに、特に安綱なら税金の制度の調査で整合性がとれるのに、と思っていましたが、先日また寛政重修家図をみていると、光綱を発見。清景、安綱の従兄弟でした。「家康に仕え、その後籠居した」との記述なので、その後はどうなったのか謎ですね。伊賀越えのメンバーの中には少人数の家臣を引き連れていた人もいたはずですが名前ははいっ
寛政重修家譜によると、「豊前」と書いてあるので豊前守?飯尾家と同じなのは偶然なのかそれとも・・・・井伊直政が徳川の関八州への移動で行った箕輪城の様子を箕輪初心さんが書いています。http://53922401.at.webry.info/201102/article_24.html・・・・・・・寒そう。松下清景はここに行って1597年に亡くなっています。遠州南部の暖かい地方出身の人には辛かったであろうと思います。他にもいろいろ記述があって参考になります。・・
静岡県埋蔵文化財センター/研究紀要創刊号49ページによると永禄9年に松下連昌(松下清景・安綱の父)が奉納した鰐口は、その後武田軍によって持ち去られ諏訪湖の南西に位置する岡谷市小坂観音院観音堂に現存するとのことです。でもよく見ると、清景の家系図の「連昌」ではなく「建昌」になっている・・・・・・ぱっとみでは同じなんだけど。
「槍の達人長則は放浪後に帰ってきて出世した」ことを考えると、頭陀寺の長則・之綱がむしろ例外であって、その同族の松下氏は長則・之綱と違って浜松に土着していたことが推測されます。松下長則・之綱は三河の松下家出身で之綱は三河生まれといわれていますが、放浪の長則の出身地はやはり遠州だったのではないでしょうか。前回も書いたように、家康の浜松入りした時に之綱は早々にこれに従っています。嶽南史によると、このとき「西ヶ崎村の領主松下源太郎清景」が家康についたとされており、頭陀寺松下氏と主従関係にあったわけ
NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」で、重要人物なのに配役発表を飛ばされてしまった松下源太郎清景について、いくつか調べましたので忘れる前に書いてしまいます。松下源太郎清景は、井伊直政を養子にした武将で、井伊家の与力として井伊家につかえて、関東移封の際に安中藩にいき、関ヶ原の合戦の直前に亡くなっています。(追記:家系図によると慶長2年(1597年)に53歳で亡くなっており、天文13年(1544年)頃出生です)井伊直政が井伊家になったため、松下家は中野家から養子(松下一定)が入り、その後