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磐田市に入ってまず目指したのは、一言坂古戦場。元亀3年10月(1572年暮れ)に徳川家康と全面対決した甲斐国の戦国大名の武田信玄が、大軍を率いて遠江国内を進軍して、内藤信成と本多忠勝が率いた徳川軍の偵察隊が遭遇した戦い。⚔️敗戦必至と判断した本多忠勝が武田軍の小杉右近隊の中を敵中突破して撤退したが、この際に「家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八」と内藤信成・本多忠勝を称える狂歌が残されたと言われる。旧国道1号線の静岡県道413号磐田袋井線のすぐ近
浜松城の旧二の丸は、浜松大河ドラマ館の建物の竣工と同時に大半の敷地が広場になった。広場は徳川家の葵の御紋を象った円形の模様を中心に、その周囲に大河ドラマ館の土産品売り場などが建ち、キッチンカーも建物の横で営業している。この旧二の丸の広場の本丸寄りに建つ浜松大河ドラマ館の建物は、葵の御紋の中に入って眺めると浜松城天守閣の正面と天守門が背景になって素晴らしい光景だった。また遠州鉄道線の遠州病院駅前にある徳川秀忠公誕生の井戸が、この旧二の丸にも復元されている。旧二の丸に
【問題】若き日の豊臣秀吉が仕えていた松下之綱は、当時、次のうちどの城の城主であったか?【選択肢】三岳城頭陀寺城横須賀城匂坂城【正解】頭陀寺城【解説】無名時代の秀吉(木下藤吉郎)は、遠江・頭陀寺(ずだじ)城主であった松下之綱に仕えていたことがあるという。同城周辺には、秀吉ゆかりの史跡も残っている。
Tetsu龍でございます。遠州遠征も途中になってました。さて、久能城と来たらここもい行っとかなあかんやろと云うことで、頭陀寺城です。浜松市の南側にあります。11年前、2年前につづいて三回目の訪問です。最初に行った時は、まだ整備前で、石碑と今は色褪せてしまった説明版くらいしか無かったのですが大河効果で随分整備されています。女城主直虎の時やね。一昨年は、そこがすっぽり抜けてたので肝心の頭陀寺に行かず仕舞い。やっと行けました。今回の遠州遠征はこれで終了です。
Tetsu龍でございます。静岡遠征シリーズ少し間が空きました。獅子ケ鼻砦の他にあと五つ、高天神六砦と云われるのがあるのですが、今回は時間の関係で残りの五つはパス。一気に西進します。やってきたのは久野城秀吉の最初の主君松下氏が、後に秀吉から与えられたお城です。平山城ちゅうか、丘城っちゅうか。小規模と中規模の間くらいのお城。縄張り図を見ると、そんな堅固な城には見えんのやけど。堀もあるけど、回りが開けすぎ??さて、前回が2011年の訪問なんでおよそ11年ぶり。
史跡めぐりの記事です。今回は、静岡県袋井市にある久野城です。でっかい看板が目立つよく整備された城です。地味に豊臣秀吉が最初に使えた松下氏や関東北条氏の末裔とか城主が凄いです。久野城(くの)城は久野宗能の居城として知られています。久野氏はもともと今川氏の家臣でしたが、宗能の兄・元宗が「桶狭間の戦い」で討死すると、家督を継いだ宗能は徳川家康に従い、各地で戦功を立てました。天正18年(1590)に家康が関東に転封すると、宗能は下総佐倉へと移り、替わりに豊臣秀吉の臣、松下之綱が城主となりましたが
1598年4月5日(慶長3年2月30日)に豊臣秀吉の恩人の戦国武将の松下加兵衛之綱が亡くなりました。1537年に兵法者で槍術の達人の松下長則の子として、三河国に生まれます。遠江国頭陀寺城主として駿河国の今川義元に仕えました。松下之綱は、今川義元の家臣の飯尾氏の寄子として組み込まれたとされています。またこの頃、松下之綱に木下藤吉郎と名乗る以前の豊臣秀吉が仕えていたといわれています。しかし桶狭間の戦いでの今川義元の死後、遠江曳馬城の飯尾連竜が今川氏真を見限り、周辺の親今川氏と反今川氏の豪族
4連休も最終日になりました。いかがお過ごしでしょうか?7月の終わりに「新撰組中島登」の記事に書きましたが、しばらくイネ科の花粉症で苦しんできました。しかし8月初旬に徐々によくなっていきました。・・・と思ってたんです!!一度よくなったと思ったらまた目の痒み、くしゃみ鼻水鼻づまりがひどくなりましたアレルギー科に2ヶ月に一度通っているので、9月初旬の診察の時に先生に聞きました。のりりん「先生、イネ科終わったと思ったらまた酷くなったんですけど、今年は長引いてるんですか?」先生「今
藩史戦国時代、この久野には豊臣秀吉がまだ名も知られていない百姓のとき、立身出世を求めて一時期、主君として仕えていた松下之綱が治めていた土地である。之綱は今川家、次いで徳川家に仕えていたが、天正11年(1583年)から秀吉の家臣として仕え、久野に1万6000石の所領を与えられた。慶長3年(1598年)、之綱が死去し、跡を子の松下重綱が継いだ。重綱は関ヶ原の戦いにおいては東軍に与して大垣城の牽制に務め、所領を安堵された。ところが、久野城の石畳を幕府に許可なく修理したことを咎められて、常陸国に懲罰
浜松の武家松下家の中でも、頭陀寺近くに住み、川匂荘を支配したとされる之綱は、豊臣秀吉が若い時に仕えたとされることもあり、最も有名でしょう。この人については、wikipediaの項目も充実しています。頭陀寺炎上の話は入っていませんが、冨永氏の本にはちゃんと出ています。が、それでもわからないことはたくさんあります。1.菊川市西方「松下城」の謎これは冨永氏の本にありますが、高天神城の北東、家康の包囲網から離れたところにあるこの城は、「松下かへい」の城であったとされています。この地域の周辺には「
後南朝史跡3御首載石跡の碑奈良県川上村2017年12月12日(月)晴れ.かつて、吉野川のほとり寺尾地区に「御首載石(みくびのせいいし)」と呼ばれる苔むした大岩がありました。1457年(長禄元年)12月5日、北塩谷の住人で弓の名人である大西助五郎は自天王を襲った赤松一党を待ち伏せ、一味の頭の中村貞友を強弓で射止めたとされます。赤松一党の手から...長府処刑場跡教えて(松小田処刑場以外で)-下関市雑談掲示板|爆サイ.com山陽版爆サイ長府処刑場跡教えて(松小田処刑場
3月4日家康は再度掛川城を攻めるべく出兵した。鴨江寺の僧侶・見付中泉その他池田郡荘園の人士が参陣した天野・高力・本多の三奉行は乱妨略奪の禁止を各軍に通達した。掛川への途中の寒大寺川(原野谷川と逆川)は塩買洲で渡っていたが、この時は川が増水し渡るのに難儀した。松平家忠(14歳で参陣)・松平忠次が南町口を破り、搦手口から水野忠重が西宿の町口を破り、松尾の池を隔てて鉄砲を打ち合った。この時遠州の国衆が氏真の依頼に応じて掛川城の救援をするとの話があり、酒井忠次、石川数正、本多廣孝、植村家正
戦国Ω豊臣秀吉公が遣えたことでも有名な松下氏。大名になる事を拒んだ近藤氏。勝ち負けや戦以外で名を遺す事にこだわった今川氏といい。三大バイクメーカーを産み、世界のTOYOTAを産んだ遠海とういう地域の人間の想像力は独特。コンコルド人間略してコンコルゲン♪フジのドラマ・リーガルハイ2で一躍有名になられた俳優さんですが、静岡県では東海一の槍の盟主松下之綱や豊臣秀吉公が初めて志願した松下家の一員。松下源太郎を演じるには最適な俳優さんでした。
ドラマではすっかり徳川方の常慶の実家ですが、清景・常慶の兄弟である清綱は、永禄11年の11月の「岡崎の戦い」で、今川氏真から感状をもらった旨家系図にあります。-----2017/9/16読み違えていました・・・・・・・あとで訂正します・・・この時期氏真は掛川城にいて徳川と交戦中なので、清綱はこの時点で今川方だったようです。之綱は徳川方で、清景も之綱と同じ時期に徳川についたとされていますが。
常慶には、家系図上松下清景・松下清綱・松下元綱の兄弟と、義兄弟(姉妹の嫁ぎ先)の松下之綱、松下助左衛門範久がいます。(まとめ参照)http://ameblo.jp/captain-kato/entry-12236163808.html(さらに松下貞綱がいるのではないか、というのが私の推測。さらに義兄弟として七郎兵衛直綱と景綱がいる。)この清景・清綱・元綱・常慶については、元綱の家伝によれば、浜松での菩提寺は真言宗高野山の末寺であった「妙香城寺」とのことです。寺自体は消滅してしまったた
寛政重修諸家譜と武家松下家の家系図を見ていて、松下常慶・元綱や之綱の次の世代には同姓同名が3人もいることに気がつきました。1.常慶(松下安綱)の子の重綱寛政重修諸家譜では、横須賀衆坂部三十郎の娘と結婚していて、これは保綱の作った家系図の記述とも合致しています。ということで、まず一人目。2.之綱の子の重綱歴史的には一番有名な、遠州久野城の石垣を直して、三春城に異動させられた人です。寛政重修諸家譜上は加藤嘉明の娘と結婚していて(加藤側も松下側も)、保綱の家系図の記述とも一致しています。
武将ジャパンの戦国未来さんの松下常慶の記事によると、引馬城と家康の間の繋ぎは、松下常慶とされているものの、別の人の業績ではないか、とのことです。確かに没年が正しければ、この当時10歳。戦国未来さんはさらに、「松下與右衛門」の業績が常慶と混同されている旨を示唆しています。しかし、松下保綱作の家系図には該当する人は見当たりません。そこで、静岡県中央図書館諸家系譜を、あまりに多い枚数にめげそうになりながらあたったところ、実に12494枚目に発見!!これによると、松下清景・清綱・元綱・常慶兄
久しぶりに図書館に調べものに行った際、小和田和男先生の論文「今川家崩壊の一過程」に遠州忩劇の過程が詳しく出ているのに気付きました。頭の中が混乱してきたのでちょっと整理。-----------------------永禄5年(1562)井伊直親掛川で死亡永禄6年(1563)堀越氏武田氏について反乱今川軍三浦義鎮等これを攻める飯尾連龍堀越氏について頭陀寺城で戦う(*)頭陀寺松下氏飯尾氏につく堀越氏敗北
私の出身の河東近辺は松下姓の多いところです。また、現在の名字の分布でも、牧之原を越えた相良の波津、新野、高橋、下平川、中と松下姓が密度・数ともに多いところが続きます。このBlogでは浜松近辺の頭陀寺の松下氏の同族、特に松下連昌、松下清景の親子とその兄弟の安綱(松下常慶)をよく取り上げていますが、その理由はこの一族の祖が平川(菊川市上平川or下平川)にいたとされていることです。寛政重修諸家譜や尊卑分脈によると、頭陀寺の松下長則・之綱や松下連昌・清景の祖について、(1)六角氏の一族である西條高
前までしか行けませんでしたが一枚。白山ではなく秋葉系。
「槍の達人長則は放浪後に帰ってきて出世した」ことを考えると、頭陀寺の長則・之綱がむしろ例外であって、その同族の松下氏は長則・之綱と違って浜松に土着していたことが推測されます。松下長則・之綱は三河の松下家出身で之綱は三河生まれといわれていますが、放浪の長則の出身地はやはり遠州だったのではないでしょうか。前回も書いたように、家康の浜松入りした時に之綱は早々にこれに従っています。嶽南史によると、このとき「西ヶ崎村の領主松下源太郎清景」が家康についたとされており、頭陀寺松下氏と主従関係にあったわけ
(「源太左衛門」は寛政重修諸家譜による)松下長則と松下之綱は、頭陀寺/頭陀寺城の松下氏です。松下加兵衛は豊臣秀吉が若いころに浜松に来た際に仕えたことで有名ですが、秀吉と之綱は同世代なので、仕えたのは長則のほうであろうと言われています。嶽南記の2巻895ページの長則・之綱の記載を下記します。--------松下嘉兵衛之綱は、松下介衛門長則の子にして、長則の高祖を壱岐九郎右衛門尚(タカ)長という。尚長は源氏、佐佐木泰綱の玄孫にして、江州より移り、参河国碧海郡松下村に住し、もって氏とす。長
NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」で、重要人物なのに配役発表を飛ばされてしまった松下源太郎清景について、いくつか調べましたので忘れる前に書いてしまいます。松下源太郎清景は、井伊直政を養子にした武将で、井伊家の与力として井伊家につかえて、関東移封の際に安中藩にいき、関ヶ原の合戦の直前に亡くなっています。(追記:家系図によると慶長2年(1597年)に53歳で亡くなっており、天文13年(1544年)頃出生です)井伊直政が井伊家になったため、松下家は中野家から養子(松下一定)が入り、その後