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2024年5月1日(水)歴史的大事件の現場を訪れる。最寄駅は、両国。本所松坂町歴史好き、時代劇好きな方なら、この言葉でもうピンときただろう。元禄十五(1702)年の事だった。そう、歴史的大事件とは赤穂浪士の討ち入りここは吉良邸跡。当時の八十六分の一に過ぎない一角が、本所松坂公園として維持されています。高家吉良上野介義央像以前から、領地(愛知県西尾市吉良町)では、明君として讃えられている善政の殿様。最近の研究では、吉良っち、悪くないんじ
今月の満月は24日の8時48分です。本日は旧暦では3月14日ですが、旧暦では15日が満月となりますので誤差が9時間弱となり、15日前後が満月の時期であるのがわかりやすいです。その満月の時期である元禄十四年三月十四日(1701年)に起きた有名な事件が、浅野内匠頭の殿中での刃傷事件です。皇居の東御苑は、江戸城の本丸跡でもありますが、ここに行くと広場になっている本丸跡に松の廊下の場所が示されています。この松の廊下で刃傷事件は起きたのです。江戸時代、城内での刃傷事件は何度か起きています
3月14日の歴史江戸城松の廊下時は元禄14年3月14日播磨赤穂藩主の浅野内匠頭が吉良上野介に対して江戸城殿中(松の廊下)において刃傷に及ぶ浅野内匠頭は殿中抜刀の罪で即日切腹この事により大石内蔵助以下、赤穂浪士四十七士が翌元禄15年12月14日深夜に吉良屋敷に討ち入りその後切腹この一連の歴史を元禄赤穂事件という(江戸城松の廊下跡)一般的には忠臣蔵として有名です浅野殿殿中でござる~殿中でござる~この松の廊下の出来事が赤穂事件(忠臣蔵)
元禄14年(1701年)3月14日午前10時頃、江戸城中松の廊下で、赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が高家(江戸幕府における儀式、典礼を司る役職)筆頭の吉良上野介義央に斬りかかった。ご存じ「忠臣蔵」の発端である。松の大廊下跡:東京都千代田区1-1皇居将軍決裁により、内匠頭は奥州一ノ関城主•田村屋敷に御預けになるも、その日の夕方(6時頃)には切腹、一家は断絶となった。浅野内匠頭終焉之地:東京都港区新橋4丁目31何故、浅野長矩はこのような大事件を起こしたのか?原因
昨日の青空がすでに懐かしい。゚(゚^Д^゚)゚。なんというか、後からなら「何とでも言える!」ということになるんですけど・・・・即行動も大事だとは思いますが自分の立場も考えた上で行動すべきではないでしょうか(^_^;)))皇居東御苑松の大廊下跡浅野内匠頭終焉之地(東京都港区新橋)😵💫
昨日、旦那は2本のスラックスを買った。当然裾は、松の廊下状態。裾上げは私の仕事になる。「ダブルにして。」え〜!😰面倒臭い(´ε`;)時間かかるんだぞ!午前中と午後で、頑張ってやりましたよ💪🔥黒い糸で、良く見えないし左目も良く見えて無いから四苦八苦しました。これで、文句は無いだろ!旦那は、軽く考えてるんだよね〜ムカつく(。・ˇ_ˇ・。)どうせ、これ履いて呑みに行くんやろ?カッコばかりつけてさ!Gパンで良いやんか!近くの店なんだから〜あ〜疲れた(;´ρ`)肩凝ったわ!
「部屋が寒い」と言ったら娘がクリスマスプレゼントをくれた。なんと「人をだめにする毛布」ああたしかに。もふもふぬくぬくだ。この日から夜な夜な部屋の中にズルズル引きずる姿があらわれる。。。あるいはひとり松の廊下。「殿中でござる」あるいは吉祥天女か・・・(;^_^A(薬師寺吉祥天像)PS:久々、ぼくが出てきていったい何を言いたいかって?そうやってズル
いよいよ本丸跡に向かいます。大手門から同心番所と百人番所を見て、右に行くと二の丸庭園、左に行くと中之門になります。大手口からの登城ルートで行きます。中之門百人番所を過ぎると反対側が中之門です。渡櫓門があったそうですが、門は関東大震災で大破し現在は石垣のみです。本丸護衛のための重要な門で、瀬戸内海沿岸などで採石した花崗岩からなる見事な石垣が残っています。石垣の高さは6m、隙間のない見事な布積みという技法で見た目にもとても美しいものです。これが一番わかりやすいと思い、画像お借
今日庵茶道稽古場案内からの方はこちらをクリックして下さい。https://ameblo.jp/sofo-myousyukuann-ameba/entry-12462819506.html20231214-16師走の稽古②の続きです。12月14日赤穂浪士討入りの日後座席入り点前座拝見茶入荘り退席点前座拝見入子点諸荘り終り棚荒磯棚(八景棚)水指朝鮮唐津一重口源太左衛門作水注ぎませんと帛紗を荘り残す棗松蒔絵松の廊下茶碗は
年末といえば忠臣蔵。本日12月14日は吉良邸討ち入りの日ですね。しかしこの日付は旧暦なので現在の暦でみると1月30日なのでした。上の作品は元禄14年3月14日(1701年4月21日)江戸城・松の廊下での刃傷沙汰を描いています。昨今の若い方には年末⇒忠臣蔵といってもイマイチぴんと来ない方が多いかもしれませんね。まぁかく言うマサヤンもあまり詳しくはないです。小学生の頃は『中心村』と思っていましたし……
11月28日、江戸城の続き。皇居乾通り一般公開のコースではなく、普段から入城可能なエリアへ。北桔橋門(きたはねばしもん)から入城。乾通りの通り抜け参加者の多くがそのままここへきているので、普段よりも人が多い。北桔橋門は高い位置にあり、門の両サイドにある石垣もすごく高い。門を入った場所は皇居東御苑。左側の本丸と、右側の二の丸から成ります。門を入った目の前には天守台。天守閣は徳川家康(1606年)、秀忠(1621年)、家光(1635年)と将軍が代替わりするたび
しぶとかった夏もようやく去り秋の花が見頃です。皇居東御苑二の丸の諏訪の茶屋の菊と本丸松の廊下跡に咲くツワブキです。二の丸本丸末の廊下跡
株式会社PortCupid&株式会社アナシア社長金指加代子のブログへご訪問頂き有難う御座います♡初めましての方はコチラを是非ご覧下さいね→♡自己紹介皆様、おはようございます☀️3連休が始まりましたね🎶我が家は先月七五三を終えました👘やたらペコペコと頭を下げる2歳児😅今から典型的な日本人😅親としてはグローバルに活躍して欲しいのですが…2歳児のお着物は松の廊下になってしまい追いかけまわし…私、着物で行かなくて良かった😆実際に購入し
今日読み終わりました「あの日松の廊下で」忠臣蔵関連の作品ですが、世に仰山ありますいわゆる「忠臣蔵」とは違い、割と新鮮な切り口で書かれた作品かと背表紙の紹介分は旗本・梶川与惣兵衛は、「あの日」もいつもどおり仕事をしていた。赤穂浪士が討ち入りを果たした、世にいう「忠臣蔵」の発端となった松の廊下刃傷事件が起きた日である。目撃者、そして浅野内匠頭と吉良上野介の間に割って入った人物として、彼はどんな想いを抱えていたのか。江戸城という大組織に勤める一人の侍の悲哀を、軽妙な筆致で描
気温が下がり、日中でも肌寒く感じる今日この頃。寒さに我慢できず、ヒートテックを引っ張り出して着ています来月ぐらいからは電気ヒーターを出さなくちゃ。最近、デニムが欲しくてサイトで色々見ていますこのようなワイドデニムのタイプが欲しいなぁ〜と思ってます。ただ…私には丈の問題がありまして…以前、ヤヌークとエドウィンを試着しましたらば、デニムの裾が長すぎてしまい、裾を引きずるような感じに例えるならば、殿中松の廊下っぽいスタイルのような裾になっちゃうんです変な例え方ですみません海外で購入だ
今日も朝から晴れの1日となった。9月も中旬となったが空はまだ夏のまま…まだまだ暑い日が続いてるな💦今日は中断していた赤坂氷川神社の続きを…二の鳥居をくぐって境内へ…こちらは包丁塚。料理人の使い古した包丁を納め、その恩恵に感謝し、調理した動物や魚の霊を慰めるためのもののようだ。境内図にもあるこちらの大銀杏は樹齢450年。戦国時代からあるようだ☺️こちらは九神社(くじんしゃ)。天祖神社、春日神社、鹿島神社、八幡神社、諏訪神社、秋葉神社、厳島神社、金刀比羅神社、塞神社(さいじんじゃ)の9社を
いらっしゃいませおいでいただき、ありがとうございます大学生のムスメと猫3匹のドタバタのほほんブログです。初めての方は、こちらに自己紹介などございますので、よかったらどうぞ。↓↓↓『改めまして、自己紹介』初めましての方、いつも読んでくださる方、お越しいただき、ありがとうございます8月にトップブロガーになりましたので、これを期に、改めて自己紹介をしてみます。…ameblo.jpカーゴパンツ、なかなか良いこの季節デニ
今回は、赤穂浪士の墓参りです。一番初めは、松廊下で吉良上野介に斬りつけて切腹をした浅野内匠頭長矩です。浅野内匠頭長矩とは播磨赤穂城主、5万3500石。広島浅野家の分家。妻は浅野長治の長女。1645年(正保2)浅野長直が常陸笠間から赤穂に転封となり加里屋城を築いたが、長矩はその孫で1675年(延宝3)に父長友の跡を継いだ。1680年、従五位下内匠頭。1701年(元禄14)幕府から勅使の御馳走役を命ぜられたが、その指南役である高家肝煎の吉良義央との間柄が悪化した様子で、3月14日幕府の年賀
シャイン🌈です😊私の自己紹介です『はじめまして、シャインです』はじめまして、シャイン🌈と申します別のアカウントで、乳がんサバイバーとしてブログを書いていましたが、最近糸掛曼荼羅にはまって、趣味のブログに変更しましたはじ…ameblo.jp今日は父の日お腹周りがどんどん大きくなって、持ってる服のサイズが合わなくなった父に、ズボンを買おうとお店へ連れて行きました「まずサイズを測ってもらわなやろうが」と店員さんにウエスト周りを測ってもらうと、なんと100cm100cmのズボンを試着すると
藩が改易にならずにいたら、内蔵助は門閥家老として、ごくごく平凡に世を送ったことでしょう。ところが、元禄14年(1701)3月14日に江戸城内松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介義央を斬りつけて幕府から切腹を命じられ、赤穂藩は取り潰されました。早駕篭によって赤穂にその報が届いたのは19日の早朝。初めは上野介の生死、つまり、幕府が喧嘩両成敗の原則に基づいて、彼を処罰したかどうかわからず、内蔵助はまず、赤穂城明け渡しの際、浅野家再興を幕府に乞い願うため、大手門の前で切腹して果てよ
今日は一日、気持ちいいお天気でした。東京駅にまた行きたくなり😊電車に乗りました٩(๑❛ᴗ❛๑)۶ルンルン♪皇居の近くまで行ったことがなかったので行ってみました‼️桜田門そして皇居東御苑へ向かいました。忠臣蔵で有名な松の廊下がほんとうにあった場所↓こんな素敵な場所だったんですね‼️ここに江戸城が立ち家康様もここにいらしたんですね!不思議な気持ちになりました😊また、来させていただきます❣️
春休み期間、息子と皇居二重橋前にやってきました目的は、令和5年3月25日(土)から4月2日(日)までの9日間実施された春季皇居乾通り一般公開のため皇居乾通り一般公開は、平成26年(2014年)に上皇陛下の傘寿を記念して初めて春季と秋季に実施したもの大変好評であったため、平成27年(2015年)秋季から毎年、春季の桜の時期と秋季の紅葉の時期に実施してきましたしかし令和2年(2020年)春季から令和4年(2022年)春季まで新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止の観点から
今月の満月は6日の2時35分です。本日は旧暦では3月14日ですが、旧暦では15日が満月となりますので誤差が1日と3時間ほどとなり、15日前後が満月の時期であるのがわかりやすいです。その満月の時期である元禄十四年三月十四日(1701年)に起きた有名な事件が、浅野内匠頭の殿中での刃傷事件です。皇居の東御苑は、江戸城の本丸跡でもありますが、ここに行くと広場になっている本丸跡に松の廊下の場所が示されています。この松の廊下で刃傷事件は起きたのです。江戸時代、城内での刃傷事件は何度か起きて
「矢沢、もう逃げられない。話をしよう。聞いてやるからよ。おとなしくしろ」私は啓太を押しのけて前へ出た。こぼれ出るビールが私のズボンにかかった。啓太の熱気も伝わってくる。矢沢は目をまん丸に開け息を弾ましている。知った顔がないので戸惑いがあるんだろう。「オヤジが悪いんだ。オレが仕事でミスったもんでタコ部屋に入れた。ろくな給料も寄こさねえ。だからやった」矢沢は喚いた。「よし、わかった。オレたちゃ、金子の手下でも何でもねえ。金を返してくれりゃそれでいいんだ。落ち着いてくれ。頼むからよ」私
某サイトのマイカートを何気なく覗いたら入れられたまま放置されていた本があったのであらごめんなさい忘れていたわ、とポチッとした。「あの日、松の廊下で」白蔵盈太ストーリー的にはちょっと時期を過ぎてしまったけど。カートに入れたのは多分、去年。にほんブログ村
先日、天皇皇后両陛下が静嘉堂文庫美術館を訪問されて、国宝「曜変天目」を鑑賞されたことがニュースになってましたね。実は私も先日行ってきたので、ちょっと前の話になりますがレポートします!今年はトーハクの国宝展に4回も訪れて、すっかり国宝づいてしまった私。(←日本語あってる?)国宝の「曜変天目」見に行くべえ……と、よっこらせと腰を上げて行ってきました。静嘉堂文庫美術館は今年10月に丸の内に移転したそうです。曜変天目は中国で制作された茶碗だそうですが、完全体は世界でたった三点しか残っていません
元禄14年3月14日…この日江戸城では東山天皇の御使いである勅使を迎えて…徳川幕府が行う念頭行事の最後の儀式が執り行われようとしておりました❗赤穂潘の藩主…浅野内匠頭は勅使をもてなす御馳走などを用意する饗応役!この日迄…指南役の吉良上野介から…あれこれと教えを受けて務めて参りましたが潔癖な程真面目な浅野さんと…ちよっと癖のある吉良さんは相性が良くありませんでした…☆この日儀式ぐ始まる前に吉良さんに…もう一つだけ訪ねたい事があった内匠頭は吉良の姿を見て呼び止めたしたが…その場所は城内…松の廊下
12月14日は討ち入り毎年暮れになると忠臣蔵が放映されます。大石内蔵助はヒーロー吉良上野介は悪者。完全懲悪です江戸城にあった松の廊下で浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が吉良上野介の執拗ないびりに耐えかね刀で斬りつけます。その後、浅野内匠頭が将軍綱吉により即日切腹を申し渡されお家は取り潰し、藩士は失業し浪人になりました。それに反して周りが認める吉良の不躾な振る舞いにはお咎めなし。これを不服とする赤穂の家老・大石内蔵助をはじ
子規さんの「柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺」をお借りして吉良切れば城がなくなり一大事
鯛子の甘酢煮、小さくてもタイ身がしっかり引き締まり骨もしっかりタイコさて、松の廊下の刃傷赤穂彼の有名な忠臣蔵その17年前にも殿中での刃傷あり討たれたのは大老堀田正俊、綱吉の重鎮続々武断派の断末魔のごとく武士は文官ではなくあくまで戦う武士もののふ命の重さをこの世に取り戻すため生類憐れみの志を持つことが肝要と説きつつ鷹狩りを禁止し鷹を野に放つ猟犬、鷹のエサの需要が減り町に犬が増える…武士に「殺すな」と命じながら、法を犯す者の命は奪わねばならない。慈愛を説きながら