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昨年から継続している建仁二年(1202)開創の臨済宗建仁寺派の大本山、建仁寺をレポートするシリーズ、その4回目です。この建物は、茶席「東陽坊」です。東陽坊は、1587年に豊臣秀吉が催した北野大茶会で利休の高弟、真如堂東陽坊長盛が担当した副席と伝えられています。草庵式二帖台目席で、大正時代に現在の地に移築されました。二帖台目席とは、1帖の合いの間と2帖の台目向板の控室、そして板の間の水屋からなる茶室のことです。昭和15年に建立された「清凉軒」です。茶席の近くには建仁寺垣が設
本日は師匠宅でのお稽古、炭付花月と和巾でした。お一人やめられてから初の花月。四人でなんとかやってみましたらなんとかなるものですね!花月メンバーが見つかるまで大丈夫そう!和巾は由緒ある裂で作られた古帛紗の上に同じ裂地で作られた仕覆に入れた中次をのせてお濃茶を差し上げるお点前です。11代玄々斎の考案です。久しぶりでしたので来月も教えていただきたいとお願いしました。本日の和巾点では利休七種の茶碗の内の長次郎写しの東陽坊を使わせていただきました。口伝のお点前で楽茶碗を
名古屋のシンゾウです本日は、お盆、墓参りに行きます。久々に娘家族が集合してくれます。コロナが心配なので、野外での昼食会を催す予定なのですが.......台風が、愛知県を直撃するそうです。「本当にあんたは雨男だね!!」と女房が冷ややかにいつもの嫌味を言っています。本日の予定はどうなることやら....です。墓参りは嵐の中でも行きますので、早朝にブログ更新作業をしています。本日のブログ、少し早めに更新します◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆本日の問題(576)◆◆◆◆◆◆◆◆◆
方丈北の庭園より眺めます。■納骨堂扁額「霊照」。方丈西側より庭に下りて、北側庭園を巡ります。■田村月樵碑田村宗立(1846-1918)、別号月樵。碑上部には遺愛の三尺の大硯。建仁寺の襖絵を残しています。■清涼軒門。清涼軒南面。東隣の東陽坊への石飛。清涼軒東面。清涼軒北面。清涼軒北庭。小さいながらも石橋の小川に癒されます。清涼
建仁寺塔頭・霊源院拝観後、同じく特別公開の塔頭・正伝永源院、両足院か建仁寺本坊(方丈)を案内するか悩んだすえ、方丈を案内することに決める。その前に三門の説明。三門・望闕楼友人の隣町、浜松市西区雄踏町山崎・安寧寺から大正十二年に移建された三門。さすがに安寧寺は知っているようだ。確か三万円で売却したらしいなんで?そりゃ大人の事情でな安寧寺ご住職から当時の詳細をお聞きしているため話しましたが、ブログではちょっと(汗)。法堂庫裏
ありがとうございます自然の恵みAromaLumiereです思えば、、、神社、仏閣と言う場所は全部、美術館ですなーそういうのがわかる年齢になったんだ〜と言うか、、、子供の頃にこのような環境にはなかったからお参りの方法もわからず、無知だった。。。きっと、恥ずかしいことも恥ずかしい。。。と感じることなく過ごしてきたんだなぁいやーいいもんですね現代のように時間が忙殺される中では止まる。。。っと
ありがとうございます自然の恵みAromaLumiereです建仁寺、、、行きたかった理由日本茶のバイブル「喫茶養生記」の栄西さん関連。。。今年は、イノシシ年だし。。。相方もイノシシ年。。。イノシシさんいっぱいいるって聞いてたから絶対に行かなきゃって。。。でもでも、予想外にびっくらぽん北野大茶会で建てられた茶室「東陽坊」がこちらの、方丈裏庭に移築されていた。。。と知りました東陽坊って初めて聞いた東
5月6日建仁寺の続きです。方丈前庭「大雄苑(だいおうえん)」1940年(昭和15年)に造られた方丈前庭は、中国の百丈山の眺めを模して造られたと言われています。百丈山の別名が大雄山であることから「大雄苑」と名付けられました。白砂に緑苔と巨石を配した枯山水庭園です。向唐門(むかいからもん)(京都府指定文化財)江戸時代前期の寛文年間(1661年~1673年)に造営されたと伝えられています。造営当初の屋根は杮葺き(
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。本日、TokyodeVolunteerの活動で福島の仮設住宅にボランティアに行く予定が、バスの集合時間に起きるという大失態..もちろん間に合わず断念。震災から約4年、これからも日本の絆大事に紡いでいきたいですね。さて、気を取り直して、建仁寺(kennin-ji)の続きからです。今回は、茶室『東陽坊(とうようぼう)』建仁寺の案内パンフレットに説明文がありました。↓【茶席:東陽坊】草庵式二帖台目席。天正十五年(1587)に豊臣秀吉が催し
建仁寺は臨済宗の大本山で、山号は東山(とうざん)です。鎌倉時代の建仁2年(1202年)の開創で当時の年号から寺号としています。開山は日本に茶の普及と奨励に勤め、茶祖として崇められている栄西禅師で、開基は源頼家です。幾多の変遷を経て、天正年間に安国寺恵瓊によって、徳川幕府の庇護のもと再整備されました。その後、明治に入り政府の宗教政策により、臨済宗建仁寺派の大本山なりました。パンフレットです。八坂通りに面した「勅使門」です。柱や扉に戦乱の矢の痕があることから「矢の