ブログ記事15件
【食育クイズ:Vol.1503】「京都府」の「修学院離宮」おさらいクイズ!修学院離宮にある茶室で最も高台にあるものは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞コッチラボ国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)大豆コーヒードリップパックAmazon(アマゾン)∞∞∞∞∞∞
本日最終回の「どうする家康」...最後に江戸幕府の基礎を固めるという大きな役割を負った家康の孫娘たち...中でも二人の姫たちを...先ずは二代将軍秀忠と茶々(淀君)の末妹・お江(江与)の間に生まれた最初の子(長女)の【千姫(せんひめ)】慶長二年~寛文六年(1597-1666)慶長八年(1603)、七歳で人質として母の姉にあたる淀君が君臨する大坂城の秀頼のもとに輿入れした。元和元年(1615)、大坂夏の陣で、千姫は秀頼母子の助命のため城を出て石見津和野城主・坂崎出羽守に助け出されたが
【食育クイズ:Vol.1480】「京都府」の「幡枝(はたえだ)離宮」おさらいクイズ!後水尾上皇が造影した比叡山を拝借する庭園がある寺院とは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞コッチラボ国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}大豆コーヒードリッ
『どうする家康』の公式X(旧Twitter)で、これからの登場人物で真っ先に紹介されたお須和さん☝️(阿茶局)【阿茶局】天文二十三年~寛永十四年1554-1637代々甲州に住んで甲斐武田氏に仕えた飯田久左衛門直政の女(娘)で名は須和。父直政は甲斐武田氏と駿河今川氏の和睦の際に、武田信玄の許しを得て今川義元に仕えた。永禄三年(1560)直政は桶狭間で義元と共に討死した。須和はその後今川氏の家臣・神尾孫兵衛久宗の妻となって猪之助を儲けた。天正五年(1577)久宗が没して寡婦となる。時に須
おはようございます。昨日は気温がぐんぐん上がって暑かったですね。今日も気温が上がる予報が出ています。まだ、身体が暑さに慣れていないので、熱中症にお気をつけてください。今日は父の日ですね。父の日は、父に感謝を表す日。アメリカのドッド夫人が1909年に教会の牧師にお願いして父の誕生月である6月に礼拝をしてもらったことがきっかけと言われている。最初の父の日の祝典は、その翌年の1910年6月19日にスポケーンで行われました。当時すでに母の日が始まっていたため、彼女は父の日もあるべきだと考え、「母
さても困ったものである。ただいま、絶賛話題沸騰中のAIが答えてくれる「chatGPT」とはどんなものか試してみた。その結果だが、はっきり言ってこいつは「京都・観光文化検定」の1級レベルは、絶対に合格しそうにないことが分かった。日本史に対して、こいつはあまりにも無知だった。まず質問として、「紫衣事件について教えて」と入力してみた。返ってきた答えが、「わかりません」だった。何じゃと、それでもAIかお前さんは。※紫衣事件:江戸時代初期に起った、幕府と朝廷の間の最大の確執となる
寺院の堂内には装飾物が多い。天井や壁、窓や戸板、そして格子戸や柱などに細工がされている。時代や、当時の住居者の趣を考慮しての錺(かざり)の装飾品が随所に施されている。いまで言うなら伝統工芸品である。京都・大覚寺には、東福門院和子(徳川2代目将軍秀忠の娘)が使用していた宸殿があり、その宸殿には数々の装飾物がある。東福門院和子が使用していたからということだろうか、入口の蔀(しとみ/格子戸)の留金部分には蝉の装飾がある。蝉は女性の美しさの喩えでよく使われる。蝉の羽のように透きとおって見えるものとして
おはようございます。今日は全国的に雨のところが多くなりそうです。梅雨の晴れ間もしばらくはお休みでしょうか。昨日、祇園祭の「くじ取り式」が今年は開催されるとお知らせしました。祇園祭の山鉾巡行は中止となりましたが、今年は巡行や曳き始めもありませんが、山鉾建てが行われるそうです。詳しくは下記のURLをクリックしてお読みください。それにしても、「見にこないで」と言われてもね。きっと、相当の人出になるでしょうね。ひょっとしたら、宵々山あたりくらいになるかも?京都新聞https://www.k
2回目に参加したまいまいツアーは清水寺参詣曼陀羅がテーマ。【清水寺参詣曼荼羅】中世史学者と、戦国時代の案内図を解く!座学レクチャー付き~武士も女人も弁慶も、清水寺へLet’sGo!非人たちが暮らした周縁の地を越えて~戦国時代、清水寺へ参詣者を案内するために描かれた、清水寺参詣曼荼羅。賑やかに詣でる人々、道中の遊興、覆面姿の非人たち、金を受け取るお坊さんまで、中世の信仰や風俗が、生き生きと描かれています。「清水寺参詣曼荼羅」絵解きの第一人者である下坂先生www.maimai-kyoto.jp
上野エキュートでランチを食べてケーキを食べて、上野の森美術館に来たでちよ。10月の初めに来たおかぁしゃん。観る気満々で列に並ぼうと前売り券り見せたら「これは11月の券ですよ」と言われたんでちよね。あれから1ヶ月と少し経ってまたまたコロナが威勢をましたせいか行列が無かったでちよ。上野公園の木々が綺麗に色づいてるでちよ。季節は晩秋でちけど、気温は21℃でち。札幌では雪が降っ
今日配信されていたインターネット情報誌「TRIPEDITOR」には、英学(はなぶさ・がく)さんの、家康と秀吉にまつわる「授業では習わない、家康の本当の顔」という〝京都トリビア〟の記事が掲載されていた。それに触発されて、私もこの豊臣秀吉と德川家康の間にあった面白い確執を少し紐解いておきたい。もっとも最後にネタを〝白状〟するけれど、これも受け売り。太閤さん豊臣秀吉は死後、京都女子大からさらに山の上にある東山の〝阿弥陀が峰〟に葬られた。その場所は、現在も「豊公廟」として存在している。
おはようございます。今日は全国的に雨のところが多くなりそうです。梅雨の晴れ間もしばらくはお休みでしょうか。さて、今日は、1620年、徳川秀忠の五女・和子(後の東福門院)が後水尾天皇の女御として入内した日です。東福門院をご存知でしょうか?血筋的には、ものすごい方です。詳しくは系図をご覧頂くとおわかりかと思います。東福門院の父は二代将軍徳川秀忠、母はお江与の方。つまり、父方の祖父が徳川家康。姉が千姫。母方の祖父が浅井長政、祖母がお市の方。伯母が茶々(淀の方)、従兄弟が秀頼。母方の祖
修学院離宮に遊ぶ【壱】からサロンの代表的文化人をみていく本阿弥光悦、京都の三長者といわれた、茶屋、角倉、本阿弥。光悦は分家の養子で比較的自由な立場だったようです。家康から鷹ヶ峯を拝領し、芸術村を創設する。京都所司代から茶屋、角倉とならび町人のまま代寛職を拝命する。本阿弥光悦琳派の祖にして、日本のダ・ヴィンチとよばれる。俵屋宗達を見いだした。光悦書、宗達下絵「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」光悦「船橋絵硯箱」光悦「熟柿」光悦「不二山」京都所司代板倉勝重(秀忠の信任あつし)代官
おはようございます。今日は、全国的に晴れて蒸し暑いようです。こまめな水分補給をなさってくださいね。さて、今日は、1620年、徳川秀忠の五女・和子(後の東福門院)が後水尾天皇の女御として入内した日です。東福門院をご存知でしょうか?血筋的には、ものすごい方です。詳しくは系図をご覧頂くとおわかりかと思います。東福門院の父は二代将軍徳川秀忠、母はお江与の方。つまり、父方の祖父が徳川家康。姉が千姫。母方の祖父が浅井長政、祖母がお市の方。伯母が茶々(淀の方)、従兄弟が秀頼。母方の祖母の兄が
東福山西光寺徳川二代将軍秀忠公と正室お江の間に生まれた和子(まさこ)が天皇家にお嫁入りの際に休憩されたという逸話の残る西光寺。御本尊は阿弥陀如来ですが、日限地蔵尊でも有名なお寺さんです最近増設された(痛い)看板静岡産業大学の生徒さんが描かれたのかな?まさこさんと徳大寺さん。両方女の子?かな。こちらの門は徳川家康公が別荘として中泉村(現在の磐田駅南側、御殿・二之宮周辺)に築かせた中泉御殿(後の中泉代官所)の表門を移築したものと伝えられています。江戸時代の建築物として市の文化財に指定
おはようございます^^新学期スタート。新たな気分で、昨日は香道のお稽古に参加させていただきました。安藤家御家流のお稽古。安藤家というのは、徳川譜代大名の御家で、徳川家康の内孫の東福門院和子さんに安藤家の方が御指南を受けて始まった流派だそうです。難しいことはさておき、お稽古では、「水無月香」というのをやりました。見よう見まねで、香を聞き、なんと2つだけあたり、今回のお席の中では1番多く当てたということで、香記と香木の残りをいただくことができました!
ギャラリー祇園小舎↓豊國神社・豊國廟↓坂本龍馬さん&中岡慎太郎さんそしてようやく到着し、ご奉納申し上げました。百寺音巡礼〜五十ケ寺記念※ご奉音鈴木麻理さまよりシェア。ありがとうございます。バイオリン、原田薫さんがソロでご奉納。さ〜〜っと、心地よい風が御本堂の中を吹き抜けていった。ありがたいなあ〜〜。続いて、木挽き唄を捧げ、舞の鷲見直子さんが、ヴェールに包み込まれるように、原田さんのバイオリンに合わせてゆったりと流れる。しばらくして、私が流れに乗り、上山仁子さんの澄んだ声音
衣紋道高倉流たかくら会の上巳の節句小袖が着物となったように、十二単(五衣唐衣裳)も時代によって着る人も用途も着装方法も変化しています。高倉流宗会頭の仙石宗久先生の教えは明瞭でわかりやすい♪左は江戸時代の十二単、右は現代の宮中での十二単の着装です。十二単というとお雛様が思い浮かぶかと思いますが、平安時代に十二単を着ていたのは、中宮(皇后)や女御へお仕えした侍女である、清少納言や紫式部のような女房です。ゆえに女房装束といわれます。高貴な方に仕えるものは身分の高い方と同席をする場合、