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第百十代後光明天皇は江戸時代初期の天皇です。御父は後水尾天皇、御母は園光子、また異母姉は明正天皇であり、当時の将軍徳川家光の姪で家康の曽孫でした。寛永十年(1633年)生。御名は、紹仁(つぐひと)。在位は、寛永二十年(1643年)から承応三年(1654年)。徳川家光から家綱の時代にあたります。後水尾上皇は第四皇子の紹仁親王が十一才になると、明正天皇に譲位させました(後光明天皇)。東福門院(徳川和子)が養母となっていたため、徳川幕府は外戚の立場を保ち、後水尾上皇が引続き院政を敷きました。
25.09/07sun.07:30-16:00(ホテルルートイン高松屋島-西梅田)ホテルルートイン高松屋島から国道11号を東に、琴電志度線沿いに別れ八栗駅を過ぎて左折、北東に八栗ケーブル山上駅、聖天宮の鳥居から下り多宝塔、大師堂を過ごし五剣山八栗寺本堂本尊聖観世音菩薩に納経左となり内向きに、歓喜天を祀る聖天堂「八栗の聖天さん」として親しまれています本堂に向き合う本来のお参り道の、二天門へ持国天像増長天像戻る境内に、十一面観世音菩薩像鐘楼堂地蔵菩薩堂、
3月の香合としては、染付横唄(よこばい)、貝合、月日貝、桃、扇、菱、鼓(づづみ)、雛、荘子(蝶)この季節は、お雛様の季節なので貝合のように、平安以来の雅で、本来はお姫様の花嫁道具だったようなものが茶道具にもはいっている。貝合の名品はないかなと探してみたが、私のお教室で毎年出されるのが、張子香合土佐派の絵付けに蓋裏に認得斎花押がある。(写真は、「裏千家歴代好み物」(茶道資料館)より借用いたしました)もっと貝合そのものの香合はと探したら、こういうときは三井家
誰の寄進で再興したか?清水寺の成就院が再興されたのは、東福門院の寄進による。清水寺は宝亀9年、賢心(ケンシン=延鎮(エンチン))が観音の夢告を受け、音羽山・麓に観音堂を建立する決意を固めたのを起源とする。その翌々年、坂上田村麻呂の助力で仏殿を建立。その後整備され、延暦17年には清水寺は完成していたとされる。同寺は寛永6年に殆どの堂宇が焼失、徳川家光の援助で本堂などが再建された。一方、同時期に焼失した成就院は、寛永16年に徳
【食育クイズ:Vol.1652】「京都府」の「第108代、後水尾法皇」おさらいクイズ!御所の鎮護として貴船から鎮宅護符神を勧請した寺院とは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞コッチラボ国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)大豆コーヒードリップパックAmazon(アマゾン)
宗旦と東福門院の交流宗旦は、息子達を仕官させるのに一生懸命だったり、箱書きをせっせと書いたり、東福門院に爪紅及台子を贈ったりと処世術に長けていた様に思います。一般に言われる様な「侘び」や「乞食宗旦」と言うのではなかったと思いますね。大岡忠吉は、大岡越前の曽祖父に当たる。東福門院には家康の側室阿茶局も母代として付き添っている。つまり東福門院の側には、徳川家の最も有能な人々が周りを固めていた事がわかります。宗旦の交流と言えば、宗旦の他の手紙にも出てくる
美作の小野お通が小野小町の子孫と証明出来そうな記事を発見しました!これは『河内国名所鑑』というのに載っていた記事ですが、東福門院とは後水尾天皇の妃で徳川和子(まさこ)という女性なのですが、この東福門院が自作の「業平束帯掛物」を一幅と、「小野小町の掛物」を一幅持っていたという内容です。掛物とは掛け軸が一般的ですが、束帯という着物(服)の掛物という意味だろうと思います。小野小町の方は和歌か何かなんだと思います。江戸初期の人ですから、在原業平のものや小野小町のものは既に「お宝!」だっ
東福門院が松茸狩りをされ、土産の松茸が大岡美濃守を経て宗旦が拝領したことがあった。今も使われる青漆爪紅及台子は、宗旦が東福門院の為に作ったと言われています。文書178、211
9月の季語(銘)を調べているが、茶道実用手帳には、秋の季節として「風」を意味する言葉がいくつか取られている。秋風、秋声、野分、吟風このほか、松琴、聴松も秋風が吹くときの松葉のさざめく音がイメージされる。ところで、「野分」(のわき)って何となく言葉の響きが「のどか」なので、涼やかなイメージがしていたのだが、本当の意味は、野の草を吹き分ける嵐のような風のことで、現代で言う台風のような大風と理解していい。「野分」と言われて、誰でも思い出すのは「枕草子」で
『修学院離宮②棚田と中離宮』『修学院離宮①下離宮寿月観』京都仙洞御所の記事が終わったので、勢いで修学院離宮の記事も進めてしまいます。修学院離宮は後水尾上皇によって造営され1659年に…ameblo.jp②からの続きになります。中離宮、楽只軒。南側は庭に面して広縁が設けられ、床を低くとって庭との一体感が深められています。客殿は東福門院(後水尾上皇の皇后、徳川秀忠の娘和子)の死後に女院御所の奥対面所から移築された、入母屋造りで木賊(とくさ)葺きの建物です。廂(ひ
元伯宗旦の研究(2)爪紅及台子中村静子著p112爪紅台子の始まりは宗旦が東福門院に送ったもの宗旦と東福門院との交流不白記に以下の様にある爪紅台子宗旦女院様へ好て上し也宗旦さびたりと計り見るべからず爪紅台子の様な雅な棚は宗旦自身は使わないが、東福門院への配慮から考案し作らせて、女院に献上したとの事。又、東福門院を通じて江戸幕府とも人脈を形成していった(宗旦文書慶安三年閏10月20日)私見捕捉)宗旦の”わび”は意外や、わびてばかりはいなかったとい
東福門院の菩提寺である「光雲寺」の文化財のひとつに興味をそそるものがあった。厨子に安置されている東福門院の念持仏(身につけたり、私室に安置して信仰する仏像)の聖観音像(しょうかんのんぞう/30㎝ほど)。その厨子の天井にはほんの少し色が施されている見事な龍が描かれている。火から守る水の神様としての龍がこんな小さな厨子の天井にまでも描かれているのは、東福門院の念持仏聖観音像への思いが深かったのだろうと想像する。大きなお堂の天井龍にも劣らない美しさと迫力に驚かされる。リポート&写真/渡邉雄二
南禅寺の境外塔頭である光雲寺は、同寺院のHPによると南禅寺と同じく大明国師が開山し、743年前の1280年に開創した寺院。もとは大阪北中部にあたる摂津国の、現在でいう四天王寺の付近にあった。開創は本山である南禅寺より11年前であると紹介されていた。京都が応仁の乱で荒廃になった後に、南禅寺第280世英中玄賢禅師(1627年~1695年)によって後水尾天皇の皇后である東福門院の菩提寺として、現在の南禅寺北ノ坊の地に移し再興された。南禅寺と同じく大明国師が開山大明国師の掛軸これが光雲寺の歴
…江与(オエヨ)〈督(ゴウ)〉との間に江戸城で生まれた5女が「【62】東福門院」で、名前は「和子(マサコ)」。世の中は徳川・豊臣による「二大公儀体制」で、大坂城には秀吉の遺児・秀頼が大きな存在を示していた。ちなみに、和子の長姉・千姫は秀頼の正妻で、秀頼も母・江与(オエヨ)の長姉・淀殿(茶々)の子であるから、従兄姉に当る。徳川家の将来のための豊臣家との婚姻であるが、この時期は徳川の優勢が濃厚であった。それを確たるものにする為、進められた政策の一
おはようございます。先日、京都駅で、多くの修学旅行生を見かけました。昨日、観光支援について、概略が発表されました。まだ、具体的ではありませんが、7月初めからということで、また、多くの方が京都を訪れるのでしょうね。活気のある京都が戻ってきそうで、嬉しいです。さて、今日は、1620年、徳川秀忠の五女・和子(後の東福門院)が後水尾天皇の女御として入内した日です。東福門院をご存知でしょうか?血筋的には、ものすごい方です。詳しくは系図をご覧頂くとおわかりかと思います。東福門院の父は二代将軍
今日で5月が終わり、6月が来ます。明日は、これまでここに掲載した方々を含んだまとめを載せます。徳川和子(東福門院)生年月日1607年11月23日(金)日干支甲子同じ日干支の人物(ブログに掲載済みの人物)なし
四国八十八ヶ所霊場第85番札所五剣山観自在院八栗寺(ごけんざんかんじざいいんやくりじ)歓喜天様(聖天堂)歓喜天様(聖天堂)縮小版:歓喜天様(聖天堂)拡大版:歓喜天様(聖天堂)扁額歓喜天様の御前(斜め右から)狛犬様五剣山と歓喜天様(聖天堂)後水尾天皇皇后の東福門院和子様から歓喜天様を賜った木食上人以空上人様本堂横に建つ歓喜天様(聖天堂)は木食※上人以空上人様が(※食は本来は口へんに食)第108代天皇後水尾天皇皇后の【東福門院様※】から賜った歓
青漆爪紅台子は、元伯宗旦が東福門院のために好んだ、華やかさと風格を感じさせる棚ですが、東福門院とはどのような人物だったのでしょうか。東福門院像光雲寺蔵東福門院(諱は和子まさこ)は、1607年に徳川家康の内孫として、江戸城大奥で徳川秀忠と江との間に誕生しました。1612年に後水尾天皇が即位すると、家康は和子の入内を申し入れ、1620年に女御として宮中に入りました。家康は徳川家が天皇の外戚になることを期待して和子の入内を申し入れましたが
当社中の初釜では、青漆爪紅台子をよく用います。お正月らしく、華やかな道具が似合う棚です。元来この棚は、元伯宗旦が東福門院にお茶を献じるために好んだ物といわれています。乞食宗旦とよばれ、わび茶に徹した人が好んだにしては破格の華やかさを感じますが、お茶を召し上がっていただく方の立場に相応しい道具組を考えた結果が、この棚の誕生に至ったのでしょう。華やかとはいっても、華美ではありません。何よりも棚にのる道具を、邪魔せずに活かしきる落ち着きがあり、更に
岩倉の北東に位置する長谷八幡宮[ながたにはちまんぐう]。最初の鳥居は境内よりかなり離れた住宅街にあります。■大鳥居一ノ鳥居。1979年事故により破損。1980年修復。■扁額「八幡宮」■参道■社号標「八幡神社」。長谷の八幡さんなので長谷八幡神社、あるいは長谷八幡宮。歴史の長いものは決して画一的でなく、様々な呼称が存在するものです。■お札箱岩倉東部に多い、特徴的な大きな飾り。■愛宕燈籠常夜燈。火伏せの神である右京区の愛宕山、
「百寺巡礼」の第133番は圓満院です。圓満院は大津市の三井寺の東隣にある天台宗系の単立寺院で、987年に村上天皇の第三皇子・悟円親王により京都岡崎に創立されました。圓満院は当初は天台宗寺門派三門跡の一つで、平等院と呼ばれていたが、宇治の平等院が1052年に創立した時にその名を譲り、小野道風の孫で天台宗僧の明尊によって圓満院に改名されました。その後、江戸時代の初期に現在地に移転しました。最初の写真は勅使門です。次は護摩堂で、秘仏・金色不動明王が祀ら
ふうわり軽くて肌触り良く、見た目も愛らしく且つ温かな着物と来たら、総絞りの右に出るものはないだろう。匁のない生地や昔着物で何度も水通したものは頼りないほど軽くてぺらぺらだが、それなりに温かい。しぼがつんと立った上等な絞りは厚みがある分温かく思えて、そっと撫でるだけで日向に居るような感覚に陥る。若君の総絞りのお召し物は如何かな?ちょいと引っ張り出して拝見致そうぞ。若君のお着物にもそれなりに歴史がある。初期は袖丈が中振袖だった。可愛らしいウールの着物なんかは普通の袖丈だし、小袖仕立てのものも
1934年(昭和9年)室戸台風により方丈は倒壊。安土桃山-江戸初期の貴重な障壁画群は、奇跡的に難を逃れ、今は博物館に保管されています。キヤノン㈱の画像技術と、京都伝統工芸との技術の融合による「綴プロジェクト」における、高精細複製技術による成果。■方丈重要文化財。桁行27.6m、梁間10.7m、入母屋造、杮葺。1487年(長亨元年)安国寺(安芸国)伽藍として建立。1599年(慶長4年)安国寺恵瓊により移建。移建時に柱等を桃山様式に変更。1736年(元
第百十代後光明天皇は江戸時代初期の天皇です。御父は後水尾天皇、御母は園光子、また異母姉は明正天皇であり、当時の将軍徳川家光の姪で家康の曽孫でした。寛永十年(1633年)生。御名は、紹仁(つぐひと)。在位は、寛永二十年(1643年)から承応三年(1654年)。徳川家光から家綱の時代にあたります。後水尾上皇は第四皇子の紹仁親王が十一才になると、明正天皇に譲位させ後光明天皇が即位しました。東福門院(徳川和子)が養母となっていたため、徳川幕府は外戚の立場を保ち、後水尾上皇が引続き院政を敷きまし
"SomedaySoon"の歌詞に出てくるコロラド出身の若者は、ベトナム戦争の兵役を終え、、サンフランシスコから、真っすぐに故郷で帰りを待ってる恋人のもとに戻ります。フラワーチルドレンとか、反戦・平和運動とかには見向きもしない、ロデオを愛する、根っからの”カウボーイ”なのでしょう。(fromYouTubeIan&SylviaTyson,SomedaySoonwithlyrics)この辺で、「風が吹いたら桶屋が儲かる」的話に決着をつけたい
すごい帯を発見したこといつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!もう戦国時代から江戸時代の女性や信長・秀吉・家康関連なら♡な人にはたまらない帯を発見しました。東京ますいわ屋さんという呉服屋さんが出している帯です。https://www.masuiwaya.co.jp/main/product/2018/12/manyou-karakosode.html創作唐