ブログ記事40件
きのうは、北品川にある、島倉千代子さんのお墓参りへ。今年は十三回忌になりますね。今年も、全国からファンの方が多く訪れていたようです。たくさんのお花に彩られていました。いまなお愛され続ける、島倉千代子さん。いつも作品を歌わせていただいているお礼と、決意を報告してまいりました。♬鳳仙花♬星空に両手を♬風の中で...(南信州阿智村浪合イメージソング)これからも大切に歌い継いでまいります。だいぶ陽は落ちてまいりましたが、YouTubeあっこチャンネル生配信チャレンジも!お付き合い
6月6日なのに雨はざあざあ降らないし、三角定規にもひび入っていないのでほっとしたところですが、職場では朝から設備トラブル続出。緊急対応に時間を取られました。この日、読売新聞オンラインが多摩湖自転車道の話題を採り上げていたのが目に止りました。東京・多摩ニュース:東京・多摩地域の事件や話題の最新情報【読売新聞】東京・多摩の地域ニュースのページです。事件や選挙、高校野球やインターハイなどのスポーツに関する速報や、ほっとする町の話題も掲載しています。www.yomiuri.co.jp多
シルバー勤務がなく雨上がりの火曜日。昼食後散歩に出かけることにしました。最初は4km先にあるモンベル品川店を目指しましたが、途中で大崎、大井町を回って帰ることに変更しました。大崎の駅を東側に渡り目黒川を道沿いに下っていきました。新幹線のガードをくぐり、京浜東北線のガードをくぐる前に史跡が見えました。史跡には「官営品川ガラス製造所跡」とあります。全く予備知識のない史跡にびっくりです。そしてそこの先にまた目新しいものが見えてきました。
今回は、紅白歌手の島倉千代子さんの墓参りです。島倉千代子とは54年第5回コロムビア歌謡コンクールに出場し「涙のグラス」を歌って優勝。日本コロムビア事務所の専属となる。55年に「この世の花」でデビュー。同曲が大ヒットとなり、人気歌手となる。以降も57年の「東京だョおっ母さん」、58年の「からたち日記」などヒット曲を続けて発表。89年の「人生いろいろ」は約130万枚を売り上げ、京浜急行電鉄青物横丁駅の電車接近メロディーにも採用された。NHK紅白歌合戦には、57年の初出場以来、2004年まで
鉄道の父と言われた、井上勝の墓参りです。井上勝とは明治期の鉄道技術者。鉄道庁長官。長門国の藩士井上勝行の三男として生まれる。野村家を継ぎ野村弥吉と名のり、明治維新後実家に復籍し井上勝と称した。長崎や江戸、そして箱館の武田斐三郎の塾で洋学を修めた。1863年(文久3)伊藤俊輔、井上聞多、山尾庸三、遠藤謹助らとイギリスに密航、ロンドン大学で鉄道、鉱山技術を学び、1868年(明治1)帰国。1871年工部省鉱山頭兼鉄道頭に任ぜられたが、翌1872年鉄道頭専任となり、東京―横浜間の鉄道敷
大山墓地には、歴史上の人物や芸能人の墓があります。何人か紹介を致します。初回は、沢庵和尚です。沢庵宗彭とは法名を宗彭といい江戸時代初期に活躍した臨済宗大徳寺派の高僧です。京都大徳寺、堺南宗寺などで修行、修学を積み重ね、慶長14年(1609)に大徳寺第153世住職になりました。紫衣事件のさいには幕府の方針に反対の立場を取り、寛永6年(1629)には出羽国に配流されるなど反骨精神をみせました。その後ゆるされて江戸に入り、三代将軍家光の帰依を受けて東海寺の初代住職になり、正保2年(1645
年始に関係先へ挨拶回りをする中で少し時間のあきができたので、午後のひととき東海寺を訪れた。これだけで何をしに行ったのかがわかる人は相当の鉄道通だ。正確には東海寺大山墓地である。東海寺から少し離れたところにある墓地には我が国鉄道の父たる井上勝の墓がある。東海道本線・京浜東北線と東海道新幹線・横須賀線・山の手線、目黒川に挟まれた三角地帯にある墓地だ。僕は京浜急行新馬場駅から歩いたが、最寄駅は大崎駅のようだ。↑↓官営品川硝子製作所跡。下の写真の右に見える東海道本線・京浜東北線の沿って緩い登り坂
品川東海寺大山墓地沢庵和尚の東海寺は、徳川家光に可愛がられ大変大きな敷地があったが今は山手通りの品川消防署の前の東海寺と大分離れた小山の大山墓地がある。大山墓地は沢庵和尚などのお墓などがあるが鉄道の父と言われる井上勝のお墓もある。三角地で右には新幹線、左に井上が作った東海道線、京浜東北線が走る鉄道の父には最もふさわしいロケーションにある。本来の沢庵和尚の墓、質素に沢庵石の墓石、別には夢と書かれたお墓もある。墓の目の前は歌手の島倉千代子のお墓もある。このお墓は、いつ行っても綺麗なお
10月12日(水)ステーキランチJR蒲田東口昼に石田さんと久しぶりに待ち合わせ。ランチをご馳走になった。石田さんは朝之助さんの叔父さん。相変わらず元気だ。10月11日(火)サーターアンダギー11日わんわんの日という事でペットショップへ猫砂を4袋買うと言うのでママリンのお供。沢庵和尚のお墓、やはり墓石は沢庵石。午後から品川の東海寺へ。このお寺さんは沢庵で有名な沢庵和尚のお寺で、今回は飛び地の大山墓地の井上勝のお墓へ。帰りに菩提寺参拝をして帰宅。いやぁ疲れた。
品川区北品川にある井上勝の墓まで行ってきました。横浜駅から京急川崎駅まで乗車した京急2100形の快特です。京急川崎駅で1000形の普通電車に乗り換えて新馬場駅(しんばんばえき)へ。新馬場駅から東海寺大山墓地まで歩きました。山手通りに道端にあった、墓地に向かう道の案内板です。東海寺大山墓地には、有名人の墓がいくつかあります。北品川の東海寺は寛永16年(1639年)に、三代将軍徳川家光が、沢庵宗彭(1573年~1646年)のために創建した臨済宗大徳寺派の寺院です。「史
グーグル先生の指示通り、さらに奥のほうに歩いていきますと井上勝さんのお墓申し訳ありませんがこの方を存じ上げておりません。しかしこのような案内板がある以上、著名な方、あるいは偉人さんだと思います。お墓の前で写真を撮りました。偶然、新幹線が走ってきたので画像に収まりました。絵ずら的には先頭車両が写っているといいのになぁ~と漠然とした感想。さてお墓の横におお!なんと「鉄道の父」またわざわざこの地を選んで墓所とした方でした。先ほど新幹線が写り込んだのも
2019年4月中旬の大崎・北品川散策の続き。「東海寺大山墓地」の続き。官営品川硝子製造所跡・東海寺大山墓地(その1)のレポhttps://ameblo.jp/indyaki12/entry-12597602847.html「東海寺大山墓地」を更に進むと、門柱のある墓石を発見。こちらは、「西村勝三の墓」。前回レポの「近代硝子工業発祥之地」の由緒書きにあった「品川硝子製作所」を引き継ぎ、「品川硝子會社」として再興した人物。すぐ近くに墓所があるんですね
2019年4月中旬に、仕事で大崎方面に出かけたので、その帰り道に、ちょいと歴史散策をして来ました。JR大崎駅から品川方面に進み、居木橋を渡り、道なりに進んで行くと、JR横須賀線・東海道新幹線の高架をくぐるんですが、その先のJR東海道線高架の手前左側に、石碑があります。こちらは、「史跡官営品川硝子製作所跡」。石碑に近づいて…「近代硝子工業発祥之地」とあります。この地は、本邦最初の洋式硝子工場興業社の跡で、同社は明治6年の太政大臣三条実美の家令丹羽正庸等の発
賀茂真淵は遠江国敷智郡浜松庄伊場村に、創建1274年と古い歴史を持つ地元賀茂神社の神職岡部政信の三男として生まれました。岡部家は京の賀茂神社摂社の末流とされます。「真淵」の雅号は出身地「敷智(ふち)」から考案されたといわれます。浜松で真淵は国学者荷田春満の弟子杉浦国頭から国学を学び、人生の針路を決しました。1733年京都に上った真淵は荷田春満の門を叩きます。春満は日本固有の道である「古道」の解明を試み、そのために万葉集の研究を深めた人物です。真淵の功績は春満の教えを吸収し国学という学問に体
そろそろ、マートルの花が咲く季節が近付いて来ました。我が家では彼方此方にマートルを植えていますが、花が咲くのは陽当りの良い駐車場の植え枡の2株だけ。アプローチに植えた3本は花を付けずに背だけが2階に届く程になったので、今年は短く伐りました。マートルをはじめとするフトモモ科の花が咲くのは今の時期。ご近所のお宅のカリステモン(ブラシノキ)も、多摩湖自転車道のフェイジョアと思しき花も、今を盛りと咲き始めています。この日。去年に引き続いて、職場の新規採用職員たちを引率して
8月13日夏だ。今日は出かけます。大崎駅で降りて東海寺大山墓地を目指す。目印はここ。官営品川ガラス製作所跡。この細道を進みます。そしてこの石段を登る。ここに沢庵和尚の墓がある。この沢庵和尚が「たくあん漬け」を考案したとも、この墓石が漬物石に見えることから漬物の名を「たくあん」にしたともいうが。大きな石がひとつ。いかにも禅宗
先日2017年7月22日に、プライベートで東京に出撃したの「旧東海道歴史散策」の速報レポ。こちらもまた、シリーズでアップして行きますね。2017年7月22日の旧東海道速報レポhttp://ameblo.jp/indyaki12/entry-12294930542.html前回は、2012年に、旧東海道歴史散策を行ったのですが、細切れ状態でしたので、「品川宿本陣跡」が「聖蹟公園」の続きから、ということで、京浜急行「新馬場」駅からスタートしました。ちなみに「しんばんば」と読みま
またまた昨日の記事の続き。研修参加者10名を連れて、10時5分にしながわ中央公園を出発。青陵中学・高校と公園の間の道を進みました。1しながわ中央公園平和坂通り三ツ木通りガーデニングスタッフが丹精籠めた花々に目を潤され乍ら、今年1月に拡張整備されたヘリポートのある広場に入り、移設された古戸越橋を見学した後、古戸越川の暗渠まで降りました。周囲より低くなっている狭い暗渠に沿って東海道新幹線・品鶴線のガードをくぐると今度は登り坂。池田菊苗博士邸だった日本音楽高校1号館を見学し
最近、手紙を書いたりもらったりした?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう昨日の記事の続き。今回の《区内探訪》の事前説明の際に配布した資料には、品川区の地勢、事業中の市街地再開発事業、防災街区整備事業を含む木密地域不燃化10年プロジェクトの紹介のほか、探訪途中の《注目ポイント》として、下記を挙げました。(1)古戸越(ことごえ)橋昨年まで暗渠化された古戸越川の流路に架かっていた古戸越橋の欄干は、しながわ
先週目にして、思わず「おおっ」と目を瞠った記事【ペーパージオラマグランプリ「Nゲージ」大賞に青稜中学高校】東京新聞3月21日http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201703/CK2017032102000141.html?ref=rank記事によると、新幹線車両基地のある品川区八潮は《鉄道の聖地》なのだとか。そう言えば、記事では触れていませんが、《鉄道の父》子爵井上勝卿も「東海道線を見下ろす東海寺大山墓地に
東海寺大山墓地には、江戸時代後期の国学者・本居内遠の墓もあります。名前から想像が付くとおり、江戸時代を代表する国学者・本居宣長から3代後の当主です。墓地内には本居宣長の師匠、賀茂真淵の墓もあります。内遠の学識は歴代当主の中で宣長に次ぐ実力があったと言われています。本居内遠は名古屋の出身で、幼少の頃より算術,茶道,剣法,柔術などで才能を発揮しています。文政2年(1819)、28歳のとき江戸へ出て、翌年に国学者・本居大平に入門します。大平は本居宣長の養子で本居家を継承した人物です。本居
北品川の東海寺大山墓地に江戸時代中期の儒者、漢詩人、画家でもあった服部南郭(はっとりなんかく)の墓があります。天和3年(1683)に京都の裕福な町人の家に生まれた南郭は、両親の影響で幼い頃からは和歌や連歌などを学び、歌や絵の外にも「四書」や「三体詩」などを学んでいたそうです。13歳の時、父が亡くなった事を機に江戸へ出ると、17歳の頃、甲府藩主柳沢吉保に認められ仕官します。ここで柳沢家に仕える儒学者、荻生徂徠に出合い門人となりますが、柳沢吉保が亡くなると、跡を継いだ息子の吉里に疎
「近代硝子工業発祥の地」の碑西村勝三の墓北品川の東海寺大山墓地の入口に「近代硝子工業発祥の地」の碑があります。明治6年(1873)、東海寺境内であったこの場所に日本初の近代ガラス工場、興業社が設立されます。3年後に明治政府に買収され、工部省の官営工場となり、明治18年(1885)には、実業家の西村勝三らに払い下げられて民間工場となりますが、経営不振により明治25年(1892)に解散しています。煉瓦造りの当時の工場の一部は、愛知県犬山市の明治村に移築されているそうです
「鉄道の父」と呼ばれた井上勝の跡を継いだのは、次女の千八重子と結婚し。婿養子となった井上勝純です。山口で、明治17年(1884)に伯爵・松浦詮の八男として生まれた勝純(旧名:松浦純)は、子爵・井上勝の婿養子となり、明治39年(1906)に海軍兵学校を卒業、翌年には海軍少尉に任官し、明治43年(1910)に養父の勝が亡くなったため子爵を襲爵します。海軍大学校選科で学んだ勝純は、順調に昇進を重ね、オランダ、フランスを留学した後、軍令部参謀などを経て、大正12年(1923)に海軍中佐に進
以前、井上勝として紹介した、井上家先祖の墓裏面には、井上家の由緒などが刻まれています。先日、北品川の東海寺大山墓地で江戸幕府天文方・渋川家の紹介をしてきましたが、墓地内にあるその他の墓について一部紹介するのを忘れていました。以前、明治新政府で鉄道庁長官として新橋-横浜間の鉄道や東海道線の建設などを指揮し、「鉄道の父」と呼ばれた井上勝の墓を紹介しました。幕末に長州藩からヨーロッパへ極秘に留学し、明治新政府で活躍した、いわゆる「長州ファイブ」の一人です。ところが、今回久しぶ