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どの国宝建造物にあるか?「同仁斎」と云う4畳半の座敷は、銀閣寺の国宝「東求堂」にある。東求堂は、桁行・梁間共6.9m、一重、入母屋、檜皮葺で、緑が4周し、内部は阿弥陀三尊像を安置した板敷の仏間を中心に、側方に長4畳、その奥に書院・同仁斎、更に仏間と小さな居間から構成されている。4畳半の座敷・同仁斎は付書院と違い棚を備え初期書院造の遺構として著名。
皆さん、こんにちは😊『世界遺産慈照寺(銀閣寺)♪京都一人旅(その12)』皆さん、こんばんは京都一人旅(その11)の続きです🎵午後から、世界遺産慈照寺観光しました銀閣寺として知られてる慈照寺足利義政が造営し、亡くなった後足利義政の…ameblo.jp京都一人旅(その12)の続きになります😊観音殿(銀閣)は二層の楼閣で、上層は仏堂風、下層は書院風に造られてるそうですこちらは東求堂持仏堂と書斎を兼ねた建物で、書院造の源流とされてるそうですこれらの建物は、当時文化人のサロンとして賑わ
4畳半の室は何と云うか?銀閣寺は臨済宗相国寺派大本山・相国寺の塔頭で、足利義政の山荘を起源とし、義政死後に禅寺に改められた。阿弥陀三尊を安置する東求堂は義政の持仏堂であり、初期書院造の代表的遺構である。堂内北東の4畳半の書院は「同仁斎」と呼ばれ、1間の付書院・間半(マナカ)の違い棚・縁に腰掛状の床が設えられるなど、草庵茶室の源点とされる。
慈照寺(じしょうじ)は、左京区銀閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院。鹿苑寺金閣同様大本山相国寺の境外塔頭で、山号は東山(とうざん)、本尊は釈迦如来、観音殿(銀閣)から別名、銀閣寺(ぎんかくじ)として知られています。正式には、東山慈照禅寺(とうざんじしょうぜんじ)と号しています。開基(創立者)は足利義政、開山は夢窓疎石とされていますが、夢窓疎石は実際には創建より1世紀ほど前の人物であり、勧請開山です。銀閣は、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれています。室町幕府8代将軍足利義政は
などを持つ四畳半の小間を何と云うか?銀閣寺(慈照寺)は、足利8代将軍義政が、戦乱で荒廃した浄土寺跡に造営した東山山荘が始まり。夢窓疎石を勧請開山とする臨済宗相国寺派の禅寺である。北の金閣に対比される東の銀閣(観音殿)は、義政の死後に完成した。同寺の阿弥陀三尊を安置する東求堂(持仏堂)の東北隅にある小間は、四畳半の小座敷で付書院・違い棚を備え、初期書院造の遺構として有名な「同仁斎」である。
…何と云うか?銀閣内部銀閣寺は、文明14年に足利義政が、東山浄土寺・跡で造営を始めた山荘・東山殿を始まりとする。が、大乱後の財政難で工事は遅れがちで、ようやく観音殿(銀閣)の上棟を迎えたものの、完成を前に義政が世を去ると、遺命により禅寺となり、義政の法号から「慈照寺」と名付けられた。東求堂創建時の建物で残るのは「観音殿と東求堂(いずれも国宝)」で、2層の楼閣である観音殿は1層が和様の住宅・2層は禅宗様仏堂、東求堂も持仏堂ながら住宅の
令和5年12月16日(土)今日は、車検の日。10時にトヨペットさんに車を持って行き車検を受ける。一通りの内容説明を受け、車検代金と継続メンテナンス費用・タイヤ保管料を支払う。また、車検時に冬用タイヤに交換してもらう。車が夕方17:30頃にあがってくるとのことにて、いったん自宅に帰り昼食を自宅でとった後、電車・バスで慈照寺(通称銀閣寺)に行くことにした。12:15頃自宅を出発↓京阪出町柳駅↓出町柳駅前バス停↓市バス17系統に乗車銀閣寺道バス停で下車↓徒歩慈照寺(銀
銀閣寺秋の特別拝観令和5年10月1日(日)~12月3日(日)10時の回に参加させて頂きました受付を済ませて荷物を預けると本堂へ本堂では十数名の方が集まっていました案内人の方が2人来られて、2つのグループに分けられました第2グループになり本堂の廊下の赤い敷物上に並びました案内人さんと一緒に巡ります本堂横の手水鉢をぐるりと観察四面の模様が全て違っているそうですここで案内人さんがどこかへ連絡して国宝東求堂のセンサーを切ってもらいました普段センサー付いているのですね~国宝・東
銀閣寺(慈照寺)で「秋の特別拝観」(2023年10月1日~12月3日)を行なっています。銀閣寺はこれまで何度も拝観していますが、特別拝観で東求堂などの中を見学することが出来ていませんでした。今回初めて特別拝観に参加させてもらいました。見学時刻は10時から15時30分まで約1時間間隔で決まっていて、その1時間前に申込表に名前を記入する方式になっています。1回当りの定員は約20名、時々15名の回があります。問題はどのくらい前に行って申込表に記入するかですが、平日であれば
今日は暑さは少しましという感じがしましたが、やはり暑かったですねえ~💦という事で、こちらは御存知、「慈照寺銀閣」‼️こちらを訪れるのは30年以上ぶりです。長崎から帰省している息子が御朱印集めをしており、しかも京都の有名どころの寺社仏閣にあまり行ったことがないと言うのでやって参りました銀閣寺。30数年ぶりに訪れた私としては、「こんなに狭かったか❓💦」という感想です。有名な「向月台(こうげつだい))」。美しく整えられた「銀沙灘(ぎんしゃだん)」。月光が
こんばんはー♪♪v(⌒o⌒)v♪♪法然院を後にし、800m程北に向かって歩いて慈照寺にやってきました。総門から境内に入ります。総門慈照寺は足利義政が山荘として造営し、義政が亡くなった1490年に禅寺に改められました。観音殿が銀閣と言われていることから銀閣寺として知られており、「古都京都文化財」の一つとして世界遺産にも登録されています。ここから少し入ったところで拝観料を払い、中門をくぐります。中門ここからは順路の案内板に従って歩きました。庫裡の
…観音殿の通称が全山の呼称として定着している世界遺産の寺院は?室町幕府8代将軍・足利義政の法号「慈照院」に寺の名が由来する慈照寺の通称が「銀閣寺」である。観音殿内部2層の楼閣・観音殿(カンノンデン)は銀閣と呼ばれ、初層は住宅風で2層は禅宗仏殿風に造られている。東求堂は義政の持仏堂として建立され、「同仁斎」と呼ばれる義政の書斎がある。義政は、生涯をかけて東山文化の真髄である簡素枯淡(カンソコタン)の美を映す一大山荘を作り上げたとさ
…源流とされるが、その大きさは?同仁斎は、銀閣寺(慈照寺)東求堂(国宝)内の書院で、草庵茶室の原点とされている。東求堂は書院造初期の代表的遺構として知られている。屋内は座敷が間仕切りされており、4畳、4畳半、6畳の3間と仏間で構成される。その中で、北東に位置する「4畳半の書院」は、「同仁斎」と名付けられ、1間の付書院(据え付けの机)と間半(マナカ)の違い棚、縁には腰掛状の床が備え付けられている。この室は室町幕府8代将軍・足利
京都街歩きは「世界遺産・銀閣寺」を拝観します。臨済宗相国寺派「大本山・相国寺」の塔頭の一つです。あまり知られていないのですが、「金閣寺」も同じく相国寺の塔頭の一つです。「銀閣寺(慈照寺)」は、室町幕府八代将軍「足利義政」が、長子義尚に将軍職を譲り、文明14年(1482)応仁の乱により焼失した浄土寺の跡地に山荘を造営したことに始まります。華やかな北山文化の金閣寺とは対照的に、落ち着いた佇まいの東山文化が開花したところです。銀閣の完成を待たずしてこの地に移り住み、東求堂など次々に
28年ぶりで銀閣寺参拝今回は東求堂初入場三代将軍義光造営の「金閣寺」に対して八代将軍義政の「銀閣寺」と呼ばれるが正式名称は「東山慈照寺」義政公の造営の「東山殿(ひがしやまでん)」がその元になっていて公の没後に法号にちなみ慈照寺と名づけられた…と銀閣寺と呼ばれるようになったのは江戸時代で北山殿金閣寺に対し銀閣寺と呼ばれるようになったそう今回は通用口から入場まず花頭(かとう)窓花の先のような型ということですが火灯・火頭・華頭・架灯・花灯等と書かれることも…少し紅
…書院造の初期の遺構として国宝指定されている建造物は?左京・銀閣寺町に所在する「銀閣寺」は、臨済宗相国寺派の禅寺で、正称は、「東山慈照寺」。元は室町幕府8代将軍の足利義政が、応仁の乱で荒廃した天台宗・浄土寺跡に文明14年から造営した東山山荘だが、義政は完成を待たずして、この山荘で死去したため、遺命により寺に改め「慈照寺」と号した。当初の建物で残っているのは、共に国宝指定されている銀閣(観音殿)と東求堂(持仏堂)のみ。このうち、銀閣は延
今回久しぶりに観光主目的の京都の休日。いくつかの世界文化遺産を精力的に回るつもりだったので、暑くてもいいからなんとか晴れてくれと願っていた。曇りのち昼頃から雨、そんな予報だったが、朝食を終え、部屋から外を眺めるとすでにまぁまぁの雨降りにテンションダウン。ビニール傘片手に最初の目的地『銀閣寺』へはタクシーを利用した。「総門」への参道そして「銀閣寺垣」、写真の出来のいい悪いは別にして、雨にしっとりと濡れ、開門直後の時間ということもあり、そこには私だけ、なかなかの風情。片手に傘をさしながらの撮影だっ
…したと伝わる池泉回遊式であるが、その池の名は?銀閣寺(慈照寺)庭園の中心となる池は「錦鏡池」である。慈照寺は、室町幕府8代将軍足利義政の山荘・東山殿を義政の遺命により寺院としたもの。義政は文明14年に東山殿の造営を開始し、庭園のモデルとして西芳寺(苔寺)庭園を参考にした。義政が選び抜いた立地や東求堂・銀閣、そして「錦鏡池」など見どころが多い。江戸期に庭園の改修が部分的に行われ、「向月台(コウゲツダイ)」「銀沙灘(ギンシャダン)」
…何造りの初期の事例とされるか?銀閣寺・東求堂の北東隅の同仁斎は、4畳半の座敷で付書院・違い棚を備え、初期「書院造」の遺構として著名である。
今朝は銀閣寺をご案内しましたとても寒い大晦日の京都金閣寺に続き、銀閣寺へヤッパリ雪が…猛吹雪国宝観音殿の周りも雪が舞う寒い境内です観音殿前での記念写真も寒そうですよねぇ~東側の小高い山手からは、白く雪に覆われた境内と、京都市内が一望できます。京都の街も、すっかり雪色です日本最古の書院造り国宝指定の東求堂の周りも、雪・雪・雪…京都の冬の雪景色は、いつもとまるで違う姿を見ることが出来ます寒いながらも美しい、冬の京都をご覧くださいね
銀閣寺の続きです。観音殿銀閣を観ながら向月台を通り方丈へ。銀沙灘、東求堂、洗月泉、弁財天、お茶の井、展望所と庭園内は立体感もあり素晴らしいけど雨の中では石の階段を滑らないように気をつけて歩きました。最後に金閣寺、銀閣寺の両方と紅葉が刺繍に入ったミニ風呂敷を買いました。写真はまだ撮ってなかったなぁ。続くfumiのmyPick株式会社コスモライフコスモウォーター
またまた、銀閣寺へご案内いたしました。徐々に深まる色鮮やかな木々秋の銀閣寺はバージョンアップしてます白砂が美しい向月台に燃えるような真紅の楓その対比が秋の醍醐味です日本最古の書院造り国宝指定の東求堂の周りも秋色です日々色付きが進化している銀閣寺また明日は、どんな紅色に変化しているかしら…楽しみですね
銀閣寺に関しては、今さらだけど意外と知られていないことも多い。洗月泉銀閣寺と呼ばれるようになったのは、江戸時代からで、祖父3代将軍義満の鹿苑寺金閣(観音殿)に対して銀閣と呼ばれるようになった。銀閣寺のもとは、9歳で足利将軍家を継ぎ、14歳で室町幕府8代将軍の座に付いた足利義政が晩年に美意識の全てをかけて造営した東山山荘のこと。錦鏡池
向月台寺社や名勝などの写真は、できる限り人のいない光景を心がけている。そのために時間待ちなどで、シャッターチャンスには苦労する。だが、この日の銀閣寺は、全くその必要がなかった。向月台と銀閣:向月台(こうげつだい)は江戸時代に造営されたもので、この上に坐って東山に昇る月を待ったとの俗説がある。庭園に入っても、周りには全く人影がないから、拝観したままの光景が撮れた。銀沙灘(ぎん
つい先日、そろそろ真如堂の萩が咲く頃だと、相棒を誘って確かめに行ってみたが、ほとんどがまだ蕾だった。真如堂の花手水仕方がないので、お参りをしてそのまま白川通に下り、白川沿を鹿ヶ谷道から銀閣寺方面へ歩いた。鹿ヶ谷通と銀閣寺参道ところが、銀閣寺道に行くと、辺りには誰もいない。これは空いていると思い、久しぶりに銀閣寺を拝観しようということになった。銀閣
茶室の姿は多種多様にありますが、基本は四畳半を基準とし、それより小さい物を小間、それより大きい物を広間とよんでいます。武野紹鷗は、名物道具を飾る床の間を備えた北向きの四畳半を本格的な茶室として工夫しました。紹鷗が北向きを好んだ理由は、やや暗めのほうが茶道具の良さが際立つと考えたからだそうです。この発想は当時の茶人たちの心を捉え、紹鷗の四畳半に倣った茶室を設える人が大勢いました。確かに直射日光が入り込む茶室はすだれなどで日差しの
わび茶の創始者といわれる村田珠光の功績で特筆すべきは、それまでのお茶に精神を吹き込み茶道と呼ぶに相応しい領域にまで高めたことでしょう。ここでは、わび茶が誕生する文化的背景を簡単に述べてみたいと思います。鎌倉時代のお茶は、覚醒目的で禅僧が修行の合間に飲んだり、薬として一部の特権階級の人たちが口にする物にすぎませんでした。室町時代になると、*会所でお茶の産地を当てて勝敗を競う*闘茶がさかんに行われるようになりました。しかしそれは、時に常軌を逸脱するほ
さて――1489年銀閣(観音殿)建立立柱上棟ということになるのですが……1466年文(ぶん)正(しょう)の政変足利義政⤵(2側近失い政治力失う)足利義視暗殺計画発覚(政所執事伊勢貞(さだ)親(ちか)・蔭涼軒季(き)瓊(けい)真(しん)蘂(ずい)による)➜足利義視,細川勝元邸へ逃げ込む➜山名持豊・細川勝元,足利義政に貞親・真蘂の排除要求➜貞親・真蘂,近江へ逃亡2側近――政所執事伊勢貞(さだ)親(ちか)・蔭涼軒季(き)瓊(けい)真(しん)蘂(ずい)足利
銀閣寺へご案内いたしました。人が少なくて、もう貸切状態正式には慈照寺といい、室町幕府8代将軍の足利義政が建立しました。金閣寺とは対照的に侘び寂びの美しさ義政が愛した簡素ながらも高貴な雰囲気漂う世界観を堪能できます。火灯窓から銀沙灘はフォトジェニックな撮影スポットです国宝指定の東求堂は極めて貴重な建築物義政の持仏堂兼書斎、その気品ある姿に義政の美学が垣間見えるようです銀閣寺は、どこかしら控えめな華やかさ隅々まで手入れの行き届いた美しい庭落ち着いた中にも気品が漂う上品
銀閣寺に行ったことある?というお題。何回もありますが、昔の写真はどこかに行ってしまいました。あの高さのある椿の生垣は手入れが行き届いていて、見事だと思うのだが多くの参拝客は所謂、銀閣と向月台をみて帰っていく。慈照寺の拝観料に何種類かあることに気付いた。私は、これを松、竹、梅と個人的に呼んでいる。ワンランクアップして国宝である東求堂まで入室させていただくと、書院造の同仁斉は後の日本文化に影響を及ぼした貴重な建造物と言えます。さらにランクアップ弄清亭までいくと、奥田元宋画伯の襖絵に大自然