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第二章世田谷へ(3)【駒繋小学校】④廣森隊長の勲章●二十年三月二十九日付敬夫→母・姉(はがき)お母さん、お姉さん、お元氣ですか。僕たちも元氣で勉強してをります。(中略)目之湯へ泊まってゐる特攻隊の兵隊さんの隊長どの(廣森さん)と林さんと清宗さんが出發したあと、沖なわの海で、外のやどに泊まってゐる人たちと、敵の機動部隊にあって體當りをして、空母を五せきと巡洋艦を三せき沈めました。それから昨日、ゆう城さんが薹灣へ行き、今日、小林さんと伊藤さんがいって、目之湯は一人
🌸満州帝国をつくった男、石原莞爾(かんじ)⛳石原莞爾、戦犯になるのを免れた男☆関東軍の自作自演から始まった「満州事変」*その中心にいた石原莞爾*石原は関東軍参謀で、満州事変の首謀者だ☆戦後の石原は戦犯にもならなかった*故郷の山形で静かに暮らし、60年の生涯を終えている☆石原莞爾が、無罪放免になるになった理由⛳石原莞爾は「帝国の異端児」と呼ばれる☆陸軍士官学校や陸軍大学でも常にトップクラスの成績*変わり者だった、軍隊でのあだ名は「帝国陸軍の異端児」☆
第二章世田谷へ(3)【駒繋小学校】④昭和20年3月27日武尅隊の戦果と思われる写真慶良間列島沖・戦艦ネバダ甲板上に横たわる米兵遺体(米軍資料・沖縄公文書館所蔵)突入後・戦艦ネバダに残った特攻機の日の丸後方は武尅隊隊員と思われる特攻隊員の遺体(だれかは不明同・沖縄公文書館所蔵)戦艦ネバダ(BB-36)甲板上武尅隊隊員と思われる遺体の一部(加工してあります・沖縄公文書館所蔵)●二十年三月十八日付敬夫→母・姉(はがき)お母さん、お姉さ
夜が明けてきました。ようやく、世界ではこの前の戦争の事、極悪人として、レッテルを張り付けられていた東條英機が、冷静に認められてきました。【海外の反応】「心から尊敬するわ」東條英機が未来に託したある想い…。戦後約80年、海外評価を一変させた「遺書」の内容とは?ご視聴ありがとうございます!ぜひ、あなたのコメントをお聞かせください。1:15太平洋戦争と東條英機の真実4:43昭和天皇の意志を受けた東條の苦悩9:23東條英機の最後のメッセージ15:43海外の反応【視聴者様から高評価
第二章世田谷へ(3)【駒繋小学校】③松本市立菅野小学校グランド北東部に残る旧兵舎跡と思われる礎石彼はここで特攻のための訓練を積んだ中澤敬夫さんが書かれた「日本の子、小國民よ学童疎開父と子の便りの記録」。その一部ー武尅隊との交流の様子ーを抜粋してご紹介します。(手紙の文中、整備班長の名が「伊藤」となっていますが、正しくは「伊東」です。)●二十年三月十五日付敬夫→父(封書、便箋三枚表裏)お父さん、お元気ですか。僕たちも元気で勉強しています。(中略)
🌸太平洋戦争を始めた東條英機⛳東條英機開戦時の首相として罪を問われる☆極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判が行われた*「A級戦犯」として逮捕された28人*世界11力国の代表によって罪を裁かれた*裁判の結果、7人に絞首刑*残りの者には、終身刑や有期刑が言い渡された☆極刑に処せられた東條英機*彼の独断で開戦が決められたわけではない*誰が首相でも同じ決断を下したともいわれている☆彼だけに戦争責任を押しつけることはできない*対米英開戦での最高責任者の座にあった
第二章世田谷へ(3)【駒繋小学校】②駒繋国民学校児童や廣森隊長らが滞在した目之湯は現在も当時のままの姿で営業を続けられています。(2023年現在)僕も三度ほど宿泊させていただいて、都度ご主人の中野さんと武尅隊についてお話しさせていただきました。僕が彼の足跡を追って浅間温泉にやって来たこと、また廣森隊長らの残像を求めてこの旅館に宿泊したこと、これまでの経緯などをお話しすると、ご主人もご両親(当時将校らの世話をしたのは現在のご主人のご両親です)から伝え聞いた話などを話し
第二章世田谷へ(3)【駒繋小学校】①駒繋国民学校の疎開児童たち目之湯旅館前にて駒繫国民学校(現在の世田谷区立駒繫小学校)も学童集団疎開をした学校の一つです。代沢小学校の「鉛筆部隊」がテレビでも取り上げられるくらい有名になってしまったので(きむらけんさんのご尽力が実ったのだと僕は思っています)、この他の学校のことはあまり知られていませんが、駒繫国民学校も彼の部隊−誠第三十二飛行隊・武尅隊−隊員たちと交流を持ちました。駒繫小学校の三年生から六年生321名は第一次疎
第二章世田谷へ(2)【代沢小学校】⑥武尅隊・今西隊員が疎開児童・立川裕子さんに贈ったものきむらけんさんとの会合でご本人が持参されたこの黄色い布に描かれた写真の書についてきむらけんさんのブログに紹介されていますのでこちらにシェアさせていただきますWeb東京荏原都市物語資料館:下北沢X物語(1331)〜続武剋隊と鉛筆部隊2〜-livedoorBlog(ブログ)blog.livedoor.jp*************************実は世田
第二章世田谷へ(2)【代沢小学校】⑤慰霊祭の際の世田谷観音特攻平和観音堂鉛筆部隊と特攻隊員ーこの武尅隊と児童との交流の模様は「奇跡体験!アンビリーバボー」でテレビ番組化されました。【第二次世界大戦】鉛筆部隊と呼ばれた子どもたち(1)youtu.beその中に登場する「幸子ちゃん」についてちょっと触れますね。私は彼女とは一度二度お会いしただけなので深くは語れませんけど。番組の中で「幸子ちゃん」が、今野少尉から「戦争が終わって帰ってきたら幸子
手相を変える開運術願いを叶える人生逆転の法則Amazon(アマゾン)1948年12月23日。ある小柄な男が高さ3メートルもある首吊り台の階段を昇っていきました。階段を昇るその男は笑顔で、そして、軽やかな足取り。男の名は、東條英機。大東亜戦争開戦時の首相であり、昭和における代表的な戦争指導者。日本は戦争で敗れ、1945年9月11日午後4時、戦争責任を問われた東條のもとに、マッカーサーの指令によって、MP(憲兵)がやってきま
第二章世田谷へ(2)【代沢小学校】④武尅隊隊員と代沢小学校生徒特攻出撃前のあまりにほがらかな隊員の姿に感動した引率の柳内達夫先生がこの写真を各家族に配ったとされる出撃前の今野少尉から疎開児童たちに届いた手紙...鉛筆部隊の諸君、お元気にお暮らしのことでありましょう。兵隊さんも元気でいよいよあす出撃であります。必ず敵艦を轟沈させますよ。みなさんがこのたよりをみているころは、兵隊さんはこの世の人ではありません。次の世を背負うみなさんがたがいるので、喜ん
第二章世田谷へ(2)【代沢小学校】③昭和20年4月2日付朝日新聞「浮雲教室」から一部抜粋して記します武尅隊6人は千代の湯にやってくるや子どもたちと仲良くなって一緒に遊んで楽しい時を過ごしたわけですが、ある日時枝少尉を除く5名が子どもたちに別れを告げて出発します。(5名は昭和20年3月27日、武尅隊先発隊として敵艦突入、時枝少尉は同4月3日、武尅隊後続隊として敵艦突入)子どもたちはうすうす彼らが特攻隊員であることに気づき、疎開日記にも彼らが特攻隊の勇士で
第二章世田谷へ(2)【代沢小学校】②古本屋サイトで手に入れた「浮雲教室」学童たちは自らを「鉛筆部隊」と呼んで疎開日記を記し、遠く離れた肉親に宛てて手紙やハガキを書いていたわけですが、この鉛筆部隊と武尅隊六名との交流の様子を、当時現地を取材した朝日新聞記者が「週間小国民」昭和20年5月6日号に「神鷲と鉛筆部隊」として掲載しています。その抜粋が・浜館菊雄「特攻隊員と子供達」『学童集団疎開の記録浮雲教室』黒潮社1956年168〜175頁・浜
第二章世田谷へ(2)【代沢小学校】①彼の部隊ー武尅隊隊員らと疎開児童これまで書いた通り、世田谷区で学童集団疎開を行ったのは34校。代沢国民学校(現在の世田谷区立代沢小学校)も集団疎開を行いました。前掲「戦争と子どもたち〜世田谷区の学童疎開〜」によると、代沢国民学校は昭和19年(1944年)8月12日、第一次疎開として三年生から六年生455名が出発、松本・浅間温泉にある6つの旅館に分かれて滞在しました。その一つが千代の湯で、のちに浅間温泉にやってきた彼の部隊
第二章世田谷へ(1)【世田谷公園】⑨疎開児童が疎開していた浅間温泉温泉街のはずれにある御射神社疎開児童たちもここに参拝したと聞いた戦争と子供たち〜世田谷区の学童疎開そしてあとがきには次のように書かれ、この本の最後を締めくくっています(一部抜粋)。「学童集団疎開」とは何だったのでしょうか。集団疎開の対象となった世田谷区内の小学校は、34校を数えます。学童疎開を体験した子どもたちの幼い精神と肉体に刻まれた傷跡は、いまなお忘れがたい記憶として残っているようで
第二章世田谷へ(1)【世田谷公園】⑧疎開児童が滞在していた浅間温泉・目之湯当時のままの姿で営業を続けている「戦争と子供たち」〜世田谷区の学童疎開〜この巻頭の挨拶で、当時の大場啓二・世田谷区長は発刊にあたっての思いを次のように述べています(一部抜粋します)。第二次世界大戦が激化する中、昭和17年4月以降終戦まで、日本本土への空襲が行われ、各地に被害を及ぼしました。世田谷区においてもその影響を免れず、多くの人々が疎開し、不自由な生活を強いられました。
第二章世田谷へ(1)【世田谷公園】⑦この本を買った頃というのは彼の痕跡を追うことに必死になっていた時期ですから、武尅隊に関係する部分、そして彼につながる手がかりが得られそうな部分しか読んでいなかったんですね。この本の中には学童疎開を行った各国民学校の疎開実態や当時の生徒、引率の先生の手記が載せられています。同じ国民学校でも温泉旅館に滞在したグループもあればお寺に滞在したグループもあって、食べるもののほか生活の質にかなりの差があったとか。また地元学校の生徒との軋轢が
【東京裁判】東條英機を追い詰めるはずが実際に反対尋問が始まると、、、※3月1日(金)まで(PR)
第二章世田谷へ(1)【世田谷公園】⑥世田谷区立平和資料館(せたがや未来の平和館)毎日のように通りがかる武尅隊ゆかりの地ー世田谷観音、駒繫小学校、代沢小学校、そして用賀の東條邸跡地…。あの日も...彼が生まれ育った三軒茶屋を出発して246を渋谷に向かって走り出したとき乗っていたバイクが急に故障して動かなくなりました。駆動ベルトが切れたらしい重いバイクを押してたどり着いたのは世田谷公園着ていたダウンの中は汗でビショビショやっと一息ついて顔を上げると...
第二章世田谷へ(1)【世田谷公園】⑤世田谷・用賀東條邸跡帰国後しばらくして僕は、人の助けもあって世田谷に落ち着くことになりました。バイクを手に入れた僕は、広い世田谷の街中であちこち行き来する機会を得ました。もちろんバイクを走らせながらいつも考えるのは「前作、その後」のことで、書くべきか、このままにしておくか、書くとしたら何から手をつけたらいいのか…。書かなくて済むものなら書かない方が楽には違いない…。なんて堂々巡りの毎日でした。まあ、案の定、
第二章世田谷へ(1)【世田谷公園】④「一誠萬艱ヲ排ス」僕の一番好きな言葉昭和丁亥(22年)、東條が獄中で記したもの(小飛15期・橋本さんからいただいたものです)ちょうど日本に帰ってきたのが七月の新暦盆(七月盆)の前で、そのあと旧暦盆(八月盆)にかけては毎年のごとくテレビで戦争関係の特番が始まっていました。SNS上でもそれに合わせていろいろな方々がそれぞれの立場であの戦争というものを語り始めていました。もちろんそれぞれの考え方やその意見についてどちらが正しい
第二章世田谷へ(1)【世田谷公園】③こんなデータも眠ったままだった...(国立国会図書館デジタルライブラリから)彼が「頼む」と言った「仲間」を探してタカさんにはたどり着いたし、彼がいた場所は満州を除いて全て訪れた。もちろん旧軍の資料に残された彼に関すること、そして彼の所属した武尅隊に関することは全て調べ上げたし、彼と東條との関係も掘り起こした。彼との旅の記録は前作「快翔萬里〜空の果て遥か」にまとめ上げて昨年このブログで公開した。でもこれでおしまいにしていい
一方で、統制派は永田鉄山氏やら東條英機後の元首相で死刑囚。支持していたのは陸軍の中堅幕僚層。主張は統制経済による国家運営まぁ、軍隊が経済の話をするようになった以上は、マトモな結論にはならない。大日本帝國を終わらせた軍団であったってことなんだよね。軍隊のプライドが国を破滅に追いやった事実は否めないからね。
これ、とても大事です日本人は知っておかなければいけない事だと思いますhttps://twitter.com/djR61A2bmS4AOP0/status/1761593997754241483?t=XG4ksMM4N6Y_mHMIMmi7Rg&s=19【東京裁判】天皇を不起訴に導いたキーナン主席検事東条英機首相に軍の統帥権はなく、御前会議では大元帥の天皇が一人で決断していた!1947年12月31日、東京裁判での東條英機の不用意な発言が宮中に伝えられると、天皇は焦った『責任が全部自分に
第二章世田谷へ(1)【世田谷公園】②昭和20年3月29日朝日新聞朝刊こうして記事を書いている今もハードディスクからこんな資料が出てくるさて、かくして僕は日本に戻ったわけですが、もともと何もかもぶん投げて日本にサヨナラしてきたわけですから、帰ったところでハテ、何から手をつけたら良いのかわからなくなっていました。あの物語を書き上げたことで彼との約束と思わしきものは果たしたし、トビリシに現れた東條にも義理は果たしただろう…。「一応は」という但し書き付きではあるものの…
第二章世田谷へ(1)【世田谷公園】①別れの日...前作を書き上げたその半月後、僕は急遽日本に戻ることになりました。理由はいくつかあったんですが、ジョージアが国境を閉ざしたままで戻れるメドが立たないというのが一番の理由。日本を離れてジョージアで定住しようと思ったけれども、結局トビリシにいた期間よりもずっと長い間ミンスクにいて、ジョージアという国へのこだわりも薄れてきたし、同じ「旧ソ連国」でもロシアに近いミンスクでの暮らしの方が僕には合っていたから、トビリシに戻ろうとも思
第一章ミンスクの青い空(5)【ミンスクの青い空】⑤アパート前三ヶ根山→硫黄島→トビリシのアパートでのできごとそしてトビリシの空港で強制送還されたことまわり回ってミンスクに落ち着いたことそれは彼と東條からの「早く書け」というメッセージに違いありませんでしたあのときパソコンに残っていたのはわずかな資料だけでした。必死になって調べ歩いたあの数年間の記憶だけをたよりに、その記録を書き連ねていきます。資料が足りないゆえに、書き足りないこと、詳しく説明できないこ
第一章ミンスクの青い空(5)【ミンスクの青い空】⑤この部屋で...アパートに帰ってからもあの戦争のことを思い出して考え続けました。きっと今日のことはそれを知らせるためだったんだと…。であれば、三ヶ根山、硫黄島、そしてトビリシでのできごとが一つにつながる...僕はそこから急いで作業を再開しました。今から思い返すと、もしトビリシにいたら書けただろうか、何も進まないままおざなりになっていたんじゃないか…。幸いミンスクでは部屋の中で過ごすことが多かったために
第一章ミンスクの青い空(5)【ミンスクの青い空】④"BelarusianStateMuseumoftheHistoryoftheGreatPatrioticWar"(ベラルーシ戦争歴史博物館)展示は立派なものでした。しっかり見て回ったら丸一日かかるんじゃないかなと思います。ベラルーシにおける戦争の歴史というものを、本当にこと細かに説明しています。多くの犠牲の上にいまのベラルーシがあるんだ、という主張がしっかり伝わってきます。水筒に