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昭和10年(1935年)10月の粟崎遊園プログラムには特別出演としてアコーヂオン奏者「南部三郎」との記載があります。通常、粟崎遊園のプログラムには作曲家の名前は載りますが、楽士(演奏家)の名前が載るのは珍しく、文字通り何か特別な人なのだと思っていました。新宿ムーラン・ルージュのプログラムでも楽士の名前が載ることは稀で、もしかすると楽士は入れ替わりが激しかったから載せられないのか、舞台のメインはあくまでも役者で、楽士は大道具や照明と同じく裏方としての扱いだったから載せることがなかったのかもしれま
2月に入り最近は少しづつ暖かくなってきて空気も春の匂いを感じます。とはいえ、まだまだ寒いので、温かいものがおいしい季節ですね。今回もちょっと脱線して食の話題です。前回の記事で紹介した片町にできた金沢劇場の脇に「金劇横丁」という名前の飲食店街が劇場のオープンの少し後に開業しました。以下は当時の北國新聞の記事です。「新名所食堂街「劇場横丁」おでん、うどん、和洋食など七店がズラリと軒並べて愈々一両日中からデビユー金沢劇場開場と同時に開店の予定であった同場左横通りから河原町に
今回は終戦記念日のある8月ということで、戦争と文化人との関わりについて少し紹介しようと思います。日中戦争から太平洋戦争にかけて多くの文化人が軍部の要請や徴用を受けて戦場や占領地へ向かい、作家は文章で、画家は絵画で状況を伝え、歌手や俳優らは慰問公演を行いました。宝塚歌劇団は満州へ慰問公演を行い、吉本興業もわらわし隊を結成し、ミス・ワカナらが中国戦線の兵隊慰問に向かっています。藤田嗣治は「シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)」「アッツ島玉砕」をえがき、軍部の依頼を受けたものではないですが火野
今でこそ大阪市は市町村人口では東京都23区、横浜市に次いで3番目ですが、古くから近畿地方、西日本の政治や経済の中心地として栄えていました。村井武生が大阪に住んでいた時代の大阪は大大阪時代とも呼ばれていて、関一が市長だった1925年(大正14年)の第2次市域拡張によって人口が203万人となり、当時の東京を抜いて日本一の規模となり、世界で見ても6位の規模となりました。大阪は明治以降に繊維工業を中心に工業が発展し、東洋のマンチェスターや煙の都とも呼ばれ、崔洋一監督・北野武主演の映画「血と骨」の最後の
1930年(昭和5年)にL・L・L玩具製作所が解散したのち、村井武生は東京から大阪へ引越します。なぜ、大阪に移ったかを本人が「明日の手工芸」に書いています。「昭和五年の秋私が大阪に移住して、以前から關心を持つていた人形劇の製作と運動を興し、人形小劇場を創設しました。これは、當時關西には人形劇の研究團體がなく、人形劇ーわけてマリオネツトというものがまだ一般に理解されてゐませんでしたので、朝日會館、大毎講堂などで上演した「カチカチ山」「チヨンちやんとペンギン」などはかなり世評に上りました。」
東京・根津愛染町の下宿・清秀館に住んでいた村井武生は同じ下宿にいた矢部友衛、岡本唐貴、矢野文夫らと共に昭和4年、「L・L・L玩具製作所」の活動に加わります。L・L・L玩具製作所は詩人・作家の佐藤春夫を所長として、製作主任に彫刻家の浅野孟府、属詫として当時前衛芸術家だった村山知義、美術家の吉田謙吉らをはじめ他にも多くの有名な作家や画家が後援者として名を連ね、時に実製作にも関わっていました。所長佐藤春夫製作主任浅野孟府属託村山知義吉田健吉横山潤之助後援者有島生馬加
村井武生の詩集「樹蔭の椅子」は1925年(大正14年)1月1日に抒情詩社から出版されました。序文は室生犀星と佐藤惣之助、扉絵は恩地孝四郎の木版画で飾られています。同年2月11日には室生犀星が音頭をとって「樹蔭の椅子」出版記念会が燕楽軒(えいらくけん)で盛大に開催されました。この燕楽軒とは今の文京区本郷三丁目にあったフランス料理店で、当時は中央公論社が近くにあった事もあり、芥川龍之介、菊池寛、久米正雄、宇野浩二ら作家たちがよく来ていたハイカラなレストランだったようです。東京での村井武生は室
粟崎遊園が一番賑わって華やかだった時代は昭和8年〜13年のあたりと言われています。その頃の舞台スタッフの中心人物として脚本の鴨居悠(当時北国新聞の主筆)、前回に紹介した藤井とほるがいますが、村井武生もかなりの頻度でプログラムに名前が出てきます。高室信一の「粟崎遊園物語」には村井武生は登場しませんが、滝口征士がまとめた「村井武生年譜表」によると村井武生は昭和9年に舞台監督として呼ばれたとあります。残っている粟崎遊園のプログラムによると舞台監督以外にも脚本、演出などでも活躍したようすが読み取れます
粟崎遊園についての新しい発見がなかなか見つからなかったので、しばらく周辺の遊園の事などを調査していましたが、今回は粟崎遊園の話題に戻ります。高室信一の「粟崎遊園物語」によると、粟崎遊園の創始者/平沢嘉太郎と遊園の演芸部部長/川上一郎が相次いで亡くなったあと(昭和7年6月以降)、浅野川電鉄の役員だった東耕三が遊園の運営を引き受けました。当時の映画館はトーキー映画が少しずつ浸透して来た頃でしたが、映画はまだ無声映画が中心だったので活弁士がおり、映画上演の合間にはアトラクションと呼ばれる出
前回、ムーランルージュ新宿座について書いたので、今回は少し時間を巻き戻してムーランルージュができる前の新宿と東京の繁華街についてまとめようと思います。〜〜〜〜新宿駅の南側を甲州街道が今も通っていますが、この周辺の江戸時代の宿場町は内藤新宿で、今の新宿三丁目駅よりも東側にありました。当時は内藤新宿よりさらに東側の四谷の方がお店も多く、賑わっていました。新宿の大通りは古い商家が軒をつらねていて場末の風景だったそうです。1885年(明治18年)3月1日に日本鉄道品川線の赤羽〜品川間が開