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長柄神社由緒「当社は1400年前、大和から邑楽郡に来て長柄郷を開発した長柄氏が、始祖事代主命を祭神として草創しました。上野國神明帳に『正一位長柄明神』と記された邑楽郡一ノ宮がこの社です。元慶5年881に藤原長良公を合祀し、近郷の首社として崇敬され、元弘3年13335月、篠塚城主篠塚重弘(伊賀守)が新田義貞応じて鎌倉攻めに参陣の時、この社頭に武運を祈願しました(本殿は邑楽町指定重要文化財とされています)江戸時代には二町三反五畝の広大な
(彫工上州の甚五郎関口文治郎)栗生神社本殿みどり市大間々町から国道122号を日光方面に進むと「わたらせ渓谷鉄道の水沼駅」が右側に見える。その先、桐生市役所の黒保根支所の所の信号を左折、国道から分かれ257号線を進む、小黒川に架かっている橋を渡ると上田沢地区の入る。そのまま進むと上田沢の集会所がみぎのあり、左折して県道と別れる。後は案内板に従ってひたすら山道を進むと石の鳥居が表れ、そこが駐車場のなっている。鳥居の先の石段を上ると手水舎があり、名を進むと長屋門に至る。門をくぐってさらに石段
尾島雷電神社こんにちはTeruminです群馬県太田市尾島地区にあります。この地区は、歴史的色合いが今も深く残る町です12世紀に新田氏の始祖である義重の子・義季がこの地を領有し徳川姓を名乗ったことから、「徳川氏発祥の地」と呼ばれ時の幕府の手厚い庇護を受けてきました「猿田彦大神」等の石碑が拝殿雷電神社は北関東を中心に日本全国に点在する神社であり一様に雷除けの神とされているお参りをしているとちょうど
こんにちはTeruminです玉井大神社見てもわかるようにのどかな所ですのどかな上に誰もいません(まあいつものことだけど)ここから入ります狛犬すぐ裏に国道17号バイパスが通っておりますが非常に静かです扁額にも彫り物がまずは気を落ち着けてお参りしますそして本殿へまずは一回りしてみます西からぐるっとまわってこちらは東中備は龍木鼻には獅子と獏左面の胴羽目には青鷺
2023年5月26日群馬県利根郡みなかみ町小仁田の大峰神社に参拝しました。由緒大宝元年(701)の勧請にして、観応元年(1350)社殿を造営。現在の拝殿は大正十一年に建築された。祭神は穂高見命、日本武尊、大山咋命、大山祇命。鳥居拝殿覆屋本殿右面の胴羽目:不明左面の胴羽目:李白観瀑李白は唐代を代表する詩人で、流浪の旅の途中で訪れた盧山の瀧を目の当たりに、自然のあるがままの様子に心打たれてただ立ち尽くしたという。背面に窓が無く、背面の胴羽目は見れない
2023年5月26日群馬県利根郡昭和村橡久保の千賀戸神社に参拝しました。由緒利根郡誌に、詳らかならざるも、往時は大森神社と同神にして延喜13年(913)森下陣所跡に大社三宝大明神と敬い奉り、橡久保分村の折、今の所に勧請し、千賀戸姫命を相殿とし祭祀せしものならんと記されている。鳥居拝殿覆屋本殿右面の胴羽目:梅妻鶴子林和靖は、中国北宋の詩人で、生涯官に仕えず、西湖のほとり孤山に庵を編んで自適の生活を送った人物として知られる。妻のかわりに梅の木を、子のかわりに鶴を
2023年5月10日茨城県・八柱神社に参拝しました。彫刻が多いため、2つに分けて掲載します。・茨城県・八柱神社その1/2胴羽目・茨城県・八柱神社その2/2腰羽目由緒八柱神社御社は金剛院聖天堂として天明年間(1781~1789)頃に再建されましたが、明治四年に郷内各坪に散在する八柱の神を合祀し、塙世鎮守となり永々安寧幸福の守護神として遍く神徳灼に施し諸人に信仰されてきました。鳥居拝殿玉垣と本殿本殿県指定文化財彫刻師:磯部義兵衛英信右
2023年3月30日群馬県邑楽郡邑楽町篠塚の長柄神社に参拝しました。由緒長柄神社の創建は不詳ですが、長柄郷を開いた長柄氏が自らの祖である事代主命を勧請したのが始まりと伝えられ当地方最古の神社とされます。平安時代後期に上野国(現在の群馬県)の有力な神社を列記した「上野国神名帳」には正一位、長柄明神と記されていて邑楽郡一ノ宮として広く信仰を広め、元慶5年(881)には藤原長良の分霊を合祀しています。現在の長柄神社本殿は江戸時代中期の安永8年(1779)に建立されたもので一間社流造、銅瓦棒葺
2023年3月2日栃木県栃木市宮町の星宮神社に参拝しました。由緒星宮神社は櫻町天皇元文元年(1736年)の創立にして經津主尊を祀っています。鳥居拝殿覆屋本殿右面の胴羽目:李白観瀑李白は唐代を代表する詩人で、流浪の旅の途中で訪れた盧山の瀧を目の当たりに、自然のあるがままの様子に心打たれてただ立ち尽くしたという。左面の胴羽目:不明背面の胴羽目は無し右面の上部:天女--蓮の花を持っています背面の上部:天女--笛を吹いています***
2023年3月2日栃木県鹿沼市口粟野の稲荷神社に参拝しました。由緒書きは見つかりませんでした。鳥居拝殿2つの本殿があり、手前の本殿に彫刻があります。彫刻師:正国(富田住)右面の胴羽目:陶淵明(「東普の詩人で菊・柳・酒を愛した。柳と菊を背景に琴を弾く姿で彫刻されている。」と神社にあった説明パネルにありました)六朝時代の東普の詩人。下級貴族の出身で、29歳で官職に就いたが、出仕と辞任を繰り返す。41歳の時に彭沢県の県令を最後に官を辞し、故郷へ戻った。自然を
2023年3月1日栃木県岩舟町岩舟町静の岩船山高勝寺に参拝しました。由緒弘誓坊明願が宝亀二年(771年)に開山、「生身の地蔵尊」を本尊とする天台宗の末寺である。岩船山は、一艘の船の形をした岩山である。遠望すれば、あたかも関東平野という海に浮かぶ舟のように見える。死者の魂はこの山に集まり、霊場である岩船山から、やがてあの世に帰ると信じられてきた。今でも子授・子育・安産の地蔵信仰は有名で、春秋彼岸には多くの参拝者が訪れる。岩船山標高173mの山頂付近にあるお寺で、600段の階段を登って
胴羽目の画題が分かったので、再投稿します。胴羽目3面で『蘭亭曲水の宴』でした。2023年1月9日千葉県匝瑳市八日市場の八重垣神社に参拝しました。由緒平安時代の弘仁2年(812年)、鎮守府将軍・物部匝瑳足継が蝦夷征討の際、八雲神詠の大塚を築いたのが創祀。往古は福岡明神と称したが、鎌倉時代の正中2年(1325年)に牛頭天王宮と改め、更に明治2年(1869)に社殿を造営し、別当寺見徳寺に仏祭の神体を分かち、当社は御神詠(「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」で始まる31文
2023年2月18日群馬県伊勢崎市境の瑳珂比神社に参拝しました。由緒当社の創建は、戦国時代に能登半島出身の小此木左衛門尉長光が境ほか6ヶ村を領有し、守護神として生国能登国の石動(いするぎ)明神の分霊を境城内に奉斎した大永年間(1521~1527)とされています。長光の子左衛門次郎は正親町天皇の御代の元亀3年(1572)武運長久を祈って稲荷の神像と石製の剣を奉納し石剣権現と称しました。明治7年(1874)には村社に列せられました。明治40年(1908)9月に境内末社の菅原神社(菅原道真命
2023年2月18日群馬県伊勢崎市戸谷塚町の戸谷塚諏訪神社に参拝しました。由緒建久4年(1193年)に鎌倉幕府の政所初代別当・大江広元の庶子である那波宗元(大江政広)が那波郡佐味郷を領有した際に、信濃国の諏訪大社から勧請したのが創祀。鳥居拝殿中備:孔雀玉垣と本殿彫刻師:大谷政五郎と政五郎の弟子である飯島初五郎右面の胴羽目:李白観瀑(机の脇にお酒の瓶。だいぶ酔っていようです。)李白は唐代を代表する詩人で、流浪の旅の途中で訪れた盧山の瀧を目の当たりに
2023年2月17日群馬県高崎市箕郷町柏木沢の赤城若御子神社に参拝しました。由緒書きは見つかりませんでした。鳥居拝殿中備:須佐之男命の八岐大蛇退治八岐大蛇は毎年やって来て娘をひとり食べていた。今年もその時期になり櫛名田比売が生贄になるという。須佐之男命は八岐大蛇を退治するため、櫛名田比売の両親(足名椎、手名椎)に強い酒を8つ用意させ、八岐大蛇がくるのを待った。やがて八岐大蛇が現れ、門の前に置かれた酒を飲み始めた。そして、酔いが回り八岐大蛇が眠ったところで、須佐之男命は
2023年1月31日静岡県三島市大宮町の三嶋神社に参拝しました。彫刻が多いため、2回に分けて掲載します。・静岡県・三嶋神社その1/2総門・静岡県・三嶋神社その2/2拝殿由緒創建の時期は不明ですが、古くより三島の地に鎮座し、奈良・平安時代の古書にも記録が残ります。三嶋神は東海随一の神格と考えられ、平安時代中期「延喜の制」では、「名神大」に列格されました。祭神として大山祇命・積羽八重事代主神の二柱の神様をお祀りし、総じて三嶋大神と称します。伊豆一の宮として、源頼朝
2023年1月20日栃木県佐野市山菅町の安蘇澤神社に参拝しました。由緒主祭神:別雷神。配神:高龗神・大宮売命、水波乃女命。下野国の在庁長官であった藤原秀郷(根古谷唐澤城主田原藤太)が霊夢により武運長久、領土安穏祈願のため勧請。天明7年(1787)社殿を建築。山菅鎮守として尊崇されてきた。秀郷が勧請した多数の神社のひとつ。鳥居拝殿覆屋本殿右面の胴羽目:李白観瀑李白は唐代を代表する詩人で、流浪の旅の途中で訪れた盧山の瀧を目の当たりに、自然のあるがままの様
2022年12月16日栃木県佐野市石塚町の石塚神社に参拝しました。由緒主祭神は天児屋根命。由緒沿革は詳らかではないが、古くは柿本人麻呂を祀るものでした。天保9年(1838)の社殿を改築し、明治40年に村社となりました。鳥居拝殿玉垣と覆屋本殿右面の胴羽目:李白観瀑李白は唐代を代表する詩人で、流浪の旅の途中で訪れた盧山の瀧を目の当たりに、自然のあるがままの様子に心打たれてただ立ち尽くしたという。背面の胴羽目:梅妻鶴子林和靖は、中国北宋の詩人で、生涯官に仕
2022年12月8日群馬県甘楽郡下仁田町下仁田の諏訪神社に参拝しました。彫刻が多いため、2つに分けて掲載します。・群馬県・諏訪神社その1/2(拝殿・本殿胴羽目)・群馬県・諏訪神社その2/2(本殿脇障子、境内社)右面の脇障子:黄仁覧古代中国の南城の人物。ある時、黄仁覧は官庁勤めで遠地へ単身赴任することになった。しかし、黄仁覧は家から数千里離れた勤務地を毎日通っているという。不審に思った両親が問うと、黄仁覧は青龍を呼び寄せ、青龍に乗って飛んでいったという。左面の胴
2022年10月8日埼玉県神川町渡瀬の木宮神社に参拝しました。由緒渡瀬の地名は、隣町鬼石町(群馬県)との境を流れる神流川の川瀬を渡る意である。かっては碓氷峠の脇往還に位置して、交通の要所であった。この地は、永享十二年(1440)須藤伊予守以下六名が信州より土着して開発したと伝えるが、字上サ前の薬師様には応永十年(1403)と応永三十二年(1425)銘の宝篋印塔があり、それ以前から既に開かれていたことをうかがわせる。祭神は、句句廼馳神であり、木の神を祀るものである。五行説により木(木宮
2022年9月6日茨城県結城市小森の大桑神社に参拝しました。由緒大桑神社の成立については、古代、東国に養蚕・織物を伝えたとされる阿波斎部が、養蚕・農業の神、稚産霊尊を祭神として、北方の大水河原に創建、この辺り一帯を大桑郷と名付けたことに始まり、その後、洪水により流失、1479年(文明11)今の地に移ったと伝わります。そして、南北朝時代には、結城家7代直朝が、関城攻略に際し、戦勝を祈願した結城七社の一つに数えられています。小森という地名は、阿波斎部の伝えた蚕種を守り、養蚕・織物が盛んであ
2022年9月6日栃木県小山市間中の間中稲荷神社に参拝しました。由緒創建年代等は不詳ながら、間中の地で古くから信仰されてきた神社であり、1708年には祭祀を司る官庁である京都神祇官から、神社における神階の最高位である正一位の称号を与えられました。主祭神は稲倉魂命。1715年建立の本殿は小山市文化財。大工は旧真弓村の人見又兵衛。鳥居拝殿狛犬犬というより虎?っぽい狛犬中備:龍木鼻:獅子覆屋本殿小山市指定有形文化財右面の胴羽目:李白観瀑
2022年8月20日茨城県つくば市上郷の金村別雷神社に参拝しました。由緒当社は承平元年(931)時の領主桓武帝の皇孫豊田公が霊夢に感応ただちに西京加茂別雷大神の御分霊を奉迎この地に鎮祭したという。その後、豊田史郎政基、源頼義・義家父子の副将を拝命。康平五年九月衣川の激戦に河水満漲して甚だなやんでいた時、旗印の神竜忽ち橋を出現させ、さしもの堅陣を壊滅させたという。これこを御冷泉帝から下賜された「つぐみ竜」紋の神旗で当社の重宝となっている。祭神の別雷大神は雷を支配統御する神で、霹靂一声
2022年2月26日埼玉県草加市氷川町の草加神社に参拝しました。由緒草加神社は安土桃山時代の天正年間頃(1573年~1585年)に、武蔵國三之宮なる大宮氷川神社の御霊を分け戴いて小さな祠で祀ったのが始まりです。その後、明治40年(1907年)政令により当時の草加町内に御鎮座する諸神社十一社を当社に合祀し、明治42年(1909年)に社号を社号を草加神社と改めました。御祭神は素盞鳴命・櫛稲田姫命二柱の大神様。鳥居拝殿子産石(子宝石)この石は清らかな海の岩より長い歳月を
2022年3月20日東京都青梅市二俣尾の石神社に参拝しました。由緒石神社は、青梅市二俣尾にある神社です。石神社の創建年代等は不詳ながら、石上神宮を勧請したものだとも伝えられ、二俣尾村の鎮守社だったといい、明治6年村社に列格したといいます。拝殿覆屋本殿右面の胴羽目:李白観瀑李白は唐代を代表する詩人で、流浪の旅の途中で訪れた盧山の瀧を目の当たりに、自然のあるがままの様子に心打たれてただ立ち尽くしたという。背面の胴羽目:寿老人寿老人は、福禄寿と同じく星の化身
2022年3月26日埼玉県熊谷市玉井の玉井大神社に参拝しました。由緒玉井大神社は、平安京造営大夫の藤原小黒麻呂に命じられて四神相応の地を見立てるために旅をしていた興福寺の僧賢璟が、当地で眼病を患い、当地に彫った井戸(玉の井)で眼病を快癒したことから、井殿明神と称して創祀したといいます。慶安2年(1649)には社領12石の御朱印状を拝領、明治5年村社に列格、明治41年には字稲荷木下通の春日大神社をはじめ、村内にあった無格社19社を合祀、明治42年には字水押通の無格社天神社を合祀しています
2022年7月27日埼玉県行田市埼玉の前玉神社を参拝しました。由緒前玉神社は埼玉県行田市、さきたま古墳群に隣接する神社です。前玉神社の創建年代は極めて古く明かにはなっていませんが、古墳時代の400年代後半から500年代前半の時期ではないかと推定されています。高さ8.7m、周囲92mほどの浅間塚と呼ばれる古墳上に建てられております。ご祭神は前玉彦命・前玉姫命の二柱であり、人の身を守り、幸福をもたらす神様が祀られています。鳥居階段と拝殿懸魚:控鶴仙人(笙や巻物を持っていな
2022年7月26日埼玉県春日部市樋籠の天満宮に参拝しました。由緒書きなどは見つかりませんでした。鳥居・拝殿本殿・玉垣本殿右面の胴羽目:梅妻鶴子林和靖は、中国北宋の詩人で、生涯官に仕えず、西湖のほとり孤山に庵を編んで自適の生活を送った人物として知られる。妻のかわりに梅の木を、子のかわりに鶴を愛でていたという。背面の胴羽目:司馬温公の甕割り温公は司馬光といい、北宋の政治家。「資治通鑑」を書いた学者としても知られています。子供の頃、大きな水瓶に落ちた友達を助
2022年5月14日埼玉県本庄市千代田の金鑚神社に参拝しました。由緒社伝によると、創立は欽明天皇の二年(五四一年)と伝えられている。武蔵七党の一つである児玉党の氏神として、また、本庄城主歴代の崇信が厚かった。境内は、欅や銀杏などの老樹に囲まれ、本殿と拝殿とを幣殿でつないだ、いわゆる権現造りの社殿のほか、大門、神楽殿、神輿殿などが建っている。鳥居拝殿唐破風下:寒山と拾得中備:龍に乗る黄仁覧寒山と拾得寒山と拾得は中国唐代中期の高僧。二人とも詩人としても有名だが、
2022年5月15日群馬県太田市細谷町の冠稲荷神社に参拝しました。この神社は彫刻が多いため、4つに分けて記載します。その1/4拝殿その2/4本殿その3/4聖天宮その4/4実咲稲荷社(彫刻は無し。面白い狐さんたちがいます)由緒冠稲荷神社は天治2年(1125年)新田氏の始祖新田義重公の父である源義国公が創建したと伝えられます。承安4年(1174年)源義経公が奥州下向のおり冠稲荷神社が源氏ゆかりの社であることを知り、冠の中に勧請してきた京都の伏見