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ほぼ1年ぶりの間瀬湖であった、懐かしい。片道2時間近く、往復では4時間ひたすら車を走らせる、心地よい疲労感が漂う。現地着10時半、東屋桟橋に着座する。先客7人、舟は目視で15隻、新緑の薫りとそよ風が爽やかであるが、セーターや厚手のズボンを履かないと少し肌寒い。↓曇天の中、新緑が映えて、空気も綺麗だ。↓竿は恵舟10尺2寸、飛ぬ希硬式純正鶺鴒をつないだ。11時過ぎに第1投、ダンゴ餌は、GD、凄麩、がってんを各均等に、やや固めのボソを残すように仕上げる。時間帯が良くないことも
庭で隣り合わせに植えている黒百合より20日も遅れて百合椿が咲き始めました。自作の器へ。この椿は全てこのように扁平な開き方のような気がします。寂しいのでシロヤマブキを追加。木に残っていた黒百合(右の2つ)と竹の掛花入れへ。同じく杉本貞光先生の経筒へ(真ん中が黒百合)。せっかくの茶道具を使っても“茶花”にも何にもなっていませんが、気に入っています。
庭の椿:錦重(にしきがさね)を4輪切り取りました。白斑の入る花ですが、このような地色だけの枝も出ます。これも地色だけのようですが、これぐらいの状態で切るとちゃんと開花してくれるかどうか不安です。実は次の2点は、このまま開化せずに終わってしまったのです。満開をちょっと過ぎてしまった感じの花を、杉本貞光先生の蹲壺(1982年5月日本橋三越本店の個展出品作)へ。「古信楽を彷彿させる器に自分ごときが…」と思いながらも、向きを変えて楽しみました。
元の会社の上司の愛称から名付けた“よっさんの椿”を、杉本貞光先生の信楽焼の経筒花入れ『銘:心なき』へ入れました。30数年前、よっさんの市街地再開発の仕事の手伝いで明石市(兵庫県)へ行ったとき、道端にいっぱい出ていた実生苗を持ち帰ったことから“よっさんの椿”です。花入れの銘は、経典を入れる経筒から西行法師を連想し、その歌「心なき身にもあはれは知られけり~」からもらったものです。スマホ撮影していて、20年前に早世したよっさんゆかりの椿と経典を入れる器との取り合わせに気
ときどき椿をもらってくださるご近所Waさん宅へ玉之浦と桃太郎を届けに行ったところ、裏庭に白い椿の大きな木が。奥さんの話では40年ほど前にお向かいのNさんの木から挿し木したたとのことで、全面に花・蕾がいっぱいついていて、横の実生苗にまで蕾があります。蕾の1枝を所望したら開花枝もくださいました。似た花もあるので自信はありませんが、加茂本阿弥ではないかと思います。それにしても、白一色の花を写すのは昼光でも室内でも難しい。実は大きな器に入れる大ぶりな白花が欲しくて3
3月15日記事の鳥害の玉之浦のその後です。傷ついた花が開きましたが、本来の形ではありません。玉之浦jrと呼んでいるこちらも蕾に穴をあけられましたが、ちゃんと開花して、蕊(しべ)の右上の穴が辛うじて分かる程度です。白い覆輪はほとんど出ていませんが、端正な形は親譲りです。花が少し傷んでいますが枝ぶりが面白かったので、杉本貞光先生の経筒形の花入れへ。水気を含んだ器の様子が好きで、霧吹きで湿らせました。翌日です。木の下の方で開ききっているのを見つけて、ご
昨年11月15日の記事で紹介した庭の椿『吹雪白玉』がまだ咲き続けています。さすがに花色が薄くなってきたし、樹勢を考えて大幅に枝を落とすことにしました。花や色づいた蕾の枝は惜しい気がしますが仕方ありません。できる限りいろんな器に入れて楽しむことに。本来はこんな紅色の吹掛け絞りが入る花です。ネットで取得した杉本貞光先生の花入れへ。器は水を含ませると様子が一変します。この発色から、先生にお願いして『熾火(おきび)』の銘をいただいた器
前回に続いて庭の椿2種です。1月22日に掲載した卜半錦が最盛期です。こんな枝を切ったら生けにくいと思いながら、花が二つ並んだのを切り取ったら案の定…。どちらかを除くのなんて到底できません。器は作者不明の信楽焼。中に竹の”落とし”を入れて、なんとかまっすぐなるようにだけはしました。翌日のほぼ同時刻。落ちた花は壁から60センチほど離れたカーペットの上に。花入れの下に置いたこれら小道具?に当たって転げたようで、その様子を想像すると楽しくなりま
ご近所Maさんに手助けしてもらって無人駅の木の枝切りをしてきました。ホームのフェンスの外の空き地に、個人が勝手に植えて植えっぱなしの、花桃3本と土佐水木、蠟梅(ろうばい)各1本です。長年続けたこの空き地の除草などを去年卒業したのですが、電車に乗るたびに木の乱れが気になってしまったのです。枝は小さく切ってゴミ出し用の袋に入れ、明日駅前の清掃をされるボランティアさんに託します。蠟梅は終わった花もあるもののまだまだ見られます。剪定した枝で花が多くついたものはゴミの袋の上に
ネットオークションで取得した杉本貞光先生の蹲です。高さ約12センチ。箱も栞(しおり)の類いもなく「信楽掛花生花入花瓶」として出品されていたもので、たまたま見つけました。競争相手がなく、安いオークションの始値での落札です。以前取得した先生の蹲です。これ以外にも何点か実物を見たことがあり、不鮮明な写真だけでも先生の初期の作品と分かりました。以前先生から教えていただいた“みかん色”の緋色です。椿:覆輪秋の山を入れました。先生の箱が
庭で「ひょっとしたら?」とモクレンの下の乙女椿の下を見たら、福寿草の芽が三つ。おそらく今が一番寒い時期だと思いますが。これを見ると春を予感します。去年株分けをしたご近所Maさんの庭を見せてもらったら…。植えたことを忘れてその上に植木鉢を置いていたので、ホワイトアスパラみたいになるところでした。あぶないアブナイ!仕舞っていた陶芸家:杉本貞光先生の禅画の掛軸を取り出しました。書の『福寿如意』は「幸福も長寿も思いのまま」という意味だそうです。絵は宝珠を持った『福禄
前回記事で侘助を入れた信楽焼の徳利とぐい呑みがセットになった杉本貞光先生の作品で、相変わらずのネット取得です。どちらにも「馬」の字の左右を逆向きにした字が彫られています。いわゆる「左馬」で、商売繁盛や招福万来の縁起物です。料理屋さんでこれを掘った大きな将棋の駒を見たことが何回か。以前同様のものを取得して杉本先生に見せたところ、今の窯の前の窯を作ったときの記念品とのことでした。どちらにも底に「て」のサインがあります。先生のサインは当初の貞光の「サ」から一時期の「
ネットで取得した杉本貞光先生の『御本』の皿です。先生の御本の皿、茶碗は一度にいくつかを作られることが多いのですが、これは少し違います。箱の蓋の裏に『亀』と書かれ、本体に絵(お寺の塔?)が陰刻されているのです。先生の作品と大徳寺511世立花大亀老師の書画に多く接していると、このサインと絵が老師のものと分かります(注:あくまで素人鑑定団の独断です)。ちなみに以前取得した老師の掛軸で、右下に同じような絵が描かれています。ちょっと気取って皿に肴か和菓子でも置いて
今年最後のネットオークションは素晴らしいものになりました。大晦日の今朝、ゆうパックで届いた杉本貞光先生の作品は、取り出すときに久しぶりに手が震えました。簡単に言えば“オーラ”が感じられるのです。しかも重厚な。「花入」と箱書きにあるのに説明に「手焙り」とされていたせいか「美佐子女史」と個人名があるせいか、考えられないような落札額でした。建仁寺の小堀泰巖(たいがん)師は杉本先生の戒名『玄覚貞光』を授けられた方です。観音経等の文字は師が書かれたものでしょう。
当ブログ8月27日記事の杉本貞光先生作の信楽焼の花入れ、高さ:21センチ、胴径:最大15センチです。今回、この箱に『苔の寺』の銘を書いていただきました。高温で降った灰でできた黄色のゴマの上に低温で流れたうす緑の自然釉を苔に見立てました。(まさに“モスグリーンⅯossGreen苔の緑”ですが、情けないことにこの言葉を思い出したのは2日も経ってからです。)苔は長い年月を表し、この器がこの先何年も引き継がれるようにとの思いも込めました。これらのことを先生に話して
ネットで買った大徳寺511世立花大亀老師の作品を、老師に茶陶の薫陶を受けた陶芸家:杉本貞光先生に見ていただきました。大亀戯句画賛年の瀬や還暦と云う僧の有り12月9日記事の掛軸で、合わせ箱で箱書きがありません。先生の話・老師らしい絵。・(人物の右上)赤い墨を落としたのも老師らしい。・句の『僧』はご自身ではなく知り合いのお坊さんではないか。(私の想像:紙でもらった人が軸装したから箱に老師の書付がないのでは?)先生にお持ちいただいた方がいいのでお預けしました。
大徳寺511世立花大亀老師筆としてネットオークションに出ていた竹花入です。今まで見た茶人の花入れはもっと日数をかけて油抜きされた竹を使っている気がしますし、このように削りを入れたものも記憶にありません。それで半信半疑(2信8疑ぐらい?)ですが、この一重切(いちじゅうぎり)の形が欲しかったし手頃な価格だったので落札しました。偽物なら朱書も箱書も削ってしまえばええや!と。現物が届いて驚きました。オークションの写真より姿・形がはるかに素晴らしい。正面の大きな
前回記事の杉本貞光先生の紅志野のぐい呑みで奈良の地酒:貴仙寿吉兆をいただきました。20数年前、たまたま入った奈良の居酒屋で壁に貼られた日本酒の名前を見たところ、蔵見学をさせていただいたことのある豊澤酒造(奈良市)の『貴仙寿』の名前が。本醸造酒だったのでご主人に「純米吟醸の『貴仙寿吉兆』はないのですか」と尋ねたところ「ほんなら置きまひよか?」と、なんと初めて入った店でそのお酒(一升瓶)をキープすることになり、以来、瓶の中身が少なくなると「次は何にしまひょ?」で現在に至っています。(さす
ネットオークションで取得した信楽在住の陶芸家:杉本貞光先生の紅志野のぐい呑みです。10数年前に京都の百貨店での個展で初めて見て以来、先生の志野に惹かれています。この土を探されたご苦心をお聞きしているだけに、なおさらこの柔らかい風合いがいとおしのです。百貨店の個展後に工房をお訪ねし、それから1年ほど待って焼きあがった中から選ばせていただいたのが下の写真の右側です。同じ紅志野でも焼き色がずいぶん異なりますが、このピンクはなかなか出ないそうです。いつか大切
スライド式の本棚の奥の棚に杉本貞光先生の塑像:白衣観音を置いています。塑像より仏像と言ったほうがいいかもしれません。慈愛の面差しが21年前の今日逝った人を偲ばせてくれます。椿:西王母を入れた自作の花入れを並べて、今年の11月26日です。
またまたの“また”が何回付くのか、また杉本貞光先生の作品をネットオークションで買ってしまいました。病膏肓(やまいこうこう)に入る。分かっちゃいるけどやめられねぇ♪などと、古い歌(スーダラ節)を思い出します。杉本貞光先生の玉子手(たまごで)茶碗『銘:懐旧』で、先生の師である大徳寺511世立花大亀老師の箱書きがあります。玉子手茶碗とは高麗茶碗の一種で、釉肌が玉子のような趣であることからの呼称とのことです。実は1年前にも先生の『懐旧』を取得して、同年10月16
9月28日の記事で紹介した、杉本貞光先生の信楽焼の瓢(ひさご)形花入れです。箱のない状態でネット取得したもので、福岡県の業者さんに頼んでいた桐箱が出来てきました。次回先生にお会いしたときに箱書きをお願いするつもりで、これで名無しの権兵衛さん(古い表現です)の身元が証明されます。ただちょっと笑ってしまうことが。作品本体より箱代の方が高くついたのです。箱はお安く作っていただけるのですが、送料を含めるとそんなことに。もとはと言えば、作品本体が安すぎたからですが…。例えが適
またまた(正確にはもう一つ「また」が付きます)、杉本貞光先生の作品を買ってしまいました。相変わらずのネットオークションです。伊賀の花入れで銘品とされる『生爪(なまづめ)』の形です。私には高額ですが、この額では多分ダメだろうと思いながら入札したら落札してしまいました。溜まった滓(おり)に埋もれてできた焦げでしょうか。(以下、素人鑑定団の判断です)水平に開いた口にビードロが。そのビードロが流れて胴紐(どうひも)に溜まっています。(拡大してご覧いただけると嬉しいで
安すぎるオークション価格に惹かれての衝動買い。この場合の“衝動買い”は、特にほしい訳ではないのについ買ってしまったという意味です。杉本貞光先生の信楽焼の文鎮で、不動明王のお顔が彫られています。まさか文鎮だから不動(=動かない)などという洒落ではないと思いますが、先生に確認したら呆れられるか叱られるか…。大きさは縦・横それぞれ6センチ程度で、重さは258グラムです。先生の作品で小さいものでは香合がありますが、文鎮は図録でもネットでも見たことがありません。先生の作品を扱う
では、朱熹は具体的に礼の「文飾」(手順や様式)をどのように考えていたか。宗在倫氏は「家族、儀礼、善政ー朱熹礼学の形成過程」という論文のなかでこう述べている。「祭器や服飾の統一を力説する朱熹の主張からは、日常生活の細かい部分にまで儀礼の秩序を構築しようとした「形式主義」(formalism)の側面も見出すことができる。彼は時宜にそぐわない煩わしい礼規を拒否したが、儀式については、祭器や服飾に至る微細な項目まで定式化した統一的規範を確立しようとした点で、形式主義を堅持していた。こうした形式主義は、
先日、東京都三鷹市の三鷹市美術ギャラリー内、「太宰治展示室~三鷹の此の小さな家~」に出掛けてきた。今回3度目の訪問であるが、太宰に関心の薄い人は、2度3度とは行かないであろう、それ程小さな展示室である。三鷹は太宰治のゆかりの地であり、生涯を閉じるまでの9年近く、此の三鷹の地で暮らしていた。某所にて衝撃的な人生の最期を遂げることになるが、その最期は実際に公表されていることよりも謎が多い。執筆中の「グッド・バイ」は、未完となってしまった。正しく、「事実は小説よりも奇なり」である。また、太宰は群
私は、へら鮒釣を楽しむ期間を、凡そ2月中旬から12月中旬までの10か月としている。理由は至って簡単で、冬季は寒い、風が強いからで、自他共に認める軟弱者である。若いころはそんなことはない、冬場に釣りをしなくなったのは年齢的に55歳を過ぎたころからであろう。大した人間ではないが、風邪等で体調を崩して仕事を休むわけにはいかない、これも理由の一つであった。それでは冬季は何をするのか、こう自問自答してみると、何もしないわけではない。私は、学業も仕事面においても歴史系の人間であったので、美術館でボラ
杉本貞光信楽破れ壺ガレージメイド販売価格……150000円
茶の世界でも「主」となりたい秀吉の主張や意向を、茶頭である利休はほとんど忠実に受けとめようとしていた。大徳寺茶会や北野大茶湯では秀吉とともにプロデュースする側にあったし、黄金の茶室でも茶頭を務めた。秀吉の茶頭であるということはすなわちかれの「奴」であることを意味し、「奴」が「主」のために「労働」するのは当たり前のことだ。ただし、利休にとって、それはあくまで受動的な「労働」にすぎない。スタティックな「主と奴」の関係性に生きる秀吉にとっては命がけの闘争のみが自己実現の唯一の手段だが、「主と奴」の弁
利休の地殻変動の痕跡が記録として最初に確認できるのは、天正8年(1580)の「ハタノソリタル茶碗」の使用である。だが、実際には、それは、これまでみてきたように、堺に信長の手がのびはじめた永録11年(1568)から少しずつ、漸進的に起こったことが推定される。それは、ひと言でいうなら、野心家として抜け目なく振舞い出世を遂げていくなかで、その過程だけでなく、それに没頭する自分自身に疑念を抱くことから始まった。疑いのまなざしは、自らが仕える主人に、そしてその取り巻きに、さらには同僚にまで向けられた。そ