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09:30丹羽亀山城から京都駅に戻り、バス乗り場D2に行くと大大行列!200人以上は並んでた噂には聞いてたけどこれは無理。バスに乗れません!京都駅から養源院まで歩いて行きました1.2km16分で到着しました💨※拝観日はInstagramをご覧下さい4月は水・木・土日祝のみ10:00〜15:00養源院【公式】[養源院の公式ウェブサイト]養源院は文禄三年(一五九四)戦国武将であった浅井長政の菩提を弔うために、長政の二十一回忌に長女·淀殿(幼名茶々)の願いにより、豊臣秀吉
2015年11月4日京都駅から市バスで博物館三十三間堂前バス停まで乗車しました。さらに4,5分歩いて養源院に来ました。この寺は伏見城を死守する徳川普代の将・鳥居元忠と380余名の将士が最後に自刃した床板を、供養のために天井に使用したとされ、血の痕と言う黒いシミが見える寺として名高いです。見た感じでは評判程の印象は受けませんでした。参道本堂創建は文禄3年(1594)ですが、元和5年に焼失し、2年後に徳川秀忠夫人・崇源院が伏見城の遺構を移して再建し、以降は徳川家の菩
9月22日金曜日出町柳で食事とパン活をした後は・・・『食パン宝箱と観光列車ひえい』9月22日金曜日あずきさん・オレンジさんと京都までお出かけしてきましたこの日はあずきさんのリクエスト、・修学院離宮の見学・叡山電車の特別列車に乗車・…ameblo.jp出町柳駅から、観光列車“ひえい”に乗車して修学院駅で下車し、修学院離宮を目指して歩きました。駅から修学院離宮までは約1kmの道のり。道中には黄金色に染まる田んぼ、古いお地蔵様や道標が~修
こんばんは、mmm(まーママ)です。7月16日(日)祇園祭をはしごの旅。その前にこちらに寄り道しました。鯨組主中尾家屋敷佐賀県唐津市呼子町呼子3750-3観覧料:一般210円無料駐車場は、建物の斜め前にあります。この天井のたかいおうちは、江戸時代に鯨組主として巨万の富を築いた中尾家の屋敷として建てられた建物です。子クジラもいるよ中の間、座敷を囲むように、周囲3ヶ所に杉の戸板に描かれた障壁画(杉
銀座のポーラミュージアムアネックスで開催中の木村英樹展へ行ってきました斬新とは違いますが、思い切りのいいタッチ沖縄の紅型と似た感じ(技法ではなく、作品の雰囲気です)凄い!反対側に回ると全く違う世界観でカラフルこちらの作品は↓障子なのだそうです後ろの壁はこちらの展示準備の中に木村英輝氏が急遽描き加えたそうですこの絵の前で、うるさいアラフィフだかアラカンの女性グループがいてうるさいのなんのって、わたくしが言うのもなんですが、はしたないというか下品と言うか声が大きい、写真を撮影する
養翠園(ようすいえん)は和歌山市にある個人所有の池泉回遊式庭園で、国の名勝に指定されています。これは御三家のひとつである紀州藩10代藩主・徳川治寶によって1826年西浜御殿内に造営された広さ33,000㎡の大名庭園で、養翠園の名は三条実美の祖父・公修が命名しました。この養翠園は和歌山湾沿いにあり、海水を引き込んだ「汐入り」の池が最大の特徴で、潮の干満に応じて水位が上下します。この池に三ツ橋と中島を挟んで太鼓橋を渡した堤は、中国蘇州の西湖の堤防
今回の京都旅行のハイライト養源院。時節柄花の話題を先に入れたので、やっとたどりつきました(笑)。養源院を目指したきっかけは本文最後の方に記すとして、先に本日のブログタイトルの意味の説明から。こちら、俵屋宗達直筆の杉戸絵『唐獅子図』、『白象図』、『波に麒麟図』(および今回見られなかった襖絵『松図』)があることで知られますが、この杉戸絵などは博物館に移動したらまったく意味合いが異なってしまう、この場所にあるからこそ、絵に施した工夫が生きる、と気づいたのです。つまり教会の祭壇画と同じ
2022年10月に行った京都旅行記を綴っています。京都旅行3日目本能寺を訪問した後は旦那さんが行きたい所に行く時間。まずは京都御所を訪れました。2人とも初訪問です。入門する前に私は駐車場で気になるものを発見。きのこ。色はナメコみたいだけどぬめりが無い。何のきのこかわからないけど道端でこんな風に株で生えてるきのこ見たことないので記念撮影。きのこの上には大量のどんぐりが生ってました。幼少時代野山でワイルドに遊ん
寺院でよく見かける戸板に描かれている絵。京都の歴史ある寺院だと国の重要文化財に指定されているのも多い。哲学の道沿いにある南禅寺塔頭の「光雲寺」には、以前紹介した俵屋宗達の兎が描かれた戸板の他に、室町時代に狩野派2代目として活躍した狩野元信が描いたアオサギの大杉戸絵がある。この杉戸絵が目に焼き付いて離れないほど印象深い。杉の強烈に浮き上がる木目とアオサギが見事に調和され描かれている。木目が水面の波紋のように見え、せせらぐ川の中でアオサギが餌を探しているかのよう。たかが戸板だが、絹本や紙本とおな
江戸初期に活躍した絵師俵屋宗達は本阿弥光悦と並んで琳派の祖といわれている。俵屋宗達の絵でまず思い浮かぶのは、「風神雷神図」であろう。その他にも数々の絵が残されいまに伝えられている。その一つが南禅寺の境外塔頭の光雲寺にも杉戸絵として存在する。公開はされていないが、令和五年の干支である癸卯の兎が杉戸2面に描かれている。1610年代か20年代のものと思われるが、両面に白兎、黒兎など数羽が楽し気に戯れている。昨年、光雲寺を参拝する機会があり、仏殿や方丈などにある、日頃目にすることはない貴重な文化財
なんと、2日連続で美術館・博物館カテです。今、名古屋城では名古屋城秋まつりの最中で、様々なイベントが順次開催されています。そこで、私も先日、ぶらっと名古屋城公園へ行ってきました。名古屋城自体へは現在入られませんが。公園内にある「西の丸御蔵城宝館」がこの日の目的地です。いつもメインの正面入り口ではなく東口から入る私はずっと歩いて反対側まで行かなければなりません。途中、こんな看板が出ています。そして目的の場所へ着きました。昨年の秋にオープンしたばかりの、新築の建物で
(21日、日曜日のこと)三十三間堂のすぐ近く。洛東の名刹【養源院】俵屋宗達筆の杉戸絵が有名ですが、唯一現存する宗達筆のふすま絵、岩に老松図寅年俵屋宗達筆白象図デフォルメされて杉戸サイズ目いっぱいの白象唐獅子図(寅年限定)と白象図の特別な御朱印もいただきました。きっと豊かなご利益あります★◆★
…俵屋宗達の杉戸絵「白象図」や客殿の「血天井」で知られる寺院は?東山・三十三間堂(蓮華王院)に近接する、かつての天台宗寺院は、「養源院」。秀吉の側室・淀殿が文禄3年に父・浅井長政の菩提を弔う為に建立、長政の法号を寺名とした。元和5年に焼失するが、淀殿の妹・崇源院(スウゲンイン・徳川秀忠の妻)が秀忠に願って伏見城の遺構を移築・再建した。客殿(本堂)の血天井は伏見落城の折、鳥居元忠らが自刃した廊下床板を天井にしたもの。「白象図」など杉戸絵は
杉の板に日本画を描く杉戸絵を日本画家の先生に教えていただきました。図案は描きたいものを選びました。。。。こちらを描きたいです!シュッと差し出しますと先生は「ああいいですネー!」とおっしゃり続けて「この絵の向きはこうですよ。」シュッ。錦谿「梔子に冠郭公」日本画の知識0ゼロです私。第1日目。杉の板に下書き。最初は白を
遠くに行く用事があったのでウオーキングを兼ねて歩いていると立派な寺院が目に入りました参道の先にある山門も歴史を感じます山門横には出羽三山(羽黒山月山湯殿山)の百番供養塔が立っていました中に入ってみると狭山三十三観音霊場2番奥多摩新四国霊場八十八ヶ所73番の『佛蔵院』とあり山口貯水池に沈んだ旧勝楽寺から昭和初期に現在地へ移転したとのこと本堂には江戸後期の画家『石川文松』が描いた杉戸絵があるようですが時間がないので次回ゆっくり鑑
姉妹旅行の続きです日光田母沢御用邸記念公園、しっかり堪能してきました今回は杉戸(板襖)絵です邸内にはたくさんの杉戸絵がありました多くの襖絵や杉戸絵は紀州徳川家の江戸中屋敷から移されたとの事です岩二波舞鶴(いわになみまいづる)これらの障壁画は紀州藩お抱えの絵師ばかりではなく、月二梅(つきにうめ)狩野家や住吉家、幕府御用絵師など多くの絵師が参画して描かれたとの事です高砂画題も松竹梅などを扱った吉祥図や物
元興寺の近くにあります、築100年を迎えた町屋、今は、にぎわいの家として、町屋の良さを伝えるコミュニティの場、イベントもいろいろされているようです。玄関上がり框、竹ですね。引き違い戸が舞良戸だ!茶室。掛込天井。網代天井に竿縁天井。落し掛けは、名栗仕上げ、と数寄屋風フルスペックの天井です!こちらの町屋、何がすごいって、絵です!絵と言っても、障壁画、と言っていいのかな。これは、床脇の地袋。杉戸絵です。ええ!すごくないですか。天袋
縁切寺満徳寺の南側に位置する天台宗医王山和光院永徳寺は大同元年(806年)宥海上人(天台宗の開祖最澄の弟子)によって創建された関東初の天台三道場らしい薬師如来を信仰していた新田義季がこの地に居を構えたときに祈願所としています本堂(脇の小さなお堂は子育地蔵堂)ご本尊:薬師如来本堂内の杉戸の絵は53枚もあるらしい不動尊堂境内にあった徳川家康公を祀った権現堂は徳川東照宮の拝殿として移築境内の石塔・石仏庚申塔お勧めはさつきの季節「さつき寺」と言われているのも分るよ
伊居太神社から歩いて約10分呉服神社にやって来ました。呉服と書いて〝くれは〟と読みます。~御縁起~大阪府呉服里(くれはのさと)池田市にかしこくも鎮座まします。日本最初「繊維の祖神・呉服大神(くれはおおかみ)」の御由緒を申述べます。人皇第15代応神天皇の御代に猪名津彦命(いなつひこのみこと)を中国の呉の国に遣わし、機織裁縫(はたおりたちぬい)の工匠をおもとめになりました。その時、久礼波(くれは)・久礼志(くれし)の二人を案内役として呉の国に趣き、呉王に乞うて呉服(くれはとり)・綾織(
6月某日、京都を通過し行く用があったので途中下車し、昨年来マイブームの俵屋宗達作品巡りをして来ました。まずは白い象の杉戸絵がある養源院。関ヶ原前夜の伏見城の戦い時の血天井も見所です。しかし、この日はまだコロナによる拝観停止中でしたまあ、ここは国立博物館の直ぐ近くなので、またセットで観に来ます。昨年、三十三間堂に来た時に、『直ぐ近くなんだろう』と思ってましたが、近くというより、お隣振り返れば、三十三間堂の朱色の門でした。養源院の隣は法住寺だし、
みなさま、こんにちはヽ(・∀・)ノ☆ワタシです。最終日、はじめに来たのは「養源院」過去2回、開いてなくて入れなかった養源院。開いてる!!やったー!血天井で有名なお寺ですが俵屋宗達の象の杉戸絵が見たいんだよねー。秀吉の側室「淀殿」のお父上浅井長政の菩提寺で「養源院」とは、長政の院号なんですって。と同時に、火災の後、徳川秀忠夫人「崇源院」が本堂を再建したので徳川家の菩提所でもある珍しいお寺です。残念ながら、中のお写真はありません。杉戸絵のポストカードくれたので、見てください♪
随心院の本堂。獅子の杉戸絵の向こうには、鮮やかな色の障子が見えます。極彩色梅匂小町絵図。だるま商店の作品です。詳細については、また後日アップしますね。ここから見る紅葉がとても素敵なので、秋の拝観がおすすめです。ホントにきれいですよ。ご本尊は東京出張中で、お顔を拝むことはできませんでした(笑)
1月に関西に行った時の事です。この頃から京都は確かに空いてました。そして静かでした。昨年も京の冬の旅の企画に乗って今まで訪れたことのないところへ行きました。解説もわかりやすく足元から冷える感じもなんだか懐かしい。今年も全てまわる予定でした。スタンプも集め、グッズももらう予定でした。しかしそれはできませんでした。アップするかどうか迷ったのですが、記憶があるうちに残しておきたいと思います。お付き合いくださいませ^^まずは三時知恩寺。写真は撮ることはできません。この門まで
前回の「三芳野神社」のすぐ隣にあるのが…「川越城」本丸御殿1842(嘉永元)年に「川越藩」第4代藩主・松平斉典が造園した武家風の落ち着いた佇まいで17万石「川越城」の遺構そもそも「川越城」は…扇谷上杉持家が…古河公方足利成氏に対抗するために家臣の太田道真・道灌父子に築城させた平山城“大手の「小田原城」”“搦手の「川越城」”といわれるほど江戸にとってはとても重要な役目を担っていたそう1590(天正18)年豊臣秀吉の小田原征伐では…前田利家に攻め入られ降伏時
ここ数年毎年一年に一度は訪れていた京都。以前からずっと行かねばと思っていた地に、ようやくこの度辿り着いたのであります。京都御所。奥の建物は紫宸殿。150年ほど前まではこちらにやんごとなきお方がおわしたのですね。美しい朱色の回廊。一枚100キロ以上あるらしい蔀戸。数人がかりらしい。私の心の師匠みうらじゅん氏によると、苔に心奪われるようになったらお迎えが近いとか。新しいiPhone11の広角カメラで撮ったらあら素敵。こんな美しいお庭を観て死ねるなら本望と言わざるを得ないだろう。
先月、旧前田侯爵邸へ行った時にみた杉戸絵を描いたのが橋本雅邦山種美術館で開催中の日本画のパイオニア大観・春草・玉堂・龍子こちらに展示されている横山大観、菱田春草らが在学した東京美術学校(現東京藝術大学)の日本画主任教授そして、今回訪れた川越で最初に入ったのが山崎美術館橋本雅邦は川越藩のお抱え絵師だったそうです地元川越の有志で作った画宝会の初代幹事が山崎家4代目の山崎豊翁山崎氏が尽力して雅邦の作品をできるだけ集めて保存につとめ、子孫に伝承し、美術館設立に繋がったそうです古い蔵の美
昨日の続きです。今回は本丸御殿の紹介です。川越城の本丸御殿です。大きな唐破風の玄関は間口3間(約5.4m)もあり、8寸角の太い柱を使っています。川越城のジオラマです。(川越市立博物館)本丸御殿部分を拡大すると本丸と二の丸部分の拡大です。江戸時代末期の本丸御殿図です。藩主松平斉典(なりつね)が造営したもので、16棟、1025坪の規模をもっていましたが、現在は本丸御殿玄関部分と家老詰所以外は残っていません。解説板です。本丸御殿玄関です。この反対
昨日の続きです。今回は天守内部の展示1階から4階です。一部のみですが引用させてもらいました。1階の続きからです。二の丸御殿正面玄関の杉戸絵です。描いたのは幕末の画家で小田原藩士の岡本秋暉氏です。杉戸絵の解説板です。2階は戦国時代の小田原城・北条氏です。小田原合戦などの紹介がありました。2階の展示室です。貰ったパンフレットよりの引用です。2階は撮影禁止だったか?写真はありません。3階は武具や刀剣などの展示です。こんな感じです。4階は吹き抜
下関市立歴史博物館を出て、これから長府の街を散策する。長府の地名は「長門国府」にちなみ、ここには長門国設置にともなって国府および国分寺が置かれたが、忌宮神社の鎮座するあたりが国衙(日本の律令制において、国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画)のあったところだろうと推定されている。国衙跡と推定されている忌宮神社まで、途中で長府毛利邸を見たり、古江小路を散策しながら黄線で示した通りを歩いていく。最初に、長府毛利邸に入った。長府毛利邸は長府藩の最後の藩主で元豊浦藩知事(山口県になる前の
祇園祭の絵柄の硝子皿に、水菓子をのせてみました。飲み物は冷麦茶です。嵐電の旅2回目です👨👩〈前回の記事〉嵐電に乗りたい①!「等持院」「龍安寺」はこちら☆~~~~~~~~~~~~~~今回は、「御室仁和寺」へ行ってきました。可愛らしい駅舎の嵐電北野線御室仁和寺駅「御室仁和寺」は、3回目の訪問です。前回前々回は、バスでのアプローチでしたが市街地から遠かったイメージがあります💦嵐電だと、北野白梅町から4駅5分なのですね‼あっという間に着きました。