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高瀬川周辺は観光客が押し寄せ、春になると桜が満開になります、高瀬川周辺は江戸末期に暗殺が多発しました。土佐藩邸跡があり、龍馬の活動の痕跡がありますが今回は龍馬は登場しません。古高俊太郎寓居跡、阪急河原町駅の高瀬川沿いは幕末に暗殺事件が度々起こりました。古高俊太郎は、桝屋湯浅喜右衛門と称して築前藩御用達商人を装いながら長州志士らに武器類を調達していました。下京区木屋町四条下ル西入ル古高俊太郎は新選組に捕縛され土方歳三の凄惨な拷問に耐えかねて京都御所を焼き払い孝明天皇を奪い
【食育クイズ:Vol.1828】「京都府」の「市内の通り」おさらいクイズ!幕末に殉難した大村益次郎、佐久間象山、本間精一郎の碑が立っている通り名は?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞北海道大豆100%大豆ミートミンチタイプ200gAmazon(アマゾン)オーサワの国内産大豆ミート(バラ肉風)Amazon(アマゾン)コッチラボ【国産大豆100%】
…多かった事から、大村益次郎・佐久間象山・本間精一郎の遭難地碑が建つ通りは?「木屋町通」は元、鴨川の河原で、慶長19年頃成立した。通りに面して長州藩や土佐藩の屋敷が建設されていた為、幕末には家臣団の居所が営まれた他、殺傷事件も度々起きた。佐久間象山・大村益次郎の遭難碑は木屋町御池上ル、本間精一郎のそれは木屋町蛸薬師下ルに位置する。
越後寺泊出身の浪士本間精一郎は、文久二年(1862)閏八月二十日、木屋町通四条上がるの三十九番路地(別名瓢箪路地)において、土佐勤王党の武市半平太・岡田以蔵らに薩摩の田中新兵衛を加えた刺客団の襲撃を受け、暗殺されてしまいました。その本間精一郎の首は斬奸状と共に四条河原に晒され、市中は大騒ぎになりました。また、胴体は高瀬川に投げ捨てられていました。遺体はその後、法皇寺門前町の近江屋次郎兵衛なる人物が引き取り(『幕末雑抄』)、翌年天誅組総裁の一人となる松本奎堂によって神式で葬られました(『
現在の新潟県寺泊出身、勤皇の志士・本間精一郎。「本間さんと言えばこの人!」という共通の知人、漫画家のまつおさんをスペシャルゲストにお迎えし、熱いトークをお届け。岡田以蔵に暗殺された本間さん像に迫ります。よかったらチャンネル登録もよろしくお願いします♪LINEスタンプ販売中!長州な日々-LINEスタンプ|LINESTORE楠本剛キャラクターデザインによる、長州藩の松陰先生、高杉くん、桂さんの日常遣いスタンプです。キャラクターデザイン/楠本剛*デザイン
東京幕末GARAGEさんのYouTubeチャンネルに出演させていただきました~。↓こちらから視聴できます!【24】東京幕末GARAGEのレキバク!~歴史&幕末つれづれらじお~現在の新潟県寺泊出身、勤皇の志士・本間精一郎。「本間さんと言えばこの人!」という共通の知人、漫画家のまつおさんをスペシャルゲストにお迎えし、熱いトークをお届け。岡田以蔵に暗殺された本間さん像に迫ります。【24の内容】0:00~今回はゲストをお迎え!1:18~本間精一郎の活動、生涯2:30~本間精一郎と出会っ...w
…派志士が多く往来し、天誅の名のもと暗殺が横行した。木屋町蛸薬師下ルに遭難の碑が立つ越後寺泊の郷士は誰か?昭和43~45年にかけて、市文化観光局(当時)によって、市史に関わる地に建碑がなされた。初年度が「明治百年」に当った為、その年は幕末関係17基が選ばれ、「本間精一郎遭難之地」碑もその一つである。至近の民家の入口に刀痕が残り、重要視されたと思われる。
先週の土曜日に放送された『ブラタモリ京都・鴨川』(NHK)で、長年見たいと思っていたあの場所が取り上げられていました。それは二条木屋町の高瀬川の樋口、現在は某料亭の庭園となっている場所です。文久二年七月二十日の夕方のこと、安政の大獄や和宮降嫁問題に暗躍し、勤王の志士たちに命を狙われていた九条家の家臣島田左近は、木屋町二条下ル東生洲町の町家に潜んでいたところを薩摩の田中新兵衛らに襲撃され、塀を乗り越えて逃げたところを角倉(すみのくら)屋敷裏の空き地の、高瀬川の樋の口のあた
文久三年(1863)八月十三日、長州藩及び長州系尊王攘夷派浪士と、彼らを支援する尊王攘夷派公家たちの策謀により、孝明天皇が攘夷祈願のため大和に行幸することが決まりました。翌十四日、土佐脱藩吉村寅太郎ら尊王攘夷派浪士は、中山忠光を総大将に担ぎ上げて「大和行幸御先鋒」と称して京都東山の方広寺に結集しました。京を発った一行は淀川を下って大坂に入り、堺から河内を経て大和に入りました。彼らは自ら天忠組と名乗りましたが、世間には「忠」の字を「誅」に変えた天誅組の名が広まることになります。三枝蓊こ
一方、三枝蓊の剣術修行に関する記述は、『大正大礼贈位内申書』に「平岡武夫(今北畠治房)武技場を開くやこれに従い武術を修練す」とあり、同じ平群郡の法隆寺村在住の平岡武夫(枚岡鳩平とも。のちの北畠治房男爵)が開いた道場で武術を学んだということになっているのですが、それなりに調べてみたつもりですが、北畠が道場を開いて剣術を教えていたことを示す史料というのが、なかなか出て来ません。そこで、あくまで「ひょっとしたら」という話なのですが、三枝が法隆寺村に通っていたであろう時期に、村で剣術を教えていた可
久坂玄瑞と別れたあと、一時は園部に隠棲していた河本杜太郎ですが、やがて一人の伝手と出会います。それは同郷の浪士本間精一郎です。越後寺泊の裕福な商家の生まれだった本間は、江戸へ出て幕臣川路聖謨の家来となり、川路に従って京都に来て以来、志士として活動していました。本間は久坂玄瑞ともすでに連絡を取り合う仲だったようですが、ではなぜ杜太郎ははじめから本間を頼らずに京を出て園部に行ってしまったのかというと、実は本間の方が宿賃を踏み倒して逃走し、伏見から大坂、更には大津と居場所を転々として、更には福井
ここでいろいろ宣言したり希望を語るとポシャるケースが多いんですけど(笑)本間精一郎の学習マンガをいつか出したいです。まずは自費出版をして、それを方々に売ったり配ったりして…最終的には大河ドラマになるといいなぁ(笑)そのためには、いろいろな資料が必要で、読み込まなければならないのですが…。今一番欲しい資料は、本間さんが江戸に出るまでの資料ですね。やっぱり幼少期のエピソードが欲しいですよね。あと、史実版と、ファンタジー版を出したいです(笑)そんな野望をこねくり
森村誠一/血煙り新選組-人間の剣幕末維新編(一)-「河合耆三郎」<横山明>『歴史小説』(1刷・2004/6/25)(中公文庫)680円-中央公論新社292p人間の剣幕末維新編(上)1997/1/(光文社文庫)血煙り新選組―人間の剣幕末維新編〈1〉(中公文庫)/森村誠一本庄/Amazon.co.jp
そういえば、本間精一郎についてかなり重要な話をするのを忘れていました。『本間精一郎事歴』(国立公文書館)に東久世通禧(ひがしくぜみちとみ。七卿落ちの一人で維新後伯爵)が本間精一郎の家族に送った書簡があります。これはとても興味深い内容なのでご紹介したいと思います。「東久世伯爵の書簡」(『本間精一郎事歴』より)拙者方へ戌年にもこれ有り候や、年月日はたしかに記憶いたさず候えども両三度入り来たり、勤王の趣旨唱導の義、面会いたし候て縷々承り候こと、年月日は覚えおり申さず候えども、拙者隣家に
実を言いますと、古高俊太郎と越後浪士本間精一郎との関係も、非常に微妙なものがあります。まず、二人には梅田雲浜の下で活動していたという共通項があります。そしてもうひとつの共通項が輪王寺宮です。古高俊太郎は毘沙門堂門跡、つまり輪王寺宮の家来だったわけですが、本間精一郎にも輪王寺宮との接点が、わずかながら見て取れるのです。その要因のひとつについて、残念ながら出典が何だったのかをメモし忘れていました。ひょっとしたら本間を主人公とした小説『幕末の影武者』(作・有馬寛/恒文社/昭和61年)かと思
武士となった田中新兵衛でしたが、悲劇はすぐに訪れます。久光一行に先行していた森山新蔵が、主命を待たずに勝手に上京したとして、西郷吉之助や村田新八と共に捕縛され薩摩に連れ戻されてしまったのです。更に文久二年(1862)四月二十三日、伏見の寺田屋に結集していた有馬新七ら薩摩藩士が、島津久光の命によりその鎮撫に当たった同じ薩摩藩士奈良原喜八郎らにより殺傷されるという事件が起こります。俗に言う寺田屋騒動です。この斬り合いで森山新蔵の息子新五左衛門も重傷を負い翌日切腹、その報を耳にした新蔵もま
藤本鉄石と、彼が頭目に推される事になった、いわば“在京浪士組”に関して調べているうちに、ある事に気が付きました。それは吉成勇太郎の寓居に関する事です。吉成勇太郎は水戸藩士で神道無念流の剣客。新選組の芹沢鴨や新見錦ら「玉造勢」と近い人物であり、なおかつ長州の桂小五郎とは江戸練兵館の同門でした。特に新見錦の出自を探る上でのキーマンとなる人物なのではないかと目されています。その吉成勇太郎は、上洛当初長州藩の保護を受けていましたが、文久三年五月に備前岡山藩などの援助を受けて寓居を構えています。が
江戸で浪士組が動き出したのに呼応して、京都においても有為の浪士を集めて幕府の為に働いてもらおうという動きが出て来ました。動いたのは京都守護職に就任したばかりの会津藩主松平容保その人でした。『再夢紀事』(中根靱負=福井藩士。春嶽の側近)文久三年二月五日肥後守殿(松平容保)来邸せられたり。さて肥後守殿、公(松平春嶽)に対面をと申し入れけれど、発熱中なりしゆえ断られしかば、中根靱負と対面せられこの節、過激の浪士多人数京中に寄り集まり、種々の暴行に及べり。しかるにこの輩、多くは諸藩の邸内に潜
先日、また木屋町通をブラブラと歩きました。このブログで何度となく取り上げてきた本間精一郎暗殺現場にも行って来ました。実はこの左隣は現在、この建物の一部を利用して花屋さんを営んでおられます。室内撮影ご自由にという事だったので、中に入らせてもらいました。店の人の話によると、この建物は江戸時代そのままの姿で残っているのだそうで、本間精一郎が暗殺された文久二年当時も、おそらくこのままだったろうという事でした。ただし、暗殺現場である「瓢箪路地」は現在家主さんの私有地に
さて、少し時間をさかのぼります。文久元年十一月、本間精一郎は薩摩の樺山三円に手紙をしたためています(『本間精一郎事歴』~「精一郎が樺山三円に与えたる書」国立公文書館デジタルアーカイブ)。ちなみに、この書簡には日付が記されていませんが、「西郷君の義、御心配」という記述や、十一月を表す「仲冬念有四(十一月四日の意味か)」から、西郷隆盛が僧月照と入水自殺をはかった文久元年十一月に書かれたものであろうと思われます。つまりは島津久光が藩兵を引き連れて上京する文久二年三月よりもずっと前の話
本間精一郎が暗殺された事は、彼の同志たちに大きな衝撃を与えました。のちに天誅組総裁となる三人の志士のうち、松本奎堂は霊名社において神式の、吉村寅太郎は某寺において仏式の葬儀を営み、本間の霊を弔いました。一方、藤本鉄石はこの頃、不可解な行動をとっています。断末魔に喘ぐ幕府の志士に対する圧制は、日を逐うて峻烈となり、鉄石も身辺に危険を覚えるようになったので、御幸町三条の居を脱し、東山今熊野妙法院近くの農家に身を潜め同志との連絡を保ったのである。『維新の史蹟』(星野書店/大阪毎日新聞
寺田屋騒動のあと、伏見義挙計画に関わった浪士たちは、あるいは謀殺され、あるいは捕縛の憂き目に合いましたが、舟遊び事件で事前に離脱を余儀なくされていた藤本鉄石・清河八郎らのグループは、土佐に強制送還となった吉村寅太郎を除けば、幸運にも難を逃れる事が出来ました。そしてひと月ばかり過ぎた文久二年(1862)の六月六日、清河八郎は一旦京を離れる事になります。安積五郎も京を離れ、河内の勤王家でのちに天誅組に参加することになる水郡善之助のもとへ。一方、伏見義挙の失敗と寺田屋騒動における血の
藤本鉄石は南画を良くした画人でもありましたが、絵に限って言うならば、その第一番の弟子は越後国三条出身の村山半牧と言えるかも知れません。村山半牧は、文政十一年(1828)二月四日、三条古城町の学者村山左内と妻奈加との間に生まれました。十九歳の時に画家長谷川蘭渓に弟子入りしましたが、師の蘭渓に盗みの疑いをかけられた事に憤慨して越後を飛び出し、長崎に出て木下逸雲のもとで絵の修業を続けました。そして安政二年(1855)、京にやって来た半牧は鉄石と出会い、彼に師事する事になるのです。
「舟遊び事件」で役人に追われる身となってしまった清河八郎、本間精一郎、藤本鉄石、安積五郎、吉村寅太郎は、それぞれの宿所に帰って行きました。その夜、清河八郎の元へ本間精一郎が潜り込んで来ました。本間は譏察甚だ騒ぎ、以て客舎に居るべからず。しかして子輩邸中に在り。官これを知り疾る。物情穏やかならず。以て耳に恙(つつが=病)を得る。(清河八郎『潜中紀略』より原文読み下し。以下同じ)(意訳)役人が俺を捕まえようと騒ぎ出したので、客舎にいられなくなってしまった。それで薩摩藩邸にいたのだが、
薩摩の益満新八に「急ぎ本間を誘い去れ」と、本間精一郎を「捐棄するところ」を託されてしまった清河八郎は、数日間思い悩んだあげく、ついに益満の言に従う決心をします。「余、既に旬日苦思し、思いがけずもこれを請けるに有り(私は数日間悩んだ末、思いがけずもこれを請ける事を決めてしまった)」(『潜中紀略』より原文読み下し)清河は、伏見義挙という大義の為に、同志本間精一郎を斬る事を決心したのでした。それから数日たった文久二年(1862)四月十三日のこと。清河八郎は本間精一郎の他に安積五郎、吉
共に伏見義挙に参加しようと誓い合った藤本鉄石と清河八郎でしたが、その願いは思わぬ形で破れてしまいます。その原因は鉄石、清河の同志の一人であった本間精一郎でした。(清河八郎『潜中紀略』より原文読み下し)ともに魚田屋に至る。魚田屋者薩士亡命客の寓也。既に至る橋口伝蔵忽(たちま)ち怒気を含み、酔う間に乗じて本間を屠らんと欲す。言頗る奮励、余更にその意を釈せず。偶、益満新八、吾を呼び聞きて曰く、君何故本間を誘い来たるや。彼固(もと)より邸の士の大いに擯斥(しりぞける)所。今日事を生ぜん。ま
以前写真を撮り忘れた、京都霊山護国神社墓地の天誅組招魂碑に並ぶ、枚岡(平岡)次郎の招魂碑をようやく紹介出来る事になりました。枚岡次郎源忠夫招魂碑枚岡こと平岡次郎は天保十一年(1840)五月某日、大和国平郡郡法隆寺村(現・奈良県生駒郡斑鳩町)に生まれました。のちに男爵となる北畠治房(平岡鳩平)の分家筋に当ります。諱は忠夫で、おそらく「ただすけ」と読むのではないでしょうか。安政の大獄で京から脱出してきた越後浪士本間精一郎と上総浪士殿内義雄の二人を匿うため、平岡鳩平は法隆寺塔頭実
文久二年(1862)三月、島津久光は薩摩藩兵約千名を率いて鹿児島を起ちました。この動きに同調し、共に決起しようと全国から浪士たちが京に集まっていました。伏見義挙といわれる計画です。そんな浪士の一人に、幕府に追われて江戸を脱して来た清河八郎がいました。清河は義挙計画の首謀者で、祐宮(のちの明治天皇)や中山忠愛・忠光兄弟の教育係であった田中河内介と面会したのち、同志を集めるために九州を遊説。文久二年一月十一日に京に戻って来ていました。その二ヶ月後の三月中旬のある日、清河は思いもかけ
伏見奉行内藤豊後守に招かれて学堂を開き、多くの弟子を集めてこのまま順風満帆に行くかに見えた藤本鉄石でしたが、残念ながらそうはなりませんでした。幕府は勅許を得ないまま、米国の圧力に屈する形で日米修好通商条約に調印。更には将軍継嗣問題で水戸派と紀伊派の対立が深まると、大老井伊直弼は反対派の弾圧に踏み切ります。世にいう安政の大獄です。内藤豊後守は逮捕された梅田雲浜の取り調べを担当するなど、職務上やむを得なかったとは言え、弾圧の片棒を担いだ結果になりました。ちなみに、その梅田雲浜の下で
のちに天誅組総裁の一人となる藤本鉄石は、文化十三年(1816)三月十七日、岡山藩士片山正章(通称佐吉)と妻佐幾の子として備中上道郡宇野村東河原(現・岡山市中区東川原)に生まれました。佐吉夫妻には4人の子があり、上から長女波満子(渡辺左太蔵に嫁ぐ)、次女多喜子(三村代右衛門に嫁ぐ)、ついで長男で佐山家を継いだ弥兵衛克徳、そして末子で次男が鉄石(幼名学治)となります。「鉄石」は雅号(今で言うペンネームのようなもの)です。諱(いみな)は真金(まかね)、字(あざな)が鋳公(ちゅうこう?)と言