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3/11、ホームセンターへ行く道すがら、寺町の本禅寺へ近くに蘆山寺や梨木神社等、有名どころがあるが、何故ここへ寄ったかというと本題に関係して、松平容保と所縁がある寺なので・・・会津藩兵を率いて上洛した際、容保は、この寺を休息所として、旅装から礼装に改め、近衛邸にて、京都守護職着任の挨拶をしたという境内は、参拝客のではなく、ほぼ月極駐車場インターホンを鳴らして、御首題を頂いた初穂料は、おいくらでも、という参拝客任せ・・・500円納めましたがそこで、ふ
今回は、どうする家康ではお葉と言う名でした。北香那が演じておりました。西郡局とは三河国西郡の城主鵜殿長忠の女。永禄18年(1565)岡崎において、家康2女の督姫を生む。慶長11年(1606)、伏見城にて頓死し、京都本禅寺に葬られた。万姫とは北条氏直と督姫との間に生まれました。慶長7年(1602年)11月20日に没する。法名は宝珠院殿華庵宗春大禅定尼、縁了院殿秀真妙幻。右が西郡局墓所小さいのが万姫墓所
本禅寺の大久保氏墓の反対側に、石川氏の墓があります。石川氏は、石川数正の伯父石川家成と大久保忠世の血族になります。三河石川氏とは戦国時代後期に石川数正・家成を輩出した三河の石川氏は、義時の子孫のうち、石川政康が蓮如に随行して三河に流れ着き、定住したのがはじまりという。また、三河守護一色氏の被官であったとの説もある。松平氏に仕え、代々筆頭家老を務めた。『柳営秘鑑』にある徳川最古参の安祥譜代七家の一つであり、『新編岡崎市史』や『史學雜誌』によれば石川家は三河の浄土真宗門徒の総代的立場にあっ
本禅寺の住職に、本禅寺に大久保氏・石川氏・家康側室の西郡局の墓を案内していただきました。今回は、大久保氏の墓です。大久保氏の墓は、北区大久寺・小田原市大久寺があります。住職が言うには、当時の方は分骨が多いから各地に墓があるとの事。三河大久保氏とは関東の豪族・宇都宮氏の庶流である武茂氏からの分流で、南北朝の争乱の際に武茂時綱の子の武茂泰藤が奥三河の松平郷に居住した松平氏に仕えたと自称するが、関連性を立証する資料は存在しない。大久保忠茂または大久保忠俊の代に越前国出身の武芸者にあやかり
百万遍知恩寺より、20分移動し訪れたのは法華宗陣門流本山本禅寺です。山門山門三十番神堂鐘楼梵鐘は豊臣秀頼が鋳造し、生国魂神社に奉納したものであり、徳川家康が大坂の陣で陣鐘として用いたものと伝え、大久保忠教の奉納とされる。釈迦堂本堂本禅寺由緒本禅寺は応永13年(1406年)、法華宗陣門流の門祖日陣によって四条堀川に創建された。日陣はもと本国寺に属したが、法兄の日伝との宗論の後、本国寺を離脱し独立した。天文5年(1536年)の法華一揆の際は他の法華宗寺院とともに焼失し、堺に
大きな金木犀のせいで、白いお堂が見えません。銀木犀も満開の、本禅寺でした。
寺町通りの梨木神社や鷹山寺の北にある本禅寺で、左手にキンモクセイと右手にギンモクセイが綺麗に咲いています。金木犀や銀木犀は、学名では、オスマンサスと呼び、ギリシャ語で、「香りのする花」という意味だそうです。金木犀がオレンジ色の花を咲かし、銀木犀は、白っぽいアイボリーの花を咲かします。金木犀は、お茶やお菓子にも使われていたこともあるそうですが、芳香剤のイメージが強いです(笑)金木犀銀木犀
本圀寺の次は本禅寺に行きました。御住職が手を傷めておられてこの時は御首題は書き置きでしたが今、数年経って世代が変わったのか。。。寺務所に世代交代の御住職がおられる様子で御首題は御住職が在宅ならば御首題帳に直接、書いて頂けるようです。本禅寺に訪問した様子『本禅寺日蓮宗』やっとこの本禅寺で京都日蓮宗16本山を制覇しました何度か伺ってお留守だったのでめげずに訪問しました本禅寺は日陣聖人が応永13年(1406年)に開創。天文…ameblo.jp過去picいつもブログを見
常栄山本照寺の次は宝松山本禅寺へ。こちらは中村雨紅氏の「夕焼け小焼け」に出てくる「山のお寺」だそうです(諸説あります)長閑な参道。階段を上り山門へ。山門。山門をくぐるとこんな感じ。御本堂。最近、修復が終了して今は役所等の確認待ちだそうです。早く確認を終えて仏さまを御堂に戻したいとご住職がおっしゃってました。日蓮聖人像。石塔。石塔とお地蔵さま。題目塔。境内社。境内の白梅と紅梅。後は竹林です。ご住職は放ったらかしと笑っていらしたけどとても綺麗に咲いています(^
本禅寺(京都)12/16は通院に併せて京都市内を2ヶ所まわってきました。1ヶ所目は、本禅寺を初参拝御首題を頂きました。初参拝でしたが、境内全域が駐車場になっててビックリ50、いや100台ぐらいは駐めれそうな感じでした。1台2万としたら月200万、何もせず懐に…あ、大久保彦左衛門や画家岸駒、拝匠梅室の墓があるそうですが捜しませんでした。++++++++++++++++++++++++++++++++++++■由緒1406年、日陣上人により
白い本堂が見えるところで、真っ赤な南天です。本禅寺の、赤い南天でした。
白いお堂が見えるところで、金木犀です。金銀ざっくざくで、お金持ち気分です。
京都3日目。ホテルに帰って、TVで安倍元首相の国葬の模様を観ています。菅さんの追悼の辞は、流石に心が籠ったものでした。さて、午前中は京都市内を散歩。今日も蒸し暑い。バスで河原町今出川へ。前回御所の東側を散歩した際、河原町丸太町から寺町通を梨木神社まで北上して引き返したので、その先を歩きました。清浄華院は、浄土宗八総大本山の一つ。会津藩主の松平容保が京都守護職本陣を置いたのは、金戒光明寺。容保公は清浄華院にも、暫く滞在したそう。境内の中に
「どうしてもなんとしてでも欲しいのよヒールの高い赤いブーツを」普段何気なく口にする言葉を、このように「みそひともじ」でまとめてくる年若き友人。最近、「万葉集」を読み始めたそうです。万葉集の中でのお気に入りの歌はなにかと聞かれました。「天の海に雲の波立ち月の舟星の林に漕ぎ隠るみゆ」(柿本人麻呂)天空を海に雲は波に見立てて、月を船になぞらえて。林立するような星の中へと漕いでいき、そして隠れるかのようだ、という意だそうです。取っ付きにくい古語の多い中で、異彩
白い本堂が見えるところで、真っ赤な南天です。本禅寺の、南天でした。
さてさて…………【黒滝茶屋】を出発し、この日我々が最後に到着したのは…………【本善寺(ほんぜんじ)】奈良県吉野郡吉野町飯貝567『飯貝御坊』とも呼ばれる。文明8年(1467年)に本願寺八世蓮如が創建し、本願寺の一字をとって【本善寺】と号したという。【手水舎】明応四年(1495年)に蓮如の子兼続を後継住職として以来、大和真言寺院の中枢的存在となり、近世には真宗吉野教団の本拠として八十六ヶ寺を束ねた。山号の『六雄山』の扁額金峯山の吉野大衆と対立し、天文3年(1534年)には山上ね三
漆喰塗りの本堂が見えるところで、南天です。本禅寺でした。
私ごとで恐縮ですが、4月から異動になりました。帰りがけ夕食(というよりむしろ酒飲み)に立ち寄るそば屋さん、昨夜ごあいさつに。お勘定時に「3年間お世話になりました」と口にすると、手にしていた小皿を床に落とされるほど驚かれてしまいました。職場がかわることよりも、行きつけの店が失われることに寂しさを感じてしまう私、やはり根が飲ん兵衛なんですね(笑)。さて厚木市恩曽川の観光メインスポット「毛利氏発祥の地」をあとにして、さらに上流へと遡ります。左岸側、急階段の上に「本禅寺」が鎮座して
漆喰塗りの本堂が見えるところで、みごろです。
寺社No.1602御朱印No.3073別院光了山本山本禅寺京都府京都市上京区法華宗陣門流洛中16本山2014年2月7日数回の訪問でやっといただけました。京都浪漫東京港区立行寺も、大久保彦左衛門の廟所。同じ、法華宗陣門流。東京都港区立行寺『【港区】立行寺【御首題】』寺社No.1372御朱印No.1944智光山立行寺東京都港区法華宗陣門流大久保彦左衛門、一心太助2011年3月10日ameblo.jp
本禅寺法華宗陣門流本禅寺山号:光了山宗派:法華宗陣門流寺格:本山本尊:十界勧請大曼荼羅創建年:1406年(応永13年)開山:日陣尊聖人開基:日陣尊聖人別称:遺魂道場所在地:京都府京都市上京区北之辺町394本禅寺は、応永13年(1406)門一阿梨日陣聖人によって、初め京都四條堀川油小路に四方四町歩の地を境内地として、本坊・七堂・伽藍を建て周囲に多く塔頭を建立、一大法城の観を呈し、古来より法華宗派祖日陣聖
清浄華院さんの北隣に本禅寺さん。かなり広大な境内だ!!おじゃまします。地蔵さん?なんと!この梵鐘は徳川家康公が大阪の陣で使っていた陣鐘だという!!でもこの鐘??庫裡とかにあるんやろうか??境内一帯が駐車場になっているが、奥の方に鎮守社。本禅寺さんは法華宗のお寺さん。室町時代に創建されたが、安土桃山時代にこの地に移ってきたようだ。こちらが本堂らしい。そしてこちらは立像堂。金銅釈迦如来立像が祀られているようだ。お参り。箱があるから、もしや書置きの御朱印かも!!開けてみ
こんばんは~今日も、『日蓮宗京都十六本山巡り』しました。参考サイト(本法寺HP内京都八本山会)朝からスイーツ食べました。茗荷饅頭(みょうがまんじゅう)妙塔山妙満寺(みょうまんじ)公式ホームページ京阪電車『出町柳』から叡山電車に乗り換え。今日降りても、『木野(きの)』下車。徒歩約5分。「雪月花」三名園の一つ『雪の庭』道成寺由来の霊鐘『安珍・清姫伝説の鐘』500円で拝観できます。ご首題頂きました。ついでに、ご首題帳の隅に墨を付けてくれました。
廬山寺の北側にある日蓮宗本禅寺の御首題です。電話したところ書き置きで良ければ対応出来るとのことでしたので書き置きを頂いて来ました。
青空に、たくさんの赤い実です。本禅寺でした。
京都に帰還すると、一旦は因幡薬師に草鞋を脱いだ赤報隊でしたが、ここは都大路のど真ん中、兵士の調練には不都合という事で、あらたな宿舎に転じる事になりました。その「あらたな宿舎」に関して、困った事に元幹部隊士たちの証言は異なっています。秦林親(=篠原泰之進。二番隊軍監)「兵士は稲葉薬師に宿陣致し、同月十五日、寺町本満寺に転陣す」(『秦林親日記』)油川錬三郎(信近。三番隊長)「八日に京都の稲葉薬師に着しまして、その後寺町の本善寺に移って、また本満寺に転じました」(油川信近『史談会