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十二月今年最後の茶道のお稽古でした🍵🍡一年は本当にあっという間できたこともできなかったこともどちらもあっての一年だったなぁ〜いつもお茶のお稽古の時間は心を整える大切なひとときです茶室に入るその時間がいつも心を落ち着かせてくれました掛け軸は「本来無一物」何も持たず何も足さなくてもすでに満たされているということ素敵な書です一服のお茶を味わいながら頑張りすぎず比べず今
本来無一物(ほんらいむいちぶつ)本来無一物とは、本来、執着すべきものは何もなく、すべては空であるという意味である。私たちは生まれた時、何一つ持っていなかった。そして死ぬ時も、何一つ持っていけない。この単純な事実を、禅は静かに告げるのだ。人生は所有の歴史である。知識を蓄え、財産を築き、地位や名誉を手に入れる。しかしどれほど多くのものを得ても、それは本来自分のものではなかった。ただ一時的に預かっているに過ぎないのだ。本来無一物は、何も持つなということではない。む
茶道具の修理品を届けに先生宅を訪問今日のお軸は「本来無一物」、この世に存在するものはすべて空で執着すべきものは何もない…らしい😛無以外は読めました。輪島塗のお椀で暖かい汁物をいただきラッキー
映画「ソーゾク」を観た。https://sozoku-movie.com/遺産相続の話である。タイトルの「ソーゾク」がどうしてカタカナなのかは、松本明子が登場したときにわかる。演じた相続診断士の柊貞子の話には、いくつか役に立つところがある。遺産相続で揉めるのはお金持ちではなく、普通程度の遺産がある場合で、というのも、金持ちはあらかじめ遺書を弁護士に預けたり、公正証書遺言書を作成したりと、生前にきちんと準備している。対して庶民は何も準備しておらず、亡くなってからの対処になるから、揉めるとの
「本来無一物」(ほんらいむいちもつ)もともと何もない、という意味である。禅では「執着を捨てろ」と繰り返し教えるが、この言葉はさらに深く、そもそも最初から何も持っていないという真実を指し示している。生まれたとき、私たちは手ぶらでこの世にやってきた。そして、死ぬときもまた、何一つ持っていくことはできない。では、今握りしめているものは何だろうか。物質的な財産だろうか、それとも名声、地位、愛情か。どれも幻想にすぎないと、この言葉は言う。執着しているそれらは、まるで夢の
本来無一物や知足といった掛物や銘は、拙宅では8月の盛夏の時期に床を飾ります。盛夏の時期は、ガラスや国内外の珍しいもの、見立て道具を使うことが多く、今年の8月は飯後の茶事形式で行いました。今あるもので、よしとする。今あるもので楽しむという、このような道具組が「本来無一物」「知足」にふさわしいように思っている、個人的なイメージからでした。さて、たいして調べたことがなかった「本来無一物」ですが、関連することとして、9月の同門に猶有斎宗匠が「時々勤払拭」について、寄稿されています。前略如心斎が
人の欲にはきりがありません。お金をいっぱい持っていても、常にあれが欲しいこれが欲しいと思い、服を買ったらそれに合うバッグやアクセサリーが欲しくなったりします。こうして執着が生まれます。禅の言葉に「本来無一物」と言うのがあります。達磨大師から数えて六番目の祖、慧能禅師の言葉とされています。慧能禅師は、師匠の言葉に対し、「迷いの向こうに悟りなど無いし、心も無い。本来何も持っていない。」と説きました。禅においては、私たちは何も持ってないことになります。何も持たずに生まれ、何も持たずに死んで
ほりさん(参)禅…こころの道『一🍓一🖼️』(一期一会)言葉R25.6−26【人生は一生に一度の出会い…大切にしよう】を感じ思いをお届けします。《心に響く…禅のことば》【美しい四季…『一🍓一🖼️』禅】《夏もの語り》6月〜7月、8月夏〜花ひらき…秋〜紅葉…冬〜白き足跡…春〜わかば萠え…【無季の香り…こころ禅】(季節を感じさせない禅のことば)🪷本来☆*~🧘♀☆*~🪷無一物☆*~『本来無一物』(ほんらいむいちもつ)【生まれながらに持って
さわさわさわさわー心地の良い風が通るさわさわーお外ご飯をしたけど、写真が撮れてなかった食べ終わっちゃったー鶏もも肉と厚切りの豚バラをグリルしていただきましたサニーレタスでお肉を巻いて、コチュジャンをつけてサムギョプサル風にご馳走様でした料理の写真を撮り忘れたけど、よるのお庭散歩は忘れない重なり合う色んな形の葉っぱが、ライトに照らされて複雑な模様今、ただ息をしてる。緑たちも息をしている。今ここにいるだけ。ここにあるだけ。存在してるだけ。今、この瞬間、たまたまここにいるだけ。
本来無一物(ほんらいむいちもつ)「本来無一物」とは、「もともと何も持っていない」という意味の禅語である。人は生まれたとき、肩書きも財産もなく、空っぽの手でこの世に現れる。つまり、本来の自分には執着するものなど何もない、という教えだ。しかし、成長するにつれ、私たちは多くのものを手に入れる。学歴、地位、名誉、お金、人間関係と、気づけば、それらに縛られ、失うことを恐れて生きている。けれども、ふと立ち止まり、この言葉を思い出すと、すべては後からついた「飾り」にすぎないと気づく。
★31日薫風自南来お花はクロモジヒルザキツキミソウショウマビロードソウ(フランネルソウ)ムヒトリナデシコです。今、お庭のお花が綺麗に咲いています。我が家のお庭、1番いい季節です。草との戦いですが…来て下さっている皆さんに楽しんで頂けたら💕と思って沢山入れました。今日のお稽古は初炭貴人清次薄茶茶通箱入子点でした。茶通箱は風炉だと分かりやすいですね。★9日本来無一物お花はシャクヤクです。今日のお稽古は盆略点前でした。★15日本来無一物お
今の茶室です。軸は「本来無一物」タカポン先生のお好みで、このなんともダイナミックな字がいいそうです。書かれたのは、立花大亀師以前にもこの老師の書を紹介しました。花を弄すれば、、の軸です。花は傷みやすく立て続けに変わりました。八重のドクダミと紫のホタルブクロ、シマアシ。花入は有馬籠。アスチルベ、サラシナショウマに変ります。灰型作りも大変そうです。これは先日行われた私の家の菩提寺の
社会に出たばかりのことを思い出してください。仕事に必要な知識も経験も能力もほとんどないに等しかったのではありませんか?「本来無一物」―「人は生まれながらにして持っているものは何もない。和が身一つでこの世に生まれてきた」ということを意味するこの禅語は、まさに人間の本質を突いたもの。社会人になりたての頃は、誰もが「本来無一物」だったのです。しかし、だからこそ頑張れたと思いませんか?それは「無一物中無尽蔵」という禅語があるように、何もないということはつまり、そこに無限の可能性があ
一年くらい前まではカッコつけて「人間本来無一物」なんて禅の言葉を使ってたりしたのですが、今は座右の銘は?って聞かれたら、「まぁ、どうせなんとかなります、なにがあっても」風さんの受け売りですが、こう答えます。昨夏の日産スタジアムのライブ配信で(8月24日分です)終盤にのんびりした声で言われた言葉です。(私にはそんな風に聴こえた)歌って踊って、相当な体力を使っているだろうに、若いとはいえ、何と落ち着いた言葉だろうか・・・もうね、撃ち抜かれました!
今日も目が覚めた😊有難い🙏『本来無一物』人は元々何も持たずに生まれ、何も持たずに死んでいく。大切なものを失ってしまっても、それは本来の自分に戻っただけの事。失う恐さに怯える事・失った事を嘆く必要もないという教え。執着が邪魔をし、恐れに支配され、動けない事の方が、まずい事なのかも😊今日も良い日だ有難う(*^◯^*)
読売新聞(北海道版)では、読売書法会北海道展の理事揮毫による色紙プレゼントを行っています。本日2月19日(水)は私の担当です。拾得の漢詩から「本来無一物」を揮毫しました。↑は寒遊会書道の小筆課題です。毎月、漢詩を選び楷書の課題にしています。「物事はすべて本来、空」執着することの戒めでしょうか好きな漢詩です。
引き続き下記のサイトからの引用です:『毛利純一郎百匹目の猿』小説とエッセイ投稿してます!毛利純一郎百匹目の猿小説とエッセイ投稿してます!さんのブログです。最近の記事は「今日の禅語どうぞ「上品」(じょうぼん)(画像あり)」です。ameblo.jp・「平常心」(びょうじょうしん)心が平時から平安で変わらない様。不動で安定した心持ちが、すべてのことの基本的な態度だ。・「福寿」(ふくじゅ)幸福で長生き。心身の平安を保ちかつ無常の世に正面から誠実に対応していると、自然と
自分が極端な考えをもったときなるべく、できる範囲で反対からも考えてみるようにしています。わたしたちは世界中の誰もが宇宙にひとりの素晴らしい存在。と、同時に世界中の誰もが宇宙のなかでは、ほんのほんの1部にすぎません。禅語に「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」という言葉があります。禅宗の「無」は有と無の両方を超えた次元を意味し有も無もそこに存在している「根源的」な意味をもっています。「本来無一物」は事物はすべて本質的に空 (くう) である
「本来無一物」(ほんらいむいちもつ)もともと何もない、という意味である。禅では「執着を捨てろ」と繰り返し教えるが、この言葉はさらに深く、そもそも最初から何も持っていないという真実を指し示している。生まれたとき、私たちは手ぶらでこの世にやってきた。そして、死ぬときもまた、何一つ持っていくことはできない。では、今握りしめているものは何だろうか。物質的な財産だろうか、それとも名声、地位、愛情か。どれも幻想にすぎないと、この言葉は言う。執着しているそれらは、まるで夢の中
万物の霊長たる「人」がなぜに獣のごとき振る舞い神に似せたるその姿二本足で立つ意味を知れ働け働け働けと四つ足動物の如き振る舞いそんなに走りたいのなら四本足をくれてやろう他に先んじて食らいつく獣の如き大口でそんなに餓えているのなら口裂き牙をくれてやろう頭撫でられ尻尾を振りて首輪をはめられご満悦そんなに枷が欲しいなら繋いでくれよう地の獄に虎の威を借る狐となりて首輪のついた鼻高天狗よほどに狗(いぬ)が愛しいかなれば狛犬となりなされ
★14日今日は飯後の茶事でした。朝はバタバタしていてお軸の写真を撮る事をすっかり忘れていました💦お茶事が終わってからの写真しかなく残念…今回はお料理が得意な方からお茶事の亭主をしたいとの要望がありまして、色々考え飯後の茶事をすることに。実は私、飯後の茶事は初めてでした。本には『(飯後の)茶事の次第は通常の正午の茶事となんら変わりませんが、続き薄茶にするなど亭主の裁量と力量が…』と書いてある事から力を頂きまして💪懐石のお道具が少ないですが、千鳥の盃はありますので、お
「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」「事物はすべて本来、空であり、執着するものは何一つない」という意味を持つ禅語である。六祖慧能大師のこの教えは、私たちが生まれた時には何も持たず、純粋な存在であったことを思い出させてくれる。しかし、成長すると共に、私たちは地位や名誉、物欲、他人からの承認といった多くの執着を抱え、それらに縛られて悩むことが増えていく。「本来は何もない」とは、私たちが追い求めるものがすべて幻想であり、本来持っていた自由な心を取り戻すためには、執着を手放す
スマナサーラ長老の禅語提唱(十一)本来無一物取り扱い注意の禅語www.youtube.com慧能禅師の説法集『六祖壇経』は、おれが見た禅書のなかでいちばんおもしろかった。弟子の南嶽懐譲の法統から臨済宗、青原行思の法統から曹洞宗など、後の五家七宗全てが六祖の門から出る。[感想]五祖の優秀な弟子、神秀上座の偈頌。身は是れ菩提樹心は明鏡台の如し時時に勤めて払拭せよ塵埃を惹かしむること莫れそれに対する新入り慧能の偈頌。菩提本樹無く明鏡も亦台に非ず
★7日清風払明月お花はミズヒキオミナエシソウタンムクゲヤブランです。今日のお稽古は廻り花流し点入子点茶碗荘茶入荘でした。↑廻り花で使ったお花です。お花がないとはいえど、何か咲いていてくれます。★12日水急不流月お花はイトススキワレモコウホトトギスミズヒキカクトラノオオミナエシヤブランでした。今日のお稽古は長板総荘薄茶長板総荘濃茶でした。★19日本来無一物お花はシマカヤサクラバナタデニワナナカマドヤブランハギです。今
無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞう)「何も持っていない、何にも執着していないからこそ、そこには無尽蔵の可能性を秘めている」こんな意味の禅語である。この禅語と同じような意味の禅語に「本来無一物」がある。人間は本来、何も持っていない。赤ちゃんとしてこの世に生まれたときは、何も持っていない。服も着ていない。裸である。本当に、何も持っていない。だからか、赤ちゃんは、純粋である。もちろん、オギャーと泣いて、自己アピールはしているが、その姿も自
本来無一物(ほんらいむいちもつ)この世に生を受けたとき。と書いたが、生まれたばかりの赤ちゃんに、何も考えることはできない。そして、何も持たずに、生まれてきた。本来、何も持っていないところから始まり、成長していくにつれ、モノを持つようになる。知識も増え、自分で考えるようになる。そして、欲が生まれる。赤ちゃんのときはなかった欲が生まれる。成長したことは嬉しいけど、知識が増えたことで、欲が出る。お金、地位、名誉、そうしたものを手に入れると、失うのが怖く
こころ禅…365日『一🍓一🖼️』日めくり言葉R24.6―25ほりさんの笑顔の『一期一会』【人生は一生に一度の出会い…大切にしよう】を感じ、思いをお届けします。《心に響く…禅のことば》【美しい四季の香り…『一🍓一🖼』禅】禅は“こころ”です。🪷本来☆*~🧘♀☆*~🪷無一物☆*~『本来無一物』(ほんらいむいちもつ)【生まれながらに持っているものなど何ひとつ無い】と云うことです。人は生まれたときは、何も持っていません。もともとスッポンポンの丸裸⁉️
※すべては空(くう)でしょ^^?「生まれてきた時は人間はみな裸一貫、何も持っていなかったし、そもそも執着すべきものなんて別に何もないでしょ?何も持たずに死んでいくんだしさ」(慧能禅師)いったん荷物をぜんぶ下ろしてみて、で、改めて氣持ちを落ち着けて内観してみる。「私がホントに欲しいモノはなんだろう?」で。ふと思い浮かんだものに全身全霊を注いでみる。
『禅ごよみ365日:毎日に感謝したくなる』より印象に残った禅語についてです。読み:ほんらいむいちもつ(本来、無一物)解説:人はもともと、何一つ持たない姿、執着も、我欲もない姿で生まれてくる人間はこの世に生まれてくるときは、何一つ持っておらず、丸裸で生まれます(無一物)が、成長するに従い、いろいろなものを身に着けていきます。その中には我欲や執着も・・・しかし、死ぬときにはそれらを持っていくことができず、無一物、本来の姿に戻ります。枡野先生は、何か大切なものを失ったりして、失
こんばんは、さとうたくじです。今日は土曜日、週末という事で「本来無一物」という言葉を送りたいと思います。「本来無一物」とは、禅宗の教えの概念の一つで、「もともと何もない」という意味です。私たちのまわりにあるもの全てが、実は最初から何もないようなものだと教えてくれる言葉もともと何も持たずに生まれて来たわけですからうんうん、て肯いてる方もいらっしゃると思います。僕たちは、この世界の中でそれぞれが繋がっていて、ひとりひとりが特別な存在