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トップページ都道府県別索引へ新潟県の索引へ福館の上端だろう巨大な堀切を越えるとふたたび自然の尾根道に戻る。あとは山頂部の要塞『サルクロ』に向かってひたすら登ってゆく。事前の下調べでは道が整備されていないとの事だったが、登ってみるとトレイルはハッキリ付けられていて、ところどころにトラロープもフィックスされている。安心して歩けるようになっていた😊あとは単調な登りかと思ったが…否。堀切がもう1本😮さっきのと比べると小さいが、ちゃんと尾根を穿っている✨この
トップページ都道府県別索引へ新潟県の索引へ薬師の城山の終端を示す段を越えると、いよいよ本格的な登山道になる。中腹にあるという『福立』へGo💨ここから先、道は無いと聞いていたが、登ってみると道が拓かれていた。かなり急な尾根の直登で、倒木で塞がっているところもあるが、これは有難い😊標高100メートルばかりまで登ると、突然広い平坦地に出る。ここが福立の末端。道は、前方に見える盛り上がりの右へ入って登ってゆく。この登りの左側の斜面には畝状竪堀群が入っているということだが…🌿🌿に
トップページ都道府県別索引へ新潟県の索引へ猿沢城は山麓にも根小屋、葎沢という二つの大きな曲輪があり、それぞれ平城チックで立派な遺構を持っている。それらを一通り楽しませてもらったので、いよいよ山へ。居館に戻って『薬師山』を目指すか💨根小屋の北のほうは、だいぶ荒れている。西側の土塁の周りには倒竹が目立つ…やがて、東西に走るトラクター道のようなものが現れると、根小屋は終わり。ここも北端はよく分からない。道は西に向かって山へ登ってゆくようだ。その登り始めあたりで、右に低い堰堤のよう
トップページ都道府県別索引へ新潟県の索引へ猿沢城は国道7号沿線の旧朝日村中心地の西側に広がる山麓から山中に構えていた。麓に居館の遺構、山中に詰城を持つ根小屋式山城。それぞれが複数の中心を持つかなり大規模な城で、全て見て回るとかなりの時間と体力が必要。永正五年(1508年)に本庄時長が嫡子の房長に家督を譲ってこの城に隠居したとの記録があるとのこと。本庄氏は秩父系揚北衆の一員で、戦国時代に本庄城(のちに村上城)を築いて居城としていたが、この城も重要な拠点だったのだろう。GWの遠征4日目、規
名称:村上城別名:舞鶴城、本庄城城郭:平山城築城年:1500年代築城主:本庄氏主要城主:本庄氏、堀氏、内藤氏改修者:村上頼勝、松平直矩所在地:村上市二之町指定文化財:国史跡続日本100名城四ツ門御鐘門冠木門二ノ丸出櫓跡本丸本丸石垣天守台天守跡村上城案内図
※2024年1月5日訪問※山門のすぐ側には、【仙台藩烏天狗組之碑・浅草屋宇一郎之碑】が建てられていました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼烏天狗組は正式名称を《衝撃隊》と言い、仙台藩士・細谷十太夫によって結成された義勇軍。衝撃隊の隊旗には「一羽の烏(からす)」が染めぬかれ、また、その隊士の装束も黒一色という異様ないでたちであったことから、彼らは通称「からす組」と呼ばれるようになったと伝えられています。また、実際に隊長の細谷はからすを好み、一羽のからすを飼っていたとも伝えられていま
※2024年1月5日訪問※本庄繁長墓所の裏手には【本庄氏一族の墓】が並んでいました【福島城代本庄繁長一族之碑】と書かれた標柱が建てられていますね✨【四代・本庄政長】【三代・本庄重長】【二代・本庄充長】寛文4年(1664)米沢藩主の上杉綱勝が跡目を決めないまま亡くなり、米沢藩は信達2郡を召上げられ、同年6月に30万石から15万石に半知となりますこれに伴い、寛文5年に福島城代であった本庄政長は鮎貝(山形県白鷹町鮎貝)御役屋将(知行1666石)に転じ、以後幕末までの9代にわたり、鮎貝御役
※2024年1月5日訪問※上杉家の家臣で、福島城代を務めた【本庄繁長の墓所】です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼本庄繁長は越後国本庄城主で揚北衆として独立勢の高い一族であった。上杉謙信に従属してからも反乱を起こしたりしたが、御館の乱ではいち早く上杉景勝に味方し、同族で長尾景虎方となった鮎川氏と戦った。その後、一時改易となるが上杉家臣として再び登用され会津転封後は守山城代を経て福島城代となり、関ヶ原合戦時にも伊達政宗の軍勢から福島城を守った。慶長18年(西暦では翌1614年)1
※2024年1月5日訪問※長楽寺さんを訪れると、まずは立派な【山門】が出迎えてくれます山門に関する案内板などは設置されていませんが、歴史を感じる建物ですねそしてこちらも立派な【本堂】こちらも案内板などはありませんが、歴史の重みを感じる荘厳な建物ですね✨幕末にはこの場所に仙台藩の軍事局が設置され、仙台藩士や福島藩士達などの奥羽諸藩の藩士達の往来が多数有ったそうです明治に入ると、一時裁判所として利用されていたことがあり、本堂の鴨居の一部には、菊と桐の紋章が刻まれている箇所がありますが、こ
※2024年1月5日訪問※福島県福島市舟場町の【萬年山長楽寺】さんを訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼室町時代に上杉氏の重臣本庄氏の菩提寺として、越後小泉庄の中心地本庄(現新潟県村上市)に創建。開山は、耕雲寺10世の大仲玄甫。慶長5年(1600年)、4世中興傑山雲勝の代に越後から現在の福島の地に移転。中興開基は、初代福島城主(当時は上杉家城代)で本庄氏31代当主の本庄繁長。17世孝戒義仙の代に伽藍を焼失し、一部を復興。20世貞京智元の代に再度焼失。21世要
OPENHINATAにて兵庫県ほぼ全土の50㎝単位のCS立体図が公開され、それをみているとここに未登録らしき城址らしき地形を発見しました。「丹波霧の里ブログ」さんには仮称「東新庄城」とされ掲載されていたので全くの新発見というわけではないようです。確認に先週行ってきました。位置はこちら兵庫県丹波市(丹波国氷上郡)氷上町下新庄丹波市役所から1.8㎞本庄氏の本拠とされる森山城からも1.8㎞となっています。北西麓には内山砦があります。往時は内山砦から尾根伝いに登ったのでしょうか。
この日はフォロワーさんのまーPさんと一緒に村上市内の城跡巡りをしました。私自身2ヵ月振りの城跡巡りで、さすがに雪は無いだろうと村上城からスタートし、いつもは行かない天神平側の遺構を見に行き、その後に笹平城に向かうも登城道が積雪30cm位あって断念、そのまま大葉沢城に行き、宮山側は倒木の為通行止めということで寺山側より登ってウネウネを見て回り、その後御城印を頂こうとしたのですが、ご住職が不在ということで先に下渡城へ向かいました。下渡城は標高237.7mの下渡山山頂付近に築かれた山城で、本庄
3月14日、新潟駅から特急で50分ほどの村上市へ。村上駅駅の東側。目指すは向こうの山(臥牛山)にある村上城まずは山ふもとの手前にある東北電力ネットワーク村上電力センター。(中部地方だけど、ここは東北電力の範囲なんですね。)ここに続日本100名城のスタンプがあります。(村上市役所にもあります)センターにあった台紙にスタンプをGet。村上城は山の上山頂部(濃い緑色に挟まれた黄緑色の部分)には、左のくねくねした箇所から登ります。ふもとに着16
どんどんやの一石二鳥カレーで満腹になったら、宮津駅の駅舎へ戻って、午前中に最初に宮津駅に来た際に駅舎内で見つけ気になった情報を確認に行き、そして京都丹後鉄道直営の「丹鉄珈琲」にてテイクアウトのコーヒーを買い求めた。☕宮津駅で見つけ気になっていた情報とは、同じ宮津市内でも阿蘇海(天橋立で隔てられた内海)の対岸にある「ふるさとミュージアム丹後」(京都府立丹後郷土資料館)にて、今日までの日程で開催中だった特別展の「“玉の輿”大名家の栄光と苦悩―徳川綱吉・桂昌院と宮津藩
中山道武州路歩きは、「本庄宿」に入りました。「本庄宿」は天保14年で、本陣2軒(南・北)、脇本陣2軒、旅籠70軒あり、飯盛り女も100人以上いたといいます。交通の要衝でもあり、商人の町としても大いに賑わいました。今でもところどころに残る古い建物に、辛うじて往時の繁栄が偲ばれます。「旧本庄商業銀行(現ローヤル洋菓子店)」…レンガ造りの建物がいいですね。どうも今は閉店し、本庄市が管理中のようです。「北の田村本陣の門」が、歴史民俗資
〖朝晩の寒暖の差に気を付けて下さい〗⚫今日はバレンタインデー♪🍫😝💕⚫↓♪こちらからどうぞ♪↓☆紋次郎SHOP☆初売り↑こちらをクリック↑初売り★2月のおすすめ商品★☆聖子ちゃんファン必見☆【松田聖子スイートコレクション】『80'sヒッツCD-BOX5枚組88曲収録』《送料無料!!》松田聖子スイート・コレクション80'sヒッツCD-BO…¥11,000(税込)1980年4月1日発売のデビュー曲「裸足の季節」から始まる80年代のシングル曲やアルバム曲など、代表曲
日東道の朝日まほろばI.Cから国道7号線に入った背後の山に猿沢城という猿沢館(居館跡)、福館、サルクロの3つからなる山城があり、そこに行ってきました。猿沢城は築城年代は定かではありませんが、本庄城(中世の村上城)を築いた本庄氏によって築かれ、本庄繁長はここ猿沢城で生まれたとされています。永禄11年(1568年)本庄繁長は武田信玄に通じ、出羽国尾浦城主武藤義増とともに上杉氏に反旗を翻し、一年余りにわたって上杉氏に抵抗しましたが、葦名盛氏の仲介により降伏し、繁長は嫡子顕長を人質として差し出し、本
新しい週が始まりました。もう盆休みに入っている方もいらっしゃますね。羨ましい~私はお盆に関係なく働きます!さて、本日の【ケータイ国盗り合戦】のクイズです。本庄氏や色部氏、新発田氏などといった「揚北(あがきた)衆」といったら、どこの国で強い勢力をもっていた豪族たちのこと?1.上野国2.下野国3.越前国4.越後国正解は「4.越後国」です!正解率は80%でした。
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慶長瀬波郡絵図に描かれている村上要害(本庄城)山上に要害、山麓に館地区が描かれている。永禄11年4月、越後府内を脱出した本庄繁長は、鮎川氏の大場沢城を攻撃、駆逐することにより、上杉輝虎(謙信)に反乱をおこす。信州からは武田勢、越中からは椎名勢、越後国内では本庄繁長の乱と、輝虎を窮地においこむ武田と呼応した反乱であった。信州口に厚い手配を終えた輝虎は、11月7日、直接本庄城攻撃を指揮する。20日夜、城下に迫り、東の堀を埋め、柵を取り払う。以後、包囲を固め包囲戦となる。その間、武田方に宛てた
大場沢城全景揚北の国人領主、鮎川氏の居城。左のピークが寺山の要害、右側のピークが宮山の要害として一城別郭構造になっています。左寄りの赤い屋根が普済寺。隣接する本庄氏が永禄11年、武田信玄の調略により上杉謙信に反旗を翻した際、争奪が行われました。鮎川氏は謙信方の揚北の有力武将として謙信政権を支えました。天正元年五月十四日鮎川盛長は直江景綱と共に春日山城の実城・二の郭・三の郭に塀を造る普請を行っています。現地看板に書き込み掲載します。下が北です。宮山の要害、主郭の南から西(右)に