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徳島県の防空監視哨巡りも残り県南の3件を残すのみとなりました。県南のダニは怖いので12月を過ぎもう大丈夫かと思い今回訪問したのですがシダは生き生きと茂っており、ダニも茶色いの黒いの、小さいの大きいのが生き生きとしており、シダ群を通り抜ける度に取り付かれていました。いつもは監視哨と付近の三角点はセットで撮るのですが今回三角点は断念しました。その他の画像は続・徳島県の防空監視哨巡りたまに更新予定にて追加で更新しています。↑20251217↑退避壕内部↑休憩所基礎部コンクリートブロッ
長井コミセン講座「あらためて知る郷土の歴史」www.city.yokosuka.kanagawa.jp日時:令和8年2月6日(金)10時~12時場所:横須賀市長井コミュニティセンター内容:横須賀市の西海岸エリアは、風光明媚な観光地帯ですから、戦争には余り関係ないと思われがちですが、ところがどっこい、多くの軍事施設が存在していました。特に、太平洋戦争末期には本土決戦に向けた防衛拠点があちこちに造られていたのです。そんなことをお話したいと思います。さらに、最後の海軍大将である井
これは、ひどい。夢のマイホーム建たぬまま...住宅メーカーが”突然破産”残ったのは2000万円超のローン返済「生活が成り立たない。想像を絶するつらさ」|特集|MBSニュース住宅メーカーの突然の破産により、夢のマイホームは建つことなく、残ったのは住宅ローンだけ…。人生最大の買い物とも言える「家」をめぐり、依頼者たちから怒りの声と悲鳴が上がっています。www.mbs.jpここは日本だぞ。そんなC国の真似をしなくてよろしい。これは、しかし、ひどいですね。ローン
徳島県の防空監視哨巡りたまに更新予定の方がアメブロ文字数制限に成り、こちらで引き続き補足します。宍喰防空監視哨(一番)↑監視哨跡米軍撮影1947/10/13(昭和22年)M552-299より抜粋拡大加筆日和監防空視哨(民~軍)↑監視哨跡米軍撮影1947/10/13(昭和22年)USA-R528-1-2より抜粋拡大牟岐防空監視哨(民~軍)鷲敷防空監視哨↑米軍撮影1947/08/17(昭和22年)A-M414-34より抜粋拡大加筆右移転前左
「真珠湾攻撃1階級特進」で検索すると1942年1月16日付の神戸新聞朝刊1面が出て来ると思います。その左下の方に三人の県人の名前が見受けられますが、その内の一人の立派な墓が防空監視哨の在った地に建っています。直ぐ傍には親族と思われる方の墓も有りそちらの方は陸軍で、私の叔父が戦死した場所と日も近くもしかすると知り合いだったかも知れません。さて、真珠湾攻撃で戦死された方ですが、昭和13年10月に第二期甲種飛行予科練習生として横須賀海軍航空隊に入隊を経て卒業するに当り海軍航空優等章を享し、以来航空母
前回の訪問より余り日が経っていませんが再再訪問です。前回、メモ用紙とメガネを紛失、今回メモ用紙は回収出来ましたがメガネは依然行方不明のままです。笹藪で弾き飛ばされてそのままです、涙。もし見つけられた方がいましたらそのままゴミとして処分して頂けましたら幸いです。今回、聴音壕跡の場所特定の写真を撮りに行って来ました。現在は完全に埋められていますが場所的に日和佐、鷲敷級の3メートル程の聴音壕であったと思われます。今回も12月も過ぎたのに散々ダニにたかられました。その他写真は徳島県の防空監視哨巡りたま
今回は再び川島監視哨へ訪れました。前回夏、旧傷痍軍人徳島療養所前から古墳を見つつ東禅寺山系を縦断していたのですが、藪が険しくなるにつれダニが増えるわ大きくなるわで大変でした、なんとか東禅寺山のピークまでたどり着いたのですがもう藪に入る気力、体力無くその日は調査終了。帰り際に脱水症と熱中症で倒れてしまい、通りすがりの方に救急車を呼んで頂き事無きを得ました、M様ありがとうございました。今回はその縦走の続きで東禅寺山奥まで進みましたがまだダニが多く居ました。引き返し聴音壕の在ったピーク付近で調査しまし
本日再訪、移転前の秋葉神社には初めて訪れました。毎年11月23日に子供相撲が行われている様です。今回、聴音壕付近に鹿が居て突然鳴き出してその大きな声に驚きました。更に前回と違い暑さは大丈夫でしたが、沢山のダニの洗礼を浴びる事となりました。鷲敷・那賀郡那賀町小仁字大坪旧那賀郡鷲敷町秋葉山上(移転前)昭和13年県の指示により設置、秋葉山上に哨舎を造る。移転前の位置ですが下記の米軍撮影の写真を基に現地調査したところピーク付近では無く神社境内で間違いないと思います。昭和14年小仁
今回は2件、橘監視哨と小野監視哨を巡って来ました。橘と小野、両方全く所在が分かりませんでしたが橘はまたまたサークルたまや様の調査を参考に、小野は地元在住のM様、S様より情報を頂きまして更に一緒に同行して頂きまして現地を確認する事が出来ました。その上、監視哨よりの眺望写真も御提供頂きました。この場になりますが大変ありがとうございました、引き続き宜しくお願い致します。眺望写真も含め、その他写真は徳島県の防空監視哨巡りたまに更新予定の方に追加で掲載しています。↑橘監視哨20251023
今回は眉山、山頂に在った徳島監視哨に行って来ました。監視哨は丁度パゴダの塔辺りに在りました。訪問の際は曇りで少し残念でしたが晴れた日にまた来たいです。哨員だった湯浅泰治氏の記録では7月3日夕方、5時頃8名でいつものごとく食料品、薪炭、飲料水等、各自背負い天神社より一時間弱かけて登り先の班と交替し灯火管制下の市内を見て立哨していたら21時頃高松が空襲されその後23時40分頃から徳島も猛爆され3時間ほど続いたそうです。その際は茂助ケ原に多くの人が避難してきたそうで、空が明るくなり下山していると
旧司令部舎は様々な映画のロケ地でも使用されています当時のまま残された建物で私が入学した小学校のような石の階段で、建具、壁もそんな感じだったような記憶ですロケのセット、展示物おそらく入館料が安すぎる壁に小まめな給水をお願いしますと張り紙が貼っていますまだ暑いは暑いので理解できますふと気が付くのですエアコンがない各部屋に扇風機が置いてます・・・古い壊れかけの家庭用の扇風機首も壊れていて・・・リサイクルショップの商品よりも酷くないか?それとも、これがエモい、こ
地下戦闘指揮所に着く零戦の展示そして地下戦闘指揮所は・・・壕です洞穴のような懐中電灯を借りて入っていきます高さ1,800くらいの狭い通路大広間、と言っても・・10坪ないくらいそして小部屋は・・何が出来る?くらいの広さ本土決戦に備えての施設実際、使用はされたのだろうか・・?疑問は残るが当時は必要だったのでしょうそして、もう一度見学できていない旧庁舎に戻ります
本日は池田、三名監視哨を巡って来ました。池田監視哨に関しては全く不明でしたが昨日たまたま「サークルたまや」様のネット記事を見つけ本日二件巡る事が出来ました、三名監視哨ですが地主のO様にお会いする事が出来、また、本日の地域のお祭にも参加させて頂きました。この場にてになりますがすが御両名の方、本当にありがとうございました。それと今回の三名監視哨ですが三名村史の記述に別途追加して記入しておきます。その他写真も徳島県の防空監視哨巡りたまに更新予定の方に記載していますので宜しければご参照ください。
本日、椿泊の防空監視哨へ行って来ました。監視哨としてネット初掲載です。コンクリート製の哨舎に退避壕、深い切り込み等の遺構が現存しています。聴音壕自体は見受けられませんでしたが、切り込みが聴音壕と退避壕を兼ねているのでは?その他の写真は徳島県の防空監視哨巡りたまに更新予定の方で掲載しています。↑20251002↑窓ガラス片↑一升瓶多分戦後品↑歩哨詰所基礎鉄筋↑入口足元
久々の日ノ峰山の訪問です、この地は本土決戦の重要地点の様で一帯に地下壕やトーチカが現存しています。菊水、護土部隊が展開、その辺は別途ブログに書いていますので興味有りましたら覗いて見てください。今回は監視哨調査と言う事を念頭に訪問、山頂の蛸壺陣地と思っていた大穴の跡、おそらくは聴音壕跡だと思います。大きさや雰囲気的に山城谷の大穴の跡とよく似ています。ここから下って三角堂跡付近に菊水旅団通信隊が展開、この三角堂ですが劔山本宮遥拝所(大正14年9月)の碑の隣の今は階段のみ残っている空き空間が三角堂跡と
ミニ企画展「唐津と戦争」~進められた決戦準備~ポスターが目にとまりました。注目したのは、開催場所が「末盧館」です。末盧館は、日本最古の水田跡が確認された「菜畑遺跡」で資料を展示されています。稲作と戦争がどう結びつくのかと疑問を持ちつつ入館しました。内容は、先の大戦末期の本土決戦準備が唐津でどのように行なわれたのかを記述してありました。馬渡島や神集島に砲台や船の監視所があったことを知りました。教育委員会は、企画展をやるのであれば戦後80年の節目にふさわしい企画展をやって欲しかった
本日、徳島県の防空監視哨二基、鷲敷と平谷の探索に行って来ました。鷲敷の方は先に徳島市立考古資料館様より戦争の記憶展で紹介されていました写真の通り現存する事は分かっていましたが、平谷の方は上那賀町誌に一言「役場裏山に平谷監視哨を設置」の文言を頼りに在るのか無いのか、はたまた何処に在ったのか全く何も分からない状態で探索、結果、平谷もその存在を確認する事が出来ました。日和佐や鷲敷の様なほぼ完全体に近い形では有りませんでしたが80年の歳月を考慮しても十分その形を留めている方では無いでしょうか?造りは先
昨日は、奥様のスマホの機種変更で、朝からなんばへお出かけ。これまで使用してきたXperiaAceが5年ほど経過し、動きが遅くなったための変更です。我家のスマホは全員が「mineo」を使用しています。これは、株式会社オプテージのブランドで、オプテージは「eo光」の光ネットワークを運営している関西電力系の会社です。なんばのショップに予約し、手続きを行い審査待ちの間に昼食とします。なんばパークスサウスの「河童本舗」へ。河童本舗・なんばパークスサウス店の「赤河童」格安スマ
備忘録最終20251001第五十五軍戦闘序列第五十五軍司令部(偕一二四七五)司令官陸軍中将原田熊吉高知県新改錦護土安芸剣山菊水第百五十五師団(護土)岩本汪中将歩兵第四百五十連隊(護土二二七五四)下村肇大佐四個大隊3841名1名事故死昭和20年2月28日編成4月上旬編成完結徳島市昭和20年9月16日復員旧那賀郡現小松島市昭和20年2月28日軍令陸甲第三十四号により第百五十五師団動員下令と共に歩兵第二補充隊、中部一五〇部隊を中心に編成された、
外道ですね。新型コロナワクチン接種、都議会4会派が助成要望感染者は増加傾向:朝日新聞東京都議会の都民ファーストの会、自民党、公明党、国民民主党の4会派は18日、新型コロナウイルスワクチンの定期接種について、高齢者を対象にした費用を助成するよう小池百合子知事にそれぞれ要望した。国の助…www.asahi.comこの期に及んで、まだ接種を推進し、あまつさえ補助金をせびる。外道です。本当の外道。そして、これを悪びれもせずにシレッと報道するオールドメディア。この国
靖国にはいない、大日本帝国を批判して特攻した、ある自由主義者の遺書の一部。自称愛国者の感謝とは、一体なんでしょうか。「戦争を美しく語る者を信用するな。彼らは決まって戦場にいなかった者なのだから」で、自称愛国者(笑)が、感謝とやらを表現するとこうなると。下はすでに販売中止になってるらしいが、上の食事メニューも、発想からしてあまりにもキモいし、あまりにも軽い。本来、統率の外道である特攻や、それを見送った人間にたいする扱いが、まるでアイドルの推し。この有り様で、戦争を美化してない!!は無理があり
よくやったもういいんだ199989長崎原爆の日むすこはがんでしんだあれから26年もうすんだがもういいんだけどがんばれ!自分がいこつの唄岡林信康おぼんみんなやすみ?いいえ銀行ソープラブホパチンコ発電俺!
鹿児島県の知覧にある、特攻平和会館に行ってきた。日本人として、一度は見ておかないといけないと思っていたからね。遺書や遺品や遺影の数々。沖縄戦の特攻計画の戦死者は1036名。そのなかで、半数近くは知覧から飛び立って行った。ほとんどの青年達が、両親や兄弟姉妹への感謝を書き残していた。涙で目がかすんで見えなくなるのが、わかっていたから、タオルハンカチと多めのティッシュを用意して行った。敵の戦艦を撃沈してきます!と書いていた人も多かったけれど、多分心の底ではわかっていたのだろうと思う、日本
備忘録本日ブログを書いてる今、12時になりました。80年前の今日まで戦いがあったと思うと感慨深いです。本日は徳島城址を愛する会様が城山の防空壕に存在を示す看板を設置したとの事で見に行くと同時に他の防空壕も見て廻りました。看板は南側の「城山防空壕」前に設置されていました。「朝鮮半島から無理やり日本に連れて来られた徴用工」等と特亜がよく叫びますが、「朝鮮半島から来た人々」でも無く看板にはしっかりと「朝鮮人労働者が担い」と正しく書かれていて非常に好感を持てました。看板説明の補足になると思
平和と幸せを祈ろう!最近、戦争の爪痕が残っている事が分かった。本土決戦に備えて、終戦2日前に整地された土地。こんな片田舎に有るなんて防空壕がある事は知っていた。柵に囲まれていて近くに行った事は無い。主人の父は中国に言ったそうです。私の祖父は片耳が聞こえなかったので北海道に行きました。近隣のおばあちゃんは息子さん2人(戦士)の為に自宅の庭に石碑を建てた。▼本日限定!ブログスタンプ子供の頃、整地された場所で走り回り遊んだ覚えがある。山の上の不思議な場所
実は、1945年8月8日。大本営が「決号作戦準備要綱」を下令し、本土決戦に向けた準備が進められ、本土決戦は間近といった、さしせまった状況だった。で、この作戦準備要綱の中身だが、案の定ほぼ全て精神論。そもそも武器も物資もろくにない状況で、ひたすら特攻を繰り返しながら、無理やり動員した国民を肉壁にし、アメリカ軍もろとも、秘匿していた正規軍がそこに攻撃するという、一種の心中作戦。要綱の中身といえば、「後退は許さない。全部隊は戦闘部隊とし、負傷者の治療や搬送も禁止。味方諸とも敵を○せ」といった、狂気一色
先月、本土決戦陣地について東京新聞社さんから取材を受けていたのですが、本日8月3日付けの紙面(神奈川横浜版)で記事になりました。<2025年戦後80年>本土決戦に備え要塞化地元の研究家・佐藤さん案内三浦半島の遺構歩く身近にあった戦争を知って平和を考える:東京新聞デジタル太平洋戦争末期、神奈川県の三浦半島には米軍の本土上陸に備えた軍事施設が多数つくられ、要塞(ようさい)化が進んだ。間もなく終戦80年。在...www.tokyo-np.co.jp
徳島市立考古学資料館にて開催中です。当方、今回初見の新資料の展示にて非常に為になりました。眉山トーチカの写真はネット掲載上、最新です。撮影にあたり、付近を清掃したとの事で東西トーチカ区別用の青いビニールシートゴミは撤去されていました。当方が発見した金具類はその後どうなったのか気になる処ではありますが・・・。今回は徳島市に焦点を当て、他は省いたとの事です。考古学資料館の直ぐ西隣には横穴古墳が在り、大戦中は徳島連体区司令部(現国道11号線横の合同庁舎)が重要書類を疎開させ執務も行ったそうなので
今から丁度80年前の1945年7月4日の午前1時24分から3時19分にかけて徳島の町が焼き尽くされました。下記の図は復員者の為に約300部が作られ占領軍指定の引揚港を中心に大型の引揚船や各都道府県の引揚相談所当に複数配布された様です。国立公文書館デジタルアーカイブにて全国主要都市戦災概況図を見る事が出来ます。全国主要都市戦災概況図昭和20(1945)年12月、戦災の概況を復員帰還者に知らせるために、第一復員省資料課によって、全国主要都市戦災概況図は作成されました。まえがきには、当時帰還
備忘録最終20251001第十五方面軍(楠)(内山英太郎中将)第五十五軍(偕一二四七五部隊)(原田熊吉中将)歩兵第百五十五師団(護土二二七五二部隊)(岩永汪中将)歩兵第四百五十連隊(護土二二七五四部隊)(下村肇大佐)独立混成第百二十一旅団(菊水二八二三六部隊)(横井忠道少将)独立歩兵第七百二十九大隊(菊水二八二三八部隊)(山下康之大尉)陣地構築、展開部隊菊水第4中隊(伊丹忠中尉)独立混成第百二十一旅団通信隊(矢内勉大尉)有線第一小隊長見習士官神田正幸曹長有線第