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昨日はすごく忙しくて大変で寝落ちしていまい今朝書こうと開くと今まで見たことない閲覧数になっててビックリしました。きっと母の闘病を書いてあるからなのかなとか。大したこと書いてないのにこんなに閲覧数上がってビックリです。昨日は仕事も手につかない感じで皆からどうしたの!?と聞かれまくりました。午後からお母さんの仕事関係や家庭で決まったことの話などをお母さんとしたくて看護師の上司に事実を伝えてたら涙が止まらなくなり。そこから職場全体につたわり午後早退させてもらいました。介護の現場で介護士ヘ
私のお母さんは片付けが苦手でした1カ所を片付けると他のどこかが散らかって「手伝おうか?」と私が聞くと「ちょっと待って!今忙しいから!」と手伝うことも難しく…どちらかというと片付けが好きな私はそんなお母さんに対して「なんできれいに片付けないんだろう?」とものすごく不思議に思っていましたお母さんが死んで2ヶ月が過ぎ、色々片付けを進める中で見えてきたのは『片付けないのではなく片付けられなかったのかもしれない』ということ新品のキッチンタイマーが2個出てきたり除菌スプレ
いよいよ明日から抗がん剤投与が始まる。昨日は起き上がって息子とテレビを見たりで、割と元気に過ごしていた様子。抗生物質が効いてるのかそんなに痰も絡んでなくて、ちょっと声も出るようになった。ご飯も少し食べれてるとのこと。今日は病院には行かない日。母も連日はしんどいので休息が必要だ。息子も夏休みの一行日記が連日病院行き来になってるのでかわいそうかな、と今日はお家でプールしたり好きなことしてもらお昨日の夕焼け空。
昨日のお話。久しぶりの酷暑。母との買い物の予定が入院になり予定変更。こんな酷暑の中お母さんと買い物へ行かなくてよかった。クーラー効かせてもこの暑さはきつい。起きて姉妹と話し合い姉に今日は一任して荷物用意してもらいました。私は娘さんが新たに使う事業所へ契約に。家族のように親身になってくださりお泊まり対応可。我が家の場合は何があるか分からないのでとても助かります。あれこれの契約はケアマネさんに丸投げしてるので今回も助かってます。母の仕事関係などへの連絡しながら家族対応しながら娘
2015年4月に食道胃接合部癌と診断されました。旦那は2019年5/11に旅立ちました。今年4月に転移した癌性髄膜炎と診断されてからの頑張った記録です。5/6在宅11日目やはり朝から目眩とふらつきひどい。ただし、ベッドで寝ていると大丈夫だと、言っていた。トイレに行くのも大変で、ベッドから車イスに乗り、トイレへつれていった。尿の排出も出が悪く、チョロチョロと時間がかかった。プリンペランを服用したら吐き気は収まり、食事は取れた。空腹だと、気持ちが悪くなるよう
昨日は夜勤中母が発熱したと連絡。水腎症になりかけていてステント入れたからそれかなー?と。そんなに熱も高くはなかったし今朝は下がってたし体調も良さそう。母の家事を手伝い体調確認。右足鼠径部痛み落ち着いてる。嘔吐はしてる。帰宅して荷物受け取りしたり母ぬきで姉妹と母の妹叔母夫婦来てくれて話し合い。感染症対策や、祖父母の事など。母の支えることについての話し合い。話し合い後は娘デイサービスから帰宅。そこから娘のサービス色々変更かけていてそれについてケアマネさんと連絡。電話後は母の感染症対策に
未だに日中の会話の半分くらいはせん妄状態が続いている。トンチンカンな話をしていて、不安。洗髪の許可が出ているので、みんなで洗髪室へ向かった。ところが突然シャワーを浴びるために来たと言い服を脱ごうとする父。止めようとするとものすごい勢いで怒り出してしまった。今日は洗髪をして、シャワーは看護師さんに相談してみようとみんなで促した。お風呂やサウナが大好きだったから。なんだか、とても切なかった。父は母のことが大好きな「ザ・九州男児」。現役の頃はとにかく仕事を一生懸命して、家族を守る。とても真面目な
消えないように。消えないように。今にも消えそうな灯火を夫とカナとテルと私で囲って。消えないように。消えないように。守っています。すごく頑張っています。が、だんだん低呼吸です。こんなに立派な3歳はいません。虚ろなアキのおなかをさすりながら、この子を産んだ時のこと。思い出しています。(2019.7.27)
帰って来れない言っておきながら帰ってきました。落ち着いた訳では無いですが書かせてもらいます。私の実母が子宮頸がんになりました。以前から足の痛み訴えてて今週月曜日に足の浮腫発見し水曜日に足の痛みでかかっている私と姉の勤め先が運営しているクリニックへ。総合診療科で子宮頸がんか子宮体がん疑いステージ4って言われて紹介状もらい婦人科のある地域で1番大きな病院へ。私が娘を出産しその後ピルの処方をしてもらってる病院です。まさかの私の主治医が母の主治医になりました。緊急で受診し結果がやはり子宮頸が
手術で数年前に乳房を全摘出した逢坂。摘出した部分は肋骨でこぼこしてます(画像は数年前。太っていた頃)先程のブログで多くの皆さんからメッセージもらいました(^ー^)私も~・・・のメッセージ。皆さん一緒ですね🎵(*^o^)/\(^-^*)逢坂は左足の膝付近も腫瘍摘出した傷があります。背中には腎臓の手術の傷、肝臓の手術の傷。右胸にも数センチの小さな傷。こんな体でも感染の心配がなければ大浴場や銭湯にも入ります(^o^)v逢坂の肺疾患は、感染=死なので、注意が必要です。今は甲状腺癌
講座依頼などのお問い合わせはこちら今年も忘れられない日迎えました。父の命日です。6年経ちました。あの日の事は今でも鮮明に覚えています。当時の父は末期がんで入院中。朝、出勤すると同時に急変したっていう連絡がきました。急変の連絡自体はそれまでに何度もあったけど、その時はなぜか直感的に「これで最期なんだ…」って感じた。病院に着くと、「潮が引く時間に人は亡くなるらしいよ」って、伯母が教えてくれました。それなら、午前のうちに家事をしなくては…と母が一旦帰宅。ふた
青柳たみゑです。雨が上がり、急に熱くなりましたね。明日から気温が30度に戻るそうです。今秋には、梅雨明け宣言の発表があるのようですね。うえの画像の可愛いエンゼルは、昔、実妹(末期がん)が元気な時に、お見舞いのお返しに元気な内に私が選んでお返しをしたいといい、私に買ってくれました。その2ケ月後に亡くなりました。妹を姉として支えました。自分で生存は6ケ月と聞き、何もしないという事で緩和ケア科(マンションのお隣の大きな病院)に通院で通っていました。お医
2015年5月に食道胃接合部癌と診断されました。旦那は2019年5/11に旅立ちました。今年4月に転移した癌性髄膜炎と診断されてからの頑張った記録です。5/3夜中の2時過ぎ、気持ちが悪くなり旦那は目を覚ました。吐き気止めの薬を服用して、少ししたら寝れた。あさは、9時起床。この、9時起床は、病気になってからずっととりあえず9時に起きる。メリハリのある生活を送るためにも行ってきた。そして、朝食。食欲はあるので完食。長男も来ていたので、私は息子のサッカーの試合を午
年間100万人❤️がん告知受けてる、、9割が高齢者、、死んでもよい、、年間10万人❤️若いがん患者さん死ぬな、、、年間30万人末期がん死んでる、、多くは若い末期がん、、、若い末期がん、、転移しすべて死ぬのだ、、❤️若いと死ぬ、、間違いなく死ぬ、、がん保険、、若いと払込料金も安い、、、60歳を超えると高くなるなぜだ、、若いとがんにならないから、、とにかく若い❤️がん死ぬそれをわかってほしい、、初発年齢、、若いと死ぬ、、ビタミンやミネラルにんにく不足なら速
お申込み458人、参加者427人を達成した、がん心のケアイベント実行委員グループのログを読み返してみた。スタッフ打ち上げ&懇親会の席上、帯津良一先生が今、私の真我が開かれました。私が追求してきたこと(大ホリスティック医学)は正に真我だった。これから佐藤先生と一緒に手を取り合って医療を進めて参ります。とおっしゃった。この歴史的な瞬間を共有できた同志の、色紙に書いた寄せ書きのような言葉一つひとつに感謝
今朝6時半頃父から電話。背中の痛みが酷くなり、病院へ電話をして欲しいと。急いで実家に向かうと、ベッドから起き上がれないという。起き上がると痛みが増し座ってさえいられないと。救急へ掛け当直の先生の指示を待った。「今からでもこちらにお越しください」と言って頂き、急いで父を連れて病院へ。処置室のベッドに横になり、痛みの具合を説明する。とりあえず痛み止めを飲み様子を見る。父も時々ぼーっとしているものの、看護師さんとは話も出来る。自宅のベッドよりは病院の電動ベッドの方が動きやすそうだ。火曜日
このシリーズは私が治すための目標にした先輩や同時期に一緒に闘病した生還者仲間をご紹介します。どの方も私以上に厳しい状況から生還を果たされた方々です。人生も終盤になって、無条件に信頼でき、尊敬できる仲間を得たことは人生の宝とも言えます。一生付き合っていきたいと思います。どの方も素晴らしいエピソードをお持ちですが、記念すべきは第1号は春名伸司さんです。とても不幸な生い立ちをされて、ガンになるころは非常に自分を追い詰めた生き方をしておられました。自分が味わうことが出来なかった幸せな
お知らせ2019年秋の日本での出張セッションが確定いたしました。また、今後、NY(ロングアイランド)、ラスベガスなどでのセッションも未確定ですが、考えておりますので、ご興味のある方は、こちらからご連絡くださいませ。広島、神戸、東京でのセッションが確定いたしました。広島:9月7日(土)~11日(水)神戸:9月14日(土)~16日(月)東京:9月23日(月)~10月20日(日)本当の自由、可能性、潜在能力を活かして生きるには、顕在意識でポジティブに生きようと思うだけで
彼女が旅立って1ヶ月。あっという間でした。それでもなお、毎日彼女のことを考えては涙が止まらなくなります。それでも彼女が生きた証であるこのブログをどうするか考えていましたが、いつか、誰かのためにならばなと思い記録を残し続ける事に決めました。これからは僕の闘病記録を残していこうと思います。今後ともよろしくお願いします。
僕は子どものときガリガリくん氷を噛むのが好きだった、、スポーツ貧血から末期がんへ、、
放射線科受診。新しく骨転移した所と、他複数箇所当ててもらうことになった。ただ…放射線治療は、以前入院していた総合病院でも行っている。場所によっては再度当てなくてはならないため、可能かどうか、前院に資料を取り寄せ確認することになった。来週から2〜3週間の入院が決まった。早々に日にちが決まって良かった。放射線治療が終わり次第、父の体調をみてから抗がん剤治療の有無。受けることが出来るだろうか。痩せ細った父を見て抗がん剤治療に耐えれのかと不安しかない。晩。23時過ぎ、母からの電話が鳴った。
6/24痛みで入院7/26てんかん発作で個室へ移動7/28これまで驚異的な回復力だったが、この2日間の様子がよくないのでいつ何があってもおかしくない。ガンの様子から見ても全身状態が良くないため数日・もしくは数週間の可能性。若いし体力があるから奇跡的に1〜3ヶ月の可能性あり。と宣告される7/13危篤の連絡7/17天国へ旅立ちました入院してからブログ更新をしなかっ
夜分遅くに。更新。昨日、父は転院予定でした。しかし、朝から母から電話。病院から電話があってね。昨日夕方から呼吸が不安定になってる。すぐ来てください。とのこと。急いで顔作って。←メイクアップ😆着替えて。2人でタクシーに乗る。着くと、清掃が終わり次第、個室に移る感じで大丈夫ですか?はい。よろしくお願いします。担当医からのお話。入院した当初は症状も複雑で、1カ月くらいかもしれないと思うと言いました。でもご本人が予想以上に頑張っていらしたし、元々体力もあり、2カ月少し。良
2015年5月に食道胃接合部癌と診断されました。旦那は2019年5/11に旅立ちました。今年4月に転移した癌性髄膜炎と診断されてからの頑張った記録です。5/1在宅6日目令和に変わるとき、お風呂に入っていたので、旦那に、「令和おめでとう‼️」と、送ったら「おめでとう‼️」と、返事が来た。癌性髄膜炎と、診断されたときは令和を迎えられるか?心配したけど、無事新しい時代を迎えることが出来た。令和元年のスタートは、波乱に満ちていた。食事は普通に食べることは出来
Luluです。私の拙いブログを読んで下さりありがとうございます。いいねして下さる方もあってとても嬉しいです。ありがとう以前、乳がんとまわりのリアクション。と言うのを書きました。これは私の経験でしたが、最近、私が大変に尊敬するとあるブロガーさんのブログで、大変な状態であるのに人に「思ったより元気そうでよかった」と言われる、という記事がありまして、そのことについて考えてみたわけです。私が乳がんをcomingoutした時にも感じたことですが、人は誰も自分のこと以外に興味がないのです。ガ
そうだよーストレスだよーストレスなく仕事をする、、末期がん❤️仕事のコツは仕事量を減らすこと、、休診日を増やすこと診察時間を短くすること、、患者さんを増やさないこと予防に力を入れると、、ベットで寝てるよ、、疲れるもん中国版ツイッターの微博(ウェイボー)では、「日本にもマナーを守らない人がいるなんて意外」との声がある一方で、「日本に長く住んでいるけど、マナーを守らない人が増えてきたように感じる」と指摘する人もいた。また、「自国人を排除するなんて中国ではあり得ない」「これ
皆さま、お久しぶりです。実はまだ生きて居ります(笑)前にも書いたけど、私はもう治ることはない末期がんで、最後のオンコロジストから告げられたy9名は、最悪なら数週間というものfでした。。。これには流石にガーーーーーん!!と来たよでもオンコロジストは続けて、「ただ、この余命は正しいとは言えない。同じ状況で数週間で亡くなる方もいれば1年以上生きられる方もている方もいるので。。。」と言ったのよ。私は余命宣告を受けてからもう6か月近く生きています。なので、最悪の場合、ではなかった