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安積艮斎門人・咸臨丸提督・木村芥舟の書幅をヤフオクで落札購入しました。さっそく読んでみました。度佐野嶺(佐野嶺を度る)芥舟老漁毅超然生翮上蒼穹超然として翮(はね)生じ蒼穹に上る危磴崚嶒一綫通危磴崚嶒一綫通ず花写柳描飛鳥外花写柳描飛鳥の外帆酬山答遠波中帆酬し山答ふ遠波の中十州祖業因刑勝十州の祖業刑に因りて勝ち百代綿謀仰棟隆百代の綿謀棟を仰ぎて隆し猶訝風雲従指顧猶ほ訝る風雲の指顧に従ふかと駐笻太息憶英雄
≪短歌≫明治への橋渡し役礎(いしずえ)を築いて散りし人々ありてtamamusiyoutubeの日本国紀のジョン万次郎を見返していて、他の回も見たくなった。遣米使節団の小栗忠順(おぐりただまさ)と木村喜毅(きむらよしたけ)の回。小栗忠順の名前は聞いたことはあったが、木村喜毅の名前は動画を見て初めて知った。アメリカでの小栗忠順の計算のエピソード、木村喜毅の粋な計らいのエピソードと、それにまつわる話。長い鎖国の時を経て、世界と対峙することに
徳川宗家の静岡転封で駿府藩中老(執政グループ)となった大久保一翁(忠寛-ただひろ-)☝️文久二(1862)年、大政奉還がなされる五年前、すでに混迷する幕末政局の中、「諸藩の衆議により開国を決定し、もし朝廷が認めない場合は、政権を朝廷に奉還し、徳川家は、旧領駿河一国の大名に後退すべし」という『大開国論』を唱えていた幕閣がいた。当時46歳、御側御用取次として十四代将軍徳川家茂の側近であった大久保忠寛である。時の政事総裁松平慶永(春嶽/越前福井藩主)に意見を求められて応えたという。その先見の明に
こんにちは、皆さん。歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。【バッテーラをおろせ!】木村喜毅が明治になって咸臨丸での勝のことについて語っています。「何分身分を上げること事もせず、まだあのころは、(幕府の威光も衰えてはおらず-筆者注)切迫していないものですから、ソウ格式を破るという工合にゆかないので、それが第一不平で、八つ当たりです。始終部屋にばかし引込んでるのですが、艦長の事ですから、相談しないわけにも行かず、相談すると、『どうでもしろ』という
あけましておめでとうございます。歴史大好き社労士の山路貞善です。2019年が明けました。昨年1月17日にこのブログを始め、もうすぐ2年目に入ります。いつもお読みいただいている方、ときおり当ブログをお立ち寄りいただいている方、皆様に改めて感謝申し上げます。ありがとうございます。読者の皆様にとって本年が幸多き一年となりますよう願っております。本年もどうぞよろしくお願いいたします。では早速始めましょう。いよいよ咸臨丸出航です。【出航目前の勝の体調】咸臨丸が品川を出航したのは
こんにちは、皆さん。歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。【乗組諸士に手を焼く勝】さて前回は勝が上司から周囲の反対の口車に乗せられ不平不満を唱え好機をつぶしてはならないと、この米国渡航を挙行する意義を諭されたことをお話しました。いつこのプロジェクトが潰されるかわからない状況に危機感を持った勝は同日(11月25日)、士官や乗組員に対し一書を認(したた)めました。(「海軍歴史」)。「今、米国航海の命が下り、諸君はこの義挙に参加することになった。
こんにちは、皆さん。歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。【勝の前に大きく立ちはだかる壁】前回の続きからお話を始めます。その頃の勝を取り巻く状況がどのようであったかを勝自身の言葉を言えばこうなります。「他の官吏もこれを拒む者甚だ多く、司農局(勘定所)にても専ら此議を拒み止めんと計ること頻(しき)りなり、…」と。役人は総じて米国渡航に反対だが、とりわけ勘定方の役人の拒否する姿勢が強く止めろという声すら出ているとしています。そのため小役人たち
こんにちは、皆さん。歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。前回の続きです。井上と木村が11月7日(安政六年)に老中宛てに提出した「別船」の乗組員のメンバー表が承認されたのは同月23日です。翌24日、勝と木村喜毅は大老と老中が居並ぶ席で「亜米利加国江御用の為差遣(さしつか)わされ候間、用意致す可く候」と米国行きを命じられています。【木村喜毅、軍艦奉行に昇進】勝は何としても米国を自分の目で見てみたいという願望を強く持っていたため自ら米
こんにちは、皆さん。歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。さて前回では、再度「別船仕立ての儀」が老中に提出されたところまでのお話でした。出されたのは安政五年(1858年)9月ですが、この頃から安政の大獄が始まるため老中らは、この件にばかり関与しているわけにはいかなくなりました。この頃、長崎にいた勝が「別船」派遣のことを知り、アメリカ行きを志願する手紙を同年10月に永井宛に、翌11月には水野宛てに書いて猛烈にアッピールしたことは以前にお話ししました。
こんにちは、皆さん。歴史大好き社労士の山路貞善です。少し投稿間隔が空いてしまいましたが、このブログも今回で50回目を迎えました。読者の皆様にはいつもお読みいただき深く感謝いたします。本当にありがとうございます。今年1月中旬から発信し始め10ヵ月目に入りました。投稿は毎日ではありませんが、原稿を書いたり、史料を読み込んだりする毎日は変わらず続いています。それなりの時間と手間をかけてお届けする以上、ぜひ歴史とりわけ幕末史に親しみながら楽しく学んでいただき、複雑な流れを見せるこの時代につ
こんにちは、皆さん。歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。安政四年春、永井と一期生が観光丸で帰府したためヤッパン号(咸臨丸)がオランダから到着するまでの間、伝習所には訓練船がない時期がありました。このとき長崎に残っていたのは、勝と共に残った伝習生と前年から参加していた榎本らの補充組だけでした。大勢の伝習生がいなくなった反動か、居残った伝習生たちの間で緊張感が薄れ風紀が乱れました。この状態を批判したのは長崎に在勤していた水野忠徳(みずのただのり)で
こんにちは、皆さん。歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただき心から感謝いたします。安政四年3月、永井尚志と一期生一行が江戸に帰府した後、伝習所ではこれまでの伝習の進め方が改められました。七曜表が取り入れられ、曜日ごとの時間割で授業科目が決められました。午前、午後共に一時間ずつ授業時間が短縮され、日曜日は休講となりました。また同年5月、一年前から造船作業を始めていたコットル船が完成し、観光丸に代わる伝習生の訓練船として使用されることになりました。立場上ペルス・ライケン