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兵庫県豊岡市出石町は、維新三傑の一人、桂小五郎(木戸孝允)ゆかりの地である。桂小五郎移住跡(荒物屋跡)元治元年(1864)7月の禁門の変に敗れた長州藩は朝敵となり、藩の尊王攘夷派の指導者であった桂小五郎も追われる身となった。以前から京都の対馬藩邸をよく訪れていた小五郎は、そこに出入りしていた出石出身の商人広戸甚助の助けにより、出石に身を隠すこととなった。出石では追ってから逃れるため、広戸甚助の弟直蔵の協力を得て短期間の内に次々と潜伏先を変えていたそうで、「荒物屋跡」など町内には
福田組『新解釈・幕末伝』で山田孝之が演じた木戸孝允、真の意味で強かった「逃げの小五郎」の素顔とは福田組『新解釈・幕末伝』で山田孝之が演じた木戸孝允、真の意味で強かった「逃げの小五郎」の素顔とは薩摩藩士の西郷隆盛と大久保利通と並んで「維新の三傑」の一人とされる、長州藩士の桂小五郎。明治維新後は「木戸孝允」の名で知られる人物だが、西郷や大久保と比べると、やや存在感が薄い。彼につけられたあだ名…toyokeizai.net
幾松の父・木崎市兵衛は佐々木六角源氏太夫だった(かも知れない)。その佐々木六角源氏太夫については当ブログで過去に何度か取り上げています。佐々木六角源氏太夫は戦国時代に滅んだ近江(滋賀県)の大名佐々木家の末裔を自称し幕末期の京で活動していた人物で、祖先の居城・観音寺城跡地に石碑を建てる名目で献金を募る内容の安政五年(1858)に書かれた書状がかつてオークションサイトに出品されていました。『幾松と新三本木』(二)の中で、通説では木崎市兵衛は嘉永四年(1851)に死亡したとされ
今回の話は幾松について調べている間に偶然みつけたある事柄から思いついた僕の推論、いや妄想といった方が良いかも知れないような話です。ただ、ちょっと面白いんじゃないかと思うので、よろしければお付き合い下さい。幾松の実父は木崎市兵衛といい、若狭国小浜(現在の福井県小浜市)の出身らしいという話は『幾松と新三本木(二)』で紹介しました。若狭の木崎家は名家であったものの平民の家柄だったということも書きましたが、さかのぼれば元々は武士であり、戦国時代に敗れて平民になった家柄なのです。実は若
今年最後の関西ですが、昨日、先輩の奥さんの店で軽く飲んで、先輩夫妻に会ってはいるんですがあんまり相手にしてもらえず、話すタイミングが無かった。夫妻両方に午前中に清水寺からLINE送ったら、ちょっと驚かれてた。京都駅に着いて、まずは京都タワーにご挨拶。京都観光の1ヶ所目は、三重塔からの清水寺です。もちろん御朱印はあります。もう1つ。まだある説がありますが、とりあえず2つで。次は京都霊山護国神社。ここには、坂本龍馬、中岡慎太郎、元.桂小五郎の木戸孝允等の墓もあ
(本人写真を元にAIで加工再現しました)元治元年(1864)に桂小五郎(慶応元年より木戸姓に改める)のあとを追って京を離れた幾松は、そのまま長州で明治維新を迎えました。おそらく明治元年(1868)中に二人は結婚したと思われますが、婚姻に際して身分の違いを解消するため、幾松は長州藩士・岡部富太郎の養女となり、名を岡部松子に改めます。そして明治二年(1869)には明治新政府の中心人物となった夫・木戸孝允と暮らすべく東京に移り住むことになります。木戸は激務の中でも二人連れで箱
今回は「長州の密偵森寛斎」の紹介です。冒頭「森寛斎の今の生活背景。京都が舞台であることを簡潔に書く」森寛斎は絵師。最後の円山派らしい。今まで幕末期に隠密がいたことを想像したことがなかった。言われてみれば存在して当然だと思います。生活レベル生活には困らなかった人です。長州の立役者たちと交流もあった。いつの時代も好きなことをして生活できている人というのは、恵まれた人ばかり。禁門の変以降長州藩に関しては徹底的に取り締まられたので、京に残ることができたのは絵師である森寛斎だけでし
木戸孝允(桂小五郎)の名言「人民は病人なり、政府は医者なり」木戸孝允(桂小五郎)は、幕末から明治にかけて活躍した政治家である。長州藩の志士として討幕運動に尽力し、明治維新後は新政府の中枢を担った。西郷隆盛・大久保利通と並ぶ「維新三傑」の一人として、日本の近代化に大きく貢献した人物である。「人民は病人なり、政府は医者なり」。この言葉には、木戸の政治に対する考え方が端的に表れている。民衆は常に健康とは限らず、時には混乱し、迷い、誤った道を進もうとすることもある。そのとき、
長州藩の大立て者・桂小五郎と恋仲になった幾松ですが、元治元年(1864)六月の池田屋事件、さらに七月の禁門の変により桂は幕府に追われる身となってしまいます。幾松はそんな桂を献身的に支え続け、物乞いに身をやつして二条橋の下に潜んでいた桂に握り飯を持っていったり、御幸町松原下ルの実家に一時匿ったりしたと伝わります。そんな幾松自身も少なくとも一度、新選組屯所に連行され取り調べを受けたようですが、桂のことは何も知らないと頑として口を割らなかったようです。幾松は当時まだ二十歳そこそこ
幕末三剣客の一人,神道無念流、斎藤弥九郎の生涯題名の通り「武は戈を止める義なり」を貫いた人。もとは農民の出だが江戸に出て文武ともに研鑽を積み桂小五郎(木戸孝允)他,明治維新で活躍した人達をたくさん育て江川英龍の家臣となり文字通り右腕となって活躍した明治になってからは弟子の木戸孝允に請われて大阪の造幣局の建設,操業に尽力し無事に成し遂げた半年後、74歳でなくなっている。いやー!!このお話は途中で挫折しちゃいそうになってしまって3週間ばかりかけてやっと読み終えました。植松さんはいつも
旅の3日目の朝は萩の宿で迎えました。日の出時刻から30分ほどしてようやく東の山並みから太陽が顔をだします。寝覚めの珈琲は朝の海を眺めて足湯の席で、山口の幸が並ぶ朝食膳、右上は瓦そば早めにチェックアウトして、萩の歴史的建築を訪ねる城下町歩きに出かけました。午前中は歩いて回れる城下町エリアの内部見学できる歴史的建築を巡りました。◾️菊屋家住宅御成通りに屋敷を構える菊屋家は毛利藩の御用商人として藩を支えてきた豪商でした。屋敷は藩の賓客をもてなす迎賓館のような役割も担いました。江
証券取引所近隣の地図をみる。と、はじの方に、大塩平八郎の乱と書かれたところがある。そういえば、シライさんという父の友人が、時々力説する。大学か、大学院のときの研究テーマだったそうで。民族資料館みたいなのもやっているので、たまに、木戸孝允の〜のなんとかの書、偽物か本物かは、わからない。某テレビの時代考証してたことがあるので、古い書体が読めたりする。逆だ。古い書体が読める、書けるから、時代考証をやるようになったんだとか。で、大塩平八郎の乱になると、口から何か飛ばしながら、力説
2025-10-25横井小楠この前、京都御所の近くで『横井小楠殉節地』って石碑があったね〜坂本龍馬、中岡慎太郎の像円山公園にもあるんだってそういえば、見に行ってないや円山公園の像は戦争の時に金属供出で無くなって、今は2代目の像なんだって〜トコトコ〜あ、古高俊太郎この人の顔の絵を霊山歴史館で見たよ新選組の土方歳三の拷問受けたんだよね〜梅田雲浜この人、井伊直弼の本で出てきたよこんな大きなお墓だったんだね〜1番上まで来ました木戸孝允奥さんの松子元々、尊王の志士たちを祀
目次幾松の生い立ち父市兵衛について養父難波恒次郎とは幾松の生い立ち実は幾松の生い立ちに関しては諸説あります。そのうち通説というべきものは、たとえば『木戸孝允』(無何有郷主人/1897)、『実録維新十傑第4巻』(伊藤痴遊/1934)などを元にするとだいたい以下のようになります。幼名は松もしくは計(かず)といい、天保十四年(1843)生まれで、父は若狭小浜藩の藩士・木咲市兵衛といい奉行所の祐筆を勤めていましたが、奉行所に不正があり百姓一揆が起きてしま
2025年10月20日(月)雨のち曇り☔▼こちらのブログもぜひ読んでください~📚『【明治産業遺産萩へ行く】毛利家の家紋の秘密~山口編③~』2025年10月20日(月)雨のち曇り☔▼こちらのブログの続きです!『【明治産業遺産萩へ行く】萩・明倫学舎~山口編②~』2025年10月20日(月)雨のち…ameblo.jp『【明治産業遺産萩へ行く】萩・明倫学舎~山口編②~』2025年10月20日(月)雨のち曇り☔次に友達が連れてきてくれたのはここ!!!目次📍萩・明倫館萩・
1,大阪会議の舞台明治20年代あたりの稲村ヶ崎井上別邸武子「わ~い、日本橋梅花亭のどら焼きだ。綾ちゃんありがとー。今、お茶いれるね」綾子「そういえば、今日は井上殿は?」武子「あ~ちょっと大阪まで高級食材を生ゴミに変えに行っていて。食べ物を粗末にするんじゃありませんって、いつも思うんだけどねぇ」そんな会話が留守宅で交わされたかは定かでありませんが。さて、舞台は戻って大阪の料亭「花外楼」にて。さて、この花外楼ですが遡ること明治8年、当時の大久保利通内務卿を中心とした
ふらふら歩いていると、おっ!?って思う事・・新しい石碑ができているふむふむこの辺り、木屋町通はやっぱり事件の現場幕末はいろんな人が「天誅」といわれて殺されていますそんな時代に生まれなくてよかったよhttps://article.yahoo.co.jp/detail/71267036bc3787fb72eac48c5d6c0948938ad17f【衝撃】創業560年、京都を代表する老舗そば店が閉店へ!閉店を惜しむ声も「本家尾張屋」京都・二条の地で長く親しまれてきた老舗そば店「
幕末維新解剖図鑑今「幕末」の学び直しをしております登場人物も出来事も多いので「池田屋」とか「寺田屋」とか家系ラーメンか(「や」の字違うけど)この本重宝しております木戸孝允(きどたかよし)は(きどこういん)って習ったので「こういん」の方がしっくりくるなぁ幕末維新解剖図鑑Amazon(アマゾン)Amazon(アマゾン)で詳細を見る楽天市場で詳細を見る${EVENT_LABEL_02_TEXT}
何度行っても飽きが来ない、歴史建造物があります。福島県会津若松市にある武家屋敷です。入場料も安く大人が950円です。見応え充分です。幕末の会津藩の家老、西郷頼母の屋敷です。広いこと。びっくりです。当時は、倒幕に関与して、戊辰戦争が起きました。1868年から、1869年でした。西郷隆盛が中心となり、木戸孝允も参加しました。家老の頼母が生まれたのは、1830年です。しかし、会津藩はことごとく負けてしまい、家族は、皆んな自害してしまいました。広い屋敷で台所からは、まだ魚の匂いがプン
さて、今日からは以前に途中まで紹介していた6月の前半に訪れた京都のつづきになります。同志社大学京田辺キャンパスラーネッド記念図書館NikonZfcNIKKORZDX12-28mmf/3.5-5.6PZVR京都滞在の二日目は、同志社大学京田辺キャンパスを訪れていました。以前にも書きましたが、私はこのキャンパスが開校したその初年度の学生(2年生)として一年間だけ通学していました。近鉄興戸駅を降りたところめっちゃ田舎ですね(笑)私が通っていた頃と
続きです🏯大阪城を訪れた際忘れてましたがこちらでお食事をしたのでしたヒャー敷居が高いホテルニューオータニ大阪こちらの中の店舗で日本懐石料理を頂きました🏯大阪城を眺めながらの素晴らしいロケーションでしたなぜか眺めの写真が無いですお上品な料理美味しく頂きましたちなみにこちらの店舗明治時代錚々たるお名前がお揃いの大阪会議が開催された料亭名付けは木戸孝允って凄すぎません?アングリたまには日常と違う場所に身を置いて体験するのもいいものです
みなさま、こんにちわさくらゆかりです京都めぐり紹介の3回目は、有名観光地を回るのではなく⚔️歴史オタクの大好きな幕末英雄ものをお届けします⚔️幕末維新の人気英雄といえば、この二人の人物が傑出しています土方歳三坂本龍馬新撰組と坂本龍馬の足跡を訪ねた歴史巡りをしてきましたので、そちらを紹介します幕末維新ミュージアムまず最初は、京都を訪れたら、絶対行ってみたいと思っていた、高台寺の裏にある霊山歴史館(幕末維新ミュージアム)
7月21日今日は出張で山口市に来ています。仕事は明日からですが、今日は海の日で、祝日ですが前入りで入ってます。山口駅には初めて降りました。県庁所在地ではありますが、駅前はちょっとさみしいか。ホテルにチェックインして、夕方になって、ランニングに出かけます。今日の山口は日射しも強く、5時半になっても31℃。しかも、横浜よりも30分は日が長い。山口市内何処を走ろうか迷い、萩往還という長州藩が昔作った山口から萩への道があって、そこを目指します。途中から道が怪しくなって、薄暗くなってくる
■投稿振り返り推し活ログ|「木戸孝允」が好きな友人へ誕生日アニメを制作中学生時代から「木戸孝允」推しの友人がいます✨しわくちゃのおばあちゃんになってもずっと一緒にいたい&笑っていたい友人の一人です🌼大好きな友人が推す、大好きな木戸さん・・・私も推す!!!💕友人の好きに触れる時間、大切にしたいです。誕生日プレゼントに、木戸さんアニメーションを製作しました。もっともっと精進していろんな製作物で「木戸孝允」を広めていきたいです!この投稿をInstagramで見る
出石永楽館&旧福富家住宅から続いてるでぇ〜。玄関横にど~ん❗️なかなか古いお宅なにかお商売されてるみたいで、看板あがってるけど読めへん🤔すてれんきょが写真撮ってたら、向かいの出石焼のお店の方が教えてくれはった。お寿司屋さんされてたけど歳で閉められたん。この先の交差点の近くにもあるし、向こうの通りにもあるよ。ここにここにもここにもここにもここにもゴミ置き場に成ってるやんけ😉メインはここ!3ヶ月荒物屋営業してた場所お隣りは出石皿そば屋さん読売テレビの若一調査隊では桂小
萩城(別称:指月城)(Ⅲ)萩市堀の内今回は指月山の詰丸に登った後、城下町を散策します岩山です登城道詰丸の石垣が見えてきました加工石がゴロゴロ詰丸の虎口虎口石垣詰丸の土塀虎口枡形同詰丸要害櫓門跡同同詰丸の二の丸詰丸の本丸棟門跡本丸石垣二の
<7月3日湯田温泉~萩へ>新山口で高速バスに乗り換えて・・・到着地は・・・萩・明倫学舎!夫チョイスの場所。乗り気しなかった私。(笑)が・・・すぐに・・・「ここ、いいねぇ♪」歳のせいもあるでしょうが涙が出るほどの懐かしさ。今回、途中棄権の旅でした。観光はほとんどできていません。そんな中、こちらに立ち寄れたことはめっけ物!萩・・・いいネ!です。懐かしさにすっぽり包まれました。そんな空気をお伝え出来るか?無理だと思いますが
幕末の風を感じて…♡京都の藩邸あとをてくてく旅パート①激動の時代を駆け抜けた志士たちが行き交い、日本の未来を変えたあの頃。そんな歴史の舞台となった京都には、今でもたくさんの藩邸跡が静かに残っています。まるで幕末にタイムスリップしたかのような気分で、藩邸跡をのんびり巡ってみたいと思います歴史の香りを感じながら、あの時代に思いを馳せるおさんぽ旅、はじまりです♪明治維新のキラリ☆幕末の風にふれて…長州藩ゆかりの地を歩く今回のおさんぽ旅のスタートは、幕末のヒーロ
一夜明けて翌日朝早くに目が覚めました朝食ビュッフェの時間にはまだ時間があるので朝の散歩ですこのにゅうっと伸びている「象の鼻パーク」の先っちょまで行きましたこの道をまっすぐ行くと大桟橋左に歩いて行くと「象の鼻パーク」です岩倉具視(いわくらともみ)が率いる100余名の「岩倉使節団」がこの「象の鼻」から出航したそうです(これに書いてありました)真ん中のお船に乗っているのが左から…大久保利通・岩倉具視・木戸孝允です小さな船に乗って沖の大きな船に乗りに行ってたんですね象の
落雷の瞬間を見たことある?▼本日限定!ブログスタンプ落雷の瞬間は見たことありません。【記念日】露天風呂の日、オリエンテーリングの日【今日の誕生日】木戸孝允さん(1833年~1877年5月26日)政治家、明治維新三傑の一人白川澄子さん(1935年~2015年11月25日)声優『サザエさん』中島役太田房江さん(1951年)元大阪府知事、参議院議員具志堅用高さん(1955年)タレント、元ボクシング選手『クイズ!ミラクル9』(テレビ朝日系)、『クイズ!ヘキサゴン2』(フジテレビ系)など