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山本忠良「利根川木下(きおろし)河岸と鮮魚街道」の内容を抜粋させて頂きます。◯江戸時代は千葉県の銚子で取れた魚を生簀に入れて船に乗せ、利根川を遡って関宿(野田市)を゙周り、江戸川をくだって江戸の日本橋の魚市場に運んでいた。◯しかし冬場は川の水が減ったり、関宿周りだと時間もかかるので、利根川の途中で魚を゙荷揚げして江戸川までの陸路をショートカットするコースがいくつかできた。◯代表的なコースが今でいう、「木下街道(印西市木下〜市川市行徳)」「鮮魚街道(我孫子市布佐〜松戸市)」である。◯木下
令和7年8月24日(日)数日前の過去記事です。今回の店は、つい先日に北総線白井駅に近い県道59号市川印西線(木下街道)沿いに見つけた新店です。創業昭和42年、僕と同じくらいの年齢ですね。千葉県市原市では、知らない人がいないくらい有名な竹岡式ラーメンの店らしいラーメン富士屋白井店にお邪魔しました。この場所は、以前は横浜家系ラーメンの店でした。券売機でチャーシューメン大盛1,200円&味玉子120円&玉ねぎ増し100円の食券を購入。すぐに座れましたが、余程タイミングが悪かったの
新京成沿線の散策。午前中は初富という地名の由来を知れた散策記。今回はその午後の様子となります。前回のブログでは地名の由来について少し触れました。その地名も現代では略して表現されることも。東京の「ニコタマ(二子玉川)」。横浜の「新横(新横浜)」。大阪の「天六(天神橋筋六丁目)」など正式な地名よりも略称の方が根付いていることもあります。そして、新京成沿線にも…その名も大仏「鎌ヶ谷大仏」という名称よりも略称で呼ばれることも多い気がします。大仏の駅前。正式には鎌ヶ谷大
2024年10月7日(月)千葉の街道「木下街道・なま街道」(2)千葉の街道として、11の街道を上げた。木下街道なまこ街道成田街道東金街道房総往還久留里街道伊南房総往還大多喜街道銚子道多古街道長狭街道千葉の街道地図は下記クリック。千葉の街道F-Googleマイマップ千葉の街道Fwww.google.com今回は、木下街道・なま街道街道地図は下記クリック千葉木下街道・まな街道-Googleマイマップ千葉木下
2024年10月6日(日)千葉の街道「全体図」(1)11の街道を上げた。木下街道なまこ街道成田街道東金街道房総往還久留里街道伊南房総往還大多喜街道銚子道多古街道長狭街道全体図は下記クリック千葉の街道F-Googleマイマップ千葉の街道Fwww.google.com
木下街道シリーズの最終回です。鎌ケ谷大仏は、銅製の坐像で、高さ1.8m、台座を含めても高さ2.46mです。よく知られている奈良の大仏や鎌倉の大仏の大きさを知っているので「大仏なのに小さい!」と思う人もいるでしょうが、後段で引用した『鎌ケ谷のあゆみ』の記載を読めばわかるとおり、大きな寺院であったり、多くの人々がお金を出し合って造ったものではなく、福田文右衛門という人が個人で費用を出して造ったものであることを知れば、とても立派なものであることは自明の理です。鎌ケ谷大仏については、『鎌ケ谷のあ
令和4(2022)年12月の「木下河岸」の記事からスタートした木下街道沿いの史跡や文化財等を紹介してきましたこのシリーズも、前回の投稿で白井市域分が終了となり、また、今回と次回の鎌ケ谷大仏で一度区切りを付けます。本当は鎌ケ谷新田から船橋市馬込沢、法典、市川市北方、そして終点の行徳河岸までご紹介すべきなのですが、当ブログは白井市域及びその周辺地域を対象としておりますので、ご了承ください(実際にはブログ管理人が鎌ケ谷新田より南側の土地勘や知識が乏しいので紹介できないと言った方が正しいかもしれません
令和6年8月29日(木)の朝日新聞朝刊の千葉版で、印西市木下地区を中心に活動されている木下まち育て塾さんが、魅力あるまちづくりの推進につとめ、特に著しい功績のあった個人又は団体をまちづくり功労者として表彰する令和6年度まちづくりアワード(功労部門)で国土交通大臣賞を受賞されたとの記事を読みました。まずは受賞おめでとうございます。国土交通省による報道発表資料によりますと、授賞理由は「JR木下駅周辺において、土蔵・町家の保存と活用、地域への愛着と誇りを醸成する歴史資料の調査及び掘り起こし、市
以前、『四州真景図』のところで触れましたとおり、江戸時代、冨士地区は「中野牧」という幕府の馬の放牧場として土地利用されていました。その様子がよく描かれているのが秋里籬島による『木曽路名所図会』巻の5「釜ヶ原」です。「名所図会」とは極簡単に言えば現代の「るるぶ」のようなガイドブックです。『木曽路名所図会』は文化2(1805)年の刊行で、全6巻で構成されています。「木曽路」すなわち「中山道」を京都から江戸までのルートを辿ったのち、巻の5では江戸から香取神宮・鹿島神宮・筑波山を経由して日光までの
このテーマでは、「釜原」の写生地について、前々回は白井市説を、前回は鎌ケ谷市説を紹介しました。最終回となる今回は、渡辺崋山の出身地である愛知県田原市の関係者の方による論考を紹介しつつ考えてみましょう。田原市には(公財)崋山会という組織があります。活動目的については、会のHPに「渡辺崋山の優れた武士、文人、画家、経世家、憂国の先覚者としての活躍を顕彰するため、その生涯における活動の記録その他関係資料を調査、研究し、広く一般に公開するとともに、崋山の遺徳を継承して、平和で豊かな社会づくりに貢
前回、渡辺崋山が「釜原」を描いた場所を白井市域とする説を紹介しましたが、鎌ケ谷市域とする説も紹介しないとフェアではありませんので、今回は「釜原」を描いた場所を鎌ケ谷市域とする説に焦点を当てます。鎌ケ谷市教育委員会が市民向けに市域のあゆみを紹介した冊子である『鎌ケ谷のあゆみ』(4訂版)では、「近世」の扉部分に「釜原」の部分拡大図が掲載され、さらに「近世」を解説する本文10項目中の8項目目に「鎌ケ谷宿と助郷-木下街道を行き交った人たち-」と頁を割いています。そこには「釜原」の全体図と共に、「
印西市の木下河岸からスタートした木下街道沿いの歴史を巡る投稿も、白井市域は終盤に近づいてきました。白井木戸地区を過ぎると、白井市域にはあと冨士地区しかありません。冨士地区を過ぎると鎌ケ谷市に入ります。冨士地区の名前の由来等は別途紹介しますが、冨士地区は江戸時代は「中野牧」という幕府の馬の放牧場として土地利用されており、人々が居住し始めるのは第二次大戦後に開拓されてからですので、それ以前は草原であったり、山林であったりしました。開拓以前の冨士地区はどのような風景だったのでしょうか。文
白井市の特産品と言えば夏場の「梨」と冬場の「自然薯」です。このうち「梨」は、白井市では白井木戸地区で最初に栽培が開始されたと伝えられています。白井市の梨づくりの歴史について、白井市のHPには「白井市での梨づくりは、明治38年に鎌ケ谷から移住した浅海久太郎氏が梨の木20本余を植えたことに始まり、100年を超える歴史があります。現在、梨の収穫量全国1位の千葉県において、白井市は収穫量トップクラスを誇っています。主な品種は、幸水、豊水、あきづき、新高です。幸水が8月から出荷が始まり、お盆時期に
白井市郷土史の会令和6年5月例会を5月11日(土)午前、西白井複合センターを会場に開催しました。タイトルは「木下街道にある戦没者『個人慰霊碑』」で、講師は当会の小林將会員が務めました。事の発端は、小林会員が令和4年9月に船橋市内の木下街道を車で通行して梨を購入しようとした際、道路が渋滞し、渋滞で止まった際に偶然個人宅の中に巨大な石碑の存在に気付いたことに始まります。そして、この偶然の発見がその後の個人慰霊碑研究、そして今回の発表に繋がったとのことです。この時偶然気づいた石碑は、大正
白井木戸地区(住所は「根」)には日本中央競馬会唯一の競馬学校があります。木下街道に面した白井木戸天神社隣に入口の看板と門があり、そこから進入路を400m程進んだ奥に入口があります。今回は競馬学校の沿革を紹介します。昭和29(1954)年、日本中央競馬会が発足し、それに伴い中山競馬場が日本中央競馬会の施設となります。昭和34(1959)年、日本中央競馬会が白井村(当時)に土地を購入します。これが競馬学校の最初のルーツです。昭和36(1961)年には厩舎が10棟建つと共に1,200mの走
前回、白井木戸地区の産土である天神社は、もともと地区内の某家の氏神だったものが村の神社になったこと、創建が享保15(1730)年で現在の本殿は昭和51(1976)年の再建されたものであること、そして境内にある白井木戸地区の歴史を刻んだ「白井新田村造四百年記念」碑の概要について紹介しました。祭神については触れませんでしたが、全国の天神社と同様に菅原道真公です。前回の記事が「白井新田村造四百年記念」碑の概要紹介がメインでしたので、今回は木下街道方面から見た拝殿全景と拝殿に掲げられた扁額の写真を
白井市郷土史の会では初となる「座談会」を4月13日(土)午前、西白井複合センターを会場に開催しました。タイトルは座談会「木下街道の魅力ー会員5人が語り皆で考える興味のポイントー」です。トップバッターとして、小林正継副会長が現代の木下街道について、県道59号線で市川印西線という名称であり木下街道は愛称であること、江戸時代には「街道」ではなく「脇往還」であったこと、江戸からは三社詣、江戸には鮮魚の輸送等が行われたこと等、概要の説明がありました。2番手として小林將副会長から「木下街道にあ
白井市郷土史の会令和6年5月例会を開催します。当会会員の小林將氏を講師に迎え、「木下街道にある戦没者『個人慰霊碑』」と題した例会を開催します。小林会員は、昨年度の例会で「歴史の見方(定説・通説と私説)2」と題した発表をされ、その中で大正7(1918)年、山口県周南市沖の徳山湾で戦艦河内が爆沈し、乗組員1,020人のうち621人が亡くなった「戦艦・河内爆沈事件」について触れられました。この事件を調査することになったきっかけは、偶然通りかかった船橋市の個人宅敷地内に、遠く離れた山口県で爆沈
白井木戸地区は名前に「新田」がつくことからもわかるように江戸時代に成立した新田村(村立新田)で、『白井町史』史料集Ⅰの解説によると成立は延宝4~7(1676~1679)年頃と推定されています。成立時は今の冨士地区から国道16号の白井交差点付近くらいまでの範囲を呼びましたが、現在は木下街道でいうとベルク(スーパー)がある付近から八木ヶ谷交差点付近までの範囲を指すと思います。地区の中央、木下街道に面した場所には鎮守である天神社がありますが、もともとは地区内にある某家の氏神だったそうです。神社
庚申塔については、当ブログでも何回か紹介しています。教育委員会が実施した石造物調査によると、白井市域で最も数が多い種類の石塔です。石造物調査報告書には272基が掲載されており、この報告書に掲載された石塔の総数は1,557基ですから、実に石塔全体の17.5%を占め、市域各所で庚申塔を目にすることができます。なお、庚申塔は単独で建っているものは少なく、多くは「庚申塚」等と呼ばれるように古いものから新しいものまでが同じ場所に建てられる事例の多いことが特徴です。庚申塔は、人間の体内に住む三尸
当会では、今回初めての試みとなる特別企画を以下のとおり開催します。当日は会場にて機関誌『たいわ』最新号及びバックナンバーの頒布を行いますので、ぜひご参加ください。タイトル座談会「木下街道の魅力-会員5人が語り皆で考える興味のポイント-」日時4月13日(土)9:30~11:00場所西白井複合センター2階研修室参加費400円(資料代等、白井市郷土史の会会員は無料)申込み不要(当日先着順)問合せhitoha0419★yahoo.co.jp(★を@に変換)まで趣旨江
前々回紹介した白井地区の天満宮から木下街道を南に少し進んだ場所に共同墓地があります。この共同墓地の最も木下街道に近い場所に、木下街道に正面を向けて建つ石碑が今回紹介する「川上捨次郎之碑」です。この石碑は、正面に「径鶴造川上捨次郎之碑」、裏面に「捨明治三十三年十月六日明治三十七年四月建之」と刻まれています。以前、知り合いの方からこの石碑についての問い合わせがありましたが、当時は「川上捨次郎」さんという方のお名前も、石碑の建立目的も謎のままでお答えできませんでした。今般、当会の小林將
以前、木下街道沿いに建つ「徳本名号塔」又は「徳本念佛供養塔」と称される和歌山県出身で江戸時代後期に活躍した徳本上人と関連する石塔について紹介しました。この石塔のある場所と木下街道を挟んだ反対側に白井第一小学校がありますが、その敷地内に「上人塚」という塚があります。「上人」の文字が示すとおり、徳本上人に関連する塚とされています。塚の裾には白井市教育委員会が建てた説明看板があり、それによると平面は29m×25mの長方形、高さは最大で3.55mとなり、白井市内では最大級の規模(推定規模34m四方
令和5年12月例会の際、講師の大関枝美子さんから「千葉ニュータウン開発前、江戸時代に印西牧だった場所の一角にある『泉新田大木戸野馬堀遺跡』が、先だって除草をして見ごろになっているのでぜひ見学に訪れてみてください。」とご紹介いただいたので早速行ってきました。この場所はコストコへ行ったりする際に近くを通るのですが、確かに夏場は雑草が生い茂っていて全容を窺い知ることは容易ではありません。冬場は野馬土手や中世城郭、古墳の探訪に適した季節ですね。「泉新田大木戸野馬堀遺跡」は平成17年8月16日付けで印西
木下街道は、白井市根で国道16号と交差します。ここの交差点には歩道橋がかかり、ブログ管理人の記憶では、かつては交差点名が「白井市根」でしたが、現在は「白井市白井」となっています。なお、ブログ管理人の自宅は国道16号から50m位しか離れていませんので、国道16号を行き交う様々な車を見ることは日常生活の一つになっています。国道16号は環状に巡る国道で、神奈川県横浜市西区が起点と終点になっています。神奈川県から東京都、東京都から埼玉県、埼玉県から千葉県へと1都3県を横断し、総距離は334.3
このブログでは木下街道沿いの史跡や石造物等を紹介しています。木下河岸からスタートして鎌ケ谷方面に向かって順番に紹介し、白井地区にある白井第一小学校の木造校舎のところまできましたが、神々廻地区の庚申塔が抜けていましたので、今回紹介します。おそらく、また進んだ後に戻ることもあるとは思いますのであしからず。十余一地区から神々廻地区にかけて台地の上を直線的に通っていた木下街道は、一度坂を下って神崎川を渡り、白井地区に入って白井宿を通過しながら坂道を登って再び台地の上を進むことになりますが、今回紹介す
9月23日通過チェック3岩瀬駅から線路を渡ってりんりんロードに入ります。前回と比べてまだ明るい時間帯でしたので一旦停止での左右確認が用意で走りやすかった。(荒川CRとかと比べて走りやすいのですが交差部分が多いのが難点)250.7km地点PC1LAWSON土浦城北町店17時51分(前回比-44分)前に沢山集団がいて混んでいました。ここはまだ夕食タイムじゃないので軽く補給してリスタート。前回と違ってルートが変更となっていたので2度程ミスコースしてタイムロスし
久しぶりのオートバイ。7月2日にビーナスラインにツーリング行って以来、久しぶりの出動です。運転の仕方を忘れているかと思うほど乗っていませんでした。まずは、行きつけのガススタンドへ給油しに行きます。ハイオク満タンにして、タイヤの空気圧も規定値にします。セルフスタンドなのに空気はスタンドのスタッフの方が入れてくれました。排気量が1200ccもあることに型番から気が付いて驚いていました。最近ガソリン価格が高くなってますね。このスタンドはレギュラーが174円、ハイオクが185円です。
1年以上ぶりで馬込沢のCHIKACHICAFEに行きました。11:30のオープン時間ぴったりに着いたら、カウンターしかない席がすぐにいっぱいに。冷たいカボチャのスープの後にこんなゴージャスなワンプレートで出てきました。揚げ物はホタテのクリームコロッケです。美味し。CHIKACHICAFEのすぐ近く、木下街道沿いにある梨屋さんの二十世紀ゴールドという品種の梨もおまけで出てきました。よければそこで梨買って行ってと言われたのですが、朝市で「かおり」という品種の梨を買っ
先月24日(土)のことになりますが、白井市教育委員会主催の「文化財講演会」に参加しました。演題は「小金牧の野馬と牧士」でしたが、その中で、江戸時代の白井市域に関しての記述がありながら、管見の範囲ではこれまでの木下街道や白井宿についての調査研究では知られていなかった『陸奥日記』という紀行文が紹介されましたので、このブログでも紹介することとします。著者は小津久足という江戸時代後期の豪商で、映画監督の小津安二郎の先祖筋に当たる方だそうです。『陸奥日記』は、久足が天保11(1840)年2月~3月か