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家康と光秀の連絡係り。木俣守勝(27歳。主君徳川家康から離れ、明智光秀の下臣となる。その後再度、家康の下臣となる)。家康と光秀が、通じていてもおかしくない。家康の安土城での接待者。木下孫兵衛家定(羽柴秀吉の正室おねの兄。39歳。安土城内秀吉邸在住?)。本能寺の変と家康の動きのことは、家定が羽柴秀吉に伝えたかもしれない。家定は、家康の動きをスパイしていた?家定のことは、不明なことが多い。秀吉が功績を残したくなかったのか、大坂夏の陣後、豊臣一族ということで、徳川幕府から隠れて暮ら
-有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史30/34-2020/07/26主に家臣時代の木下藤吉郎(秀吉)に視点を当てながらの、織田政権の教義性・組織性について述べていく。庶民と大差ない半農半士の出だったと思われる藤吉郎(秀吉)が、信長に認知され、手柄を立てる優先権が与えられて抜擢されるようになったまでの、それまでの経緯の不明点が、まずは興味深い。木下藤吉郎(秀吉)は、まずは武士団の一つ浅野氏との格上げのための婚姻による士分待遇を受けた上で、信
足守藩。備中にあった実家木下家が治めた地である。関ケ原の戦功で父・家定が拝領した地。父上が亡くなった後、一兄・勝俊と二兄・利房が遺領をめぐって揉め、一時取られたが、大坂の陣の戦功で二兄が返してもらい以来二兄・利房の家系(養子が入ります)が代々治めてきた。岡山県の真ん中辺にある川が流れ蛍も観られる静かな地だ。岡山に帰ったので行ってみようと思った。確か天満屋から鉄駕籠が出ていた・・・2018年夏に廃線!?Σ( ̄□ ̄;)ど、どうやって行くのだ?取り敢えず足守駅まで行ってみた。駅前に駕
前回に続き「豊臣秀吉」の妻「北政所」の親族ですが、異母兄であった「木下家定」は、「秀吉」が「木下藤吉郎」時代に家人となって「杉原姓」から「木下姓」に名乗り替えて、その後は「秀吉」一門衆の筆頭格になり、姫路城の城代などを務めました。「家定」は、関ケ原の戦いでは、中立を貫き、その結果戦後は、備中国「足守(あしもり)」に移封となりましたが、京都で出家しました。その遺領を巡っては、「木下勝俊」と「木下利房」兄弟で争われて、「家康」から所領没収の沙汰が下されましたが、「大坂の陣」後には、戦功に
先日、仕事の帰りに429号線から外れ、足守の街を通って帰りました。岡山県足守は豊臣秀吉の妻ねねのお兄さんの木下家定が納めていた街です。まだまだ歴史的な建物が残っています!近水園や足守歴史庭園などです・・・今ですとおいしいメロンもいただけますよ!