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ラーメン屋を後に北西へ数十キロ…こんなところに伊達政宗の陣跡!?と思ったら…そうか、ここは朝鮮出兵に際して築かれた出兵拠点の城…名護屋城の跡地だったイカで有名な呼子と加部島にもちょっと寄り道してたどり着いたのは…唐津市鎮西町波戸岬東松浦半島に突き出た小さな岬…隣には玄界原発がある…岬の先端には千葉の勝浦にもあるような玄界海中展望塔が建っている…けっこうな向かい風にシンペンを投げてスキッピングで遊んだ…しかし、夕まずめに一回だけスズキ系のワンバイトがあったのみで
「街中散歩政宗と仙台味噌そして梅と藤」広瀬川の仲ノ瀬橋近くの道路脇に、「仙台みそ発祥の地」と記された石碑があります。伊達政宗が、慶長6年(1601年)御塩噌蔵(おえんそぐら)を設け、真壁屋古木市兵衛を招き藩の味噌御用を務めさせたことが、仙台味噌の起こりといわれています。戦国時代より、味噌は兵糧としても非常に重要視されていた食品でしたが、味噌の携帯には苦労したようで、干すか焼くかして味噌玉にしたものを、他の食料と一緒に竹の皮や手拭で包み、腰に下げるのが一般的でした。また干采や干大根などを味噌
耳塚です。豊臣秀吉による朝鮮出兵の時、耳や鼻を切り取って報奨のための証しとしたそうです。
二十世紀の日本で最大の歴史作家は三人いると、私は思っている。吉川英治海音寺潮五郎司馬遼太郎この三人が三人とも、秀吉を書いている。吉川英治が書いたのは『新書太閤記』。1965(昭和40)年に放映されたNHKの大河ドラマ『太閤記』の原作でもある。秀吉誕生から小牧・長久手の戦いが済んだ1585(天正13)年あたりまでを描いている。海音寺潮五郎が書いたのは『新太閤記』。秀吉の幼名を「日吉丸」ではなく「与助」とし、16歳の時に家を出て、母からもらった永楽銭で縫い針を仕入れ商い、浜松の松下
朝鮮出兵(文禄の役)最大の戦い、碧蹄館の戦い前に日本軍諸将は、撤退か籠城か議論していた。その時立花宗茂はただ一人、明軍との決戦を主張した。理由は、籠城は後詰ありきであり今の兵站不安な状態ではたちまち兵糧が尽きる、また撤退すれば日本軍の恥だからだ、と述べた。結果、立花勢は先鋒を努め獅子奮迅の働きで明軍を撃退した。立花勢3000に対し明軍数万。また明軍は女真族と渡り合った精鋭部隊にも関わらず、総大将李如松は何度か落馬し討ち取られそうになる。そして、明軍(李如松)は日本軍を武力で追い払う
私:日本史上の最高のヒーローと云えば、秀吉を挙げる人が多いのではないか。近年は、信長・秀吉・家康を「三英傑」とかいって、三大ヒーローとして扱うことが多いが、私が子供の頃は、秀吉がダントツ圧倒的人気であった。日本の高度経済成長の時代の空気に適っていたのかもしれない。そんな大人気の秀吉ではあるが、それでも多くの人が「あれはマズかった」と挙げるのが朝鮮出兵(文禄・慶長の役)。秀吉は、何故、あんなことをしてしまったのだろう。大陸に攻め込んで、勝てたとしても、きりがないではないか。
中島京子新潮社2025年10月発行中島京子さんの新刊です。前回はこちら『3_坂の中のまち』中島京子文藝春秋2024年11月発行中島京子さんの新刊です。前回はこちら。エッセイですね。『小日向でお茶を』中島京子主婦の友社2023年4月発行中島京子さ…ameblo.jp図書館HPの紹介文によりますと・・スランプに陥った小説家は、気分転換に唐津を旅することに。陶芸体験をした窯元の夫婦から、天下一の茶人が愛でた茶碗と、戦を逃れ天竺から九州に辿り着いた「水神」の奇想天外な物語を
豊臣政権サミット2026を見ました。「豊臣政権はなぜ崩壊したか?」がテーマでした。ここからは番組での専門家の意見を踏まえた持論になります。豊臣政権崩壊の原因は朝鮮出兵だと思います。1590年に全国平定した豊臣秀吉。1591年に千利休を切腹に追い込んでいます。1592年~1593年文禄の役1595年関白豊臣秀次切腹1597年~1598年慶長の役豊臣秀次は無能ではありません。英才教育を受けたむしろ有能側の人です。有能な人が戦争前に切腹している点が怪しい。止めよ
なぜ秀吉は“勝てる戦い”を放棄した?敗北した「朝鮮出兵」で封印したプロパガンダと間接侵略という2つの戦略(東洋経済オンライン)-Yahoo!ニュース戦国時代の戦いは「プロパガンダ」と「間接侵略」が基本中の基本。とりわけ豊臣秀吉は、その戦略においてはチャンピオンともいえる存在である。なのに、朝鮮出兵で秀吉は、その「勝ち戦略」を封印してしまっているnews.yahoo.co.jp豊臣秀吉は一気に明国まで落としたかった。朝鮮を北に一気に進軍して行った。明は自国に入れさせないよう、鴨緑
【Spiritualmindメイの宇宙啓示】👇-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。www.youtube.com2025/12/09陽明門陽明門は、中央真上に北極星(北辰)が輝く位置に立つため、「北辰(ほくしん)門」の異名も持つ。三猿東照宮創建以降は「東照三所権現」の本地仏である「薬師如来・阿弥陀如来・釋迦如来」の三体が「懸仏」として
図書館予約してから、かなり待って待望の二冊。まずは水は動かず芹の中中島京子著この人の作品は「小さいおうち」を映画で観たくらいで、ほぼ初読み。ストーリーは作家である主人公が唐津の田舎の陶芸家の夫婦と知り合い、何度か通ってその地に伝わる「水神」にまつわる話を聞くという筋立て。「水神」いわゆる河童伝説である。一つの茶碗に込められた時代は安土桃山時代の末期、秀吉の朝鮮出兵の話である。実在の小西行長や島津義久、千利休や徳川家康などが出てくる。そして色々なキャラクターの水神た
梶谷城(別称:勝谷城)松浦市今福町東免長崎県に入ります創設年代・・・・延久元年(1069)創設者・・・・・源久形態・・・・・・山城遺構・・・・・・本丸・天守台・櫓台跡・石垣・門跡・井戸ほかポイント城は伊万里湾を見下ろす今福城山に築かれ、山頂部からの眺望は雄大である。北方は伊万里湾を隔てて、福島からさらに壱岐・対馬を望み、西方は志佐・田平からさらに平戸島を経てはるか五島列島まで視界に入る。この眺望と位置に秀吉は目を付け、朝鮮出兵に備え、対馬・壱
名護屋城(一部大名陣屋含む)(Ⅲ)唐津市鎮西町名護屋今回は二の丸からスタートします二の丸・長屋跡同二の丸石垣の合坂二の丸石垣・合坂二の丸石垣と船手口同の舟手口二の丸、左が遊撃丸石垣本丸石垣、前方に天守台遊撃丸虎口遊撃丸遊撃丸から本丸天守台跡同水手曲輪への遊撃丸虎口遊撃丸石垣
名護屋城(一部大名陣屋含む)(Ⅰ)唐津市鎮西町名護屋創設年代・・・・文禄元年(1592)創設者・・・・・豊臣秀吉形態・・・・・・平山城遺構・・・・・・本丸・二の丸・三の丸・水手郭・石垣・城門・井戸・土塁他急拵えながら秀吉の力を見せつけた大城郭!まずは本丸入口までポイント遠く朝鮮半島を北西に望む東松浦半島北端に位置し、玄界灘に突き出した、波戸岬の丘陵上を中心として築かれた。東西両側に名護屋湾と串浦の二つの入り江を控え、千余艘の船が安全に出入り
以前にも行った西生浦倭城(서생포왜성)朝鮮出兵した秀吉軍が半島の南の方に縄張りを作った城跡です。以前に行った時は工事中だったんですが、入り口の道路と駐車場がきれいになってました。案内所の辺り全図倭城の特徴は、山と海の両方を抱えているそうです。登り坂が凄いです。崖崩れ防止の為ちょっと工事してありました。山の上から蔚山市内が見える加藤清正が作ったとされる城ちょっと日本の城を思わせる城壁馬出し曲輪🐴
発音は同じでもこちらのナゴヤジョウは佐賀県唐津市にあります豊臣秀吉が朝鮮出兵の足掛かりにするため、九州大名に命じて半年で完成させたといいます(1592年)登り口は乱積みの石垣中腹から庭園を振り返りさらに登って春は桜が美しそう乱積みの美上に行くと、積み方に変化が礎石も(茶室か能舞台か)そして頂上、本丸唐
三十三間堂、方広寺の次は、耳塚に。社会科を生業としている三人に欠かせない場所を訪問。豊臣秀吉が行った朝鮮出兵の際に、敵兵の鼻や耳を削ぎ塩漬けにして秀吉のもとに送られたものを供養したもの。江戸時代になり朝鮮通信士の人々が江戸に向かう途中、耳塚に寄ったという記録も残っています。朝鮮出兵の話のときには必ず耳塚のことに触れました。耳塚について耳塚(みみづか)もしくは鼻塚(はなづか)とは戦死者の耳や鼻を弔ったとされる塚です。文禄・慶長の役における朝鮮および明兵の戦死者の鼻を弔ったものが有名。これ以
9/21にNHK総合で放送されていた「サムライの城―第2集家康―」は先週と比べると地味だったが、知らないことが多くて面白かった。今回の写真はいずれも同番組から拝借した。<多くの西国大名が名古屋城の公儀普請に関わっていた>(1)天下泰平のために名古屋城を普請中井正清の名前は初めて聞いた。今の言葉に直すと設計士、兼プロジェクト・マネージャーだな。それにしても、延々と戦を繰り返すのではなく、協力して築城することに方向転換させたのは戦略だな。さすが家康。公儀普請と言えば諸大名にと
立花宗茂の凄いところは、生涯戦で負け無しのところである。初陣にて敵将の首を討ち取ったとされ、朝鮮出兵では立花宗茂の活躍無くして語れないし、関ヶ原の戦いでは西軍に付き、石田三成の本隊は敗走した同日に大津城を落としている。晩年は島原の乱も参戦し活躍している。
スティーラーあらすじは...法の裁きから逃れた権力者たちが隠し持つ数々の文化財それらを取り戻すため、文化財庁の事務官ファン・デミョン(チュウォン)とソウル地方警察庁の文化財専門担当チーム、そして謎の怪盗「スカンク」が手を組み、非公式かつ非合法な回収チーム「チーム・カルマ」を結成する。そして、ある兄弟が持っていた“穴の空いた朝鮮通宝”が、莫大な文化財の隠し場所を示す鍵であることが明らかになる。全12話なのでサクサク視聴できました。が特に印象はなく、面白くないことは
立花宗茂は朝鮮出兵で文禄の役のみならず慶長の役でも大活躍。慶長の役は防戦や撤退戦が主だったが、きっちり加藤清正や小西行長を救出している活躍振りが本当に凄い。加藤清正が詰める蔚山城に明、朝鮮軍に囲まれた時、朝鮮に渡っていた現場の武将たちで軍議が行われた。結論が出ず、見捨てる案も出る中、立花宗茂は「くだらん」と一喝。「誰も行かずとも私が行く」と迷わず言い、加藤清正の救出に向かう。この潔い良い決断力には目を見張る。当然各武将たちも、安全安心な状況でなく、各々課題があった。だから、加藤清正を助ける
立花宗茂無くして朝鮮出兵は語れない。逆に立花宗茂から朝鮮出兵のエピソードを省けないほど、立花宗茂は朝鮮出兵時に様々な人間ドラマを描いている。朝鮮出兵時のエピソードとして、まず1回目の文禄の役最大の合戦である碧蹄館の戦いがある。碧蹄館の戦い前は日本軍は順調に朝鮮半島を制圧していたが、明の援軍が来てからは押される形になり、漢城に籠ることになる。そこで籠城か撤退か軍議が開かれたが、立花宗茂は「今こそ明と決戦すべし」と意見。理由として、籠城は後詰ありきであり、後詰や兵站が不安定であるので、籠城した
佐賀県・名護屋城址2008年4月13日、唐津城を見学したその足で立ち寄ったのが名護屋城でした。ここは豊臣秀吉が朝鮮出兵の時に、日本の前進基地として築城したものです。建物は無くなっていて、名護屋城址公園には石垣と天守台だけが残っています。▲広大な敷地敷地には石垣と天守に続く階段が残るだけで、建物はありませんでした。この写真の中央に天守に続く階段が見えます。▲天守へ続く道▲呼子大橋高台まで来ると呼子大橋が見えました。満開のつつじが平蔵を迎えてくれました。▲名護屋城址本丸の碑
只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。はじめに↓『全国「城門」を巡る”はじめに”』「城郭建造物」の「御殿(居館)」シリーズを終えました。「御殿」には殿さまやその家族が居住したり政務を執る為の所謂「御殿」や、城主・家族の憩いの場や来客対応の…ameblo.jp「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ
司馬遼太郎が直木賞を受けた忍者の小説である。インバウンドのガイドをしていると、外国人がとても忍者に関心があることがわかる。だから読んでみた。6月24日に旅立つ前に読み終わっていたのだが、帰国後にメモる。〈史実以外の登場人物〉下柘植次郎左衛門:伊賀の忍者の長老。[私のまぶたには田中泯のイメージ]葛籠(つづら)重蔵:主人公。伊賀忍者。配下に黒阿弥がいる。風間五平:下柘植次郎左衛門の弟子であったが出奔し、京都奉行に雇われているが、次郎左衛門の娘、木さるの許嫁者であった。
唐津駅徒歩3分2024年5月4日オープン横田悠一シェフ(埼玉東松山出身)マダムが唐津市呼子町出身EntreVigneetGarrigue(Pujaut)→現壺中天河村英幸氏(2024.7.28)から1ヶ月引き継ぎを受けるLeCerf(Marlenheim)GuySavoy→山形credo・NY島野雄氏やPages(手島竜司氏)東京芝Apis(閉店)2021年11月広島尾道2代目AzumiSetoda(2023.3.15)滋賀長浜Sower(2023.10.23
先日、司馬遼太郎が小説家になる前に美術記者をやっていたときのことを書いた本を読んで、この本に興味をもった。表題の短編のほか、2篇を含んでいる。故郷忘じがたく候:京都で見た陶器のかけらを、李朝の白磁か薩摩焼か、というところから始まる。その時、古朝鮮人がいまも生きているという苗代川(ノシロコ)の窯について知った著者は、20年後にその地を訪ねることになった。それは70軒ほどの美山という部落であった。そこに第十四代沈寿官を訪ねる。臥竜梅について。話題は朝鮮のことになった。窯場ではまだ古い
【問題】豊臣秀吉が朝鮮出兵した際の、朝鮮の国王は次のうち誰か?【選択肢】粛宗光海君仁宗宣祖【正解】宣祖【解説】秀吉の朝鮮出兵時の李氏朝鮮国王は、第14代・宣祖であった。宣祖は首都・漢城陥落前に逃亡し一時は明との国境まで逃れたが、日本軍撤退後に首都への復帰を果たした。