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ホテルに到着したのは、17時でした。まずロビーに入って驚きました。予想よりも、かなり立派でしたからね。にほんブログ村ブログ村のランキングに参加しています。上のバナーをクリックすると、現在のランキングを見られたりします。一日一回バナーをクリックして頂けると、ブログを続ける気力が生まれます。(^-^)部屋はこんな感じです。基本的な設備はビジホと大きく変わりませんが、広さは1.5倍ぐらいありましたね。そして何より素晴らしいのは、部屋の窓から見える風景です。明石海峡大橋越しに沈
1/24は門前仲町から月島へ。なんとなく、なんとなく前から気にはなってたがわざわざ訪れる事が無かった佃島にやって来ました。不思議な街並み。一戸建ての向こうにはタワーマンション。そう、佃島と言えば佃煮の発祥の地。佃島の漁民が小魚とかを甘辛く煮て売った事から佃煮と言われるとか言われないとか、由来は諸説。この佃煮天安さんも有名な佃煮屋さんらしい。外から店内を見ると割烹着姿のおねーさまが3人いらっしゃる。ちょっと入りにくいのでパス。こちらも佃煮屋さん。佃源田中屋さん。
有栖川宮威仁親王殿下有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひとしんのう)幼称:稠宮(さわのみや)1862年2月11日〈文久2年1月13日〉生まれ、1913年7月10日、満51歳没。皇族、軍事参議官、海軍軍人(元帥海軍大将)。有栖川宮幟仁親王(霊元天皇玄孫)の第四王子。生母:家女房の森則子妃:加賀金沢藩主前田慶寧の娘・慰子(やすこ)最後の有栖川宮であり、また最初に海軍に就職した皇族(皇族軍人)である。1913年3月3日午前1時、少量の喀血と心悸亢進があった
宮家は禁裏御料3万石に含まれるだろうが、前の記事であげた地図では石高が示されている。世襲宮家の伏見宮・有栖川宮・閑院宮、生け花の梶井宮が1,000石である。桂御所に3,000石とあるが、1810年に京極宮から改称した桂宮は1863年に仁孝天皇の皇女淑子内親王が継いだ。14代将軍家茂に降嫁し親子内親王(和宮、1846-77)はその異母妹だが、いかにも深窓の令嬢だった淑子内親王に比べて、和宮は闊達な姫君だったという。よく知られているように、和宮は有栖川宮熾仁親王(1835-95)と婚約していた
20年以上前の「詐欺事件」とされている。有栖川宮(ありすがわのみや)を名乗る人物が、結婚披露宴にセレブたちを招待した。招待された人たちから祝儀等を騙し取ったとして起訴されて実刑判決が下りた。私はこの判決の妥当性を疑問視している。有栖川宮家は断絶していて存在しない。招待された無教養な人たちは宮家の披露宴に招待されたことを光栄に思って自発的に祝儀を出した。祝儀を出すことを強要された事実は無い。仮名で結婚披露宴を行うことに違法性があるとは思えない。婚姻の事実が無かったのに結婚披露宴を開催したこと
2025.7.26京都からの帰り道、滋賀県琵琶湖に寄る。『滋賀県琵琶湖と琵琶湖周辺の地域名と海洋民族』祇園祭後祭が終わり京都からの帰り道に滋賀県に2泊する。『2025年祇園祭⑦東寺御影堂で預かった写経を納める』2025年7月25日晴明神社⛩️と護王神社⛩️に…ameblo.jp琵琶湖の竹生島だけは行きたくてプランしていたが、他には何も考えずに、行ってから決めようのノープラン😅ゆっくり朝ごはんをいただいてから、気の向くままに。Googleマップで琵琶湖周辺をみていると
七月二十五日、金曜日です。今日は二つ。・平盛国。・幸仁親王。【平盛国。】文治二年(一一八六)の今日、平盛国が死去しましたと言われます。詳しい生没年は不明です。父は平季衝と言われます。保元の乱、平治の乱で参戦。平清盛の側近として活躍します。養和元年(一一八一)、清盛が亡くなったのも盛国邸でのことでした。平氏滅亡後の文治元年(一一八五)、捕えられて鎌倉に送られました。岡崎義実のもとに預けられ、断食。翌年七月二十五日に死去しました。【幸仁親王。】元禄十年(一六九七)の今日、幸仁親
下記の商品は本日入荷したホンの一部です。大阪駅前第3ビル地下2階・永井古書店店頭でも購入できますがインターネット通販サイト「日本の古本屋」でのご注文が確実です。http://www.kosho.or.jp/「日本の古本屋」で当店の商品がヒットしない場合は売約済みか売り切れです。『幟仁親王日記』(続日本史籍協会叢書/全4巻揃)日本史籍協会編、藤井貞文解題昭和51年、東京大學出版會刊売価15,000円『熾仁親王日記』(続日本史籍協会叢書/全6巻揃)日本史籍協
シーサイドホテル舞子ビラ神戸へ行ってきました。舞子ビラ神戸の歴史は長く1888年(明治21年)有栖川宮がこちらの素晴らしい景色に感動し、気に入られてこの場所に別邸を建築されたことに始まります。舞子の明石海峡大橋を望むこちらのホテル神戸の中心地からは離れているけれど、景色が良くて好きなホテルです。一階にはテラスレストラン「サントロペ」ビュッフェレストランです。窓の向こうには明石海峡大橋🌉長い間来ていないのでまたいつかランチに伺いたいですエレベーターで最上階へ展望室があります
猪苗代湖長浜の近くの高台にある天鏡閣は、1907年(明治40年)有栖川宮威仁親王殿下が東北を御旅行中、猪苗代湖畔を巡遊した際に風光の美しさを賞し、当時の県知事の勧めもあり、猪苗代湖を望む高台に別邸を建設することになりました。1908年(明治41年)4月に起工し同年8月に竣工しました。凄い厚みの布団がずり落ちているような光景、雪がつくった造形です。ルネッサンス様式の洋館は、その内部も外観も映画やドラマのロケ地としても度々取り上げられています。数年前の冬に私が遭遇したのは、「S
ようやく冬らしい冷たい日々が続きます。何かと慌ただしく、ブログの更新が緩慢で申し訳ございません。インフルエンザが流行っていますが、幸い風邪をひくこともなく元気です。さて、12月20日、21日と上京しました。今回は国立公文書館だけでなく都立中央博物館図書館へ初めて行ってみました。※タイトル含め、間違えましたので訂正します(赤文字)日比谷線の広尾を下車し、有栖川宮記念公園を抜けながら図書館に向かいます。カモに餌をあげている母子、犬の散歩やジョギングをする夫婦など、とても都会の真ん中と思えないよう
ご訪問ありがとうございますYoutubeの皇室詐欺の方バレたんですね《第2の有栖川宮事件か》華頂宮の末裔を名乗る「殿下系YouTuber」華頂博一氏に疑義!《正統な末裔、10年来の知人らが取材に答えた》(文春オンライン)-Yahoo!ニュース2021年からYouTubeで活動を開始し、約11万人の登録者数を誇る「華頂宮チャンネル」。出演するのは、「旧皇族・華頂宮」の末裔を名乗る華頂博一(かちょうひろかず)氏。皇族の秘話を語りつくすスタnews.yahoo.co.j
土曜の午後、車通りの激しい甲州街道谷保天満宮が谷保駅から僅か数分、こんなに近いとは降りたことなかったけど、30年前は昼夜問わず車で通過はしていたな横断歩道を渡り、天満宮様のご神域へ一の鳥居と狛犬さん二組目の狛犬さんと二の鳥居も見えてきた参道左脇に、境内社の稲荷社手水舎にて清め、石段を下る「下り宮」元々甲州街道は宮の南側を通っていたそうですが、洪水等で北側に街道が移転この様な形式へと変わったそうだ階段を下り開けた広場のような場所の左手奥に、谷保天満宮の社殿が
2024年5月4日猪苗代町の天鏡閣へ。国指定重要文化財です。明治の香りを今に伝える天鏡閣。明治40年8月、有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)親王殿下が東北地方御旅行中、猪苗代湖畔を巡遊され、その風光の美しさを賞せられてこの地に御別荘を建設することを決定されました。明治41年春、雪解けを待って工を起こし、同年8月竣工。翌9月、皇太子嘉仁(よしひと)親王殿下(大正天皇)の行啓があり、同御別荘を「天鏡閣」と命名されました。大正13年6月、高松宮宣仁(
天鏡閣国指定重要文化財「天鏡閣」公式ホームページ有栖川宮威仁親王殿下によって明治に竣工、大正天皇が命名された福島県耶麻郡猪苗代町にある洋館「天鏡閣」の公式ページです。天鏡閣,お知らせ,イベント情報,天鏡閣について,ギャラリー,施設案内,入館案内,交通アクセスなどをご案内します。www.tif.ne.jpこちらの建物を何で知ったんだったか忘れたけれど機会があれば行ってみたいと思っていたところのひとつです有栖川宮の御別邸につき素敵な洋館ですが、年月が経ち、外壁の塗装が剥げていていたましい
本日もお読みいただきありがとうございます。春になるといつも私達を楽しませてくれる御所西烏丸通り沿い有栖川邸(現平安女学院有鄰館)の枝垂れ桜今年も咲き始めました青天門(国の登録有形文化財)桜は秀吉の「醍醐の花見」で有名な醍醐寺の枝垂れ桜の孫木なのだそうです。現在宮邸が特別公開されているということで行ってまいりました。(3/31(日曜日)まで/入場無料)下立売通り沿いの長屋門が入口こちらも国の登録有形文化財です。元々の有栖川宮旧邸は京都御所の建礼門前にあり、1
京都御苑内の閑院宮邸跡を拝観します。閑院宮家は伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家と並ぶ四親王家の一つで、1710年に東山天皇の皇子直仁親王を始祖として創立され、公家町南西部のこの場所に屋敷を構えました。創建当初の建物は天明の大火(1788年)で焼失し、その後再建されていますが、現在の建物との関係など詳しいことはわかっていません。明治2年の東京遷都に伴い、閑院宮が東京に移られてからは、華族会館や裁判所として一時使用され、御苑の整備が一段落した明治16年、宮内省京都支庁が設置されています。第2次世界
酒井忠清は器量面で綱吉の将軍継承には反対でした。そこで徳川家と系図上繋がりのある皇族の有栖川宮家から宮将軍を暫定的に5代将軍としてすえようとした。つまり、“綱吉潰し”のために忠清は一代限りの将軍として宮将軍を京から迎え入れようとした――。これが通説です。事実、当時の史料(『御年代記』)も、綱吉の器量に忠清が疑問を抱いていたという話を掲載しています。近年は“犬公方”と揶揄された綱吉の政治が再評価されているものの、生類憐みの令(※)によって当時の人々の反感を買ったの
天鏡閣の近くの静かな森の中にある迎賓館は、旧高松宮翁島別邸ですが、高松宮宣仁親王が、有栖川宮威仁親王妃慰子殿下の保養のために、大正11年に建設されたものです。天鏡閣(明治41年建設)と共に、昭和27年12月、高松宮殿下より福島県に下賜され、福島県迎賓館として今日に至っています。建築史的・文化史的にも貴重なものであることから、平成11年5月に国の重要文化財に指定されました。古い伝統的和風住宅の様式に準拠して建てられた皇族別邸として、全国的にも珍く、福島県では保存・保護を図りなが
江戸幕府四代将軍徳川家綱の時代の大老酒井忠清は「悪人」というカテゴリーで語られることが多い人物です。というのも、「下馬将軍」と呼ばれて将軍家綱以上の権勢を誇り、その主君が危篤に陥るや、京から有栖川宮幸仁親王を傀儡の将軍として迎えて、死後も幕府を思うままに操ろうとしたとされるからです。とくに宮将軍の一件は、鎌倉幕府で執権として政治を担った北条一族の故知にならったものだとされ、実現していれば、江戸幕府を揺るがしかねない歴史的事件となるはずでした。忠清は本当にそのような悪人だ
昨日、今日は😅急に真夏!🌞暑過ぎて〰️もう今から伸びてます昨日は仕事を終え近所の國學院大學博物館へ企画展『祓』儀礼と思想の展示を見るために渋谷駅から炎天下を歩き〰️😆火(陽)の清めかしら❔汗だく…現代の神道がどのように展開してきたのかを知る資料を見ることがてきたこと。また沢山の大學の所蔵品の中には有栖川宮の寄贈品のバカラ、クリストフルなどは美しかった✨縄文土器も沢山あり他興味深いものを数々見ることができました🙆そして今日も異常に暑かった…😓これから真夏はどれほどか
昨夜のリゾートホテルは、安価で設備も良く、熟睡できました。山の中の何もない所ですが、外国人の宿泊者が多く、吃驚でした。朝、体調は良さそうです。「御茶屋」前までタクシーで送ってもらい出発です。すぐに西南戦争での、官軍の本陣「正勝寺」があります。征討総督「有栖川宮」がここに本陣を置いていました。境内にある銀杏の古木が、いろんな出来事を、見ていたのでしょうね。「南関橋」の手前に「構口の跡」の標柱がありますが、遺構はありません。橋を渡って「豊前街道」の道標に従い、山方向へと進んで行
加治将一さんの本面白そう図書館で借りました。その昔もマイブームだったので明治維新のころの本は、上下本を読んでいる。出口王仁三郎の曽孫の出口汪さんとの対談が興味深い。和宮有栖川宮明治維新アサヒビールの話も、おもしろい。キリンは、グラバーさんと関係があり、アサヒは旭形さん。表に出ていないことは多そうだ。出せない。古墳なども調べられない。誰それさんが、すり替えは無かったという話も、その人が、どちら側かしらべな
有栖川宮も高松宮も、断絶してることは誰も知ってるそれは、Wahnからのメッセージで、死。「同じことは2回」が見られる二人の高松宮が、共に嗣子が居ない二人の正仁親王にも、子供が居ない初代高松宮の好仁親王には子供が居ない最後の高松宮宣仁親王にも、子供が居ない子供が居ないというのは、「死」を意味する有栖川宮4代目の正仁親王が、又子供が居ない因みに平成天皇の弟宮が4代目正仁親王と同じ名前で同じく、子供が居ない廣瀬死劇は「死」が唯一のメッセージそれと「名前」がキーワード
2日間で400kmドライブ運転は友達だよ磐梯吾妻スカイライン磐梯山ゴールドライン西吾妻スカイバレー制覇しました私は高所恐怖症なので助かりました🙋昨日の続き浄土平湿原散策コースはたくさんあります桶沼まで有栖川宮威仁親王殿下の別荘の迎賓館続く今回は内容濃いよ
こんにちは。毎日暑い日が続きますが、来週は雨も降るようで少しは暑さも緩む予報が出ております尾張地方。段々と四季感が薄れていき、「日本にもかつては四季があった」なんて言われる時代もそう遠くはないのかもしれません。サハラ砂漠も草原だったことを思えば無くは無いかと。さてさて彦根城シリーズもいよいよ終わりが見えてまいりました。今回は城の麓の御殿に入ってみたいと思います。藩主が生活していた御殿跡。彦根城博物館として1987年に復元されたようです。こちらは関ケ原で直政公が着用した
みみずのたわごと徳川慶喜家に嫁いだ松平容保の孫の半生([テキスト])Amazon(アマゾン)1,400〜6,411円徳川慶喜の孫慶光と結婚した和子さんの手記を孫の山本美嘉さんがまとめたものです。巻頭に系図があります。慶光の母方の祖父が「有栖川宮威仁親王」とあります。「有栖川宮?」と思い少し調べました。和宮と婚約が破談になった有栖川宮の弟です。兄の方の有栖川宮に子どもがいなかったので跡を継ぎました。
この季節になると下立売烏丸通りに迫り出す、豪勢な枝垂れ桜が目に付く。その先の建物はザ・パレスサイドホテル。一旦経営は変わったみたいだが、結構昔からある烏丸通りで馴染みのホテルだったが、コロナ禍の影響で現在は閉鎖されているようだ。かつて建礼門の前に建てられた有栖川邸は京都地方裁判所の仮庁舎となった後、現在地に移築。現在は平安女学院の有栖館として保存されている。背丈は10メートル近く、枝の横幅は12メートルに及ぶ姿態を披露する。数年前、春の特別公開で敷地内に入った事があるが
リブログさせていただきます。