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霊雲院(れいうんいん)は、東山区本町にある臨済宗東福寺派の寺院で東福寺の塔頭です。前庭の「九山八海の庭」で有名です。1390年に岐陽方秀(きようほうしゅう)が開いたとされ、当初は不二庵と呼ばれていました。岐陽和尚は、天龍寺第六十四世、南禅寺第九十六世、東福寺第八十世に歴任した高僧です。1394年に遣明船が明国から四書や詩経集伝などを舶載した際に、岐陽和尚がはじめてこれらに注釈を加えて講義をされ、後に将軍足利義持に篤く帰依されました。幕末には、この寺で西郷隆盛と勤王の僧、月照が維新へ向けて
新しい地図を描こうみなさん、おはようございます今朝は春の嵐です会社や役所では今日で今年度の仕事が終わりの人も多いでしょう一年は早いです今年は何が変わりましたか自分の意思で変えることができましたかすこしだけ振り返るのもいいです新しい自分の地図をつくって生きましょうアリガトウ「3月29日」の國史です「八百屋お七、処刑」天和3年(1683年)江戸本郷の八百屋の娘お七の家は天和の大火で焼けてしまいます一家はお寺に避難しお七は寺小姓と恋仲
#(月照×玉霞)×玉霞花形は玉霞に近くなったような、シベの形は中間ですね。#(月照×玉霞)雄しべは母親似の閉じ芯で、花弁は波打ち月照より少しふっくらした形です。
…密議を交わした事で知られる寺院は?清水寺塔頭・成就院の僧・月照と、薩摩藩士・西郷隆盛が幕末の政争激化の折、対幕府の謀議を交わしたと伝わるのは、清水山中・歌中山(ウタノナカヤマ)にある清閑寺の茶室・郭公亭で、今、その跡には「大西郷月照王政復古謀議旧址」石碑が立っている。2人は幕府の追及を逃れ、薩摩・錦江湾で入水自殺を図るが、西郷のみ奇跡的に生還し、月照の菩提を終生弔い続けた。清水寺・境内には月照を悼んだ西郷の詩碑が、月照の歌碑が並んで立つ
さてさて………………我々が次に到着したのは……………【清閑寺(せいかんじ)】京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町3山号は歌中山。『平家物語』の悲恋で知られると高倉天皇と小督局ゆかりの寺院であるという。【歌の中山石碑】【清閑寺】の山号にも使われている「歌中山(歌の中山)」は、現在は【清水寺】の音羽の滝から南へ向かい、【清閑寺】に至る山路を指している。地名は【清閑寺】の真燕僧都が門前で美女を見かけ、俗念を起こして清水までの道程を尋ねたところ、その美女は見るにだにまよふ心のはかな
「月照」高市さんが勉強会を立ち上げたみなさん、おはようございます寒くなりました高市早苗さんが勉強会を立ち上げました日本のチカラ何か知っていると思いますさあ、今日「11月16日」の國史を学びましょう「西郷隆盛と月照、入水」安政5年(1858年)薩摩沖の錦江湾に西郷隆盛と月照(げっしょう)が抱き合いながら身を投げました西郷は助かりますが月照は亡くなりました享年46歳でした薩摩藩主・島津斉彬は聡明な篤姫を近衛家の養女にするべく西郷に命を出します
おはようございます。今年はいつもの年よりも落ち葉が早いような気がします。場所によるのかもしれませんが。本日は清水寺にて「落葉忌」が行われます。【落葉忌(おちばき)とは】清水寺の奥に続く道を登ると美しい池が見えてきます。そこが庭が美しい成就院です。塔中(たっちゅう)成就院の第24代、25代住職月照、信海両上人の忌日法要が「落葉忌」です。月照上人は「安政の大獄」によって九州に下り西郷隆盛と薩摩湾にて入水、上人が入滅された忌日です。翌年、江戸・小塚原にて非業の死をとげた弟、信海上人を合わせて追
※こちらの記事は、平成30年7月26日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は平成30年の大河ドラマ『西郷(せご)どん』第18~20回の感想です。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。まずはあらすじ。僧月照(げっしょう)(尾上菊之助)と入水(じゅすい)自殺を図るも一人生き残った西郷吉之助(鈴木亮平)は、絶望の中、安政の大獄(あんせいのたいごく)から逃れるために奄美大島(あまみおおしま)に送られた。吉之助は大島で島民と打ち解けようとはせず、自暴自棄の日々を過ごしてい
「平野國臣」國の家臣みなさん、おはようございます今日から土用です太陽の陽のパワーと大地の陰のパワーのバランスが崩れています土いじりには要注意です健康第一で行きましょうさあ、今日「7月20日」の國史を学びましょう!「平野國臣(くにおみ)、没」元治元年(1864年)幕末の尊王攘夷派の志士武士なのに公家の格好をします安政の大獄で処罰対象となった西郷隆盛と僧・月照(げっしょう)國臣は月照が薩摩まで逃げるのを助けますしかし幕府に睨まれた月照に薩
2021年6月21日付け投稿記事を加筆・再掲。福岡の勤皇志士・平野國臣の歌詠みとしての話を続けます。↓前回までの話。詠み人平野國臣(1)「我が心岩木と人や思うらむ世のため捨てしあたら妻子を」詠み人平野國臣(2)「いと愛しみ悲しむ餘り棄てし子の聲立ちききし夜もありけり」詠み人平野國臣(3)「よの中の人数らしく成りぬるは大人の教えによりてなりけり」4首目捨てはてし我身の上は思わねど心にかかる君の行末幕末の京都、勤皇僧・月照のお世話をしながら薩摩
さてさて……………ランチタイムに、念願の【衣笠丼】を食して、大満足のココロたちは次なる目的地に到着した…………しかし………凄い人やなーーっ到着したのは…………【清水寺(きよみずでら)】京都府京都市東山区清水1丁目294西国三十三所第16番札所西国三十三所専用の御朱印帳に、ココロはすでに頂いているが、Nさん、Fさんがまだで、今回の大きな目的のひとつでもある【清水寺】の創建は、宝亀9年(778年)に大和国の【興福寺】の僧で当時【子島寺(奈良県高市郡高取町に現存)】で修行していた賢心
前回からの続き(10月23日のこと)になります一回にまとめたので長くなります🙇前回の天皇陵の先に参道(階段)がありますそこを上っていくと、すぐに山門清閑寺(せいかんじ)住所・京都市東山区清閑寺歌ノ中山町3御本尊十一面千手観音拝観料100円駐車場は見当たりませんでした駒札(本堂の前にあります)清閑寺歌乃中山と号する真言宗智山派の寺である。ここから清水寺までの山路は、かつては歌の中山と呼ばれる名所で、桜や紅葉の美しさから数多くの歌が詠まれた。延暦21(802)年に、
「月照」11月の寒い錦江湾へみなさん、おはようございます11月も半ばです寒くなりましたねさあ、今日「11月16日」の國史を学びましょう「西郷隆盛と月照、入水」安政5年(1858)薩摩沖の錦江湾に西郷隆盛と月照(げっしょう)が抱き合いながら身を投げました西郷は助かりますが月照は亡くなりました享年46歳でした薩摩藩主・島津斉彬は聡明な篤姫を近衛家の養女にするべく西郷に命を出します徳川家定(13代将軍)は病弱で跡継ぎがいなかったた
浅草寺さんで御朱印をいただいたのはもう三年近く前なんだー💦と幕末明治期所縁の寺社巡りシリーズはずいぶんと滞ってしまっていたんだなぁ、、心機一転この日は巳の日、弁天様にお参りをしたあと、少し足をのばし、、音羽山清水寺結果、いただいた御朱印は浅草寺さんとの列びにて✨中々よい列びとなったよ✨✨勤王聖僧月照信海両上人遺蹟碑文は以下のよう左:信海上人の歌碑西の海東の空とか変はれども心はおなじ君が代のため中
5月14日快晴九国北斎展へ・その1友人が北斎展の招待券を持っているということでお言葉に甘えて久しぶりの美術展へ友人と行ってきました。空は、昨日までのしとしとはどこへ?というほど晴れ渡って、あ~、やはり友人は日ごろの行いがいいのです。で、大満足の一日となったわけですが、いろいろご紹介したいので、「北斎展」そのものは明日、本日はランチ「山菜日和」と参道にある「松屋」のお庭を紹介します。このお庭でお茶をいただいたのですよ。・・・・・*まずはラン
白石正一郎邸(竹崎)にはなんと西郷と尊王攘夷派の僧月照が訪れていた安政5年10月1日のこと白石日記9月14日「忍向上人西郷ノ着レルハ比ノ不在中10月朔日ナリ翌2日出発」とあります薩摩への逃走の中継地点だったことがわかります錦江湾入水自殺1カ月余り前幕末の歴史に遺る一日でした(2021.10.23)
清水寺へ僧「月照」さんのお墓参りに行きました
おはようございます。2021年11月16日(火)今日は幼稚園記念日、自然薯の日、いいいろ塗装の日、録音文化の日、国際寛容デーです。http://isshokenmeihajimekun.at.webry.info/201501/article_321.html※幼稚園記念日1876年の今日、日本初の官立幼稚園である東京女子師範学校附属幼稚園(現在のお茶の水女子大学附属幼稚園)が東京・神田に開園しました。*今日の名言(1)金ができたら設備の方へ回せ。人間で能率を上げてはいかん。
おはようございます。今週は、暖かい日が続き、小春日和が続いています。この小春日和、春という漢字が使われているせいか、春の気候を表す言葉のように思いたくなります。小春日和は、晩秋から初冬にかけて現れる穏やかな暖かい晴天を表す言葉です。小春とは旧暦10月のことで、太陽歴では11月から12月上旬にあたります。まさしく今です。厳しい冬を前に現れる温和な天気を喜んだ言葉です。アメリカ大陸やヨーロッパにも冬を前にしたこの時期の穏やかな晴天をインディアン・サマーや老婦人の夏などと呼ぶそうです。平成2
「月照墓前作」西郷南洲★「月照墓前の作」西郷南洲相約して淵に投ず後先なしあに図らんや波上再生の縁頭を回らせば十有余年の夢空しく幽明を隔てて墓前に哭す鹿児島県の英雄と言えば筆頭に上げられるのが西郷南洲こと西郷隆盛公でしょう。鹿児島藩士の西郷は名を吉之助、後に隆盛と称しました。島津公に仕え藩政に参画、総督府参謀となり、明治六年陸軍大将に任ぜられました。征韓論を唱えましたが意見が入れられず、故郷の鹿児島に帰国します。明治十年に兵を挙げて西南の役が勃発します。
押韻の確認西郷隆盛の漢詩の押韻を確認韻を踏む(押韻)個所は、第一、二、四句の最後の七文字目となるのです。第三句の転句は押韻せず、最後の文字は必ず仄字と決まっているのです。この詩では、起句の三文字「後先無し」の「先」、承句の三文字「再生の縁」の「縁」、そして結句の三文字「墓前に哭す」の「前」という文字が韻字ということになります。
2回目に参加したまいまいツアーは清水寺参詣曼陀羅がテーマ。【清水寺参詣曼荼羅】中世史学者と、戦国時代の案内図を解く!座学レクチャー付き~武士も女人も弁慶も、清水寺へLet’sGo!非人たちが暮らした周縁の地を越えて~戦国時代、清水寺へ参詣者を案内するために描かれた、清水寺参詣曼荼羅。賑やかに詣でる人々、道中の遊興、覆面姿の非人たち、金を受け取るお坊さんまで、中世の信仰や風俗が、生き生きと描かれています。「清水寺参詣曼荼羅」絵解きの第一人者である下坂先生www.maimai-kyoto.jp
1858年の12月20日、月照という僧侶が亡くなられた日でございますm(__)m安政の大獄を機に追われる身となり、西郷隆盛と共に薩摩へ行くも、薩摩藩からは日向へ向かうように命じられました。薩摩藩としては、尊王攘夷派の月照との関わりを持ちたくなかったのでしょう。日向と薩摩の国境付近で月照を殺害するつもりだったと聞いております。命の危険を感じた月照は、西郷隆盛と共に海に身を投じます。西郷隆盛は奇跡的に一命をとりとめましたが、月照はそのまま命を落としましたm(__)mなぜ、今日の命日に
おはようございます。2020年11月16日(月)今日は幼稚園記念日、自然薯の日、いいいろ塗装の日、録音文化の日、国際寛容デーです。http://isshokenmeihajimekun.at.webry.info/201501/article_321.html※幼稚園記念日1876年の今日、日本初の官立幼稚園である東京女子師範学校附属幼稚園(現在のお茶の水女子大学附属幼稚園)が東京・神田に開園した。*今日の名言(1)金ができたら設備の方へ回せ。人間で能率を上げてはいかん。機械で能
おはようございます。今週は、ほんの少し寒さは緩むそうです。小春日和となりそうですね。この小春日和、春という漢字が使われているせいか、春の気候を表す言葉のように思いたくなります。小春日和は、晩秋から初冬にかけて現れる穏やかな暖かい晴天を表す言葉です。小春とは旧暦10月のことで、太陽歴では11月から12月上旬にあたります。まさしく今です。厳しい冬を前に現れる温和な天気を喜んだ言葉です。アメリカ大陸やヨーロッパにも冬を前にしたこの時期の穏やかな晴天をインディアン・サマーや老婦人の夏などと呼ぶそ
炭次郎と禰豆子「鬼滅の刃」人気の竈門神社!10日のJRウォーキング「門司港」に続いて、17日の「二日市駅」と二週連続となり、コロカ禍で緩んでいたウォーキング本来の身体の調子が戻ってきた。↓今回はJR二日市駅から一路「竈門神社」を目指し、参拝後、太宰府天満宮でゴールという、単純なコースだ。竈門神社(かまどじんじゃ)に最後に行ったのは五十数年前の高校生の時だ。この頃、竈門神社は宝満山登山の起点で、ここから頂上までの石段が始まっていたので必ず立ち寄っていた。記憶が曖昧だが、小さなお
○鹿児島市南林寺町の町名は、嘗てこの地に松原山南林寺と言う巨刹が存在したことに由来する。2020年4月21日に、南林寺町の南林寺由緒墓を訪れた。そのことについては、すでに書いている。・テーマ「伊知地季安「漢学起源」を読む」:『南林寺由緒墓』https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12594589142.html○別に、ウイキペディアフリー百科事典が案内する南林寺(鹿児島市)も、案内済みである。・テーマ「伊知地季安「漢学起源」を読む」:『南林寺(鹿
○松原山南林寺については、先日書いたばかりである。・テーマ「伊知地季安「漢学起源」を読む」:『松原山南林寺』https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12594392116.html○また、南林寺由緒墓についても、次のように書いた。・テーマ「伊知地季安「漢学起源」を読む」:『南林寺由緒墓』https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12594589142.html○その南林寺跡に建つ、南洲寺についても、次のように書
○南洲寺で、有名なのが僧月照墓である。南洲寺の山門の右手に、鹿児島市が建てた「僧月照墓」の案内板を、道路からも見ることができる。それには、次のようにあった。僧月照墓革新的な上人~尊皇討幕運動に殉じた宗教人~「月照さあ、そいなら………」西郷が目くばせをすると、月照は静かに頷きました。1858年(安政5)11月16日の明け方近く、三船の沖でのことです。「バッシャーン!」西郷と月照は抱き合って錦江湾に身を投じました。政治運動をしてい
○南洲寺は、鹿児島市南林寺町に存在する。鹿児島中央駅からナポリ通りを真っ直ぐ、海の方へ下って行くと、松原小学校が見えてくる。それを右折すれば、100mで、南洲寺である。○この界隈は、江戸時代、松林の只中にあって、巨刹、松原山南林寺が存在した。南林寺については、以下のブログに書いている。・テーマ「伊知地季安「漢学起源」を読む」:ブログ『松原山南林寺』https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12594392116.html○現在、松原山南林寺が存在した一