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月刊ペン事件(1976年~1987年)池田大作の女性スキャンダルを掲載した月刊誌を“名誉毀損”で刑事告訴👀笹川ファミリー登場😱『月刊ペン』社代表の原田倉治は福島県出身の右翼筋の総会屋。編集長の隈部大蔵は熊本県出身。陸軍中野学校出身で、戦後は米陸軍の情報機関CICスタッフとして働いたのち、西日本新聞の論説委員を経て、1974年に総合誌『月刊ペン』編集長に就任。創価学会批判本の出版妨害被害者。山崎正友(創価学会顧問弁護士)は北条浩(4代会長)とも相談し、笹川良一の息子、陽平に示談の下交渉
月刊ペン事件②月刊ペン事件(1976年~1987年)創共協定(1974年〜1984年)池田大作と宮本顕治が結ぶ仲介者は松本清張「言論出版妨害事件」を厳しく追求した共産党を大人しくさせる為に、池田大作は創共協定(今後10年間お互いに誹謗中傷せず全ての問題は協議によって解決する等)を結ぶ。月刊ペンが池田大作の女性問題を掲載した経緯創共協定の事を知り、寝耳に水の公明党は反対、反発自民党と公安関係者は反体制側に寝返った裏切り行為とみなす。池田大作はハワイへ逃げ出す✈️😅1976年初頭
池田大作に翻弄される人々月刊ペン事件(1976年~1987年)月刊誌の編集長が「名誉毀損罪」で逮捕されるという異常な事件(1976年1月号〜12月号で月刊ペンが「崩壊する創価学会」特集。池田大作の女性問題も掲載)創価学会が月刊ペン社と隈部大蔵編集長を名誉毀損で刑事告訴(3月4月の記事が対象)隈部大蔵編集長を警視庁の暴力団担当の四課がいきなり逮捕検事「池田さんが告訴状を出さない限り、隈部の起訴はできない。このまま釈放するしかない」と通告告訴人になりたがらない池田を周囲が説得し告訴人と
月刊ペン事件とは、週刊誌月刊ペンが池田大作の女遊びを暴露し最高裁まで発展した事件です。結論から言うと池田大作は女遊びをしていました。【創価学会側の主張】池田大作の女遊びは、あくまでプライベートなことであり、週刊誌が世間に悪評をまき散らすことは、名誉毀損にあたる。よって慰謝料を請求する。◎実際、この主張は認められ月刊ペン側に慰謝料支払いの命令が下る。これを不服として月刊ペン側が控訴する。高裁は同じ判決を出す。次は最高裁。【最高裁の判断】池田大作は一般人ではなく、何百万人も信者を抱
況だ。→新聞各社は有力な取引先である創価学会・公明党を批判できない。創価学会に関連した事件刑事告訴をしたため、創価学会側は池田大作氏が出廷することとなった。出廷し汗をダラダラ流しながら焦っていた池田大作氏の様子を週刊新潮が事細かに描写して報じたようだ。媚中」な創価学会・公明党と、マスコミの関係トランプ政権時代、公明党(創価学会)は「媚中」としてアメリカ政府から名指しされていた「媚中」の称号どおり外資土地規制法案についても公明党がブレーキをかけ中国共産党の人権弾圧に反対する対中非難決
「イメルダ夫人」と呼ばれていた池田香峯子の場合子育てを卒業する頃に夫婦関係が逆転し、女房の発言権が強まることは、どこの家庭でもありがちだが、池田家にあっては、この時期と夫のスキャンダル露呈とが重なった。暴君亭主に対し、耐えに耐えてきた貞淑妻の忍耐が限界に達したのだろう。が、今さら夫の不貞、乱行を責めても、詮ないことである。香峯子はその怒りを亭主に向けず、学会組織に発散させた。「創価学会の女帝・イメルダ夫人」の登場である。「先生」に加え
池田の恥部を隠してきたドクター四人組の場合学会員の医者で組織されるグループにドク夕ー部というのがある。その中でも特に有名な四人について取りあげる。佐藤潤一は、最近、副会長になった、ドク夕ー部長。妻の嘉代は、第一庶務出身で、池田とのスキャンダルがウワサされた人。佐藤の父は、東京・柳橋で開業医を経営。親子ともに耳鼻咽喉科。佐藤玄二は潤一の弟。元学会ドク夕ー部長。やはり耳鼻咽喉科。森田修平。副会長、前ドクター部長。元学術部長。横浜日赤病院の外科部長であり、池田の主治医でもある。
女子部時代に池田の世話をした北川美弥子の場合美弥子は白雲寮の管理人をしていた。離婚後、その任を解かれた。昌宏は、池田のゴーストライターの集団である聖教新聞社内の特別書籍にいた。野崎勲が全盛時代に集めた、いわゆる野崎コレクションの一人。池田の講演の原稿などが主な代筆のジャンルだったが、川田洋一とともに大作の『生命を語る』なども昌宏の代作。もともと関西の人間で、関西の学生部長だった。池田がわざわざ東京に呼び出して特別書籍に人れ、野崎勲とともに学生部の二本柱にした。美弥子と結婚後、白雲寮の管理
池田の身体の汗を拭く美人通訳・矢倉涼子の場合どこの大学を卒業し、いつから学会員になったか、過去の経歴が誰にも分からない謎の女である。年齢は三十五歳前後。「おそらく独身だろう」と噂される。(中略)外国人との対談では、相手が英語圏の場合、彼女が通訳を一手に引き受ける。池田が喋らない言葉までを、その場の雰囲気に応じて臨機応変に通訳してしまう。内容のない話しかできない池田を補佐する力のある才女だ。(中略)池田の世話、面倒をどこまで担当するかは謎である。ただ、常に池田により添い、汗っか
池田の食べかけのアイスを食べた辻敬子の場合“蒲田三羽烏”の一人・辻武寿。昭和二十九年頃の序列は、辻青年部長、牛田男子部長、池田参謀室長の順だった。(中略)辻副会長は、再婚した婦人の敬子さんのことでも学会内では陰口され、有名である。旧姓を鈴切敬子といい、池田のお気に入り女性の一人であった。辻との結婚が決まったあとも池田は一緒に連れ歩き、人前をかまわず「敬子、敬子」と呼び捨てにし、クツ下をはかせたり食べかけのアイスクリームを食べさせたりして、睦まじいことを誇示した。因みに、大橋敏
夫より池田を愛した女王蜂・秋山栄子の場合池田は常々説いてやまない。「夫婦よりも親子の方が関係は深くて強い。そして親子よりさらに大切なのが、師弟の関係だ。」池田のいいたいのは、夫婦や親子の情に流されるよりも師匠である私を大切にせよとの、師弟関係最優先論である。その教えを文字通り実践したのが、婦人部長の秋山栄子である。そういう妻をもつと亭主がいかに苦労し悩むかを地で示したのが、秋山富哉である。あげくに、病院で死ぬことさえ許されず学会施設に隔離され、監視されて五十九歳の呆気ない
九州の女帝として振る舞う田中伸子の場合ご多分にもれず、田中伸子もまた、池田大作のお手つき女の一人であった。伸子は本当は信子だったが、池田の『人間革命』の主人公、山本伸一の伸をとって伸子と改名したほどの池田教信者。池田の威を借りて、九州では女帝の如く振る舞っている。夫の昭二が代議士になれたのは、渡部一郎と同じく、お手付き女と知って信子と結婚した論功行賞による。可もなく不可もなしの政治家生活。本人は当然、七期、八期と定年まで代議士を続けられるものと考えていた。
池田に身も心も捧げた高橋栄の場合旧姓・藤田栄。聖教文庫制作局出身で、熱烈な池田狂。花の女子部長も経験した。池田に、身も心も捧げた彼女は、女子部時代から一貫して「結婚しない」と公言していた。夫は高橋英明。第一庶務に勤務していた。英明は学生時代から栄にベタ惚れで、何度となく交際を申し込むのだが、栄に「今はそんな時期じゃないと思います」とかわされて、相手にされなかった。にもかかわらず栄が英明の求婚を受けたのは、栄の両親に会ってまでの池田の一言があったからだ。結婚式の当日、集まった女子部幹部
「池田の子を・・・・・」と噂される古川敬子の場合昭和五十年代初め、第一庶務室長の持永と部下である古川敬子の不倫が持ち上がった。オフィスラブなんて、どこの会社にもあること。だが、そこは何せ、池田の目が光る第一庶務での出来事だから、大変だった。古川は池田の好みのタイプ。持永との不倫の結果、古川のおなかが大きくなった。池田は激怒して、その子を堕ろさせた。学会副会長の原田稔は、友人に「持永が古川を妊娠させたぞ。(ドクター部の)森田修平に頼んで堕ろさせたよ」と漏らした。五十二年のことである。
結婚後も身を差し出した浅野香世子の場合結婚の時には池田に祝福され、結婚後には「子供をつくるな」と妙な注文をつけられた学会幹部夫婦がこの人たち。(中略)香世子の入信は比絞的新しく昭和三十九年。四十五年にはもう女子部長になっているのだから、これは例によって何かあるハズと勘ぐられた。やはり、この女性も池田の寵愛を受けていたのである。結婚当時、一雄は一日も早く子供を欲しがった。夫婦にとって、ごく自然な願いである。が、そんな一雄を池田は叱りつけた。「子供をつくるなんて、甘いことだ。女房をもっと
副会長が「お手つき」と告白した松岡雅子の場合雅子は第一庶務出身。やはり、池田とのスキャンダルがウワサにのぼる。上田雅一副会長もかつて、友人に「雅子は先生のお手つき女」と告白したことがある。(中略)(松岡)資は、池田本仏化を積極的に推進し、池田に用いられた。若くして聖教新聞の編集総局長になり、学会の組織では副会長になった。新宿区の区長も経験。かなりのエリートコースを歩んでいる。だが、これも髪結い亭主の例を免れない。雅子は結婚後も、第一庶務付だった。あまり表面には出てこないが、「池田
池田との異常な関係で離婚された平塚貞子の場合自分の手の付いた女性を他の男に分け与える。考えただけでもおぞましい行為が、今なお信仰指導の名の下に行われる。かつて、原島崇、山崎正友らによって証言・暴露された、池田と取り巻き側近女性の異常な関係。それらの女性の男性幹部へのお下げ渡し事実。平塚貞子という一学会婦人部幹部の二回目の結婚にまつわる騒動は、それらの事実をまた一つ裏付けることになった。平塚は昭和31年の入信。43年に34歳で本部職員となった。婦人部から学会本部に採用される
「一緒に寝た」とノロケた故・シルビア斉藤の場合シルビア(斉藤悦子)は年に二、三度は必ず日本に出向き、池田と会う。帰国後、その特別な関係を自慢し、会合でノロケて見せる。それによって「シルビアさんは池田先生に近い人だ」との評判を獲得し、組織を私物化する。いってみれば、ミニ池田大作のブラジル版なのである。(中略)シルビアが日本から帰ってくると「先生の招待で日本へ行ってきました」と池田との特別な関係を自慢し、派手な洋服、飾り物を身にまとい、得意顔。側近に「〇〇で一緒に過ごした」「夜中ふと
池田の子を中絶した笠貫由美手の場合旧姓を佐野という。佐野女子部長といった方が、学会内ではわかりやすい。現在は結婚し、姓が変わった。学会活動の方は相変わらずで、世田谷区の総含婦人部長をしている。凡人の佐野が女子部長になれたのは、本人に力量があったからではなく、池田の寵愛を受けた女だったからにすぎない。池田はよく、「由美子はバカだ、バカだ」と周囲に喋った。笠貫は、女子部時代、第一庶務室に長く務めていた。いつも池田のそばにいて、池田がいる部屋の隣で、手を前に付き、半かがみになって待機す
スプーンでメロンを「アーン」の多田時子の場合時子は女子部時代、池田と特別の仲だった。池田の泊まる先々で池田の脇腹をさすったり、スプーンでメロンを食べさせたりといったことが、側近によって何十回となく目撃されている。省吾と結婚後も、池田と特別な関係を続けたのかどうか分からない。しかし結婚前は、デパートに池田夫人気取りで豪華な買い物にでかけたりしている。昭和四十年頃は、特に本部の女子職員の間で池田との特別な関係が取り沙汰され、羨ましがられたものである。渡部通子が月刊ペン裁判で池田の女性スキ
池田にもてあそばれ議員となった渡部通子の場合数ある大作スキャンダルの中でも、大作・通子の関係はやはり別格的意味合いをもつ。夫の一郎はそれを知りつつ、あえて通子と結婚した。そして生まれた一人息子に、名付け親の大作から、大作の次男と同じ城久の名を有難く頂戴した。「先生のお子さんと同じ名前を戴けて、私、夢を見ているような思い。幸せだわ」と通子は有頂天になったものである。夫の一郎の心境は複雑だった。生まれた子が、自分の血を引いているのか大作の子なのか、疑っていたからである。お産のため入院
一家ぐるみで口説かれた上田京子の場合池田のお手つき女と結婚したために破格の出世をした、髪結いの亭主No.1が、上田雅一だ。二人は池田の命令で結婚した仲。しかし、結婚後、雅一は妻との結婚生活がうまくいかず、友人によく悩みを打ち明けた。京子はもともと大手出版社に勤めていた。彼女を女子部の会合で一目みた池田は「あれを本部に入れろ。第一庶務勤務だ」と北条浩に命令。北条はさっそく京子に会い、会社をやめて本部に入るように説得した。が、会社でも大事にされていた京子は、なかなか会社をやめるといい出さ
『法定で”潔白”示せなかった池田大作「破廉恥行状記」』(日新報道)という本があります。池田大作「破廉恥行状記」を読んで創価学会を脱会した人もいると聞いています。「まえがき」の一部を紹介します。ーーーーーーー以下引用学会の支配者・池田大作自らの膨大なスキャンダル間題である。池田のスキャンダルといえば、それを報じた『月刊ペン」に対する名誉毀損の裁判が記憶に蘇ってくるが、池田創価学会が名誉毀損で訴えたのは、わずかにこの一件だけ。しかも、その顛未はといえば、原告側である学会が、陰で、被