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12月28日、横浜線でGO!日産スタジアムの近く緑が広がる田園地帯、目指すは向こうの山。でもここは横浜市内。マンホールにも横浜ベイブリッジ。住宅の間の細い道を進むと、第三京浜まで来たところで、小机城址市民の森の矢印に従って奥の階段へ。小机城の入口です。4年ぶりに再訪。1400年代に上杉氏により築城されたが、一旦は使われなくなる。1500年代の前半に北条氏綱(後北条氏の第2代)により本格改修。1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原城が落城すると
烏山城は昨年12月に訪れ、その時廻りきれなかった西側の西城などには1月になって改めて訪れた。それぞれの写真については、すでにいくつかに分けてブログに載せてきたが、未掲載の物をまとめてみた。今回西側に行くルートは、車橋から本丸桝形までは前回と重なる。前回もここで写真を撮ったが、今回は少しアングルを変えて。コメントは重複を避けて省略。この先が常盤曲輪でその途中に西に向かう小道があるようだが、心もとない感じなのでやめにした。正門北側の石積み、石列。正門両脇は切り石による石組みで大手道を狭め
山中城
1460年ごろ北畠氏により築城された浪岡城8つの館(曲輪)が扇のように広がる形が特徴案内所de資料をいただき散策start堀・土塁de区画された中世の館北館城主の家臣などが住みt武家屋敷町をつくっていた場所です
愛知県岡崎市にある岡崎城に行ってきました。※しばらく岡崎城の記事が続きますので、興味のない方はスルーしてください。駐車場横には曲輪(くるわ)が!ワクワクです。曲輪とはざっくり書くと、お城の区画のことで、一の丸とか二の丸とかいう場合もあります。一の丸とかのほうが聞いたことある人は多いかもですね。雨の中でしたが、当時のお城の様子を思い描いてしばらく眺めていました。まだまだ序盤なのにかなりテンション上がってしまってました。大手門…本来は別の場所にあったそうです。城内案内板。やっ
北城は城の北端にあり、南は搦手口の十二曲口に面していて、中城とともにその抑えの役割を担っていた。虎口は南東に1か所。もともとは展望が開けていたのだろうが、ここも植林に閉ざされている。東側には階段状に帯曲輪があり、その統括の役割も担った。西側から北辺にかけて土塁がある。侍屋敷の表示の場所から右上に北城がある。この近くに主郭の搦手門である桜門があったらしい。十二曲口を下ってすぐ水源らしい場所があった。湧き水のような感じもするが、古図では井戸になっている。そこからほぼ直線の沢になっている。
西尾市吉良町の東条城には、かつてふるさと創生事業で建てられた櫓と城門がありました。城巡りファンの中では好評の櫓と城門でしたが、老朽化で撤去されてしまったのです。惜しむ声が多い中、かつての様子と現在を比較してみました。遠景城門私の感想ですが、東条城の城門と櫓が撤去されたのは残念ですが、それ以外にも切岸、曲輪、土塁など見どころが多い遺構が残っているので、東条城は巡り甲斐がある城だと思います。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
西城の北側に道があり、そこを北に向かう。丁字路に突き当たり、左は大野曲輪(図8)、右は北城(図4)になる。正面にくぼ地が見える。表示はないが井戸曲輪だろう。他の山城で見た井戸と雰囲気が似ている。表示がないのは、発掘調査未実施のためらしい。丁字路を左に折れて大野曲輪へ。城の北西端にある広さは最大の曲輪で、空堀がある。少し下りると、間近に道路が見える。幅は狭く車はすれ違えない。舗装はされているが、落ち葉が積もっていてほとんど使われていない感じ。ここを北に行くと古戦場の霧が沢があるの
国指定史跡宇都宮・飛山城史跡公園の4号堀付近を北へ進み、曲輪IVに掘立柱建物(ほったてはしらたてもの)が5棟復元された地域にやってきました。戦国時代に豊臣秀吉の命命令で廃城となった飛山城の当時の様子に近い状況と思われます。にほんブログ村世界遺産部門のランキングに参加しています。このブログが気に入ったら1日1回、こちらに応援クリックして頂けると嬉しいです。↓↓↓[https://travel.blogmura.com/sekaiisan/ranking.htm
烏山城を初めて訪れたのがいつだったか覚えていない。伸び放題の木々が日差しを遮り、周りは藪だらけだった印象はある。そのころと比べると、所々間伐され、藪も取り除かれて、人の手が入った感はある。それでもまだ鬱蒼としている。ここを何度か訪れているが、ここで人と出会ったことはほとんどない。本丸の西側、若狭曲輪や西城は長い間ヤブが人を遠ざけていたのだろう。今は歩くのにそれ程支障はないが、道らしい道は見当たらない。落ち葉が積もったふわふわした地面を。図面を見ながら大体の見当をつけて進む。西城と
勝連城うるま市勝連南風原・・・世界遺産先史時代高期末から古代人に利用されていた土地に築城初代城主・英祖王系大成王の五男と伝わる全景悪政により民の信頼を失った9代目の茂知附按司を倒して10代目城主となったのが阿麻和利(あまわり)三の曲輪から二の曲輪へ阿麻和利:民衆から慕われ、貿易で力を蓄えた阿麻和利に脅威を感じた琉球王朝は、内通者として、娘の百度踏揚(ももとふみあがり)を嫁がせたあっちゃん+パニ阿麻和利は1458年、国王に滅ぼされ波乱の生涯を閉じる英雄
1月6日果報バンタを後にして、雨が降り出す前に勝連城跡へ。お孫ちゃんたちとは別行動です。お孫ちゃんたちは、地元スーパーでお買い物。お土産の掘り出し物を探すらしい🧐12時「世界遺産勝連城跡」へ到着。すぐそこに見えてる‼️チケット売り場で購入。600円。勝連城跡・あまわりパーク共通入場券です。12~13世紀につくられた城で、沖縄中部の東海岸一帯を一望できる場所にあります。歩いて行こうと思ったら、電動カートが待っていました。そりゃ乗らない選択はないよね🤣電動カートは、勝連城跡の四の曲輪
昨日のニ城目栫城跡所在地薩摩川内市入来町浦之名字栫立地丘陵現況山林・畠規模100×300複残存度良存続期間宝治2年〜中世末期築城者渕上氏在城者渕上氏・渋谷氏遺構堀・空堀・土塁上の畠側から挑戦してみたのですが深い谷に阻まれて断念反対側の道路側から登城しました此方も険しい崖をよじ登って尾根伝いに深い切岸の尾根を越えて曲輪というよりも狼煙台か見張り台かな?土塁・堀・空堀も石塁も見られましたが…もしかしたら
12月20日、函館旅の2日目は、函館駅からバスで出発。40分弱で、志海苔(しのり)バス停に着。バス停近くの志苔館(しのりたて)を攻めます。地名は函館市志海苔町、「しのり」は志海苔と書くのに、城郭名の「しのりたて」は志苔館と、海の文字が無くなるんです。なぜだろう?笑(志海苔館と表記する場合もあるらしいが)志苔館は室町時代に小林氏が築城。鎌倉時代末の1306年に上野国(群馬県)の小林重弘が蝦夷へ渡り、その後に築城。室町時代には孫の小林良景、小林良定、小林良治らが城主を務
鵜殿城を先にアップしましたが、これが紀州攻め初日の1城目となります。三重県南牟婁郡紀宝町紀伊・京城(みやこのじょう)別名:大里城京城は新宮城主・堀内氏善(紀伊国中心にけっこう勢力を持っていた豪族)によって築かれた城です(それ以前に橋本氏が築いていたとの説あり)。氏善は豊臣秀吉の紀州征伐以降、秀吉に臣従しました。(その前に信長に仕えていた)「関ケ原の戦い」では西軍に与し、敗戦により居城を捨てて京城に蟄居しています。その後、許された氏善は、熊本城主・加藤清正に仕え、宇土城代をつとめ
新年1城目は千葉県君津市の秋元城。ロープを掴みながら登る場所もあり、足元も枯葉で滑るので、ちゃんとした靴でないと登るのが大変です里見義豊の命で属将の秋元義正が永正五(1508)年に現在の地に築城したといわれています。堀切(切通し虎口)堀切曲輪千畳(曲輪)土橋?祠そんなに高い山にあるわけでもないので、眺めは今一つです次は近くにある千本城を目指します。
前回の本丸から、堀切を渡り古本丸へ。南に虎口、櫓があったらしい。本丸と古本丸の間から東を見る。古本丸から中城へ。虎口は食い違い。大野曲輪は北西にある曲輪だが、すぐ下に道路があったのが意外だった。狭くあまり利用されていない感じだが舗装されていた。中城から大野曲輪に向かう途中、くぼ地があった。あとで知ったのだがそれが井戸曲輪だったらしい。表示がなかったので、写真も撮らず、一瞥しただけだったが、それらしい雰囲気は感じた。大井戸は直径8㎡以上だったという。荒れ果てていた感じだったが、言われて
令和5年3月、烏山城が国の史跡に指定された。年内に訪れようと思ったが、鬱蒼とした山城なので虫や蛇のいない冬を待ったが、押し詰まった年末に実現した。遠回りになるが、延々と続く毘沙門山の石段を登り、筑紫山を経て、城山にたどり着くルートをとった。まずは5城3廓で構成された烏山城の常盤曲輪の入り口、車橋跡にたどり着く。車橋は引橋だったと伝えられている。堀切を超えると常盤門跡。櫓門だったらしい。そして常盤曲輪。城の正面を守る曲輪で土塀に囲われていたという。矢穴跡。加工痕がある。烏山城でポピ
11月に行った八王子城跡の様子です。ザ山城。本丸まで麓から登山です。舐めて行ってはいけません。8合目あたりの風景です。遠くまで見晴らしがききます。本丸跡です。ここは木で見晴らしはよくありません。曲輪、切通等はありますが、登山の苦労の割にといった感じです。山に頼った『守』の施設ですね。麓には屋敷跡がありますが、防御目的の城の平時の施設のため、さほど強固には作られていません。戦時防御施設のため、立地的に奥まった位置にあり、また山の高さ・規模に頼った施設であり、目的には合
寒い寒い寒い。一晩明けたら一気に冷え込んだ。近畿地方では特に冷え込む豊岡市の城跡です。但馬・宵田城の続きです。本丸にあった縄張図。右が北になります。現在は本丸から見て北にある曲輪(明記してないので北曲輪と称す)を占拠中。その曲輪の西方向に開いた虎口、おそらく搦手虎口かと思いますが、そこから再出陣します。その後に本丸へ乱入する段取りでよろしいかと。曲輪内から見た虎口虎口内部。右に折れて、左に折れて城外への食違い虎口であるカッケー!左に折れて出る部分。虎口
駐車場に車を止めて多目的広場になっている菅生曲輪で行われている展示物を急いで眺めて二の丸へ向かいますここは「神の君」が生まれた所です♪
諏訪原城跡静岡県島田市令和5年(2023年)12月14日㈭撮影東海道本線金谷駅から牧之原台地の坂を上がり諏訪原城跡に到着諏訪原城遠江国榛原郡金谷(現在の静岡県島田市金谷)にあった戦国時代の日本の城(山城)。甲斐の武田氏が天正元年(1573年)に築城。城内に諏訪大明神を祀ったことからこの名が付いたとされる。徳川氏時代の城名は牧野城。天正18年(1592年)廃城現在は建築物は残っていないものの、堀・曲輪・馬出などの遺構がはっきりと残り、戦国時代の武田氏・徳川氏の築城様式を知る上
幹線道路から細〜っい道を登ったところに無人案内所がありました資料・パンフレットなどが置かれていますが熊出没注意の文字・・・に怯えながら熊鈴を鳴らしながらキョロキョロ振り返りながら登っていたらこちらからも洋上風力発電機がみえました小高い山の頂に位置する脇本城
兵庫県豊岡市日高町岩中字城山但馬・宵田城(よいだじょう)別名:南龍城宵田城は但馬日高盆地の南端、円山川左岸に屹立した標高154m、比高130mに築かれた山城である。永享2年(1430)楽々前城主・垣屋隆国が築いて、二男の垣屋隠岐守国重を城主とした。国重の子、垣屋遠忠は文明18年(1486)播磨国英賀で赤松政則と戦って討死した。天正8年(1580)羽柴秀吉による第二次但馬侵攻では、鶴ヶ峰城主・垣屋光成の弟、垣屋峰信が宵田城に籠もり、宵田表の合戦で一度は勝利したものの、その後敗れて
【以下ニュースソース引用】信長も訪れた“三好政権”芥川城、秀吉と家康が掌握した高槻城ARTS&CULTURE2023.11.20芥川城の大手石垣=大阪府高槻市萩原さちこ城郭ライター小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。…日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、大阪府高槻市の芥川城と高槻城。西国
登城日2023/10/139/20飯田城跡いいだじようあと静岡県周智郡森町飯田2885☎無し飯田城と聞くと長野県と思われますがこちらも同じ名前になっています。崇信寺でいただいた御城印崇信寺の正面の畑に向いて案内板が有ります。クリ畑の砂利道を行きます。お寺で確認すると少し離れていると教えていただいたので車で向かいます。少し行った所で栗畑で作業中の方に確認するともう少し行くととめれると所があるらしい。道横に5~6台停めれる所が
松本城へ行った次の日は高遠城へ。高遠城は元々高遠氏が城主でしたが武田信玄が信濃侵攻で抑え大改修しました。縄張りは山本勘助と言われています。諏訪を継ぐとされていた武田勝頼が城主となっていましたが急遽信玄の後を継ぐこととなり甲斐へ。信長、武田征伐時の城主は勝頼の弟・仁科盛信。武田側がほとんど織田に寝返る中仁科盛信は織田方の降参要請に応じず果敢に戦います。しかしながら、わずか1日で落城となりました。では高遠城を見て行きます。高遠城はこうなっており私は勘助曲輪か
今日11月23日は、高天神城🏯に行きました(^o^)的場曲輪跡大河内政局石牢道入口大河内石窟天正2年、家康の持ち城だった高天神城は、武田勝頼率いる2万の大軍に攻められ、開城しました(*_*)この時、最後まで降伏しなかった大河内三郎正局が7年に渡って幽閉された石窟です本丸跡築城当時は、木🌳が無いので、よく見えたでしょう御前曲輪跡byXperia1Ⅲ
かなり早く現場についたので、前々から気になっていた津久井城跡を登ってきました。麓のパークセンターからスタート。時間が気になるので、ルートは険しいルートをチョイス。ルートや遺構、トイレの案内がいくつもあり、よく整備されています。当時の曲輪、堀切等もまだまだしのべます。ハイキングレベルですが足元は山道なのでそれなりの靴を履いた方が安心です。本曲輪から津久井湖を望む。津久井湖側からラクラクコースで進むと曲輪跡も(ほとんどわかりませんが)竪堀はハッキリ
2023年11月18日町田ゼルビア祝J2優勝J1昇格パレード11月初旬は夏日になった日もあったが、その後急速に気温が下がる。天気予報からは「日本海側は雨、太平洋側は晴れ」という言葉が。秋が省略されて一気に冬になりし如くである。Jリーグが終ったわけではない。だが、J2は4チームを除いてシーズンが終了。既に来季の人事や選手の退団などが続々と発表されており、オフに突入している。J1、J3を含む他のチームはまだ試合をやっているのに、寂しい限りだ。応援しているチームがJ2からJ3に降格するこ