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こんにちは。本日は神奈川県F.E様より、日本陸軍の救命胴衣W型の製作依頼がありましたので、ご紹介したいと思います。暁部隊陸軍の船舶部隊海軍に陸戦隊があったことはよく知られているが、陸軍に暁部隊との美称で呼ばれる船舶部隊があったことは意外に知られていない。船舶司令部と暁部隊船舶司令部は、戦時における軍隊・物資等の船舶輸送を指揮統率した陸軍の組織である。船舶司令部が統括した陸軍船舶部隊は、各隊に与えられていた通称号の兵団文字符「暁」から「暁部隊」と通称された。陸軍船舶
こんにちは。本日は、日本陸軍の船舶兵作業帽をご紹介いたします。~陸軍船舶兵~陸軍船舶兵は大日本帝国陸軍の兵種の一つ。陸軍船舶部隊(暁部隊)において揚陸艦(陸軍特殊船)や上陸用舟艇(大発動艇等)等の船舶兵器を運用した。将兵は最大約18万人が在籍。船舶兵作業帽(実物)この帽子の特徴は、頭部が6枚に分かれており、裾に調整紐が入っているので、頭に合わせて締められます。庇は小さめで、顎紐は太めです。全体的にふっくらした形です。再現顎紐を上げている状態。顎紐を
石井光太さんの『原爆広島を復興させた人びと』(集英社2018)によると、8月8日に焼け野原の広島に入った長岡省吾さんはそれからまた地質調査のため上関村に戻った。そこで8月15日に敗戦の報を聞くことになる。軍隊の任務は解かれ、大学はしばらくの間休校。私だったら、これからどうやって暮らしを立てようか思案するところだが、長岡さんは違った。地質学者の責務として、被爆した石を調べて原爆の熱線や爆風の威力を確かめよう、爆心地を明らかにしようと心に決めたのだ。長岡さんの自宅は広島県西端の佐伯郡玖波町(
行って来ました。伊東温泉の大東館。世の中には、通の人が多いジャンルなのであんまりブログに書く事は無かったけど、このホテルの温泉なかなか不思議で都合5回も入ってしまった。ここのホテルのキャッチフレーズは、「お風呂好きの宿」。確かに伊東温泉の中にあっても古い旅館で玄関入るとスリッパに履き替える感じ。お部屋も古いけど手入れは行き届いていて従業員も感じが良い。朝食のみで夕食は伊東の街でというスタイル。なので勿論、安いたまたま通されたお部屋は、アップグレードされて3部屋もある広い和室でお一人様7950
母親の紹介で読んだのですが、本当に心を揺さ振られる本で、年に一冊あるかないかくらいの読書体験でした。著者と母親には感謝するばかりです。大変内容の濃い本なので、書きたいことも多くて長くなってしまいました戦前の広島の宇品(うじな)という場所には、陸軍の船舶司令部というものがあり、宇品は兵や物資の船舶輸送を担う一大拠点だったそうです。この本は、その船舶司令部の、主に第二次世界大戦中の歴史をたどったノンフィクションです。戦争は、兵、兵器、補給物資などを、大量に輸送しなければなりませ
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館被爆し亡くなった人々の名前と遺影が収められている。半地下方式の建物です。地下には平和祈念・死没者追悼のための空間がある。入ってすぐの所では企画展「特攻少年兵たちのヒロシマ」を催していた。企画展特攻少年兵たちのヒロシマ宇品には通称「暁部隊」と言われる特別任務をもった陸軍の部隊があった。表面上は船舶輸送の訓練ですがその実態は特攻艇の訓練をするものであった。全長5.6mのベニヤ製の小型ボートで、船尾に爆雷を積んで(本土上陸を目指す
原爆で壊滅した広島で残った軍隊は宇品の陸軍船舶司令部とその配下の部隊だった。船舶司令部は、戦争のない時は陸軍省の下にある陸軍運輸部という組織だが、戦争になると大本営直轄となり陸軍部隊の戦地への輸送にあたった。司令部とその配下の部隊の「秘匿名」は「暁」で、まとめて「暁部隊」と呼ばれた。太平洋戦争中、陸軍船舶司令部の庁舎は宇品の凱旋館(1974年解体)だった。爆心地から南に約4.5km。当時、船舶司令部の写真班だった尾糠政美さんが被爆時の様子を記している。私たち写真班七人は、凱旋館の前
今回は広島撮影旅2日目の、その2です。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館について、よかったら平和学習におつきあいください。今回の旅で最も驚いたのが平和記念公園にある原爆死没者追悼平和祈念館の入り口にボートが置かれていたことでした。このボートは「特攻兵器」です。暁部隊、という少年の志願兵たちで構成された部隊のものです。暁部隊の存在は知らなかったので、びっくりです。1944年に志願兵を募り、15歳以上20歳未満の少年たちが志願しました。この
災害時に負傷者を救助するには路上の障害物を撤去し車が何とか通れるようにしなければならない。これを啓開と言うのだそうだ。ところが、これが簡単ではない。1945年8月に広島市中心部で啓開にあたったのは陸軍船舶練習部第十教育隊。内実はベニヤ板製のモーターボートに爆雷を積んで敵艦に突っ込む水上特攻隊だ。西塔光喜さんは先発隊で市内に入った。正午前、爆心地到着。四方火の海。我々も身の危険を感ずる。道路には焼けただれた死体が累をなし、傷者のうめき声は地獄からの声であった。爆心地に到着
現在の宇品港『絵で読む広島の原爆』の次の場面は広島湾に浮かぶ小島、似島(にのしま)だ。那須正幹さんは、「救援活動は爆発から1時間もたたないうちに始まりました。陸軍の船舶部隊など被害の少なかった軍隊が、負傷者を治療したり重症者を運び始めました」と記される。爆心地から4.5km離れた宇品に陸軍船舶部隊の司令部があったが、そこでも強烈な閃光、爆風に見舞われた。外に出てみると市内中心部の空には赤紫色の巨大な雲の柱が出現していた。船舶司令部の下士官で小型船の管理に当たっていた福田安次さんは、負
中国軍管区・第59軍司令部の庁舎や防空作戦室は、福岡の西部軍管区・第16方面軍司令部や大阪の中部軍管区・第15方面軍司令部と比べてもかなり貧弱だった。貧弱なのは第二総軍も同じで、司令官の畑俊六は、「司令部の設備等は極めて簡素なるものなりし」と感想を述べている(畑俊六「第二総軍終戦記」1954『広島県史近現代資料編I』)。中国軍管区・第59軍も第二総軍も戦争末期の急拵えの産物。貧弱なのも当たり前といえば当たり前だった。そして戦闘集団である第59軍は、「本土決戦」の戦況によってはどこに
[陸軍船船舶部隊第15船舶団]補給品格納壕熊本県宇城市三角町波多(みなと醤油)広島県の宇品にある陸軍船舶司令部隷下、第15船舶団基地は熊本県は天草への玄関口である三角港一帯と対岸の戸馳島にあった。海上輸送と軍需物資の管理のため、昭和19年10月に発足した。主に天草(独立混成216旅団)、長崎県口之津港(第2潜行輸送隊=陸軍マルユ艇部隊)への物資補給を担った。口之津港の陸軍マルユ艇部隊は南西諸島への物資を送る部隊だった。三角町の海岸に面する崖地には、横穴格納庫壕や兵員壕などが何
[陸軍船舶部隊第15船舶団]謎の構造物熊本県宇城市三角町戸馳広島県の宇品にある陸軍船舶司令部隷下、第15船舶団基地は熊本県は天草への玄関口である宇土半島の西端・三角港一帯と対岸の戸馳島にあった。海上輸送と軍需物資の管理のため、昭和19年10月に発足した。主に天草(独立混成216旅団)、長崎県口之津港(第2潜行輸送隊=陸軍マルユ艇部隊)への物資補給を担った。口之津港の陸軍マルユ艇部隊は南西諸島への物資を送る部隊だった。三角町の海岸に面する崖地には、横穴格納庫壕や兵員壕などが何十
[陸軍船舶部隊第15船舶団]弾薬格納壕熊本県宇城市三角町戸馳広島県の宇品にある陸軍船舶司令部隷下、第15船舶団基地は熊本県は天草への玄関口である三角港一帯と対岸の戸馳島にあった。海上輸送と軍需物資の管理のため、昭和19年10月に発足した。主に天草(独立混成216旅団)、長崎県口之津港(第2潜行輸送隊=陸軍マルユ艇部隊)への物資補給を担った。口之津港の陸軍マルユ艇部隊は南西諸島への物資を送る部隊だった。三角町の海岸に面する崖地には、横穴格納庫壕や兵員壕などが何十本も掘られている
世界で最も短い?運河元宇品は島です。島と本土を結ぶのが暁(あかつき)橋。橋の下は、(確証はありませんが^^)世界最短の運河です。余談の余談江戸家猫八戦時中には宇品に陸軍船舶司令部(通称:暁部隊)がありました。物まねの江戸家猫八(3代目)はこの暁部隊で軍務についていて8月6日に被爆しました。暁部隊や暁橋の「暁」は、明治に宇品の干拓並びに宇品港の築港に尽力した広島県令の千田貞暁の名前からとったそうです。市営桟橋(旧宇品港)文部省唱歌「みなと」は、旧宇品港を歌
石塚隊は13日に再度市内に入った。千田町の広島貯金支局に本部を置き、水道管の修理や警備に当たったのだが、隊長の石塚恒蔵大尉はこのころから熱がひどくなってきた。下痢もひどいし髪の毛も抜けた。直接被爆した人に見られるような典型的な急性放射線障害だ。部隊へ帰って来て医務室で、白血球の数の調査をしてもらった時、軍医が首をかしげていた。「どうしたんだ」と聞くと、私の白血球は大部減っていて八百位とか言っていた。その頃は治療法がはっきりしていなかったので、お灸か、レバーのようなものを食べたらよいだろ
核分裂によって放射された中性子を吸収した物質が新たに持つ放射能を「誘導放射能」という。原爆で誘導放射能を持つのはアルミニウム(27Al)、マンガン(56Mn)、ナトリウム(24Na)などが主なものとされるが、どれも、そこらへんにある元素だから、広島の爆心地近くでは原爆さく裂の直後、土壌も建物も放射能を帯び、ガンマ線やベータ線を放射していたことになる。誘導放射能を持つのは人間も例外ではなかった。東海村臨界事故では被曝した人の吐瀉物から24Naが検出されている。誘導放射能の放射線量は時間ととも
第十教育隊の各戦隊(中隊)は6日昼前から次々と船に乗って宇品港に向った。石塚恒蔵大尉を隊長とする第五十戦隊(石塚隊)が出発したのは午後になってから。柴田富雄上等兵はごったがえす宇品の船舶練習部本部に着いた時、自分が所属する石塚隊が向かうのは被害の中心地だと聞かされた。ようやく目的地に到着する。直ちに各小隊の作業担当区域が指示される。我々は芸備銀行前の道路整備だ(障害物の除去作業)。先ず負傷者を一ケ所に集める作業にとりかかる。担架の代りに附近に散乱する戸板やトタンで運ぶ。全身焼けただれた
広島の原爆は核分裂が始まってから100万分の1秒後に爆発したが、その間に放出される「初期放射線」のうち透過力の強い中性子とガンマ線が地上に到達する。これら強いエネルギーを持つ放射線を直接浴びたらどんなことになるか。広島・長崎の原爆だけでなく、私たちは東海村臨界事故でもその残酷な結果を知ることになった。しかし初期放射線は原爆炸裂後のわずか1分しか人体に影響を及ぼさないとされる。ところが、その後に市内に入った人の中にも「原爆症」を発症する人が出て来て人びとを恐怖に陥れた。広島逓信病院院長の蜂谷
恵美敏枝さんは京橋川の川上から兵隊の乗った舟がやってきて救助に当たったと手記に書いている。川上にあった部隊と言えば、太田川の本川と京橋川の分流地点、今は安田学園のある場所におかれていた工兵補充隊が考えられる。爆心地から2km離れていても工兵補充隊の被害が大きかったことを、朝鮮で徴兵され広島に送られた郭貴勲(カクキフン)さんが証言している。郭さんは6日朝、白島の工兵補充隊の営庭で上空にB-29爆撃機が方向転換するのを見たとたん、巨大な火の玉が天と地の間をおおうのを感じた。「あっ、熱い
シーレーンを防衛する事が戦争の太平洋戦争の帰趨を決めていたのは周知のとおりだが、陸軍の輸送任務が陸軍独自に行われていて、しかも民間を徴用して終戦まで携わっていたという。更には待遇は民間人のままで軍に所属していない有様のためガダルカナルでは島に放り出されてからは、誰からも相手にされずに島の土になってしまった船員も多数いたといい、船自体も不揃いで戦争を遂行する有様はこんな問題外の様相でよくも戦争したなという感想だ。驚いたのは、明治の創設以来海上輸送に携わっていたのは陸軍が担当していて、海軍
原爆の後の数日間、広島の川はまん丸に膨れ上がった死体で埋まった。死体を引き寄せるために鉤を打込むと、死体は「プスッ」と音がしたという。見ていた人の顔も青ざめてしまったと思うのだが。筏木(いかだぎ)の如くに浮ぶ死骸を竿に鉤をつけプスッとさしぬ川中に浮べる死骸引きよせて処理する兵の顔青くひきつる広島市内が一面火に包まれると、熱さに耐えかねて多くの人が川に飛びこんだ。京橋川、元安川、本川、天満川など、川面は死んでいる人と、まだ死んでいない人で埋まった。今
陸軍船舶練習部第十教育隊の半井良造さんたちが幸ノ浦から宇品の桟橋に着いたのは7日に日付が変わったころだった。すぐに広島赤十字病院近くで放水したり家を壊したりして猛火を防ぎ、午前2時ごろになってようやくひと段落。広電車庫の前ででゴロンと横になって気がついたら朝だった。起きて、まず驚いたのは、電車通りの両側に負傷者が二列、三列になってへたばっている。疎開跡と思われる広場にもギッシリといる。それは昨夜、宇品で見たのとは比較にならないほど大勢の負傷者だ。しかも彼らは傷(大部分は火傷)の手当ても
原爆で壊滅した広島市の中心部で負傷者の救助、遺体の収容・火葬に当たった主要な部隊として陸軍船舶練習部第十教育隊がある。江田島の幸ノ浦に基地をおき、ベニヤ板製のモーターボートに魚雷を積んで突撃する水上特攻部隊だった。6日夜に市内に入った第十教育隊第42戦隊の半井良造小隊長は、7日7日朝早く、同じ42戦隊の小隊長である三本(みつもと)見習士官とともに担当地域の偵察に出かけた。…焼跡を進んで行くとあちらこちらに二体、三体と焼死体が転がっているのが見られた。大分進んだ時だった。向うの方で「半